組織に対する信頼がない状態で、とりあえず自分のやりたい様にビジネスをやりきると決めた1年前。
(その時のことを書いているのはこちら

政争にかまびすしい上司の事はおいておいて、ビジネスに正しいと思うことをやりきってしまおうと駆け抜けた約1年でした。

これについて最近心境の変化があったので、それを書こうと思います。


最初の動機には
「何をやったってどうせ悪口言うんでしょ?ならやりたい事をやらせてもらうよ」
という部分がかなり含まれていました。

信じてもらえない恨み辛みが入ってます(苦笑)。

それでいて、「正しい事をやっていれば誰かが見ていてくれる」と信じたい部分もあったのです。

最近これに関して
彼らが私を信用しようがしまいが、政争で忙しかろうか…「あんまり関係ないや」と思う様になってきたのです。これはあきらめではなくて、むしろ

「そういうレベルに興味がなくなった」というのが正しいです。
すなわち「どうせ何やったって…」の部分は、興味なさそうな振りをしているのに、その実彼らの私に対する評価に興味津々だった訳です。
最近は「そういうことひっくるめてどうでもいいや」なんですね。

そんな事より、今やっているビジネス展開で患者さんが一人でも救われる…とか、そういう熱い志を持っている先生とお知り合いになって、啓蒙していきたい、そういうパッションを持っている同僚と一緒にもっと仕事をしたい…といった事の方が圧倒的に面白いし、やりたい事なので、もうそれに全力集中だよ…って感じなんです。

「正しいことをやってれば誰かが必ず見ていて評価してくれる」んですから。
そうやって、ここまで来たんだし、これからもそうやって行くのが私だと思います。




数日前からロンダ・バーンと言う人の書いたThe Powerという本を読んでいました。(ちなみに初めてKindleの本をダウンロードしました。Kindleは持ってませんが、MacにKindleのアプリがあるのでそれを使って読んでいます)

The Power/Rhonda Byrne

¥1,916
Amazon.co.jp

オフィシャルサイトにある、本の宣伝ビデオは賑々しいのですが、中に書いてあることは至ってシンプルです。

最初から最後まで「愛Love」を持って引き寄せの法則を実践しましょう…それだけです。


「引き寄せの法則」が流行った時、本を読んだりはしませんでしたが、そのエッセンスは「引き寄せるよ」というだけですから、十分内容は理解できました。でも、その時実感として「本当にそうだよねぇ!」と迄は至りませんでした。

頭で「へ~、そうかもね」位に理解しても、「本当にそうだよね」と「ガッテン・ガッテン」と手を叩く程には納得できなかったのです。むしろ「生き方として良い教訓だけど、それが本当に起こるとは信じられてないかな…」というのがもっと正確な表現かもしれません。

レイキを始めてから、様々な事に感謝できる様になって来た…というのは前に書いた通りです。これが直接的な理由かどうかは判りませんが、タイミング的には一致しているんですよね。ですから、確実に「感謝の心を加速する様にしてくれている」とは言えると思います。

部下達のやる気を引き出すために、その人達の良いところを見つけて認めてあげる伸ばしてあげる…最初はエネルギーが自分から出て行ってばっかりだという気がしていたのですが、気がついたらそうやって部下達が輝いていくのを見て、本当に恩恵をもらっているのは私のほうじゃないか…と思える様になり、そういう機会が与えられたこと自体に感謝が出来る様になっていきました。

最近では、つまらない人にあうこと、辛い体験をすることも、通り過ぎることで更に深い感謝を得ることが出来て、恨みやわだかまりも不思議に「あれ?」という感じで消え去っているのに気がつくのです。

ふと見上げた空や夕日に感動したり、それ迄に出会えた人達に感謝をしたり、ふっと考えると感謝の言葉しか沸き上がってこない…最近はとてもおきらくごくらく状態な時間が多くなってきています。

そういうタイミングで出会ったThe Powerです。全ての事に感謝と愛を持って接すればそれが引き寄せの法則によって返ってくる…そのメッセージは本当に心から納得の行くものでした。

「とりあえず行動する」というところから、シンクロニシティがはっきりとしたカタチで見えだしてきて、周りがざわざわとし始めている今、それを加速するために「愛と感謝による引き寄せ」を応用したらどう?というメッセージをもらった様です。

