私を香港に誘うのは実はBさんだけではありません。 そう、Kさんも度々香港のことを口にするのです。

同期で一緒にグループで出かける機会だって、その気になったらいくらでもあった筈なのに、私はKさんと会社以外の場所に出かけたことはありませんでした。(インフルエンザで苦しんでいる時に病院に連れて行ってもらった以外は)

自由行動になった夜、私はKさんとビクトリアピークに夜景を見に行くことにしました。いろは坂の様な急なカーブを次々に曲がってバスはピークを目指します。
「案外高所恐怖症なのよ」
とKさんが言うので私が窓側の席に座り、Kさんが内側に座りました。路肩がそれほどなかったからです。

ピークに到着すると、本当に世界で名だたる夜景の名所だけのことはありました。高層ビルのきらびやかな明かりが眼下に広がります。二人してしばらく言葉もなく、その光の洪水を楽しみました。

その後二人でピーク周辺の散策路を散歩することにしました。きれいな月が夜空にあがっていて、街路灯がなくても十分足下は明るくてらされていました。

私はここで初めてKさんの辛い体験を心からの気持ちと一緒に聞くことになりました。Kさんのお子さんはまだ幼稚園の年少という小ささで白血病にかかってしまっていたのです。不幸中の幸いにしてKさんのお子さんは回復しましたが、そこに至る迄の長い闘病生活、そして、亡くなって行く同じ病棟の患者さんの姿、Kさんの人生観を根底から揺さぶる様な体験が続いたというのです。

「本当に、生きてるってだけでどんなに奇跡的なことか…。走ってるの見るだけで泣けて来たりするんだよ。それと同時に、いつもふと『いなくなっちゃうかも』って不安が襲いかかってくるんだ」

私たちは明日が当然の様にやってくると思い込んでいますが、それは当然でも何でもないことなのです。

私はKさんの話を聞きながら、私の知らない間に彼が辛い思いをしていたことをちっとも知らなかった…と、思いました。そして、生かされているこの一瞬一瞬が本当に幸せな奇跡なのだと思ったのです。

Bさんは大分前から「もうこの仕事辞める。次を探す」と、不満をぶちまける度に言ってきました。そうは言う物の、実際にはまだ会社で働いています。それは主に自分の率いるチームが理由でした。

自分の下に優秀な部下を入れ、それぞれがアジア中を飛び回っていても、お互いに信頼し合い、チームとして機能していることが、Bさんの自慢でした。それと同時に、彼らが思い切り実力を発揮出来る様に、政治的に面倒なことをBさんは引き受けていました。

「自分がまだここに留まっているのは、チームのためなんだよ」
この台詞をBさんから何度聞いたことでしょう。それ位、彼は自分のチームが自慢でした。

「自分が出て行く時、何人か引っ張って行ってもいいなぁ」
こんな台詞が出る位、彼は自分の部下達と仕事をするのが好きだったのです。


しかし、先日話をした時に、
「自分が出て行ったって、彼らは彼らの人生を続けて行く訳だし、自分がどこに行ったかなんて気にしないと思うけどさ…」
Bさんは、大好きだった部下について、そんな寂しい台詞を吐いたのでした。

具体的に何が変わってしまったのか…、それは私にもよくわかりません。
しかし、クライアントであるアジアの国々のリーダーから、「サポートが足りない」と、批判され、本社の上司も助けてはくれず、その狭間にあって、彼の心は本当に折れてしまったのかも知れないなぁと思います。

そして、その批判から、部下のBさんに対する信頼も揺らいだのかもしれません。信頼していた部下から疑問の目で見られたのだとするならば、それは辛いことでしょう。また、その攻撃に部下の人達もそのポジションから出て行こうと考えたとしても、不思議ではありません。

「世界で最高のチームだったのに、最悪のチームって言われるなんて…」

脈絡もなくBさんがぽろっと私に言ったその台詞が、彼と彼のチームの苦しさと哀しさを表している様に思えてなりません。

我々はお給料の金額を重要視しますが、決してお金のために働いているのではないのです。そこで得られる達成感とかチームワークとか、そういうことが楽しくて働いているのです。だからこそ、夜遅くあるいは超早朝から全身全霊を込めて働いてしまうのです。けれど、体はそこにあっても、魂が抜けてしまったら、もうかつての輝きを取り戻すのは不可能なのです。一度抜けた魂を取り戻した例というのは、残念ながら私は見たことがありません。新しい人がやって来て、魂を込めるしかないのです。

