先日より「ジェネレーション」を意識する機会が多くありました。

私が労働を開始したのは1990年です。日本はバブルのあだ花の最後を飾り、今から考えると信じられない様な様々な「会員権」と称するハイリスクな投資案件が街に溢れていました。「財テク」という言葉は非常に身近でした。しかし、ほどなくしてバブルが弾けたのです。

その頃はまだ新入社員の区分にいた私にはそれがどういうことなのか理解は出来ませんでした。実感として感じたことはとんでもなく高かった物価がそれほどでもなくなったこと、それから友達のおとうさんとかそういう普通の人達の中に「財テクで失敗してね、倒産を余儀なくされたんだよ」という人がいたということでした。

当時バブルが弾けてその余波を最初に受けたのは、「財テク」というハイリスクの投資案件にお金をつぎ込んでいた人達でした。銀行はその後、スーパーコンサバに逆側にぶれて、「貸し渋り」という言葉が流行りました。今迄だったら、危ない案件にもどんどんお金を貸していた銀行が、一転して全うなビジネスでも難癖をつけて貸さなくなったのです。そして、貯金の利率は限りなく0になり、さりとて貸し出す利率は4%とかで、バブルの焦げ付きを徐々に埋めて行くというプロセスに入っていったのでした。

この頃、ハードランディングかソフトランディングか?と言う言葉が盛んに言われました。結局日本は焦げ付いた負の資産を「時間をかけて埋めて行く」という道をとってしまい、「失われた20年」と言われる時間を使って徐々に「冴えない社会」を作ってしまったのです。

この徐々にただしていくという戦略は急激な痛みはなかったかもしれません。けれど、国全体の活力ややる気を長期にわたって奪ってしまったという慢性的な痛みを残した気がします。そして私はこの慢性的な痛みの方が、罪は重いのではないかと思うのです。

その罪は何かと言うと、「冴えない社会」で成長する若者を沢山作ってしまったということです。

我々の年代、あるいは我々のちょっと上の人達は、「活力のある社会」というのを少しは触れることができました。「頑張れば報われる」というルールが、正比例ではないにしても、信じることが出来る社会を知っているのです。それに加えて、「お金を使う(経済を循環させる)」という体験をしています。たとえそれが、雑誌に踊らされた自分の価値観は全く入っていない、紋切り型のブランド信仰だったとしてもです。すなわち、「いつかはクラウン」という言葉が昔ありましたが、小さな車を最初は買ってもだんだんと大きく豊かな生活に向かって行くというイメージを信じることが出来たのです。

けれど、私より8~10歳若くなると、就職も難しい、給与も伸びない、こじんまりしてまったりと…という軽自動車みたいな社会しか用意されていませんでした。もちろん日本のミニマリズムの極致みたいなのも一つの美学ですが、それは選んだ上でのミニマリズムであって、清貧しかライフスタイルの選択がないというのはありえません。

本来、「頑張って家族のために豊かな暮らしを」と思う年代の人達に、その基本的なことを信じさせてあげられる様な社会を提供出来なかったのは、非常に大きな痛みだと思います。

私は日本の社会が「失われている」間に、アメリカに渡ってしまいました。
アメリカはまさに「アメリカンドリーム」というルールが、「もう幻想だよ」という人も多いですが、それでも確固として存在する社会です。結果平等なのではなくて、機会平等である。誰もがチャンスをつかめば成功出来る…そういう社会です。これだけ世界中の富を保有しているのに、オバマ大統領は「他の国に負けない様に教育の改善を!」と叫ぶ位、安穏としてはいない社会なのです。

結局、私は日本からアメリカに舞台を移して、ずっとバブル以前の日本の価値観で生きてくることが出来てしまったのです。本当にスイートスポットで労働をはじめて、スイートスポットでアメリカに渡ったと言えます。「頑張ってチャンスをつかめば豊かな暮らしがある」というルールでそのまま来ることができてしまったのです。これは別に大豪邸に住むとかそういうことではありません。物を買う時にそんなに悩まなくても欲しいものがあれば買うことができる、ライフスタイルを選ぶことが出来る…そういう自由があると言う意味です。
だから、訳知り風の「どうせ」という負け犬の遠吠えは私の辞書には存在しません。

