本日事業部のトップに今年一年の総括と来年のプランについてのレビューがありました。

去年の末に買収したビジネスの世界展開という担当なので、今年のミッションは「成長を下げずに買収先のビジネスを自社ビジネスとして展開する準備をすると同時に、自社ビジネスとしての成長戦略を策定する」というものだったのですが(こういう風に日本語で書くとすごい偉そうだ^^;)、売り上げも利益も目標を大幅に超えて達成し、来年1月からは世界中のほとんどで自社ビジネスとして展開するめどもつき、成長戦略も策定して、その戦略にそった拡販プログラムも作りました。

はっきり言ってもうこれ以上の結果は出せません…って言う位、自画自賛ですがうまく物事が運んだ一年でした。

レビューは当初予定されていなかったのですが、直属の上司が「折角だからレビューしよう」と言いだして、急遽予定されたものでした。ここで何度も書いていますが、ビジネスにとって良いことをする…と決めて、上司への売り込みに余り…というかほとんど…注力していなかったので、「世界中は知ってるけど本丸のお上には余り知られていない成果」だったのです。

さて、ここで考えました。

ここまで結果を出せたのはもちろん私一人の成果ではありません。直接一緒に仕事をした沢山の人がいます。おそらく彼らの貢献も私が表に出さなければ、本丸のお上には余り知られないことになってしまう…と思ったのです。

そこで、私はみんなから急遽写真を集めることにしました。
「ディビジョンのバイスにレビューがあるんだけど写真欲しいんだよね~。頂戴!」とメールを出しまくり、写真を集めて「コアのチームメンバー」と「非常に重要な貢献者」ということでプレゼンテーションの最初に置いたのです。

アメリカのプレゼンテーションは「最初が勝負」です。最初のスライド数枚で残りの内容を言いきってしまい、後は深堀するというのがスタイルです。日本のプレゼンテーションの様に最後迄結果を話さない時系列のプレゼンテーションではエグゼクティブの忍耐力が切れてしまいます。ですから、最初に写真を持って来たというのは、私の「みんながんばったんだよ!」というのを覚えておいてもらいたい…という工夫でした。

その直後に売り上げと利益の結果…そして、1ページのエグゼクティブサマリー。これらが私の勝負スライドでした。残りはエグゼクティブの興味をひき付け、質問に答えながら進んで行き45分のミーティングが終わりました。
本当にこの一年間一緒にやってきた買収先の担当者と二人で説明をし、非常によいミーティングを持つことができました。
まぁ結果が余りに美しいので、怒られようがないんですけどね…。

その後私は写真を集めたみんなにプレゼンテーションのコピーを送付し「ありがとう!来年も頼むよ!!!」という感謝の言葉を添えたのでした。
そのプレゼンテーションに対して、「ありがとう」と言ってきてくれる人が何人かいました。言ってこなくても皆にっこりとしてくれたはずです。年末の業績考課のシーズンまっただ中に「スゴイ結果だよ~ありがとう~~」というメールやその活動のサマリーが一番上のエグゼクティブに写真付きで報告されたとしたらうれしくないはずはありません。

私にとってうれしかったことは…

年初は「どうせ非難されるんだろうから好き勝手やるさ」と吹っ切れない部分を引きずりながら始めたビジネスで、完全にそんなことどうでも良くなった…ということ
大勢の人が一生懸命頑張ってくれて、スゴイ結果を出せたこと。やっぱり良いチームワークは人数の足し算よりもっと大きな結果を生みます。
そして何人からはプレゼンテーションをありがとうという言葉の他に「Thank you for your leadership.」とメールして来てくれたことでした。あんまり大きく前に出しゃばってぐいぐいパフォーマンスしないタイプなのですが、仲間から認めてもらえるというのはやっぱり最高の賛辞だと思います。

ということで、来週から2週間休暇に入るのですが、その前に今年の〆として非常にうれしく感謝することが出来ました。


ちょっと付け足し。
Lさんに前日に「レビューあるからうまく行くって思ってて」とお願いしていたのです。メールの返事に「絶対うまくいく」と断言するメールをくれました。そして、日本の朝

「うまく行った?」

というメールがLさんから来て、思っていてくれたことにまた改めて感謝したのでした。


ここでまたちょいと話題を変えます。
ホスピスのボランティアを始めることになった…という後日談です。

なかなかうまく行かないんですよねぇ。どうしてだろう? 