そこで、一つ文章を書いてみました。
進みたい方向が見えて来た今、その方向に「進んだ」状態になったつもりで、その立場としてスピーチを書いたのです。もちろんそのスピーチの内容は「感謝」です。そして、「みんなと繋がってせいちょうしていくこと」それがやりたい事なのだと書きました。

時々そのスピーチを見直して推敲を続けて行くことに決めました。そのカタチが明確になって行った時、本当にそのスピーチを語っている私がいることでしょう。

どこに行くのかわからないけれど、どりあえず行動する

そう決めて「レジュメをアップデートする」「ホスピスのボランティアに参加する」「ビジネスを自分のやりたい様に思い切りやる」という行動に出た2011年です。(でした…には、2011年が終わっていませんからまだなりません)

そして、いろんなさざ波が私の周りでたちはじめ、シンクロニシティが起こって来ているのを感じるこのごろです。

色んな方面で動き出しているのですが、今日は判りやすいシンクロニシティの例をあげます。


数日前、ふと、日本で引退されたエグゼクティブの方のことを思い出し「メールしないとなぁ」と思っていたところでした。その方の下で働いていたSさんが、折しもこちらアメリカに来ていて、昨日食事にいきました。ホテルのロビーで待っていると、Sさんが電話をしながらやってきて、「はい」と私に携帯を渡します。その話し相手は、その引退された方だったのです。

「久しぶりです!」と驚いて話すと
「そんなに久しぶりじゃないじゃないの!」と気持ちよく話をされ、私が今度日本に遊びに行く時にお会いすることになりました。

これまた数日前、私が日本にいる時にアメリカでのカウンターパートとして働いたPさんの事を思い出しました。時々夫婦セットで(4人で)食事に行く仲にまでなっているのですが、日本から来ているSさんとの話をしていたらPさんの話題になりました。そして、私が日本からアメリカに戻った以降Pさんと日本のカウンターパートとして働いていたNさんから、
「急にPさんからおとといメールが来たんだよ」と言われたのです。
「何だって?」と聞くと、
「用事はなかったんだけどね、元気にしてるか?って。一緒に仕事して楽しかったから、また縁があったら一緒に働こう。何かキャリアでサポートできることがあったらするって言う内容だったんだよ」
と言うのです。

こうして、ふと思い出すと連絡があったり、全然違うルートから連絡が回ってきたりする…シンクロニシティのクラシックな例ですが、こういう事だけじゃなく、いろいろなことがごそごそと動きだしてきました。

Let わくわく begin!
先日日本で友達とお昼ご飯をしました。
その人は人士のいろいろな節目を通り越して、「税理士になる」という20年越しの宣言を最近達成した人です。私は「やる」と決めたら、直ぐにやってしまわないと続かないほうなので、20年という歳月をかけて、そもそもの夢を実現するって言うのは出来ませんし、もの凄いことだと思います。

その彼女と話をしていて、
「まだ経験が浅いので、勉強と思って仕事を余り選ばず廉価で提供している」という話と、それまで働いていた税理士事務所の税理士さんから『安く仕事を引き受けない方がいい』と言われた…というところを聞いて「!!」と思ったのでした。

確かに税理士の免許を得たのは最近のことですし、「客あしらい」に関しては経験が物を言うと思います。しかし、きちんと試験に合格し「士」という称号を公に使って良いと宣言されたのですから、その時点で彼女の提供するサービスは、その品質が担保されているはずなのです。

だから、税理士になって日が浅いかもしれないけれど、提供するサービスはその道何十年の人と、余り変わらないべきなのです。だから全く「安売り」する必要はないんですよね。

「安売り」と言えば、2007年に日本に来た頃のビジネスを思い出します。ある製品が夏になると品質不良を毎年の様に出していました。お客さんをつなぎ止めておきたい営業は、苦肉の作として他の製品でお客さんに我慢してもらったり、値引きをしたりしていました。売っているセールスが売っている商品の自信がないのですから、その時点で顧客の満足はない…と見た方がいいでしょう。買っている側からしたら、「売っている人が自信が持てない様な製品、どんな金額だってわざわざお金を払う価値ないんじゃないの?」と思うかも知れません。
「本当だったら高いはずなのに、安くするってことは何かよくない事があるんじゃないの?」と思うかも知れないです。

