チャーチアニティ...? | 何とかなるさ...の世界!?

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いろいろごちゃ混ぜで書いてます。

 

チャーチアニティ(教会性)という言葉を知りませんでしたが、この言葉の意味は、イエス様についての神学や霊的な教えよりも、教会生活のキリスト教の習慣や教会の制度的伝統を実践することを重視し、イエス・キリストの教えについてではなく、教会生活に焦点を当てすぎる性質の事を言うのだそうです。

 

正に、今現在の多くの教会がチャーチアニティ化しているような気がしてなりません。

 

 

 

彼等は色々な事を沢山話し、そして招待状が届くと、まるで誰もが正気を失ってしまいそうになります。

 

誰かの所に歩いて行き、神は貴方を愛しており、そして貴方の人生に素晴らしい計画を持っていると言います。

 

それをアメリカ人に言うと想像します。

 

神は貴方を愛していて、貴方の人生に素晴らしい計画を持っています。

 

「何ですと?神が私を愛していると?それは素晴らしい!だって、私も自分を愛しているから!」

 

神は素晴らしい計画を持っています。

 

私も自分の人生の素晴らしい計画を持っています。

 

そして、私がもし私の人生の中に神を受け入れるなら、私は今、最高の人生を送れるでしょうか。

 

これは、全くもって素晴らしい事です。

 

それは、聖書的伝道ではありません。

 

その代わりのものをあげましょう。

 

神はモーセに来て、モーセはこう言います。

 

「主よ、主よ、神は情け深く恵み深く、怒るのに遅く、愛ある優しさと真実に満ち溢れ、不法、違反、罪を赦して下さる、何千人もの人々に愛ある優しさを持ち続けて下さる真理なお方です。」

 

とはいえ、罪を犯した者を罰せずにはおかないでしょう。

 

モーセの反応は、急いで地にひれ伏し、礼拝しました。

 

伝道は、神の性質から始まります。

 

神とは誰ですか。

 

人は自分の罪について何か認識できるでしょうか。

 

もし、彼が自分自身を比較する基準を持っていないとしたら?

 

もし、私達が何も言わなかったら?

 

しかし、肉欲をくすぐるような神に関するつまらない事で、その人が本物の悔い改めと信仰に導かれる事があるでしょうか。

 

私達は、神が貴方を愛しており、素晴らしい計画を持っているというところからは始めません。

 

私達はまず、神がどのようなお方であるのか、その全容を語ることから始めます。

 

そして、私達は最初から、それが彼の命を犠牲にするかもしれないと彼に言います。

 

その後、私達は探索的な質問をします。

 

「ねえ、貴方は罪人ですよね。」

 

数年前に母がガンで亡くなったようなものです。

 

医者がその日の内にやって来て、「やあ、バーブ、貴方はガンです。」と言うようなものです。

 

私達は、それを表面的に扱っています。

 

いや、待って、厳粛でも何でもない。

 

だから、貴方には恐ろしい病気があり、そして裁きが来ています。

 

というのも、もし貴方が男性に、「貴方は罪人です。行って悪魔に尋ねて下さい。もし、悪魔が罪人であると認めるなら、貴方は罪人です。」と言えば良いからです。

 

私は、「そうですね。」と言うでしょう。

 

見方によっては非常に良いもの、或いは、非常に悪いものになります。

 

しかし、そう、私は罪人なのです。

 

質問は、自分が罪人である事を知っているかどうかではなく、福音の宣教によって、聖霊が貴方の心に働きかけ、変化が起きたかどうかという事なのです。

 

かつて愛していた罪を今は憎み、かつて熱望して抱きしめていた罪を、まるでドラゴンから逃れるかのように、そこから逃げたいと思うのです。

 

それから質問です。

 

「貴方は、天国に行きたいですか。」

 

これが、私が子供達を98%の日曜学校や、休暇中の聖書学校、福音主義の教会に行かせたくない理由です。

 

というのも、イエス様の映画を上映した後、「イエス様って素晴らしいでしょう」と言って立ち上がるお人好しがいるからです。

 

あなた方の中で、イエス様を愛している小さな子供達は何人いますか。

 

誰がその小さな心にイエス様を受け入れたいと思うでしょうか。

 

そして、彼等は洗礼を受けるのです。

 

また、彼等はある種のキリスト教文化、つまり教会文化の中で育ったので、少々の歩みはするかもしれません。

 

そして、彼等が15、16歳になると、彼等の意思が強くなり、その束縛を断ち切り始めます。

 

邪悪な生き方を始めると、私達は「貴方はクリスチャンです。そのように生きてはいけません。後戻りしてはいけません。」と言いながら、彼等を追いかけます。

 

聖書的に彼等に言う代わりに、こう言うのです。

 

「貴方はキリストへの信仰告白をしました。洗礼の時もキリストを告白しましたが、今ではキリストから背を向けたようです。自分を吟味し、試しなさい。」

 

貴方が真に改心したという証拠は殆どありません。

 

そして、大学を卒業して24、25歳、おそらく30歳になると、彼等は自分の人生を再び教会に捧げ、アメリカの教会を包含する擬似キリスト教の道徳に直ぐに加わります。

 