最近8~15歳位自分より若い日本の人達と知り合いになる機会が多くありました。彼らを見て、大いに励まされたことは、彼らは「このままどうせ…と下を向いて生きて行くのはつまらない」と思っていることです。我々のジェネレーションにはかなり強固にあった「人並みならいい」という価値観は、既になくなって来ている気がしました。彼らの活気が社会の循環にうまく組み込める様になってくれば、そろそろ「失われた時間」にさよならが出来るのではないかと思うのです。

そんな循環や仕組みをもっと作って行けたらいいなぁ…と、沈滞しないで生きてこられた私はその恩返しも含めて考えているのです。





誰でも知っているシンデレラの物語………

シンデレラのおとうさんが再婚して意地悪なお母さんと二人の姉妹がやってきます。彼らは自分たちのことを、自画自賛しながらシンデレラを目の敵にします。ほこりだらけになりながらもせっせと働くシンデレラ。

そして、王子様が舞踏会を開くことになり、お母さんと姉達はキレイに着飾って出て行きました。我が身の不幸を嘆くシンデレラに奇跡が訪れます。

すっかり変身したシンデレラはお城で王子様と楽しい時間を過ごしますが、魔法が解ける時間が近づいて来て、急いで帰らなければならないことに気がつきます。慌てて靴を落としましたが拾っている時間もありません。

全ての魔法は解けてしまったけれど、王子様の手許にはガラスの靴が残りました。

それを手がかりにお姫様探しが続行され、シンデレラが靴をはいてあの素敵なお姫様であったことを告白するのです。そしてシンデレラと王子様は幸せに暮らしました。。。


私は今の職場のことを本当に「シンデレラの家みたいだなぁ」と思っています。売り上げに全く直結しない社内イベントや社内マーケティングにお金をどっさり使い、「なんて素敵なビジネスでしょう」と自画自賛。そして、一生懸命売り上げを上げるために仕事をしている人に、数字が足りないからと言って
「どうしてこうなの?」と詰め寄る。

ことあるごとに、ここって本当にシンデレラのお家だなぁ…と思うのです。我々は埃まみれになりながら、様々な厄介事を解決していきます。その間上の人達は自分の身繕いに忙しいのでした。

Bさんと私はほこりだらけになりながら、それでも「きれいにすること」に誇りをかけて仕事に取り組んできました。

シンデレラは、ほこりだらけになりながら、自分の仕事に誇りを持っていたでしょうか?それとも境遇の違いを呪っていたのでしょうか…。少なくとも我々は一流の掃除をすることに力を使い、それが誇りであったからシンデレラの家に留まったのでした。

けれど、その自らの誇りだけでぼろぞうきんの様に働くのも限度があります。

シンデレラはお城で楽しいときを過ごしたけれど、結局魔法は解けてすすだらけの生活に戻りました。将来の展望もなく、不幸な境遇に甘んじていたのです。幸せな時間を過ごした分、その後は更に不幸な気分になっていたかもしれません。あるいは王子様がガラスの靴の主を探している…と聞いて、一縷の望みにすがって灰にまみれていたのでしょうか。

いずれにせよ、我々は王子様を待たなくても、家出をする知恵も遠ざかって行く足も持っているのでした。

こうして、Bさんはシンデレラの反撃を鮮やかにしました。
「さようなら、私を大事にしてくれるお家を見つけたの。もうここから出て行くわ」

シンデレラのお母さんやお姉さんたちは、
「どうして?私たちがナサケをかけてあげて来たじゃない」とシンデレラに言いました。そして、「じゃぁこの部屋を上げるからお部屋を変わりなさいよ」とすら言ってくれました。でも、厩の様な粗末な部屋からその隣りの部屋に移った様なものでした。彼女達がきらびやかに暮らしているお部屋とはえらく違いました。

シンデレラは言いました。
「その部屋は今いる部屋とほとんど変わらないわ。」

シンデレラのお母さんは何もシンデレラにあげるものもなかったので、
「シンデレラ、私のそばにいさせて上げたじゃない。これからも一緒に居ましょうよ」といいました。

シンデレラは
「あなたのそばにいることがそんなにすごいことなんですか?お姉さんたちってそんなに優れてるの?私とあなた達を分つのは何なの?説明してよ」と言いました。