トレーニングは2日間でした。一日目が終わったところでかなり体調が悪く、「こりゃ厳しいなぁ」と思いつつ早く治そうと床についたのですがそこから悪化の一途をたどり結局2日目は欠席せざるを得ませんでした。
「次のトレーニングは?」と質問したところ、「1月の14日」ということでしたので、次の機会にトレーニングを完了させる予定です。

ということで、まだトレーニングは完了していないのですが、ゆくゆくは日本でレイキを絡めた「善く生きる(良い死を迎える)」ということに関連したNPOをやりたいな…と思っている私は随分と考えさせられることがありました。

医療との向き合い方が日本とアメリカでは全然違うのです。まず、日本では医療に関しては非常に社会主義的な意識が働いています。貧富の差に関係なく同じ医療を受けられてしかるべきだ…というものです。ですから、保険がカバーする医療とカバーしない自由診療をあわせて受けること(混合診療)は出来ません。アメリカでは何かの治療を受ける際、まず最初に聞かれることは
「こういう治療をする予定です。保険がカバーするか確認してください」
ということです。国民皆保険でないアメリカならではの質問です。保険会社に問い合わせてその治療がカバーされるかどうか確認する必要があるのです。もちろん保険でカバーされないとしてもその医療を受けたい場合は自費で払うことも出来ます。そして、更に複雑な治療でいくつか可能性がある場合、「どの治療をしてほしい」のか患者が決めないといけないのです。もちろん患者さんは治療に関する知識はそれほど持ち合わせていません。ですから、ソーシャルワーカーやケースマネージャーという人が患者さんの相談にのり、必要な情報を調べる手助けをしたりある程度の助言をしたりします。

けれど、そういう人達は「助言」をする迄で「決断」をするのは患者さん自身なのです。

日本の場合患者さんは「お医者さんが一番いいと思うことでいいです」ということを言う人がほとんどで、ある意味「扱いやすい患者」とも考えられますが、「自分で考えて選んで決めた」という主体がないため後々医師も困ることになります。

医者が最善と思う治療で治る場合はいいのです。しかし、それがもう終末に通じる状態だったら…医師の判断でも決められないことが沢山出て来てしまいます。

ホスピスのボランティアトレーニングの一日目で 患者さんがpaliative care (緩和治療)へ移行する際にどういう終末を迎えたいのか細かく聞いておくべきだ…というのです。

誰でもいつかは肉体の死を迎えます。そこに移行して行くパターンやケアも千差万別です。出来るだけ情報を提供して、まだ判断がつく間に決断を迎えてほしい…そういうことでした。これは如何にもアメリカっぽいなぁと思うのです。けれど、ここで「日本でもやっぱりそうしないとダメなんだろうな」と思うコメントがあったのです。

「医師や看護師、病院に働く人達は治すために精一杯働いているのです。だから、患者さんがどんなに治療が苦しいものだとしても、『生き残る可能性がある』治療が存在する限りそれをしてしまうんです。結局死ぬことになっていて、それがやってくるのが半年後なのか2年後なのか期間はその治療をしたことで変わるかも知れません。どんなに苦しい治療でも少しでも長く生きていたいという意志が患者にあるのなら、そういう辛い治療を続けていけばいいのです。けれど、もしもそんなに辛くても結局最後は死ぬんですよ…という事実を認識できたとして、『苦しみたくない。安らかに最期を迎えたい』という意思表示を予めしておいてくれたら、病院でサポートしている人達も良心の呵責を感じずに、緩和ケアそして終末ケアに患者さんを送り出してあげることが出来るんです。」

これを聞いた時、もしも『苦しみたくない』という意思表示をしておかないと、辛いけど長生きできる治療が施され、それでも、もう力つきるまで生かされ続けて、苦しんで苦しみ抜いて死ぬ…っていうシナリオもあるのかぁ…。

