病院におけるレイキのボランティアは想像以上に難しいものでした。

そもそも平日の日中はフルタイムで仕事をしており、病院の希望する時間帯と私が出来る時間帯の違いが大きすぎたのです。そして、考えてみれば当然といえば当然ですが、代替医療としてのレイキ経験を質問されました。

一般的に「沈痛効果」というのは客観的に評価することが出来ません。医療の現場では、
「全く痛くないときが0で、もうこの世の物とは思えない位痛いって言うのを10とすると、今の痛みはどれ位?」という質問をする位しか、「どれだけ痛いか」といったことはアセスメント出来ないのです。

もしかして同じ痛みでも、ある人にとっては2だし、ある人にとっては常に10かも知れません。そもそも、「同じ痛み」というものが存在するのかどうか…と言うこと自体が疑わしいのです。

病院でのレイキは「不安の除去」や「鎮痛効果」等、レイキをした事による前後の違いをカルテに明確に記載して行くそうです。とはいえ、レイキの効能って「全体でほっこりした」とか「不安がなくなって落ち着いた」「痛みが減った」とかどれも定量化できない様な物ばかりです。

時間的な制約もあり、病院でのレイキのボランティアを諦めた私は、次はHIV/AIDSの支援団体にコンタクトしました。そのNPOは利用者の希望に応じて廉価でレイキの施術を受ける事が出来るようになっています。施術者が沢山いれば、それだけ多くの利用者がレイキを利用することが出来ます。

ところが、こちらもうまくいきませんでした。ボランティアコーディネーターの人が自らHIV/AIDSのポジティブの人であり、最近がんを発症して、自らの治療によってコーディネーションが滞っていたのです。そして、時間が経つうちに、なんと他のボランティア希望者が現れ、私が面接の日程を調整している間にそちらの人に決まってしまったのでした。
「こんなにボランティアが殺到するのは前代未聞なんだけど、これ以上のボランティアは要らないので」と断りのメールが来たのです。

どれもこれもうまくいかず、「これは、そんなにあっさりレイキのボランティアをするな…という意味か、あるいは他にすべきこと・場所があるのか?」と振り返って思うことが続いたのです。



2011年のはじめ、「ほぼ日刊イトイ新聞」の「脳の気持ちになって考えてみてください」という池谷裕二さんと糸井重里さんの対談を読みました。
http://www.1101.com/ikegaya2010/2010-09-27.html

それまでも、「ある程度まで考えたら一歩踏み出す」ことの重要性は人生で経験してきましたが、この対談を読んで改めて「感情は後つけ」ということを理解しました。

そこで、2011年は「行動する年にする」と決めたのです。それに、このブログのテーマで書き始めるきっかけにもなっていますが、「次の何か」に対して動き出す時が来ている様な、なにか落ち着かない気持ちが大きくなってきているからです。

そこで二種類のアクションを起こす事にしました。二つをつなげるものは「善く生きる」です。一つは「人格を高める」という方面から、もうひとつは「人と繋がって何かをビジネスで成す」という方面からです。これは全然独立した事象ではありません。

これまでのことで、人格を高めることが人をひき付けるリーダーとしての最大にして最も難しい資質であることは判っています。この成長がなければ何かをビジネスで生み出すことは出来ないでしょう。そして、ビジネスで人と繋がって何かを成すということは、とりもなおさずそれに関わる全ての人の人格の成長を促す様に思います。

ただ、それが二つ常にセットじゃないと高められないかというとそういうことではないので、二つの方面からアクションを起こすことにきめたのです。


まずは人格を高める…という方面から、レイキを使ってボランティアをしてみようと考えました。
アメリカの大きな病院では、患者さんの希望があればレイキ等の代替医療を受けることが出来る場所が多いです。西洋医学の殿堂にあって、そういうアロマセラピーやレイキ等が併存するというのは、ちょっと奇異に感じます。特に、発祥の地である日本でレイキの「治療/治癒」という点を言及するのに多くの制約があるのとは、かなり対照的です。

アメリカの病院でこういう代替医療が盛んに行われるのは、「患者にとって良い事をする」という患者中心主義空来ています。そして、看護師さんを中心に、「ケアしてあげたい」という全人的な医療の追求がこういった代替医療の導入を加速させている様です。