お母さんもお姉さんもシンデレラに説明することは出来ませんでした。
自分たちのどこがどれだけ優れているから自分たちがきれいな着物を来て美味しいものを食べることが出来るのか、シンデレラはそこに達しないから必死で掃除をしていなければならないかを。。。

シンデレラはお母さんもお姉さん達も結局自分ばっかり大好きでほかの人のこと等全く気にしないことを知っていました。それを改めて見ることになりました。そして、微笑みながら荷物をまとめて、シンデレラの家を後にするのです。きっぱりとした足取りで、二度と振り返ることはないでしょう。


今週の水曜日から木曜日にかけて、自分としては珍しくじりじりとして自分の軸がぶれる時間を過ごしました。去年からいろいろと自分の進む道を決めて歩み出し、ずずずっと動く時間もあれば足踏みする時間もある…そんな感じでも遠くから見れば確実に進んでいるのです。けれど、今週はその進む道において、大きな節目となるイベントのスケジュールが決まりそうで決まらない…というジレンマに陥ったのでした。

これに関しては私は全くコントロール出来ない事項なので、思い悩んだって一文の得にならないどころか百害あって一利無しだと、頭では十分判っているのです。しかしながら、「次に進めないのかもしれない」といった、これまた悩んだって全く意味のない不安に狩られたり、もしもそうなったらじゃぁどうしよう?なんて、ことまで考えてしまう自分がいたのでした。

「こんなに弱いかな」と、そういう自分を呆れて見ている自分もいて、これまた興味深い状況に陥ったのです。

そんな状況から落ち着きを取り戻させたのは、結局自分の直感と私の原理原則でした。

去年の11月、こちらの方向に大きく進んだ時に
「あぁ、やっぱりこっちに行くのか」と、自分の魂が納得したのです。そういう納得が起きた時に、未だかつて裏切られたことはありません。その時の実感を大事に信じようと思いました。そして、

悩んで立ち止まるのではなくて行動すること
時が満ちれば自然にぱたぱたと物事が動く。それを見逃さないこと
その時に向けて精進すること

この原則に照らし合わせて考えると、進んでいると判ることが起きていたのです。

自分がじりじりとしていたまさにその時、ある人からの久しぶりのメールや、問い合わせの返信など、予定している方向に動くとしたら、絶対に係わり合いになる人達から、「たまたま」連絡が来ているのです。動いているというサインだと思いました。

そう考えると、将来のことを憂いて「今ここ」の時間を無駄にしているのは残念な気がしたのです。こうして、落ち着きを取り戻すことが出来ました。


静かに広がる湖畔、静かに雪が少し降り積もり、周りには誰もいません。全ての音が雪に吸収されてしまう…そんな中に居て、目をつぶります。しかし、閉じた目の前にはこれから豊かに展開される人と人とのつながりとか、笑顔とか、ぬくもりとかそんなものが気配として感じられます。とても優しく、静かで、開かれているけれど、守られている…。今、そんな心持ちで時間を過ごしています。豊かに与えられている時間をありがとうございます。


やっぱり一つ結末がついたらそれも報告しておいた方がいいでしょうね。

シンガポールのBさん、新しい仕事が決まりました。
決まる直前のストレスだらけで周りの人を攻撃しまくっていた(まぁそれだけ理不尽なプレッシャーを抱えていた訳ですが)状況から、今ほっとしている様です。

私たちは二人とも判っています、他の会社にいったってどこにも完璧な職場はなくて、どこにも「なんじゃこれ!?」というのがあることを。ただ、現況をこれ以上甘受出来ない、新しい理不尽さならそれが目新しいという理由でまだ我慢出来るということを。

一緒に仕事が出来なくなるのは寂しいですが、本当に心から良かったと思っています。
新しい門出に乾杯。
今年に入ってからいろいろなものの整理を始めています。長年溜め込んでいた領収書類を散々シュレッダーにかけて、まだ道半ばではあるのですが、洋服に着手しました。

私の持っている服の類いは実用的ではない…ということは、見る前からすご~く明確でした。普段会社に着ていく洋服は(黒いパンツ+シャツ+ジャケット)のコンビネーションだけで、これらに無駄はないのです。もうほとんど制服の様です。で、黒いパンツは1年位でドネーションに出してしまいますし、シャツ(カットソー)は1シーズンでこれまた寄付してしまいます。