と思ったのです。

前記の「お医者さんが一番良いと思った治療をしてください」というのは、「力つきる迄苦しいかもしれない治療」かも知れないということなんですよね。誰も「死ぬってどういう感じ」というのはリピートできませんから、「次はこうしてください」と言えないところが難しいですね。そしてもちろん、緩和ケアへの意思表示をした方がいいと頭でわかったとしても、「そんなに辛い治療でも結局死ぬんです」ということを自分が言われたらどういう風に感じるのか…というのは、これまた多分人生でそう何度もある経験ではないですから(これは複数回経験する人もいますが)判らないですよね。

でも、いずれにせよ日本の医療費は着実に増大していて、患者さんが増えているので一人当たりの治療費を割安にしていっても保険を圧迫し続けます。そして、終末期の医療費が最も高額だという事実から考えると、政府もそのうち

「患者の決めること」

ということを言い出す様な気がします。既に、「病院で迎える死」ではなく、「自宅・コミュニティで迎える死」というシナリオは随分前から白書に出ています。これはとりもなおさず緩和ケア・終末医療の増大を意味するからです。

どうか「お医者さんの一番良いと思った治療」と思っている患者さんが「病院を追い出された」と思いつつ、家族に負担をかけて亡くなって行くというシナリオは回避してもらいたいものです。だから、もっと「痛みのない安らかな最期を迎えるためのオプション」という教育と、それを自ら学び選び取るという患者が主体性を持てる様な医療になって行ってもらいたいなと思います。


アメリカに居ると年の瀬というよりは「ホリデーシーズン」という感じの方が強く、周りの人達は「クリスマスプレゼント」だの「料理」だのと心慌ただしく忙しく過ごすシーズンとなります。

私は日本に2週間程遊びに行く予定で、年末は日本にいると高いのでクリスマスが終わったらアメリカに戻ってくるスケジュールにしています。ですので、これと言ってクリスマスの支度というのはしません。

例年収穫感謝祭の4連休は

クリスマスカード書き
普段「やらなきゃ」と思ってなかなかやれないこと

に費やすことにしています。今年は、
クリスマスカード書き
ジャケットのボタン付け
掃除

が4日間の「やるぞ!」なことでした。
ただ、掃除は大体の場合一日やってもやりきれずそのまま何となく年を迎える訳ですが、今年はなんだか掃除がしたいんですよね。部屋の中に積まれた本とかいろいろが気になって仕方がないのです。気になる時には行動を起こすべきです。なので、これから部屋掃除します。

それと、ミシンを買ったのでズボンの裾上げをやりたいと思います。

なんだかすご~く普段の書き込みと趣が違うブログですが、キレイにすることは邪気も寄せ付けにくくなりますし、掃除の神様が降臨したのだと思ってアクション起こします。
ちょっと久しぶりにLさんの話に戻ろうと思います。
Lさんは上司からのいじめにあっても自分の道を曲げず、まっすぐに進むとても強い人です。私は仕事で係わり合う様になり、彼と一緒にビジネスの成功と同時に彼を守ると心に決めたのでした。
(Lさん関連の最新ブログ記事はこちら

1.周りの力ある人を出来るだけ巻きこむ
2.「あなたは悪くない」と、言葉の暴力を打ち消す様にLさんの魅力を最大限認めてあげる様に言葉にする

それを続けました。プロフェッショナルにビジネスプランを造り、本来の仕事である解析や理論武装の手伝いももちろん余りLさんの上司から目立たない様にして助けたのでした。

そして、アメリカにLさんの前任者がやって来た時に「抹殺してやろうか」という怒りに震えていたのですが、抹殺するエネルギーも惜しいと考えるようになりました。ただ、その前任者には「日本が密室状態になっているなんてことはあり得ない。ずっとあなた達が何をしているのか見ているからね」と、これ以上Lさんの上司とぐるになってLさんをいじめるのを牽制しました。

Lさんの上司もそのまた上の人も結局、アメリカ本社が一枚岩になって「こうビジネスを展開するべきだ」と押してきているという状況の中、見せられた数字がどう考えたって普通のビジネスリーダーだったら、「やらない」といえない魅力的な数字をみせられました。万が一失敗したとしても「本社がやれって言ったんだから」と逃げられそうな展開にもなりました。いざとなればLさんを切って捨てれば「責任の処遇はしました」といい訳が出来ます。