Bさんが言いました。
「我々ってほかの人が達成したお祝いとか、ねぎらいとかはするけど、自分のことはいっつも二の次だよね。」
我々は自分を良く見せようとする社内マーケティングをほとんど行いません。それが主流の組織だから、居心地が悪いのです。


「ねぇ、僕たちの全てが始まった香港に一緒に行かない?行って、今迄のことを振り返り、自分たちって頑張って来たねってねぎらわない?」


時には口論をすることもあるけれど、本当にビジネスにとって何が大切か考えて一生懸命仕事をするBさんとは、本当にずっと大切なビジネスのパートナーでした。彼は仕事の内容を越えて、心から理解してつきあって来たのです。

上司の誰からのねぎらいも彼には不要だと思います。私もそれは必要と感じません。ただ、彼は本当に一緒にやってきた仲間と素敵な時間を過ごして、これ迄のことに終止符を打って、この章を閉じたいのだと思います。

「そうね。でも、それって時間の確保が難しいね。」
私は少し笑いながらいいました。
「そうなんだよなぁ。」
彼も同意しました。

けれど、思っていれば奇跡的なタイミングで時間は出来るものなのです。
2009年、私たちの運命を引き合わせた香港の奇跡、2013年にもう一度起こる様な気がします。


香港でアジアの国を巻き込んだビジネスモデルを展開していく…と、決めて、Kさんとビジネスプランを描き、Bさんと仕事を始める様になりましたが、誤算がありました。予定より早く私がアメリカに戻ることになってしまったのです。

そして、今度は私が本社の人に、そしてBさんがアジア地域の担当者という関係に変わりました。Bさんは、我々の共通の敵(と呼ぶ程の人でもありませんでしたが)である、アジア先進国担当を追い出し、アジア全部を見る様になっていました。

しかし、それから2年余りの月日が経ち、Bさんも私も潮時と感じるところまで来てしまいました。

結局のところ、我々を結びつけた理由が、私たちを組織から遠ざけたのです。

そもそも我々が意気投合したのは、実際に売り上げを上げる、浸透率を高めるために何をすべきか考えて行動するのが重要だったからです。我々は本社にただ、情報をあげるだけの役割を良しとしませんでした。

けれど、結局のところ、私たちの上司はその上のご機嫌をとることだけに気を遣っていて、何年たってもビジネスを覚えません。その上の人も、結局その上司に毎月「何と言うか」という会議での報告でうまく話を作ることに腐心していて、自分がビジネスを理解して、方向性を打ち出そうという考えは持っていません。そして、結果的に周りのディレクター達は、社内での華やかなイベントで飾り立てて、その事業部のトップを喜ばすことに力を入れているのです。

結局、ビジネスを伸ばすということを真剣に考えて、指針を出せる人が自分たちより上にはいないのでした。彼らは自分のミーティングで必要な情報を、稼いでいる国々から吸い上げるだけだったのです。

Bさんの不満たるや凄まじいものがありました。そして、新興国のリーダーは自分たちのビジネスが伸びないのはBさん達、エリアのマネージャー達がしっかりとした開発プランを立ててサポートをしないからだ、と、批判しました。

本社の理解やサポートもなければ、国の方からは自分たちの数字が行かない理由に使って非難される。その狭間で、ビジネスを伸ばそうと孤軍奮闘するにしても、限界がありました。


後に判ることですが、Bさんはこの香港の会議の前から私と話をしてみたいと考えていたそうです。というのも、私が日本をカバーしている先進国担当のマネージャーを全く認めていないというところに親近感を持っていたからです。

ある人を認めないというところで共感を覚えて、話して見たいと思う…というのは、理由としては「いかがなものか」と思うのですが(笑)、日本等をカバーしている担当者の無能ぶりに我々は我慢がならなかったのです。

Bさんや私は、販売部隊である各国に展開する組織を助けるのが本社あるいはその地域をカバーする人達の勤めであると考えています。しかし、当時日本を担当していた地域のマネージャーは、各国から情報を集めて本社に報告するのが仕事だと考えていました。

確かに、本社でしか仕事をしたことがなく、本社でしか将来働く気持ちもなく、本社のポジションでしか出世を考えないのであれば、担当の国々からの情報を、本社の上司に伝えるという仕事が最重要の仕事になってしまい勝ちです。本社のほかの人からは、その国の「情報通」として使ってもらえますしね。