じゃぁ何を持っているのかと言うと…

-サリー
-パンジャビドレス(インドの3ピースドレス)
-サッカーのユニフォーム
-着物

普段着に全くならないものを山ほど持っているんですね。
普段着ない服は処分すべきという考え方もありますが、私は全部引っ張り出して基本的に全部キープすることにしました。

着物以外は大体

- もらった
- 旅行先で買った

のどちらかが理由で増えて行ったものです。いろいろ思い出満載なのです。今はやりの断捨離ではそういう物こそ捨てるみたいですが…私は敢えてキープすることにしました。

というのも、もう1時代前のヨーロッパサッカー関連のグッズは手放してもいいな…と、思えたからです。かれこれ15年位前の物です。私のサッカー変遷はJリーグ→欧州(イングランド)→(オランダ)→メキシコなので、まだメキシコは手放せませんが、イングランドとオランダは手放してもいいなと思えるからです。

インドの衣装はまだ現在進行形で好きなので、着ていないが現在進行形のコレクションだからです。

それに、これを着物に当てはめると………着物ぽいぽい捨てませんよね。これ同じほぼ同じ理由です。捨てない服というのもあるんです。

ただ、こうやって一旦全部開いて「おぉこんなのもあったねぇ」というのを思い出したので、部屋着として着ていこうと思います。そう思いながら、衣装箱にキレイに詰め直しました。








レイキは漢字で書くと霊気です。日本発祥にも関わらず、日本が忘れてしまって逆輸入した療法・自己鍛錬法です。一言でいうなら、レイキというのは宇宙に溢れているエネルギーのことで、それをうまく体内に取り入れることで滞りを直し、心身ともにバランスのとれた状態に自らを整えるのが目的です。

知らない人が聞いたら「アヤシイ」と感じることもいくつかあるだろうと思います。
- レイキを始めるのにアチューンメントといってその回路を開いてもらう儀式が必要
- レイキを送るのに距離は関係ない。(地球の裏側でも送れる)
- レイキの施術は施術者が無の状態で手を当てるだけ。受け手の状態でレイキは自動調節され、必要なところに必要なだけ流れる。

「何じゃそれ?」ですよね(笑)。なので、最初のうちは「レイキをやっている」と自信を持って、レイキを知らない人に説明するのが難しいのです。

さて、驚くべきことに、そのレイキ、アメリカの西洋医学の大本山、急性期の病院で結構使われているのです。ヨガや鍼灸、カイロプラクティック等も含めて、「代替医療」といわれますが、患者の求めに応じる形で西洋医学の補完として病院で盛んに取り入れられる様になってきています。すなわち一般人にレイキと言っても知っている人はそんなにいませんが、医療従事者、特にナースにレイキと言うと、知らない人の方が少ないかもしれない…です。それ位医療のシーンでは広く知られる様になってきているのです。

ただ、代替医療の有効性に関しては、統計的に有為な結果を出すに至るスタディがなかなか出来ず、絶対効果がある…とは、学問的に言いきることは出来ていません。アメリカでは国立の代替医療の専門の研究機関があり、勢力的に研究を進めてはいます。

この研究の難しさはレイキはあくまでも受ける人のバランスを整える自己治癒力を高めるためのサポート行為だというところじゃないかと思います。すなわち、施術者は「ヒーラー(治す人)」ではありません。おそらく本人が治りたがっていなければ、レイキも流れないのだと思います。

「病気を治したくない人なんている訳ない!」と思うかもしれませんが、心の深いところで、病気の自分であることで周りの人の愛情が得られる…と勘違いしてしまっていたり、周囲の人への当てつけで、「そんなに辛い目に遭わせたんだから私が病気になったのよ!」と思っている場合は、そちらの方の心の問題が解決されない限り、身体の愁訴の方は治らないと思います。レイキを続けていさえすれば、そういう心の問題の方にも作用して次第にバランスがとれてくるでしょうが、一定期間で病気の改善が見られるか…と言えば、そのスピードがまちまちになってしまうので、統計的に有為であるという研究が難しいのです。