そして、いよいよ私が日本に出向き、Lさんの上司に「うん、やりましょう」と言わせたのでした。そして、更に買収元の会社の社長も日本に連れて来て交渉を開始したのでした。


結果から言うと、Lさんと私の作ったプランで完勝しました。


最初は、「そんなバカらしいこと良く提案できるね?絶対サポートなんかしてあげません」と、Lさんに言い放ったLさんの上司もそんなことを言ったことは全く忘れた様に(本当に忘れているのかも知れません)手のひらを返して、「サポートしている」と言っています。しかし、実際に投資を勝ち取るとかそういう本来するべき仕事に自ら乗り出すことはなく、重要な社内の交渉は全て本社主導の交渉で勝ち取ったのでした。口先だけ「サポートしている」と言っているだけで魂は入っていない状態でした。まぁ積極的に邪魔をしなかっただけ幸いとすべきでしょう。Lさんの前任者はLさんの失敗を心から願い、会議の場面でもLさんに否定的な意見を言ったそうです。

「同じ会社の人なんだからビジネスが失敗するように願うなんて考えられないんですけど」とがっかりしているLさんに
「気にするな。正義は我々についている」と励ましたこともありました。

このブログではここまで登場してもらっていないのですが、APACのテリロリーを担当している同僚のMさんと私とは密に連携をとり、陰に日向にLさんをサポートし、このプランを押し進めました。Mさんが私にショートメールを送って来て

「この『完勝』っていう宣言はLさんにさせてあげようか」と言いました。
もちろんわたしも異存はありません。Lさんがどんなにののしられようと「これが正しい」と信じて強風嵐の中でも立っていてくれなかったら、どんなに本社が一枚岩で押してもなかなか現実に実行は出来ないのです。

Lさんがいてくれたから、そして私に「やりきらなかったら軽蔑しますよ」といってそれだけの覚悟を持って立ち上がってくれたから、私も考えられる全ての知恵知力を使ってビジネスを押し進めることが出来たのでした。

「もう軽蔑されないね」
私はLさんにメールを送りました。Lさんは
「今度は私が国内で残りの分をやりきらなければ軽蔑されちゃいますね」と返信してきました。


いいえ、私はそんなことで軽蔑しませんよ。
本当にLさんが大変だけど楽しく仕事をしてくれることが一番大切なんです。Lさんが楽しく仕事をするようになれば、その時結果は「出ている」はずだからです。

「私はLさん、あなたが幸せに仕事できること、それが一番大事なんです。それが出来たら結果はついてきていますよ」

私はそう、返信しました。


「今度あう時はお祝いしましょうね」






おはようございます。 家のインターネットが故障してしばらく使えませんでした。

前にも書いたことがあるのですが、私の朝がヨーロッパの午後で、アジアの夜です。
アジアのどこかで私のことを思い出してくれてみんなで写っている写メールとか、居酒屋からの電話とかがやってくることがあります。

もちろん朝から居酒屋のざわめきって言うのは爽やかじゃないんですが(笑)、すご~く温かい気持ちになります。距離が離れていても覚えていてくれる、そしてみんなの楽しい時間を分けてくれようとする…そんなことがとてもうれしいのです。

今朝はシンガポールから写メールがやってきました。

インターネットや携帯電話・メールがなければこうして地球の裏側で起きていることを「同時」に感じることは難しいですね。テクノロジーの進歩と、そして私のことを覚えていてくれるみんなに感謝します。

いい気分で仕事にいけます。ありがとう。
「非公式な戦略的お助け組織」を組織することになり、Wさんと他に二人を加えて戦略会議を持ちました。 (戦略会議とか名前つけると格好いいけど、実際はおしゃべりしただけです。これもまた「名前」の威力ですね)

実を言うと、このブログをずっと読んでくださった方はもう気がついていらっしゃると思いますが、一肌脱ぐと決める前、日本にいた時から「世界と繋がる」戦略を考えていました。それは私がしていたビジネスが既に「日本そんなに伸びないし、なにしたいんだか訳わかんないからもう利益だしてくれてるならそれでいいよ」という状態にしばらく放置されていた…ということに他なりません。