私はそういう場面に自らを置くことで、何か学べるに違いないと思い、ボランティアを始めてみようと決めたのです。

しかし、それがあっさりと始められる訳ではありませんでした。


1週間程日本に出張に出かけていました。
アメリカに戻ってくる直前、大いなる魂が天に召されました。

Apple color classic II 以来、自分で買うパソコンはMacに操を立てて来た私としては、単なる実業家の訃報とは受け取ることが出来ません。


iPod, iPhone, iPad 時価総額最高の企業ともてはやされるアップルですが、この会社の歴史をひもとけば経済的には「失敗」と言われるものも沢山あり、株が紙切れ同然だった時代もそんなに昔の話ではありません。

けれど、経済的に成功したものも、失敗したものも、一環して「やりたいこと、そして、未来」を見せようとしてくれていたと思うのです。失敗したものは、やりたいことが先走り、テクノロジーがついてこなかった製品ばかりです。
私は製品の巧緻さやパッケージの美しさもさることながら、未来をみせてくれるワクワクした気持ちに魅了されていたと思います。

Think different
アップルが1997年に打った広告のキャンペーンです。

日本語版のCMは英語版で言っている重要な部分が抜けていると思うので、英語版を訳しているURLも載せておきます。
http://www.apple-style.com/thinkdifferent_mov.html


その日本語版で抜けているところ…
「批判も賞賛もされるけれど、世界は彼らを無視することは出来なかった。」
このメッセージはSteve Jobsその人の想いだろうと思いますし、実際彼を世界は無視することは出来ませんでした。

そして、彼がスタンフォード大学の卒業式でのメッセージも自分の信ずるところ、愛せるものに打込む事、それに対して真摯であれ、そして愚直であれ…というメッセージも心を打ちます。

世界に感動を伝えてくれた純粋な魂に敬意を表すと共に、その魂に触れた私たちもその輪を更に広げて行きたいと思います。

ご冥福をお祈りします。

このブログの最初の書き込みは私の人生のルールでした。


あなたは今医師と向かい合って座っています。そして医師が厳かに言うのです。
「残念ですが、あなたの人生はこの瞬間に終わりです。」

さて、あなたはその瞬間に人生を振り返ります。
「愛する人にお別れを言えないのは残念だし、まだ生きていろいろやってみたかったけど、まぁそれはいつ迄生きていてもそう思うだろうから、仕方がないと諦める。でも、それ以外を振り返ると、概ね満足だったかな。」

あなたは人生の岐路にあります。どちらを選ぶか、どちらに行ったら「人生最後の振り返り」により満足が得られるでしょう?

この内観は人生の岐路に立ったときに私が使って来た方法です。けれど、これを読んでみてどうでしょう…本当に人生最後に振り返ったときに「概ね満足」な人生というのはどういう人生を歩んで来たら満足できるのでしょうか。

人生80年から90年としたら、後半戦に入る時期です。その場その場での選択だけではなく、前半戦をふまえた後半戦を考えてもいいのじゃないかという気がしてきたのです。

仕事では「思いっきり信頼を基盤に置いたチームワークで頑張れるだけ頑張ったらどこ迄行けるんだろう?」というのを試してみたいと言う思いがカタチになって来ています。それと同時に、「善く生きる」というのはどうしたらそれがカタチになるのだろうかというのは未だにまだよく判りません。

そして、ビジネスを通じてレイキに出会ったのですから、「善く生きる」という所に、何かレイキから得られる何かが関連してくる気がするのです。

始祖の臼井先生が

招福の秘宝
万病の霊薬

と言ってまとめた戒め-五戒があります。

今日だけは怒るな 心配すな 感謝して 業にはげめ 人に親切に

言われている戒めは「至極最も」なことばかりです。けれど、これをしていれば「招福」しちゃう上に、万病に効く訳です。

でも確かに、仕事人生でうれしかった事って、怒らず、心配せずに、感謝しながら一生懸命仕事をし、部下を育てたときの恩恵を自分が得たときなんですよね。本当に招福ですし、仕事漬けの生活でしたが、それが全く苦にならなかったです。