けれど、それではビジネスをその国で成長させることに全く貢献しないどころか、「このチャートに情報を入れる様に」とその国での仕事を邪魔する方向にしか、介入しないことになるのです。

私は建て直しという結果に対してコミットしていましたが、その国から情報を引き出して上にレポートするということに関しては、時間の無駄と切り捨てていたのです。

Bさんも、担当の国に本社から来る無数の「この数字を集めろ」という指示を出来るだけ減らして、国の人達がビジネスの拡大に集中出来る様に腐心していました。そして、自分たちでマーケティングプログラムを作り、顧客の囲い込み策等を担当の国に伝授していたのです。

私がBさんの担当国も巻き込む様なビジネスモデルを考えたことにより、我々に共通のビジネス課題が生まれました。そして、考え方が近いことから大いに共鳴し、その後も、最も仲良しのビジネスパートナーとして仕事をしていくことになったのでした。


時間は2009年にさかのぼります。私は日本の事業の責任者をしており、Kさんが部下として働いていました。その時に「APACのビジネス会議を香港で行う」ことになったのです。各国からビジネスの代表を集め、APACの地域担当のビジネスマネージャーの主催で来年の活動を相談するというミーティングでした。

始め、私はその会議に出席することに消極的でした。フィリピンやタイへのビジネスプログラムが日本に応用出来る筈ありません。しかし、地域のビジネスマネージャーの立場からしたら、売り上げのかなりの部分を占める日本の参加なしに会議を行うというのは、片手落ちです。「来てくれ」と懇願されて、渋々承諾したのでした。

私はKさんも一緒について来てもらうことにしました。その時Kさんの担当は事業部のほんの一部であり、出来れば全体像を見て欲しいと思ったからです。そして二人で香港へ出発したのでした。

今振り返ると、というか今振り返らなくても、この「香港の出張」はいろいろな意味をもって登場してくることになりました。

この会議の冒頭、ASEAN等の開発途上国を担当していたビジネスマネージャーのBさんがビジネスの概況と、開発途上国への投資の歴史をまとめてプレゼンテーションを始めました。このBさんはシンガポールにいて、中国やインドをはじめとする開発途上国のビジネスをまとめていたのです。彼はそのポジションにつく前にAPACのM&A担当として働いていました。その関係で一度だけ電話会議で話したことはありましたが、当時面白い案件もなかったので、それっきりになっていた人でした。

私はBさんのプレゼンテーションを見て、何たることだと憤慨していました。
「こいつかぁ、我々が汗水たらして働いた上前をはねて使ってる奴は!」

開発途上の市場に於けるビジネスを軌道に乗せるためには、売り上げに似つかわしくない投資をする必要があります。それは頭では判っていますが、毎年毎年搾り取る様に設定される日本のビジネスゴール。投資は許されず、日本自体は爪に火を点す様な緊縮財政で、それでも多大な利益をたたき出して来ているのです。その、日本の利益をここで使っているのだ…と、直接見せつけられると、何とも腹立たしくなるのでした。

もちろん私は本社の人間であり、今この時は日本のために働いているけれど、全体最適のためにどのように投資を配分するか…と、問われれば、全然成長しない日本から巻き上げて成長著しい国と地域に投資するのは当然のこと、と、頭では判っていても…です。

それと同時に、日本の将来に関して非常に危機感を感じました。今でこそ、私が日本に派遣されて、業務の手直しをして、将来の成長路線を描こうとしていますが、それ以前は、そういう戦略的な発信は皆無と言って良かった筈です。このままでは、更に利益を巻き上げるためだけの存在になって行くのは自明でした。

私は相当な危機感と、他の国に使われる投資をなんとか日本に還元出来る方法はないか…とBさんのプレゼンテーションを聞きながら想いを巡らせました。そして、今後の発展のためのビジネスモデルの骨子を頭の中で組み立てました。投資先の開発途上国もうまく取り込んだ形でのモデルです。すなわち、私はBさんと一緒に働くことを選んだのでした。

この「香港」が後に度々、重要なターニングポイントとして出てくるのはここから来ています。Kさんにとっては、私とKさんが死にものぐるいでビジネスプランを描いた、その骨子が私の頭の中でひらめいた会議であり、Bさんにとっては、このビジネスモデル故に、担当に入っていない日本という国の私と仕事をする様になったからです。