物の値段というのは、他の競合の製品との比較もしなければなりませんが、「安ければ喜んでもらえる」と言う様な単純なものでもないんですね。

「どこよりも安売りします!」というのをそのビジネスのブランドに据えるのであれば、それで良いのです。でも、高品質を売りにするのだとしたら、安売りは顧客満足を常に与える…ということではないのだと思います。むしろ、更なる付加価値で顧客を喜ばせることで高い値付けをした方が喜ばれたりするかもしれないと思います。

さて、その彼女、税理士になってからの日の浅さを理由に謙虚な振る舞いをするのをやめる…と宣言してくれました。そう、堂々と胸を張って一流の税理士として歩んで行けばそれでいいんだと思います。


転職サイトに登録すると、直ぐに何カ所かのエージェントからコンタクトがありました。部長・部門長くらすの求人は転職サイトにオープンに掲示されていることはまずないと言った方がいいでしょう。ほとんどが、リクルーティングの会社のエグゼクティブ専門の部門が秘密裏に候補者にコンタクトするというスタイルをとります。

提示された案件は、現在の仕事の完全な競合の部門長もあったり、近い業種もあったり…と、マネージメントレベルの人材探しというのは相変わらず活発なんだなぁと思いました。

日本でもアメリカでも転職活動というのをしたことがないので、初めてのことばかりでした。履歴書に加えて、職務経歴書が必要だというのも知りました。

そうして、書類を整える中で自分が仕事をしてきたこの20年近くを振り返る良い機会となりました。本当に恵まれたキャリアだったと思います。3つの全く違う業種で技術やビジネス等様々な役割をやらせてもらったからです。

ついている…といえばそれまでですが、たまたまだけではない気がします。

「先読みをしてきた」

というのが、この幸運なキャリア形成を助けて来てくれたと思います。いろいろな未来のシナリオを考えて、最善と信じるものを先んじて行ってきました。だから大体の日々は予定調和で平穏に過ごすことが出来たのです。唯一の例外は去年の競合の用意周到な作戦が完結しかけたときにその場に居合わせて、形勢を立て直すどころか、その非を(全く私の非ではない訳ですが)押し付けられた時位でした。

社内で大きくビジネスを意図的に移ったのは2度ですが、そのパターンはいずれも決まっていて、その先に滝があることが私には判るのに、「滝があるからこのまま流れに乗っていてはいけない!」と言っても、他の人にはその滝が見えないし聞こえないのです。むしろ、私の事を「オオカミ少女」として、「自分に注目が欲しいからそんなこと騒ぐんだろう!?」みたいなことを言う位なのです。

そういう状況になったら、「あぁ、今この時点で違う道をとれば滝を回避できるのに」と非常に口惜しく思いながら、その筏を降りて、自分は違う道に行くしか選択肢はありません。判っていて、一緒に滝壺に落ちるのはさすがに出来ませんから。

こうして、私が意図的に動いたあと、どちらも3年後…やはりビジネスは滝壺に落ち、最初のビジネスはもう存在しませんし、二つ目も往時の勢いは全くないビジネスになってしまっています。

「知りながら見殺しにした」とも言えますが、自分のパワー不足で見殺しにすることしか出来なかった…というのがもっと正確な表現でしょう。苦渋の決断で、決して自分が助かっても気持ちのよいものではありませんから。
ですから、今度はこの先読みの能力を活用して、自分で舵を切りたいのです。




先日私が前のポジションにいたときの部下が、「コーヒーでも一緒にどうですか?」といって連絡をしてきてくれました。彼は私が異動してから数ヶ月後に違うポジションを社内で探して自分からそのポジションを出て行ったのです。今は本社にはおらず、飛行機でも3時間位かかる別のオフィスで働いています。
たまたま他の用事で本社に来ることがあり、わざわざ連絡をしてきてくれたのでした。

その日は私は日本に出張に出かける日だったのですが、なかなか会えない相手なので、空港に行く前に会社のカフェテリアでお茶をすることにしました。

彼と一緒に上下関係で仕事をしたのは本当に数ヶ月でした。ただ、それ以前3~4年間は上下関係はありませんでしたが、仕事の関連があって、お互いに「一緒に仕事しやすい人だな」と思っていたという歴史があります。