とするならば、人生の後半戦この五戒を実行でき、更にその価値を多くの人に伝えることが、人生かけてやる物としては価値があるのじゃないかと思ったりもするのです。

これは、もちろんレイキを広めて行きたい…という直接な事を言っているのではなく、普段の生活の中でこの五戒を実践・広められる様な活動をして行きたいという広義の意味です。

でも、それを実践する生き方というのを考えだすとよくわからなくなってくるのです。

大変ではあったけれど、学ぶ事も多い2年と数ヶ月を過ごし、日本から戻って来た私は新たな学びのステージに入っていきました。

信頼に基づいて、それぞれの人が輝ける環境を作る、自分が信頼しなければ他の人も自分を信頼してくれない…

そういう学びをして来た訳ですから、それを実践したのです。

けれど、直ぐにアメリカの組織に属している人が極度に「job security」を気にする事に気がつきました。
「何故そんなに仕事をするだけなのにびくびくしなければならないのだろう?」

結果的に言うと、その肌で「ピン」ときたネガティブな波動…それを感じ取った自分の直感を尊重すれば良かったと思います。それ迄の「人を信頼することが基本」という原理にこだわって、そのネガティブな波動を無視したことから、実に面倒なことが起きたのです。

前にも書きましたが、競合の綿密な数年をかけた作戦が発動し始めたところにたまたま責任者のポジションに居合わせてしまったのです。この居合わせること自体は良くあることで、単に「運が悪かった」という類いの物だと思うのですが、全く私にその数年前からの競合の活動はコントロール仕様がないにも関わらず、全ての責任を負わせ、後ろから部下をマシンガンで打ちまくるという上司に巡り会ってしまったのです。
結局巡り巡って他のポジションに上司としては、悪い事を全部押し付けて「追い出した」つもりだと思います。

ただ、結果的に言うとその経験があったから開き直れたと言えます。


今居る組織で上に上がって行こうとおもったら、実際のビジネスの結果と全く関係ないところでエネルギーを使う方が効率が良いのです。たとえば、すごくきれいなプレゼンテーションを作るとか、ちょっと何か良い事をしたら、「すご~い」とか「大成功!」とかそういう宣伝メールを上司に投げまくるとか…そういうことの方が、実際にビジネスの売り上げを伸ばして行くための行動をするより「見栄え」が良いのです。(まぁ、それだけ現在いる組織が「ビジネス」の現実から浮世離れしているって言うことでもあるんですけどね)

では、そのルールを知った上で、自分のビジネス上の時間配分をそういう「上へのアピール」に使うのか、「本当のビジネスに結びつく事」をするのか…というのは、もうそこ迄来ると、自分の「生きる道」の選択になってきます。信頼も全くない上辺だけ着飾って問題は見ない振り、誰かに押し付けて後ろから撃ちまくる組織で上に上がって行くための努力をする…やっぱりこれは私の流儀にあわないのです。

なので、上におべっかを使う同僚を横目で見ながらも、「自分のやりたい事をやる」それで認められればいいし、認められなくても自己満足できるからいいや…と開き直ることが出来たのです。

それと同時に、日本で育んだ信頼を土壌としたチーム作りの経験がだんだんと私の心の中に大きく占める様になっていきているのです。

この信頼をベースにした組織になるか、恐怖とおべっかで塗固めた組織になるか…これこそが上に立つ人「次第」なんですよね。

だから、信頼をベースにした組織でどこまで行けるのか…私の流儀を通して、どこまでたどり着けるのか…それを可能にさせてくれる活躍の舞台はないか…そう考える様になったのです。





もうひとり、印象深い人の話をしようと思います。

彼は自分の仕事にすごく誇りを持っている人でした。
やり方に彼なりの個性はありましたが、お客さんから愛されていました。自分のやり方は間違っていない…という確固とした自信を持っていた彼でしたが、上司たちからはさっぱり認められていませんでした。
彼からしたら、上司の言うことは「小手先だけのこと」に見えて、全く尊敬できないのです。
はっきり言えば「流儀が違った」のです。