そもそも私が日本に送り返されることになったのが、その「利益だしておいてくれるならそれでいいよ」の「利益」ががた落ちになって来て見過ごせなくなったからです。私は「自分がいる間だけつぎはぎで結果を出して、帰るなりがた落ち」ということだけはしたくなかったので、「帰ってからも伸びていくビジョンや根本的な戦略はなんだろう?」と考え、タイミング的にやりきることは出来ませんでしたが、Kさんに残りを託してアメリカに戻ったのです。それは前のブログにもある通りです。

だから、自分た担当していたビジネス以外でも基本的には「世界と繋がる」ビジョンで戦略的に動けばいいはずです。そして、日本を「かつてのアイドル」から復活させるためには投資が必要です。本社から見て「投資させたい」と思わせるだけの「何か」を作って行く必要があります。

とはいえ、我々は「非公式な組織」ですから、資金もありませんし、これから社内で資金も調達しないといけません。内容はお金をかけないで、でも、「じゃぁもっとお金をかけて調べてみようか」といった興味を引くものを作るというのが当座のゴールです。

そして何より社内のスポンサー選びが何より一番「政治的」で、大事なところです。スポンサーは日本と本社に一人づつ選ぶことにしました。日本は副社長で決まり、頭をひねるのは本社側のスポンサーです。その人に「もっとこの方向でやってみたらどうだろうか?」と思ってもらうことがこのプロジェクトの勝敗を分つ決めてです。そして、スポンサーが「如何にも飛びつきそう」な加工をプロジェクトに加えて行く味付けも重要です。

とりあえず、「市場動向」「技術展望」「人材開発」の3本立てでプロジェクトをスタートすることに決めました。これらはお互いにリンクしています。

市場動向を理解することによって、どんなビジネスパートナーに将来性があるかが絞り込めます。その市場動向とビジネスパートナーが絞り込めれば、新たな技術開発や技術移転も絞り込みやすくなります。そして、日本だけでこじんまりするのではなくて、世界と繋がるイメージですから、世界に羽ばたける人材育成のための提言と実行も必要です。

こうして、3つのプロジェクトを立ち上げ、日米両方にサブチームを作ってプロジェクトを進めて行こうと決めました。



ここからは上記の内容と関係ないですが…大阪の選挙は、昔からの利権ややり方を守ろうとした勢力が改革を叫ぶ勢力に敗北したという構図に見えます。改革は痛みを伴いますし、大阪府民・市民も後になってから「こんなはずじゃなかった」と思うこともいくつか出てくると思うのです。けれど、閉塞感を打破して一歩踏み出せば新たな地平線が見えてきます。先頭に立って引っ張る人が権力に溺れることなく大阪を愛し続けていければ改革の着地点がどこであれ、今まで通りを守り続けるより選挙民は満足するのではないでしょうか。


「非公式のお助け組織」を造り、ゆる~くサポートを始めた我々ですが、会社である講演会があり、そのスピーカーとお昼ご飯をご一緒することになりました。

そのスピーカーというのは、MITのJapan Programのパットさんでした。
私の勤めている会社はMITのJapan Programとはかなりつきあいが長いのです。私がまだ日本で技術者をしていたころ、MITの学生が夏休みのインターンとしてやってきたことがありました。だから20年弱MITとはそういうプログラムで会社が付き合いをしていることになります。

パットさんは今回に限らず度々会社に来ていていろいろな講演をしていました。その度に講演のお知らせはもらっていたのですが、「日本のこと聞いてもなぁ?」と思い、スルーしていた訳です。けれど、今回はランチが入っています。話を聞かずにランチだけ食べる訳にはいかない…と、パットさんの講演会に出かけたのでした。

そもそも何故「ランチ」が設定されたか…というと、ゆる~くても「お助け組織」を作って、その組織に「名前をつけてあった」ため、パットさんが「話を聞きたい」ということになったからなのです。時々部下やメンティーにも言うのですが、「名前」は大事です。中身がなくても(このお助け組織中身はほとんどありません)名前さえついていれば、「何らかのもの」は存在することになるからです。