今ブログを振り返ってみて、今年いろいろあったのに書いていないジャンルがありましたので、書いてみようと思います。

転職活動のことです。

数年前から履歴書を日経のサイトに登録し、声をかけていただいたエグゼクティブサーチ会社の持っている案件に応募して、多くは書類選考で落とされ…という感じで、とぎれそうで途切れずにやってきましたが、2012年は「実際にお会いしてみたい」という会社が増えて来て、実際に面接も進む会社が出てきました。

そのプロセスの中で、サーチの会社の温度差もよく感じるようになりました。
まず、サーチ会社のコンサルタントと話をして、自分の希望を理解してもらうところから大概のサーチは始まるのですが、ここでこのコンサルタントの当たり外れは本当に大きいです。大きなサーチ会社で、社員が沢山居るところの会社は、社員の経験の浅さから物足りないことが多々ありました。すなわち、彼らコンサルタントの社員さん達自体、そのコンサルタント業務しか働いたことがなくて、仕事の内容や組織構造の機微といった話で一歩突っ込むと、皆目分からなくなる…ということが多々あるのでした。仕事の詳細やその会社の組織構造等こそが、転職を幸せな転職にするか、悪夢になるかの重要ポイントなのに、仲介役である彼らがそのポイントを実感出来ずに機械的に面会の仲介をするだけでは納得した職探しは出来ません。

でも、個人経営のサーチファームがいいか…というと、一概に、そうだとも言えなくて、忘れた頃に連絡をしてくるけれど、フォローアップは皆無…といった「これでよく独立して会社になってるなぁ」という様なところもありました。

それから、面接が始まって、いざ進むところと進まないところの違いも感じることになりました。一次面接が社長面接のところの方が進むのです。私がターゲットとしているポジションはビジネスリーダーですから、社長直属の部下のポジションです。だから、一次面接官の可能性は二つ:社長か人事部長なのです。

ここでも、「どういう人が欲しいのか」という具体性と「この人どんな人かな」というのを短い時間で見切る判断力で、社長面接の方が、話のノリが違ってくるからだろうと思います。

というのもなんとなく判って来た頃のことでした。

ある個人経営のサーチファームの社長さんと面談の折、
「○○って会社のビジネスに興味ないですか?」と聞かれたのでした。

それは業界では知名度の高い会社の一つです。けれど、セールスの人達はそのブランドに自信を持って売ってくるけれど、会社を退職する人の数も多い…という業界の噂も聞いていました。また、長い間君臨したアメリカからのグループ社長が本国に戻り、その後日本人の社長になってから、がたついているという噂も耳にしていました。余り良い噂も聞かないし、やり方が強引なところも感じていたので

「興味ないです」
と、即答しました。
けれど、そのサーチファームの社長さんは、まぁまぁと私を止めました。

「たしかに、組織の下の人達の入れ替わりは結構激しいかもしれませんが、それは入って来て数年の人の話で、中間管理職以上はもの凄く安定してますよ。」
というのです。また、サーチファームの社長さんは、実際に中間管理職の人を紹介したり、また、リーダーの方々とも実際に仕事をしているので、その文化を判った上で、私にその話を持ち出したのでした。

基本的に、「会ってみないとわからない。会ってみることにマイナスはない」と、思っているので、私はあってみることに承諾しました。ただし、その時点でその会社に空きポジションがある訳ではなく、事業継続プランの一環として「お会いする」という話でした。

リーダーのポジションというのは、社員が沢山いても現実にはそのポジションを張れる人はそうそういないのです。だから、候補を見つけて数年程度成長させてから、そのポジションに就いてもらうというのが「あるべき姿」です。もちろん、内部からの昇進がそういう育成期間も含めて考えると良いのですが、内部の人材で満足出来ないこともあります。そうなると外部からの招請となります。とはいえ、外部から採用を考えるというのは、空きポジションがないのですからなかなかハードルは高い話です。けれど、内部に候補が余りいない場合にはやはりそのステップを踏まないと事業継続プランが作れない、というジレンマに陥る訳です。

ポジションはなくて、この先は曖昧だけれど、外から人をとりたいニーズは厳然と存在するらしい…そんな背景でお会いすることになったのです。

お会いしたのは、その会社の近所のホテルのロビーカフェでした。こういうところで、背伸びをしたり、必要以上に繕うのは意味がないと思っているので、本当に素でお話をしました。その会社の社長さん(社長が沢山出てくるのでD氏としておきます)はどれ位の時間を予定していたのか知りません。けれど、話が弾んで、会話を終えて別れた時には1時間半の時間が経っていました。