最初に私の考えを言うならば、どちらの流儀についても「絶対の正解」はないと思います。ただ、それぞれの人の「信条」は、上司だから・部下だからという程度のことで簡単には曲げられないと思います。そこがあわなければあうところを探せば良いと思っています。

さて、その彼は部会になる毎に暴れていました。
全く尊敬できず、それを言い負かせるあるいは言いくるめるだけの戦術を持ち合わせていなかったので、暴れる位しか表現方法がなかった訳です。そういう子供っぽい表現方法では溝が深まるばかりです。たとえ上司が結果を見て「こいつやるな」と思ったとしても、認めたいと思う訳がないのでした。

「○○また暴れたんだってさぁ」
といううわさ話が全国を駆け回る様な問題児だった訳です。

私が赴任して間もなく、その問題児の彼が私に面会を求めてきました。彼の仕事の結果を持って、想いの丈を切々と、時に怒りを交え、言いたい放題ぶちまけて来たのです。時間にしたら3時間。夜の会議室に二人で缶詰になっての3時間でした。

私はその3時間のほとんどを聞く事に費やしました。そして、その話を聞きながらいろいろな事を考えていました。
何が彼をこんなに怒りに駆り立てるのか、彼が気持ちよく仕事が出来る様になるにはどうしたら良いのか、こじれている人間関係は何か?


究極の原因は簡単でした。

「認めてもらいたい」

それだけだったのです。

「褒めたら増長するだけだ」という意見もあろうかと思います。「伸びる努力をしなくなる」とも。
けれど、自分が涙ぐましい「認めてもらいたい」という努力と葛藤で過ごして来た経験がありますから、彼の状況をまず落ち着かせるためには、その貢献を掛け値なしに認めてあげることから始めないといけないと思いました。そして、それが理由で増長したら、そこはびしっと押さえると。

彼は結局仕事を認めてもらい、私の勧めもあって、セールス・マーケティングの世界的な賞に応募することにしました。その貢献は日本の支社レベルでの大賞をもらったのみならず、アジアパシフィックレベルまで認めてもらい、表彰状と賞金をもらいました。そして、事業部の社員の投票によるセールスコンテストで最優秀に輝き、アメリカの本社へ出張する機会も得たのです。昇進のネックになっていた、英語の勉強を再開し、条件をクリアして無事昇進することも出来ました。

今、彼と当時を振り返ると笑い話です。けれど、認めてもらいたくて頑張っていて、その表現がうまく行かないために悪循環に陥っていたという青年の反抗期から無事に他の人達を引っ張って行ける見本となるような人に成長していきました。

その経路はもちろん平坦ではなくて、時折増長しそうになって諌めることもありました。けれど、それは最初荒れ狂っていたことを考えたら、さざ波程度の軌道修正だったと思います。

人間は、程度の差こそあれ、他者との関係がないとうまく生きていけないのだと思います。
良いところをどんどん伸ばして行く、それを正直に認めてあげる…やっぱりそれはリーダーの考え方として根本的に大事なことだと思います。



日本にいる間ずいぶんと幸せな思いをしました。

それは、、最初はエネルギー切れでヘトヘトになりそうなことでしたが、今迄出来なかった部下ががんばって次のステップに進める様になった様子とか、「私なんか」とひねくれていた部下が実は辣腕のやり手という本性を現してがつがつ仕事をしてくれる様になったとか、そういうところを見るのが、何よりも私にとって、仕事のやり甲斐であり、報酬でありました。

(報酬と言う言葉を書いたので、少し報酬の話をしますと、日本に居る間ずっとドル建てで給料をもらっていたので、その間どんどんドルが安くなって行った結果、本当に報酬が日本円で使うときはスゴイ勢いで目減りしていました)

その中でも、本当に一人の人物とは糸をたぐり寄せた様な出会いがありました。
その人とは入社がいっしょなので、もうかれこれ20年は知っている相手です。
入社当時同じアパートに住んでいましたから、若かりし頃から今に至るまでの道のりで所々状況を報告し合ったりする程度の仲だったのです。一緒に遊びに行った事もありませんでした。