さて、このパットさん日本で大人になるまで過ごしていた筋金入りの日本育ちのいわゆる帰国子女でありました。日本への愛情は半端なく、けれど、「日本人村」として日本人がアメリカにいてもこじんまりしてしまうのは許せないというかなり熱い人でした。

日本から3ヶ月で送られて来た人達の意見や、我々の緩い組織の話を聞いて、不甲斐なさが爆発したのでした。

「アメリカにいるあなた達だって出来ることは沢山あるじゃない!?」

確かに、日本からやってくる人達の上司が目標をしっかりとコミュニケーションせずに、来た人が自力で自分が「何故やってきたのか」説明しないといけなかったりして、「武者修行にも程がある」状態だというのもばれてしまいましたし、我々の名ばかりの組織もこれといって、「何をしてあげたい」のか目標もなく、何となく存在している…というのもばれてしまったのです。

「3ヶ月だと、準備をしておいてあげないと何も得るものがないうちに終わってしまう。」と、パットさんは言うのです。全くその通りだと思います。そしてこれをひっくり返せば、「ちゃんと準備をしておいてあげれば3ヶ月でも非常に有意義な出張になる」ということです。

更にパットさんは言いました。
「アメリカに来た後、ブラジルとかに行ったっていいじゃない!」
おっしゃる通りなのです。アメリカにだけきて、アメリカと日本だけの関係で物事を進めるのはもう「時代遅れ」なのでした。

叱咤激励されたランチを終えて、その日の夕方私は一つ心を決めました。

「政治的に動くのは得意じゃないからやらないけど、戦略的には動ける。別に日本に頼まれてないけど、勝手に一肌脱ぎますか…」

Wさんが「え~、そんなにやるんですか?」と言って尻込みするかもしれない…という可能性は考えては見ましたが、「例えWさんがやらないって言ってもやってやろう」と私は決めました。

そして、日本の副社長に「勝手に一肌脱ぎます」というメールをし、それをWさんに転送して、「やることに決めたから」とメールで一方的に宣言しました。

するとWさんからは
「いつも、相談もなしに、でも僕の気持ちを代弁してくれてありがとうございます」
という、メールの文面からにやりと笑っているWさんの顔が見える様な返事がきました。パットさんに叱咤激励された後、Wさんも「やりますか」と、腕まくりをしたのでした。

こうして、引き続き「非公式」だけれど、「戦略的に動く」「お助け組織」が発足し、かつてのアイドルを世界のアイドルに引き上げるプロジェクトがはじまったのです。
日本で働いたことのない日本人のWさんと黄昏れて行く日本を見るのが忍びない…と思っていたところに、日本から技術者が定期的に送られてくることになりました。1年半前のことです。首謀者は日本支社の副社長でした。実はこの副社長さん、私のアメリカ転籍をアシストしてくださった元の上司なのです。(その時のいきさつはこちら)ビザの要らない最長期間3ヶ月をめどに10人位の技術者を本社に送り、海外経験を積ませるというものでした。

昔だったら長期出張している日本の支社の社員が多少の生活の「いろは」は教えてくれました。「どこに行けば日本食材を買うことが出来る」とか「病気になったらどうする…」とか。ところが、もはや日本の社員が本社にはいないのです。はっきり言うと武者修行に来ている訳ですが、余りに武者修行過ぎると「来てみて嫌いになった」で帰る人も出てきかねません。そこで、Wさんと一緒に「非公式(仕事じゃない)お助け組織」を結成することにしました。

日本人でいつもいつもつるんでいるというのは本望ではありませんから、お助け組織は日本人だけではなくて、日本に興味のある社員なら誰でも入れる様にしました。がっちりした組織という訳ではなく、岸壁から荒波に落とされて溺れそうになったら手を差し伸べる…その程度のすごく緩い組織から始めたのでした。