もちろん現時点でポジションがないことは、D社長もその場でおっしゃられましたし、私も承知していました。それでも、忙しい社長さんが1時間半も時間をとってくださったというのは、想定外ではありました。話が弾まないと、たとえ30分でも「長い」のです。

結局、この面談(お茶)から、人事部長との面接に至り、そこでもとてもお話が弾みました。それでもまだポジションはありませんでした。

ここからどうなるかなあ?と、漠然と思っていたところ、
D社長が「直に話ししたいから電話していい?」と、言って来たのです。

サーチファームの社長は、「まだポジションないんだけど、直に話がしたいんだって言ってたよ」と言って取り継いでくれました。

D社長は言いました。
「これから使う表現は、まるでティーンエージャーが言うみたいでとっても微妙なんだけど言うね。『あなたのことがとっても気に入ってるんだよ。We like you so much』でもね、ご存知の通り来てもらうポジションがないんだ」

ここで、終わったら「で、私はこの告白でなにせーってーの?」になるのですが(笑)、続きがありました。

「今、動いている案件があることも重々承知なんだけど、そのオファーが来たとして、それを受ける前に、連絡をもらえないだろうか?今から6ヶ月たったら、こちらも状況が変わってると思うんだ。…で、連絡もらったら24時間以内に、返事するって約束する。その時に、それでもやっぱりポジションなかったら、他の会社における君の輝ける未来を祝福するけど、もしもうちにポジションが作れるようなら、その会社に『うん』と言う前に考えてほしいんだ」

まるで昔の「ねるとん紅鯨団」で、「つきあってください」と青年が女の子に告白してしまい、それに対して「まった~」をかける青年みたいです。

私はその熱意と、やはり話がとても弾んだD社長に好感を持っていたので、
「判りました。何か状況が変わりましたら一番最初にご報告することをお約束します」と約束をしたのでした。

D社長はその後も約束を忘れはしませんでした。サーチ会社の社長から、
「どうやら新しいポジション作ってるみたいだよ。話す時間ある?」という連絡が入ったのは、その「何かあったら、連絡するね」という約束をした2ヶ月後でした。私も喜んでお会いすることにしました。なぜか、それまでトントン拍子で進んでいた別の会社の案件がぴたりと止まっていたのも、D社長の会社のポジションを待っていたかの様でした。

D社長のビジョン、今の組織に足りないこと、これから変革していきたいこと、どうしてこのポジションを作りたいか…そういう背景をD社長は説明してくれました。
「今、結果を教えてくれなくてもいいけどね、前向きに考えてね」
というD社長に、私はいいました。

「このポジション私にオファーしてくださるのなら、私、そちらで働かせていただきたいです」
と。


まだまだ決定ではありませんが、大きく一歩踏み出したのです。

最初の印象は良くない会社で、それだけだったら即答で「興味ないです」…と言っていたのに、実際に働いているトップの方に惚れ、そちらも私に惚れてくださり、他の案件がまだ進んでいて、そちらでオファーがあるかもしれないのに、すっぱりとD社長の会社に行くと言っている私がいたのでした。実に不思議で、ご縁があるのでしょうか。


久しぶりにKさんとの話をしようと思います。

他のビジネスの海外推進部に移ったKさんと久しぶりに会いました。彼は直属の上司のビジョンのなさを瞬く間に見切って、理解とポジションパワーのある日本のマネージャー、そしてタイやベトナムといった日系企業の工場がある国のビジネスリーダーからの信頼を得て、いろいろなビジネス提案をし、プロジェクトを回していました。

「ヘルスケアと違ってさ、こっちの人達は優しいというか親切というか、ポジティブなんだよね」
Kさんは私にそういいました。私は彼のいうことも理解できました。ヘルスケア以外の部署は割と交流があるのですが、ヘルスケアのグループはその特異性故余り交流もなく、独特の文化を醸し出しているのは事実だからです。

こうして、仕事に前向きに打込める状況を自ら作り出し、周りもそれにサポーティブな環境を作ってくれている…私が彼にしてあげられなかったこと…が、実現してきていて本当に良かったなと思いました。