私が前のポジションにいたときに、彼が他のポジションで将来性を案じ、次のポジションを探していました。私を結局追い出した上司が彼を失うのが惜しいと感じて、私の下だったら彼が働いても良い…という言葉を取り付けて慰留させたことにより、彼が私のグループにやって来たのでした。
その数ヶ月後、私が追い出され、更にその数ヶ月後、結局彼も自分から出て行いきました。

私は彼から「やっぱり他のポジションを探そうと思う」という相談を受けていて、「そうした方がいいよ」というアドバイスをしていました。それが二人きりで話しをした最後で、彼は違うポジションを得て、本社から去って行ったのです。それ以来、メールでやり取りはあったものの、対面して話をするのは初めてのことでした。

彼は私が今やっている仕事の話を尋ね、進捗を興味深く聞いていました。私も彼が今行っている仕事の楽しさ難しさを尋ねました。お互いに、「今の仕事が楽しくて良かったね」とにっこりとしたのです。

彼が現在のことに加えて、私が去った後、数ヶ月後去る事を決意した理由と決めてからの後日談を語ってくれました。

私が他のポジションに移った後、彼をそもそも慰留した私たちの共通の上司は彼の事を猫の子をかわいがる様に評価してくれたそうです。ところがある日、彼自身は全く変わらないのに、その上司は彼を公の場で急に攻撃し始めたというのです。

私もその「急変」は噂になっていましたから、その場に居合わせることはありませんでしたが、もちろん知っていました。そして、その「攻撃」は実は彼だけではなく、そのビジネスに携わっていた全員に向けられたのです。

彼は言いました。
「何がどう変わっちゃったんだか、さっぱり判らないんだけど、急に攻撃しはじめたんだ。これじゃやってられないと思って他の仕事に移る事にした。これが他のポジションに異動する原動力の最も大きな部分かな。仕事の内容は嫌いじゃなかった。でも、これじゃやってられないって思ったんだ。」

そして、彼が他のポジションを得て異動すると上司に告げたとき、その人は彼を慰留しようとしたそうです。しかし、彼の意志は固く、その上司は彼を引き止めることは出来ませんでした。

私たちが居たグループのビジネスは長い間手をかけてもらっていなかったために、成長の鈍化が深刻でした。新製品のパイプラインも潤沢とは言い難く、それをなんとかてこ入れするために買収提案をしました。そして買収したビジネスはそれ単体でサイズが大きいからという理由で、提案した我々の元居たグループに併合されず、単体として扱われることになりました。(そして、私はその買収したビジネスの国際部の責任者になりました)

すなわち、成長のてこ入れとして買収したビジネスが入ってこなかったということは依然として厳しい状態にあるということです。その状態は誰が見ても明かでしたが、その長年の「つけ」が溜まった状態を、私を攻撃しただけでは物足りず、結局そこに居合わせた彼と他の人達のせいにして上司が攻撃したということだったのです。

これにより、彼が去り、他の人も競合会社に去って行き、3人が立て続けに辞めていきました。

「それでね、その上司がさ、残っている他のビジネスの部下達に、『彼がもっと良いキャリアを見つけて来たから引き止められなかった』って、全員に留守番電話のメッセージを入れてたんだって」

これは初耳でした。電話メッセージを受け取った人達は全員知っていました。上司の理不尽な攻撃があったから皆辞めて行ったことを。それを知っている人に、その上司から「彼らが辞めたのは私のせいじゃない」といういい訳を留守電で残したというのです。

「みんなそれ聞いてどうだったかね?」
私は肩をすぼめました。

「ね。出て行くときに人事のマネージャーにはありのままを話したよ」
彼は言いました。他の部門に移るとき、人事のマネージャーがexit interviewと称して「何故出て行こうと思ったのか」という理由を聞くのは普通です。去って行った3人とも、思いの丈を言いたい放題ぶつけて出て行った様でした。

そして、彼が本社に来たときに元の上司と顔を合わせることがあったそうです。元の上司は「元気?」とか当たり障りのないことを一言二言かわした後、彼を無視する様に去って行ったとのことでした。


我々は、そういう人の下から逃れて現在お互いの仕事を楽しめていることに安堵しました。そして、我々が受けた攻撃は我々のパフォーマンスが理由ではない…と、明らかに結論したのです。