実はこの「非公式なお助け組織」というのは我々が初めてではありません。中国やインド、そしてラテンアメリカのお助け組織というのも存在し、「非公式(仕事ではない)」ではありますが、非公式とはとても言えない位政治的に動いて社内での存在を知らしめていたのでした。もちろん中国は中国人ばかりの組織で、インドはインド人ばかりの組織です。彼らはそれぞれに人数も多く、在米社員のソーシャルの場という位置づけと、支社を徹底的にもり立てる…という二本立ての目的で活動をしています。聞くところによると、中国支社の技術の人がアメリカから情報を得たい時に、どうしても英語が理解しきれない場面が出てくる…それを翻訳してあげたりしている…というのもその非公式組織の活動になっているということでした。

他のお助け組織はいずれにしても、「これから伸びる」と期待されている新興マーケットばかりです。「昔のアイドル」ではありません。それが我々の「位置づけ」を考えるのに少し難しいファクターでした。会社が後押ししている「これからのアイドル」と「もうそのまんまやっててくれて徐々に銀幕から身を引くんだったらそでもいいから」と言われている「かつてのアイドル」ではどうサポートするのかも変わります。

更に言うと、日本の「お助け組織」のメンバーは、日本人社員が居た時期でもその輪の中に入らなかったアウトロー(笑)ばかりです。「何が何でも日本人だけのおつきあいがしたい!」という程日本人であるという理由だけの交流には飢えていないのでした。(それだけ飢えてたらここにいません)ということで中国やインドの「家族交流」という組織の目的の一つが目的にならないという現実もありました。

そんな緩い状態で、日本から技術者がやってくると食事に出かけたりする程度の活動を1年程度続けたのでした。

そういう中途半端な状態というのは案外続かないものです。そして、根本的に揺るがすことが起きてきたのでした。
一昔前までは、アメリカ本社に日本からの長期出張者が沢山きていました。短い人は半年、長くなると2年3年です。会社の契約したタウンハウスに住んでいる人がほとんどでしたから、「ご近所さん」として家族ぐるみの交流が当然の事ながら発生します。
そして概ねその日本人コミュニティの中で過ごして、予定されていた出張期間を満了して日本に帰って行きます。

多分どこの会社も海外に出張者が沢山いるところは多かれ少なかれそんな物だろうと思います。また日本人の多い都市では「日本人学校」という縁を通じて日本人コミュニティを形成しそこで過ごすことも多いのだろうと思います。

私も最初にアメリカに来た時は長期出張者という立場でしたから、そういったおつきあいの中で過ごす時間が多かったです。異文化との出会いを消化できず「日本と違うからダメ」という国粋主義者に変貌して行く同僚もいれば、アメリカの大きな生活空間や夕方には家に帰ることの出来るライフスタイルに憧れる同僚もいました。異文化と接して、それによるストレスを自分なりの形で消化しようと集まっていた…振り返るとそんなことだっただろうと思います。

国粋主義者になったとしても、ほとんど全ての人が認めていることがありました。アメリカでの暮らしの方が日本より家族との時間を長くそして大事にできるということでした。そのライフスタイルは誰にとっても非常に魅力的だったのです。(もちろん奥さんがアメリカでの生活になじめない場合は例外です)ですから、「ここの暮らしいいよね~」というのは誰もが思うことで、「アメリカ暮らし続けたいよね」というのは大概の人が思ったことでした。

けれど、それだけ多くの人がアメリカに来ても日本からアメリカの社員になったのは、現在私を含めて二人しかいないのでした。

数百人の日本に戻って行った彼らと私と分けたものはなんだったのか…

それは彼らには「失う可能性のある物があった」ということなのです。

日本から長期で出張に来ている人達は、日本の会社で優秀な社員です。極端にいえば出世コースに乗っている人なんですね。アメリカに来たら「言葉の壁を打破する」ことから始めないといけません。

「技術者としてずっとやって行くのは出来るかもしれないけど、マネージメントとか無理だろうしさぁ…」
この台詞はまさに異口同音で、誰の口からも出て来たものでした。

日本に戻れば家族との時間をとれるライフスタイルは得られないけれど出世コースがほぼ約束されている。アメリカに移れば裸一貫自力で道を切り拓いて行かなければならない。投資風に言うのなら、「ローリスク」のオプションと「ハイリスク・ハイリターン」のオプションがあり、ほとんどの人はローリスクを選んだのです。