私がレイキを始めたのは、身体に不都合があったからとか、スピリチュアリズムの様なあっちの世界に興味があった訳ではなくて、ぶれない自分を作るためでした。今でもその目的は変わっていませんが、身体の不都合を訴える人にちょっと手助けをしてあげることは、積極的に行う様にしています。

そうしてくると、やっぱり自分だけの恩恵としておくのは勿体ないなぁ…という体験に出くわします。施術した人に劇的に症状の改善が見られたり、気持ちが安定したり。
魔法とは言いませんが、ぼ~っと意識しないで(ここが重要)リラックスした気分で手を当てておくだけで、痛みが緩和されたり動かなかったからだが動く様になるというのは、その状況に悩まされていた人にとってはやっぱり魔法と呼べる位にうれしいことなんですよね。施術をしてあげると、ほぼ間違いなくレイキの施術を受けた人は私がお願いしてないのに、その素敵な体験を周りの人に話します。その話を聞いた人は、
「そんなこと出来るんだ~?」と私に言ってくる、という繰り返しになるのです。

人生のどこかでレイキの師範になっているだろう…という予感はあったのですが、昨日レイキの師範になろうと決めました。今との違いは、アチューンメントが出来る様になる、そしてレイキを通じて他の人とも積極的に関わって行く…という覚悟だと思います。

レイキを始めてかれこれ4年。どうやら時が満ちた様です。さて、動き出しますか。。。
いろいろ溜め込んでいた物の整理を始めました。
まずは領収書類です。会社の「文書保存ルール」では2年以上の物は捨てることになっていますが、私はアメリカに来てから毎月払う類いの領収書を捨てたことがありませんでした。

これには理由があります。
日本に比べて、理由なき請求が多かったこと、「証拠を」と言われる場面が圧倒的に多いことです。すなわち、捨ててしまって、証明能力を失うより、証拠を残しておきたかった…そういうことです。

サービスには善し悪しがありますが、特にテレコム系のサービスは、いわれなき請求が多くて、随分と「カスタマーサービス」と電話をした記憶があります。すなわち、電話会社系のサービスは超劣悪だったということですね。

で、そういうそもそも劣悪なサービスの会社で、苦情処理のためにカスタマーサービスに電話をすると、延々と待たされ、そこでやっと出たカスタマーサービスでも埒があかず、その上司にエスカレートさせてどうにかなる…という文字通り電話越しのバトルを何度も繰り返すことになったものでした。

「プロとしての誇りがないのかここは!」と、呆れる位のサービスだったのですね。

さて、どうしてその劣悪なテレコム系の会社の話をしたかと言うと…

レシートの処理をついに始めて2005年の領収書の束から手を付け始めたのです。そこにあったレシートの会社は3社です。

MCI
Qwest
Sprint

MCIは会社のコーリングカード、Qwestはローカルおよびインターネットの接続、Sprintは長距離電話および海外通話のサービスでした。

いずれももう存在しないのです。
MCIは83年創業、97年にWorldComの傘下に入り、MCI WorldComとなり、WorldComが2002年に破産して、その生命が終わっています。

Qwestは96年に創業、2000年にUS Westと合併して、2010年にCentury Linkに買収されてその生命を終えています。

Sprintは最近ソフトバンクに買収されましたね。

アメリカはBellという会社の独占から分社化、自由化、インターネットの勃興、そして、テレコム系の大型買収と…この20余年を考えると、ずっと狂想曲を奏でていたきがします。株主の熱い期待に答えるべく、上辺だけ飾っていて、肝心のサービスはおざなりだった…そんなところが結局のところ、苦情処理や顧客の流出によって経営を悪化させることに繋がり、他に買収されて消えて行ったんですね。

奢れる者は久しからず

領収書をシュレッダーにかけながらそんなことを思いました。
おはようございます。

「ホタルノヒカリ」って言うドラマ(漫画)ありましたね。あそこに出てくる「干物女」…仕事はばりばり出来るのに、家に帰った途端リラックスしまくり。ジャージ姿で缶ビールプシューっと…。

そこまでだらだらしていませんが、仕事ではもの凄く几帳面かつ凄いスピードで片付けて行くのですが、家に帰るとそれにバランスをとるようにぬぼっとするのが日常でした。

2012年にいろいろ考えて新しいことにチャレンジを始めたのですが、今迄仕事に超全力投球だったため、残りの「新しいこと」や「私生活」に十分なプライオリティないしは仕事に要求する規律を持ち込めていなかったと考えています。