けれど、彼が日本、私がアメリカで暮らす様になり、彼がアメリカに来る用事があれば、声をかけてくれて一緒に晩ご飯に出かけたりするようになっていったのです。私の目から見たら、遅刻常習犯のやんちゃな若者だった彼が、いろんな経験を経ていい感じに年を取って行くのがわかりました。彼からしたら、後に言われた事ですが、彼が仕事の上での問題と認識していることについて、私はとっくにその問題に直面しさっさと行動してその問題を飛び越えていたそうです。そして彼はいつの日か「一緒に働いてみたいな」と思う様になったと言ってくれました。

日本へ戻って来て1年が過ぎた頃、ちょうど彼と一緒に晩ご飯に出かける機会がありました。彼の置かれている状況と私の状況を報告しあい、そのときです、彼が「一緒に働いてみたいね」とぽろっと言ったのでした。

私もそのときに一緒に働いてみたいと思いました。けれど、私はいつかはアメリカに戻る身の上ですし、「絶対楽しいから来てよ」と言う様な事はさすがに無責任ですから言えません。けれど、人を増やせる様になったときに、「一緒に働いてみないか?」という声をかけたのでした。

そこからはドラマでした。

当社には自分で手を挙げて移籍するシステムがあります。それに彼は手を挙げてくれた訳ですが、その時点で属しているグループのトップからかわいがられていた彼は強烈な引き止め工作にあったのです。普通だったらそこで完全に引き止められたと思います。プロモーションも用意されました。更には彼が異動しない様にと社長をも巻き込んだ騒動になってしまったのです。

そもそも私はそれだけの騒動を起こしてまで「絶対来て」なんて、そもそもいつまでもいる訳でもないので言えません。それこそ彼の将来を考えたら無責任きわまりないです。だから、彼には

「絶対来てなんて責任とれないから言えない。でも一緒に働きたい」
というのが精一杯でした。

そんな騒動が続き、翌日彼がそのグループのトップと1対1で話す…という前夜、私たちは居酒屋に座っていました。

しばらく重たい空気が続いた後、彼が言ったのです。
「俺、動いた後責任とってくれなんて思ってない。でも、来てほしいって言葉は聞きたいんだよ。」

私が彼の将来を思って言えなかった言葉…それを彼は本当は一番私から聞きたかったのです。

「一緒に働きたい。来てくれる?」
私がそういうと、彼は「うん」と言って、翌日強烈な引き止め工作をすっぱりと断って移籍してきたのでした。


私はそのときに心から誓いました。

何があろうが何が起ころうが、彼が私を仮に裏切る様なことがあっても、私は彼を一生裏切らない。信じる…と。



よい事がいろいろ起こるレイキですが、それ自体は良い事なのですが困った事もおきることがわかりました。

今迄はちょっと「悲しいな」と思っても別に涙もでなかったんですが、「悲しい…涙を我慢する…」というプロセスを飛ばしていきなり泣けてくる…ということが起こる様になったのです。これはコントロールが効かないので、自分でもびっくりしますし参ります。

例えば、沖縄に遊びに行って「ひめゆり平和記念資料館」に行ったときのことでした。向かいの駐車場に車を停めて資料館に向かいます。記念碑が防空壕の前に立っていますが、それを見た瞬間に泣けて来て…

これにはびっくりしました。

これ位「突然」な事はそれほど頻繁にはありませんが、いきなりこみ上げてくるという場面は格段に増えました。これは何が原因なんでしょうねぇ…。不思議です
レイキの1回目のアチューンメントを受けてからとりあえず21日間は発霊法を行い(これは呼吸と瞑想の様なもの)自分に手を当てて、自己浄化することが勧められています。

私は電車で立っているときとかにそれとなく手を当てたりしていましたが、時間をみっちりかけて発霊法を行ったりはしませんでした。それでもアチューンメント以来、手がいつも何となく温かく、冷たく感じる事がほとんどなくなったのには気がつきました。

そして他の誰も気がつかなかったと思いますが、私自身自覚できる変化が訪れてきたのです。この変化が訪れたタイミングとレイキのタイミングはある程度シンクロしているので、レイキさんが手助けをしてくれたのだろう…と、その頃のことを今振り返ると、そう感じます。