事実は、私が彼のはしごを外したに近い状況で、それによって彼は苦しむことになり、私もそうやって戻って行った先で、それなりに楽しくはあったけれど、やはりここではない…という結論をするに至った訳です。回り道かも知れないけれど、それが必要だったとも思える。過去に意味を求めたら、本当に何通りもの解釈が生まれます。だからといって、その解釈をいろいろ検討することに、意味があるのか…と、問うならば、多分意味はないのだと思います。

今ここで重要なことは、Kさんも私も辛い思いをして、成長して、自分の道を切り拓き、そして、それでも尚二人で心からいろんなことを語り合える仲でいられる、そのことこそが重要な気がするのでした。

現在の時点で、一緒に仕事をすること…ということ自体にはそれほど二人とも渇望していません。けれど、この先またどこかで仕事の上でもクロスオーバーすることはあると思います。単に仲良しというより、ここ迄の係わり合い方が、自分たちの成長を助ける様な間柄だからです。わたしは、「スピリチュアルに傾倒してはいないんだけど、ツインソウルなんじゃないかと思うんだよね。」と、いえば、Kさんは「もうなんか、家族みたいな感じなんだよ」というのです。

そして、仕事を越えて、その先の人生について、Kさんが言いました。

「俺がさぁ、病気になって、もうダメっていう時にはさ、呼ぶから。地球の裏側からでも来いよ。で、手を握ってほしいんだよ」
「先に死ぬつもり?私の方が2歳年上なんだよ」
「いいじゃん。それでさ、絶対来てよ」

途切れても途切れない物語は、まだまだいろんな展開で繋がっていくのです。
昨夜の夜シンガポールにいる同僚の八つ当たりをしばらく浴びていました。世界中を相手にする我々のチームは、地域毎に分かれているビジネスのカウンターパートと一緒に仕事をするのがほとんどです。

2013年の前半に新入社員を対象にしたトレーニングをしようという企画をしているのです。世界中同時にコミュニケーションをしているものの、温度差がありますから、どのタイミングでそういうイベントを行うか…というのは、ある意味早い者勝ちになります。

中東とアフリカグループが1月をとり、東欧が2月をとりました。そして、全然音沙汰のなかったアジアが、そのトレーニングではない別のプログラムを中東と東欧の日程の間に挟みたいというのです。何週間も部下を世界中飛び回させておく訳には行きませんから、2週間欲しいというアジアに対して、「1週間なら大丈夫」と返事をしたのが気に入らなかったんですね。

その背景にはアジアがどの地域よりも高いターゲットを設定されて、ビジネスを伸ばさないといけないというのが一つ、そしてそのアジア全体を司るエグゼクティブが不在であったことから、投資の話が進むというよりもコストカットの話ばかりがアジアにやってくるという不均衡が二つ目に問題としてあるのです。

しかしながら、スケジュールの調整をさっさとせずに放置しておいて、その後から我がままを言って、出来ないと言うとぶち切れて大騒ぎする…というのは、いかにも大人げない話であります。

とても良い友達ではあるのですが、さすがに辟易するしつこさでした。

そういう八つ当たりを聞きながら考えました。本社の人達はアジアに対して何らかの貢献をしたい…と思っています。売り上げも大きければ成長の見込みも大きいからです。ところが、彼がやりたいことをサポートしてくれる人でなければ、彼はアジアに本社の人が出張することを快しとしませんでした。様々な理由で出張をブロックしました。たしかに彼の気持ちも判らないではないのです。本社から無邪気に人がやってきて、彼の時間を散々浪費し、本社に帰ってから音沙汰無し…そんなことが沢山起こるからです。

でも、もしも彼がもう少しだけほかの人の達成したいことに対して聞く耳を持ち、やりたいことをお互いに歩み寄らせることが出来たとしたら、もっと円満な関係を作ることが出来た筈なのです。けれど、実際にはそうならず
「アジアと仕事するのは難しい」
という風評がたってしまいました。

そんな中でも私は彼とはビジネス上のとても近しい友達なので、彼の視点も理解出来ましたし、彼の強さ・弱さも見てきました。

ただ、やっぱり「彼はここに居るべき人じゃぁないなぁ…」というのが最近の心情です。結局のところ、彼の上に立つ人達に対して、尊敬の念を抱けない…それが全ての根本原因だと思います。