「またどこで我々のキャリアが交差するか判らないから、お互いに連絡を取り合おうね」としっかりと握手をしたのでした。

アメリカの会社では、社員個人のキャリア意識は日本のそれより高いと思います。それでもやっぱり「ひと」なので、気持ちよく仕事の出来る環境、同僚、そして上司が必要です。自分のキャリアのことだけしか頭にない人とはやっぱり一緒に働けないと思う人がほとんどです。そして、個人が個人のキャリアに責任を持てば持つ程、そういうどうしようもない上司の下からは流儀にあわない人は去って行き、あわせられる人だけが残るという構図になります。

彼との上下関係は短い期間でしたが、今後も何かあればお互いに協力できるだろうと思います。そして、元上司の下には我々は二度と行かないでしょう。

「またお茶でもしようね」
彼と私は笑顔でカフェテリアを後にしたのでした。
こうして、仕事を好き勝手やるようになり、世界中からは「よくやっている」という声が聞こえる様になっていきました。そこまで来てしまえば、自分たちの政争で忙しいディレクター達もおいそれと悪口が言えなくなります。後は自分の信じるところを突き進み続けるだけです。

「世界展開」といっても普通はヨーロッパや大きな国に展開するだけなのですが、今回は60カ国近くに展開する必要がありました。その結果、世界中に同じビジネスをしている人達がいるのだ…ということが本当によくわかりました。世界地図もずいぶんと判る様になりましたし、なにより、その見知らぬ国に名前を知っている人がいるというのがワクワクする出来事でした。

世界は広いです。けれど、案外近いという気持ちもしました。全然生まれた環境も育った環境も違うのに、仲良くなる同僚が世界のあちこちに出来たのです。これは本社にいて、この担当にならないとなかなか体験できるものではありません。

そして、前の上司は追い出したつもりだったのでしょうが、周りからは「本社で一番いい仕事ゲットしたよね~」といわれ、新しい仕事に移った私を祝福してくれる人が増えて行きました。

こうして、仕事が「楽しい」と言える様になりましたが、やはりひっかかるのが本当にやりたい事…でした。

信頼を基盤に置いた組織を作ってやれるところまでやってみたらどこまで行けるのか?

もちろん、今居るポジションで引き続き仕事をしていけば確実にグループを大きく出来ますから、時間をかければやりたいことが出来なくはないと思います。しかし、根本的にこの組織はスケープゴートを選んでいじめるという体質です。めだつ杭は絶対「撃たれる」のです。ここで長居をしたら難癖を付けられて、成果を横取りされるのは目に見えています。

結局のところ、P&Lの責任(収入と利益)を持ち、部下を持つポジションに自分が立たない限り、やりたいことはやりきれないということがよくわかりました。

そこで、次のステップとしてレジュメをアップデートし、転職サイトに登録するという行動を起こしました。

全くビジネスの肝と関係ないところで日々政争が繰り返されている職場と、私のやりたい「信頼をベースに置いた組織作り」では「流儀が余りに違いすぎる」ので、自ら一歩を踏み出す必要があるのは明白でした。

2010年の秋口にいわれのない理由で上司から後ろからマシンガンで撃ちまくられ、お払い箱にされ、事業部内の他のポジションに移りましたが、それによって腹が据わったというか
「どっちにしたって評価してくれないんだから、やりたい様にやるさ」という気持ちが固まりました。

上層部のナンセンスなごたごたから見えないところで、速く走れるだけ走ってやりたい事をやってしまおう…と決め、それを実行しました。

仕事は買収した企業のビジネスを世界展開するというもので、この職務内容が幸いしました。本社でいろいろ動かす必要がないというか、買収先の企業の人達とがっちりと手を結び、後は世界中の支社と働けばいいからです。担当が世界に広がったため、寝ている時間以外は世界中から様々な時間帯にメールが飛び込んで来る、電話会議が入る…と、忙しくなりました。

けれど、プレゼンテーションの見栄えで評価されるとか、マシンガンで後ろから撃たれることをびくびくしながらどうおべっかを使うか?といったことを考えなくて良くなったので、忙しいけれど楽しく仕事をすることが出来る様になりました。