心が日本での出世を軸にしているとしたら、「日本に帰った時に利益になること」ばかりが頭をしめてしまい、本社で仕事をすることの魅力というのは余り目に入らないのです。

私の場合は、自分の時間を犠牲にして会社に操をたてるのに疲れて来ていたところでした。それに、そこまで身を削ってそれでも「女性だから」というおもりを引きずって歩くのに疲れていました。すなわちアメリカに来ることによって「失うかもしれない」ことがほとんどなかったんですね。

結局人間って変化は根本的に好きじゃないんだろう…と思います。
得られる物の大きさではほとんどの人は動けない。失う物が小さいと認識して初めて動けるんだろうと…。

日本だけでなんとかしよう…と考えるのは、昔はそれでよかったのだと思うのです。世界の国はそれぞれかなり独立していて、みんなそんな感じだったのですから。けれど、色んな国が依存し合う割合が高まって来ている今、昔のままにしていることによって「得られるもの」はどんどん縮小してきていて、「確実に失うもの」が大きくなって来ています。

ローリスクと思っていたことが、ハイリスクになって来ている…その認識の再構築こそが今必要とされていることなんじゃないかと思うのです。


ちょっと話題を変えます。(でも最終的にはいろいろ繋がります)

私は世界中に展開している会社の本社に勤めています。もともと日本の支社に入社して、機会を得て本社のアメリカに逃げ出したというのは前述の通りなのですが、本社にいると支社にいては見えないことが見えます。

一番端的に見えるのは「国の勢い」です。

かつて私が入社した頃(20年位前)海外から本社に長期の出張で滞在している人…といえば日本からが一番大きなメンバーでした。その次がドイツです。常に20人以上の長期出張者が日本からきていて、本社の近所には出張者の家族で構成する「日本人村」が存在しました。その頃は、奥様方の「近所付き合いの難しさ」といった話題がよくあがっていたものです。

時は流れて、今日本から長期の出張をしている人は一人しかいません。それもしばらく0という時期が続いて、やっと一人やって来たと言う感じです。もちろん会社のオフィスにいると、「如何にも外国から出張でやって来ている」という人達と沢山行き交います。ほとんどの人達はアジア系、もっと端的に言うならば中国人か韓国人です。

そして、中央研究所の入っている棟に出かけると、そこにかかっている名札はインドや中国の名前ばかり。技術で身を立てて行く人達は外国からの人が多いのでした。そこで日本人の名前を見る事はほとんどありません。

約1年半程前に、日本人の同僚Wさんと「日本人ってどれ位いるんだろう?」ということで人数を数えてみたことがあります。そもそも、日本の支社で働いていて私の様に本社に転籍した人は2人しかいません。日本人でアメリカで採用になった人を数えても10人位しかいないのでした。

ちなみに、Wikipediaで国別の人口の順位を見てみると、日本人は世界で10位に入っています。そして、ビジネスのサイズからしたらアメリカの本国のセールスの次は日本が2位を占めているのです。

これらを総合すると言えることは、日本は「かつてのアイドル」みたいなものなのです。かつては大事にちやほやしてもらっていました。けれど、他のアイドル達がどんどん生まれて来て、「かつてのアイドル」は「継続的に利益出してくれてるからそのまんまやっててくれてもいいから」みたいな感じで、生み出す利益を再投資してもらえず、それらの利益は中国やインド、ブラジル等に渡って行きます。最終的には搾り取られて、「こじんまりと黄昏れる」国になるというシナリオなのです。

問題は搾り取られていることも認識せず、「だってどうしようもないじゃん。構ってくれないのなら自分だけでやるもん」って感じで自ら国内でこじんまりして来てしまっているということなのです。

がむしゃらに頑張るのは格好悪いといった「滅びの美学」と問題を見ない振りの「鎖国」がミックスされた様な感じといえばいいでしょうか。

日本の支社に勤めた事がない日本人のWさんと、この状況が余りに忍びなく、

「別に日本を助けるってことは、私たちの仕事の責任には入ってないけど、やっぱり寂しいよねぇ。どうしたものかねぇ?」

と、たまにお昼を食べたり仕事の後ビールを飲みながら語ることが続きました。
そして、「とりあえず…ちょっと助けてみる?」と一歩を踏み出したのが1年半前のことだったのです。