全くビジネスの素人がやってきて、本社で立ち回ることだけがうまい人達…そういう人達を彼は受け入れることが出来なかったのです。結局、その根本のところの食い違いが、てこの原理の様に大きく彼の前に立ちはだかり、不満を増長させ、最後には一番の理解者である私に迄毒を吐くことになってしまったのです。

会社組織は、ある意味猿山のサルと一緒です。ボス猿に服従できなければ、その群れでは生きて行けないのです。服従はあるいは「人間的に惚れる」という言葉で置き換えた方がいいかもしれないですが。すなわち、ボスの人間性に惚れることが出来なければ、そこでは生きて行けないのですね。

今している仕事に魂を打込めなくなって来ている、限界まで来ている彼の毒舌を聞きながら、彼の将来が早く違う道に進めるといいな…と、願いました。

それと同時に、やはり上の人に惚れることができない組織にはやはり長居はできないのだ…と、思いました。多くの魅力的な人に惚れられる様なリーダーになること…それを自戒の念も込めて肝に銘じた夜でした。
今日とても哀しいニュースを知りました。
メキシコリーグで大活躍した、コロンビア出身の元ゴールキーパーであるミゲル・カレロ氏が脳血栓で倒れ、脳死と判定されたというのです。

まだ41歳の若さ、そして引退してからまだ1年。これからコーチとして、そして2人の男の子のおとうさんとしてまだまだやりたいことは沢山あった筈なのです。
けれど、彼の魂はもう間もなく天に召されていきます。

「この瞬間に終わりだと言われたら…」

この質問は私の人生に於ける進路を決める質問だというのは散々このブログでも書いているので、このブログを読んでくださっている皆さんには目新しい台詞ではないと思います。

しかし、カレロ氏の脳死の知らせを聞いて、「この瞬間に終わりだと言われたら?」という質問を自分が普段から使っていても、本気でそう考えてはいないよな…と、改めて思いました。

本当にその瞬間が来てしまったら…

それをカレロ氏の身に起きたことを重ね合わせて考えると、本当に恐れで心臓もすくむ思いがします。

現実はカレロ氏が生きたくても生きられなかったこの時間を私は生きているのです。何故、亡くなって行くのが彼で私ではないのか…それは本当に、確率とか、たまたまとしか言い様がない訳です。

とは言うものの、たまたま私は今を生きていると思うより、他の誰かが生きられなかったこの時間を私は生かされていると考える方が正しい気がします。

友達に動揺しながらその話をしたら、

「当たり前じゃなく、健康であることを感謝するとか、もっとしっかりしろというサインなのではないでしょうか」

と、励まされました。

与えられたミッションを思いっきり全うしているか…?

次のステップに進むと決めましたが、まだ思いっきり全うしているとはとても言い難い状態です。

カレロ氏は試合で最後の最後、ロスタイムまで諦めませんでした。ロスタイムのコーナーキック…自らも敵陣のゴール前に張り出してゴールを決めてしまい、ノックアウト方式のゲームを物にするという離れ業をやってのけた英雄でもありました。

彼の諦めない力、私たちを熱狂させてくれたリーダーシップ…そんなことに感謝しながら、もっとしっかり、彼が生きられなかった時間を私は生きていくことで、彼へのお礼としたいと思います。

諦めないことを教えてくれてありがとう。

次のステージに移るにあたり、マインドマップを使って考えをまとめています。

「志を同じくする仲間を作ってどこまでいけるか見てみたい」ということを中心に据えて、「志」「仲間」「師匠」「リソース」に分解し、志を考えた時に

「生きていて良かった」と思える社会を作る

という志が見えてきました。

しかし、振り返ってみると私はそれを元々したかったのではないか…という気もするのです。というのも、このブログの一番最初の記事

「はじめに ー 人生のルール」

において、自分で、もう言っているんですよ。「人生最後の振り返りの時に満足出来る方向に進んで来た」って(笑)。『この瞬間に終わりですよ』って言われた時に満足できますか?ってね。。。

仕事の内容をヘルスケアにシフトしたのも便利さとか、格好よさというものの性能やデザインを越えて、人々の豊かさに貢献出来る様な仕事がしたかったからです。

そして、かつて自分で事業を行うことを一時期考えた時にやってみたい仕事は、自分が住みたくなる様な老人ホームの経営だったんですね。

結局のところ、ずっと昔から頭の片隅にずっとあるミッションだったのです。
それが長い時間をかけて徐々に自分の中で育って行き、遂に表層に現れた…そんなことなのだと思うのです。