変化…それは謙虚な心と感謝の心でした。

部下にはとことん考えさせ、良いところをいかに伸ばすかということを考えてすごして来たのは前に書いた通りなのですが、その部下達が伸びて行っているのをみるにつけ、ふつふつと感謝の気持ちがわき起こってくるのです。もちろんもの凄い時間と集中力を使って部下達に向き合い、彼らに最良の方法やアングルはなにか…考えてきました。持ち出しているのは私の方…と最初は考えたりしていたのです。そして、実際1週間が終わる頃にはエネルギーが枯渇しそうになったり、朝自分を奮い立たせるためにアップビートの音楽を聴いたり…ということが最初の頃は多かったと思うのです。

けれど、いろんな人達がやる気になってくれてがっつりと握手をしてくれる、奮い立ってくれる、それまで出来なかったことが出来ている…そういうことを経験するにつれて、「私はこんなに恵まれている」と、本当に心から思えることが増えて行ったのです。

人材不足でへなへなの組織だったはずが、多少の補強はしたにせよ、すばらしい仲間達…と心から誇れるようになっていました。

余りにそれが自然体だったので、あるとき同僚から

「もの凄い時間かけて、スゴイ頑張ってて、仕事の報酬としたら割に合わない位仕事してるのに、全然『大変だ』とか言わないし、俺たちの事そんなに誇らしげに話してて…おまえってさぁ…なんなの(笑_」

と、言われた程でした。

そうなのです、2年ちょっと前は不満たらたらの組織で「どうしますかねぇ?」と思ったほとんど同じ人達が、2年経った後には非常に誇らしい組織に変わっていたのです。

それは私が変わった…ってだけでなく、本当に組織は変わっていたのだと思います。
今は更に、大変だったけれどこの2年間という時間を共有してくれた同僚に、友に、本当に謙虚に感謝の気持ちを禁じ得ません。




シンクロニシティということが起こることを得心した私がレイキというものに気づくのはそんなに時間の掛かることではありませんでした。

夢を紡いでそれを信じて行動すれば、「折しも」の偶然がいろいろ重なって、大きな車輪をぐるっと回すことが出来る…

とするならば、夢を紡で信じて行動する…この部分こそが人を動かして行くための、自分が研鑽すべき部分です。ぶれない自分になる、それが課題でした。

ぶれない自分になる
善く生きる

そういうキーワードでインターネットを彷徨えば瞑想やレイキにたどり着くのはそれほど難しいことではありません。

レイキというのは、世の中に満ちているエネルギーのことで、大正時代に臼井甕男氏が体系づけたエネルギー療法の事を指すのがほとんどです。

私が行き当たった「NPO法人日本レイキ協会」のサイトに基本がよくまとまっています。
http://www.japan-reiki.com/1_kihon.html

そして、私の興味を引いたのは身体の不都合に対処するレイキ療法ではなくて、レイキ法のほうでした。
言われてみれば、身体の不都合がない人が周りに沢山いますが、一緒にいて気持ちの良い人、ぶれない人というのはそれほど沢山に出会うことはありません。

気力が充実していてキラキラ輝いている人といつも下を向いていて不満ばかり言っている人の二人が居るとして、どっちを上司に持ちたいかと言えば、ほぼ全員が「キラキラ輝いている人」と答えると思います。この「キラキラ輝く」ためのサポートツールとして、レイキは役に立つかもしれない…。そう考えたのです。

けれど、直ぐにアチューンメントに出かけたかと言えば、実際は4ヶ月位の時間がかかってしまいました。アチューンメントの日程と私のスケジュールが合わなかったのです。
それに加えて、理系の論理派の私がこういう「説明できないもの」に出かけるのはやはりためらいがありました。

「まぁ、体験と思っていくさ」
と、心を決めて出かけて行ったのが2009年の夏のことでした。

アチューンメントは全部で3回ありますが、2回目を一ヶ月後に、そして3回目をそこから3ヶ月後に受けました。私の興味はレイキ法「キラキラ輝くぶれない人間になる」ことでしたから、そこにフォーカスする3度目のアチューンメントまで行くと決めたのです。