自分で気がついていなかったのですが、行き交う同僚から
「笑う様になったね」と、言われたのが印象深く残っています。

意図的に上層部からはそれほど目につかない様に、でもがりがり時間と頭を総動員で仕事をしていましたが、数ヶ月後こんなことが起きました。

今回の買収のインテグレーションを総指揮する様にと事業部の外からある人物が異動してきていました。上部の政争は彼女に任せて、私は一応自分のやっていることを彼女に伝えてはいましたが、判断をあおぐということは何一つしませんでした。彼女は私に「そのままやって頂戴」と言ってはいましたが、その先の方針を考えていないことは明白でしたし、内容をしっかりと理解していたのかも疑問でした。

私の部門はアメリカを除く全世界ですが、彼女の仕事はアメリカも含んだ全てのビジネスのリーダーという位置づけでしたから、「まぁアメリカの事で忙しいのかな」位にしか気に留めることはありませんでした。はなから、判断をあおごうなんて思っていなかったからです。

とはいえ、リーダーたる彼女から3ヶ月たっても一言も「方針」が出てこないことに、疑問は感じていました。アメリカではOne hundred days(100日)というのは、かなり大きな意味を持っています。就任して大体3ヶ月位たったら、方針をはっきりと打ち出す…というのがリーダーに期待された成果の一つなのです。

彼女は既存のビジネスのディレクター達、それから買収先のリーダーの狭間で、ニコニコと優しく振る舞っていましたが、何かというと足を引っ張り合うディレクターの中では「良い人」過ぎました。そして、自分の領分を主張しなかったのです。

そのうち、ヨーロッパに居る上の方の人から、今回の買収に関して「方針説明がない」と疑義が投げかけられ、本社の人達が慌てふためく騒ぎになり、彼女が内容を全く把握していなかった(報告は受けていたのですが内容を理解していなかった)ことが明らかになっていきました。

それと同時に、買収先の社長が新しいポジションを得て、急に去って行くことになり、彼が日頃から抱いていた彼女に対する不満が一気に事業部のトップに届いてしまったのです。

こうなると、彼女が居場所やリーダーシップを発揮する機会を得るのは難しくなってしまいます。そして、突然事業部のトップから彼女のポジションチェンジが発表されたのでした。

彼女の在任期間は4ヶ月もありませんでした。

これを見て、「確かにディレクターなら100日の間に自分の領地をしっかりと宣言し、方針を表明すべきだった」とは思いましたが、「悪口を言われたら失地を取り返すチャンスももらえないのか」と言う、この組織の残忍さもまた強烈に心に残りました。事業部のトップもビジネスの状況を理解しておらず、他のところ(ヨーロッパ)から批判的なことを言われたので、彼女に八つ当たりした…としか見えなかったからです。

ちょっとしたスケープゴートが常に必要な組織なんだなぁ…というのが納得できました。私が後ろから撃ちまくられたのは、たまたまそこに居合わせ、相手を信用しようとしたからだ…ということがよくわかったのです。
これによって、自分に対する否定的な気分を完全に払拭し、更に自分のやりたい様に出来るだけ速いスピードで駆け抜けることを決意したのでした。

ボランティアに参加するという意思表示をしてから、実際にボランティアをするまでのプロセスは想像以上に長いものでした。

まず、面接がありました。
予め決められた13の質問をボランティアーコーディネーターの面接官がしていきます。
「何故ホスピスのボランティアに興味を持ったのか」とか、基本的な質問です。これらの質問に答えて行った時、それまでは漠然とレイキとヒーリングの観点からボランティアをしてみようと考えていたことが、「自分に学びがある」という事を明確に理解することが出来ました。

その後、一通りの予防注射の接種を要望されました。ホスピスはもちろん病院と経営が繋がっていますから、病院の検査室で予防接種を無料で受けられることになっています。私の場合は、仕事柄大体の予防接種は終わっていて(余る程でしたが)予防接種は必要なかったのですが、BCGを受けている私たちが確実に「結核にかかっていない」という証明が必要でした。そこで、血液検査を受けました。

更に、私の指名した友人二人にホスピスから電話が入り、私の人隣りの裏付けインタビューが行われ、警察に犯罪歴の照会が入りました。

これが全て終わった後、丸二日間のトレーニングが行われて、晴れてボランティアをすることになるのでした。

そして今日、その1日目がありました。

いろいろな学びがありました。


誰にとっても、最期のときを迎えるというのは初めての体験なのだ ということ。

当たり前と言えば当たり前ですが、いざ自分の近しい人がその時を迎えるとなると、全てのことが突き刺さる様にやってきます。良い死を迎えるためには、予め考えておくことが必要だと言うことを考えるだけではなく、実際にまとめることで準備すべきだということでした。