そして終わりの時に彼等は、この言葉を耳にするのです。

 

「私はあなた方を全然知らない。不法をなす者ども。私から離れて行け。」左矢印マタイ21章23節

 

貴方は、「ポール兄弟、貴方はとても怒っています。」と言うでしょう。

 

私には怒る権利がないのでしょうか。

 

誰かが怒るに違いありません。

 

リバイバルを叫んでも、私達にはその基盤が整っていません。

 

ああ、そのリバイバルが来て、私達の基盤を正すでしょう…。

 

目と耳を開いて聖書を目の前にしている時、私達はどうするでしょう。

 

正すべきではないでしょうか。

 

「天国に行きたいですか。」

 

親愛なる友よ、誰もが天国に行きたいと思っています。

 

彼等はただ、天国に着いた時に神がそこにいることを望んでいないのです。

 

質問は、「貴方は天国に行きたいですか。」ではありません。

 

質問は、「貴方は神を望みますか。貴方にとってキリストは貴重な存在となりましたか。貴方はキリストを望んでいますか。」です。

 

それが、(神の)政治理論の全てです。

 

親愛なる友よ、誰もが皆、天国に行きたいのです。

 

しかし、人間は神を憎んでいます。

 

つまり質問は、「もう傷つく事がなく、欲しい物が全て手に入る特別な場所に行きたいですか。」というのではありません。

 

質問は、「キリストを望みますか。貴方にとってキリストは貴重な存在となりましたか。」です。

 

多くの場合、人が祈った後、「天国に行きたいですか。」と言われます。

 

「はい、勿論。」

 

「では、心の中にイエス様が来て下さるよう祈ってみてはいかがでしょうか。」

 

その方法論を使って救われる人もいますが、その方法論によって救われる訳ではありません。

 

「貴方はキリストを望んでいますか。自分の罪が分かりますか。」

 

「ああ、はい、分かります。」

 

「ここで、悔い改めがどのようなものなのかを説明している幾つかの聖句を見てみましょう。聖霊が貴方の人生でこれが起こった事を証言していますか。砕かれているのが分かりますか。貴方が立ち向かって来た全てが崩壊し、今貴方の心は神についての新たな思いと新たな願望、新たな希望で満たされているのが分かりますか。」

 

「はい、分かります。」

 

それが今の悔い改めの最初の成果かもしれません。

 

キリストに身を委ねて下さい。

 

彼を信頼して下さい。

 

そして、私の話を聞いて下さい。

 

貴方には、人々に福音を伝える権威があります。

 

貴方には、どのように救われるか人々に教える権威があり、聖書の原則を教える権威もありますが、人々に彼等が救われていると伝える権威はありません

 

それは、神の聖霊の働きです。

 

しかし、その小さな事を彼等に説明する時、

 

「心の中にイエス様を迎えましたか。あなたは誠実だったと思いますか。」

 

「はい。」

 

「彼が貴方を救ってくれたと思いますか。」

 

「分かりません。」

 

「勿論、貴方が誠実だったので彼は貴方を救ったのです。そして、もし貴方が入って来るように頼めば、彼は入って来て、貴方が救われているのを確認すると約束されました。」

 

そして、5分間のカウンセリングの後、彼等は教会から出て行き、伝道者は食事をしにデニーズに行き、その人は(人生の)道に迷うのです。

 

その人は迷子です。

 

彼等が自分の救いを疑う事があるなら、それは非聖書的な招きです。

 

もう一度言いますが、もし彼等が自分達の救いに疑問を抱いているなら、ある時点に戻ってみることです。

 

「貴方の人生の中で、貴方は祈り、イエス様に来て下さいとお願いした事がありましたか。」

 

「はい。」

 

「貴方は誠実でしたか。」

 

「そう思います。」左矢印確信のない返事

 

「それは、貴方を悩ませている悪魔です。」

 

たとえ彼等が成長せずに生きていても、成長がなく肉欲が続く教会の状況下であっても、恐れがありません。

 

私達は、それを個人の弟子としての資質が欠けているせいだと考えています。

 

そして私達は、それを肉的なクリスチャンの教義として片付けます。

 

肉的なクリスチャンの教義は、より多くの命を破壊し、より多くの人々を地獄に送り込んで来ました。

 

クリスチャンは罪と闘っていますか。

 

はい。

 

クリスチャンは罪に陥る可能性がありますか。

 

全く持って。

 

クリスチャンは、実を結ばずに生涯ずっと肉欲の継続的な状態を生き続け、真にクリスチャンである事が出来るでしょうか。

 

全く持って出来ません。

 

それとも、契約における新約聖書に関する旧約聖書の約束は全て失敗し、へブル人への手紙で規約について神が述べた事は全て嘘なのでしょうか。

 

木はその実によって分かります。

 

私達が人々と回心運動に取り組んでいる時、神の事柄について多くの事を理解している説教者を見て来ましたが、模範的な福音の提示を行なった後でさえ、彼等は再びこの方法論に陥るのです。

 

ポール・ウォッシャー牧師説教より