たとえば、専業のトレーダーとなったとしたら(現在その予定はありませんが)、トレードしている時間は就業時間です。もしも、会社生活を辞めて家に居るとしたら、野方図に寝たいだけ寝ている訳にもいきますまい。

そう考えると、仕事の時間をだらだらと心行く迄伸ばしてやっていた今迄の仕事人生自体も、「仕事だから」という理由をつけて、やっぱり規律もなかったのではないか…と、考えられるのです。

会社時間の時間管理も含めて、時間管理を2013年の課題としたいと思います。
それと同時に新しく始めたことへも規律を持って、行っていこうと考えます。

さぁて、仕事してきます。
こうして年をまたいでBさんとKさん、二人との香港の話を書いてきました。

「また香港行きたいね」

こういうと、まるでロマンチックな旅行の様に聞こえますが、二人とも全然ロマンチックさはありません。けれど、KさんともBさんとも、その係わり合いは、深い信頼、そして人間の器の成長という点で、なくてはならない人である…それは間違いないのです。

KさんとBさんはもちろん知り合いですが、面白いことに、この二人の間には全くそういう関係が発生していないのですね。まるで別の世界に生きている人の様につながりがありません。

彼らにとって、私…そして香港、それらが一緒に重なる時、次に何が見えてくるのか…私にはまださっぱり想像がつきませんが、これっきりになることはない筈で、必ず何らかの形でまた香港が関わってくる筈です。その時が楽しみですし、その時にはお互いにもっと器の大きな人物になっていたいと思うのです。

2012年はあっという間に過ぎていきました。仕事の関係で、文字通り世界中旅をしました。日本から始まり、アルゼンチン、ブラジル、南アフリカ、アラブ首長国連邦、トルコ、ポーランド、フランス、フィリピンと今年ははじめて訪れた国が多かったのも今迄と違うパターンでした。

 

どこへ出かけても思うことは、人々はどの国にいても根本はそんなに違わないということ。けれど、それと同時に、それぞれの国の社会環境は本当に違うことを肌感覚で知ることができました。例えば、南アフリカはアパルトヘイトの後遺症で未だに二極化した社会構造です。仕事があっても、長年アフリカ系の国民に対する教育への投資がなされなかったことから仕事に就けるだけの教養と知識を持ち合わせない国民が限られているのです、そして世界のどこよりもHIVの罹患率が高いことが、国の進歩を阻害します。滑走路のすぐ隣り、飛行機が下りてくる一番うるさいところに、箱の様なスラムの家がひっそりと暗闇に沈んでいる様子を忘れることが出来ません。また、フィリピンでは高級住宅地・商業地は数家族の持ち物です。大統領制でも実質は数えられる位の数の超弩級富豪と、比較にならない程の貧困に苦しむ国民が少しでも良い生活を求めて国を出ていきます。空港には、海外出稼ぎ者様のイミグレーション窓口が別建てで用意されている程の国民が自分の国では生きて行けないのです。

 

そういう現実を見る度に、自分が今こうしていることは、たまたまこの時代に日本に生まれて来たというファクターが決定的に影響していることを思うのです。自分の努力とは全く関係なく、たまたまここに生まれて来たことで、これだけ多くの物を与えられている…その現実に、与えられた物をどういう形でお返しするのが使命なのか…それを考えます。

 

そして、今年からホスピスのボランティアを始めました。たまたまですが認知症の患者さんのボランティアを続けていますが、手をつなぐことで、言葉よりも雄弁に繋がることが出来ることを知ったのも大きな喜びでした。けれど、「また来週ね」と別れ際に元気に手を振っても、その来週が訪れないかも知れないという現実も、拭えない寂しさと共に学んでいます。人生はおそらく何年生きても、あっという間なのだろうと思います。

 

こうして振り返ると、自分がどれだけの物を与えられているのかを知ることが出来、それと同時に、与えられた物を使い切っているか、と、問いかけられた一年だった様に思います。

2013年は、その問いに積極的に答える年にしたいと思います。

 

皆さんの2013年がますます実りがあり、与えられたものを思う存分使って輝く年となります様に願っています。