死んで行く人がいる家族というのは、それが非日常であることを忘れてはならない

家族の意識が患者に集中するため、家の中の事が二の次になり、あり得ない程散らかっていたり、喧嘩がすごかったり…と、普通の家庭ではあり得ない様なことも起こることを覚悟せよとのことでした。自分の物差しを押し付けないことが重要です。

Active dying

この言葉を初めて聞きました。順番に脳が臓器の活動を停止していく期間です。苦痛を最小限にこの時期を乗り越えられる様にチームとなってホスピスケアが行われます。

患者も家族もケアの対象

病院では患者さんがケアの対象ですが、ホスピスでは家族もケアの対象となります。死後1年間のサポートが受けられる様になっていて、失った哀しみとつきあって行く手助けをすることも含まれるそうです。

このトレーニングを受けている間、レイキの研修ルームに入った時の様に、ずっと手からレイキが多く流れているのにきがつきました。レイキの施術者は私ひとりでしたが、誰にでも訪れる死に向き合う、この場所では、気が流れやすいのかと思いました。


私が人生の岐路に立った時に使う「この瞬間が最期になったら」という質問は、それをたとえ使う時でも、それが実際に本当に起こること…という切迫感を持って質問してはいませんでした。けれど、こうして、人生の後半戦を考えて来たときに、ホスピスのボランティアにつながり、トレーニングの前日にSteve Jobsの死があり、魂を輝かせ続けること、そのメッセージを彼が遺してくれたこと、

なにか…全てが一体となって繋がっている様に感じます。

今日だけは怒るな 心配すな 感謝して 業にはげめ 人に親切に

本当に、これが幸せに導いてくれるメッセージであり秘薬であるのだと…心から思えるのでした。
病院もHIV/AIDSのサポートグループでのボランティアもなぜかうまく事が運ばず、「今は時じゃない」と言うことか「違う場所だ」ということか…なんか、一筋縄ではいかないなぁと思っていました。

けれど、3月11日に大震災があり、お金を出すだけのボランティアじゃなくて、「何か行動したい」という思いが更に強まった私は他のオプションを探し、ホスピスのボランティアにたどり着きました。

日常では「死」というものと近づく機会はありません。病院で使われる医療器機を製造販売している仕事に携わっていても、人生の最終章に近づくことはほとんどありません。

死ぬ事を考えると寂しいし怖い。

でも、それだからといって、人生に終わりがある…ということを考えないで「ないことにする」のはやはり間違っているのです。

また、折しも台湾出身のアメリカの同僚のおとうさんが病気で倒れるということがありました。彼女はとる物もとりあえず、3週間の時間をとって台湾に戻りました。台湾から戻って来た彼女とあって話したとき、彼女は悩んでいました。
「『留学が終わったら台湾に帰るからね』って言って、それっきり帰らなかった。両親も強くは反対しなかったし、アメリカで伴侶も得て仕事もあって、そのまま生活は続いて行くって思ってた。そして、両親はいつまでも元気って思い込もうとしてた。
 でもね、今回父が倒れて急いで帰った時、もう、両親も若くないって、考えないでいようとしたことが急に目の前に突きつけられて、『どうしたらいいんだろう』って正直わからないの」
 家族もあり、旦那さんが台湾に住む事は難しいと判断する彼女。年老いて行く両親、台湾の文化にはおいそれとはなじめない旦那さん、そして、アメリカ人として育っている子供…その狭間で彼女は揺れていました。

「ない事にする」ことは出来ないのです。
「その時」は誰にでも等しく確実にやってくるのです。


ホスピスのボランティアを通じて、この「死」というものを学ばせてもらおうと決めたのです。



とはいえ、これまたすんなり始められるものでもありませんでした。
応募したホスピスは年に2回しか新しいボランティアを開始せず、私が応募した時が、その開始時期の直後だったからです。応募はしたけれど、全く音沙汰のないまま、

「これもうまく行かないってことかなぁ?」と、忘れそうになった矢先、突然携帯電話が鳴ったのでした。

「まだホスピスのボランティアに興味ありますか?」と。

私は即座に
「Yes」と答えていました。