最終章 〆 江別古代遺跡巡礼 ∞ 太古の大和政権支部
さて
随分とかかってしまいましたがエンディングとなります♪
あえてここまで引っ張ってきたわけでもなく
ゆっくり ( 少々後回し?w (_ _;) 書いていたらこうなりまして(笑)
それなのに毎回たくさんの皆さんにお越しいただけて
こんなにも光栄えることはありません☆
∞ どうもありがとうございます ∞
~
まずはこれまでのおさらいです↓
◎ 江別 古代遺跡巡礼① 巨石の古墳と古代文字の石碑発見!@江別神社裏
◎ 江別 古代遺跡巡礼② 巨石の古墳と古代文字の石碑
◎ 江別市郷土資料館 ∞ 大和政権の云うエゾ、エミシの源流、古代江別の民
◎ この地で熾きてきたこと ∞ ① いよいよ江別古代遺跡巡礼へ
◎ 河川の集う江別 イザナギプレート ∞ ② いよいよ江別古代遺跡巡礼へ
◎ 最終章① 江別古代遺跡巡礼 ∞ 跡形無き遺跡に代わりそこにあるのは。。。
札幌の聖山 藻岩山レポートも。
▲ 藻岩山の聖なる森にて
∞
江別古墳群 (後藤遺跡)の再現モデル。
密集する円墳それぞれに
時代々々の長が眠っています。
その数は、確認されただけでも21基にもなります。
場所は、豊平峡を源流にする旧豊平川河畔遺跡群の近くで
大雪山系を源流にする石狩川とも近く。
※ 旧豊平川とは古代より豊平峡を源流とする元々の豊平川のこと。
現在の豊平川は、開拓の時代に造られた運河です。
この遺跡MAPですが
遺跡として残っているのは左上の旧豊平川河畔遺跡のみです。
ここに
東京に戻る前日にようやく訪れることになりました。
ここで意識を合わせると
この古墳一帯でおきてきた長い歴史の光景が観えてきます。
その話に進む前に
一端、ちょっと(大事な 笑)横道にそれますね^^
∞
そもそも古墳時代とは本州や九州特有のもので
時代区分は3世紀から8世紀。
また、歴史学的には北海道には古墳時代という区分は存在せず
古墳には、ヤマト王権(大和政権)を治めていた歴代天皇たちを忠心に
地方の統治者たちが眠っています。
形状の変遷は、初期の質素な円墳から
中期に至っては、大和朝廷(ヤマト王権)の権力の強大さの誇示らしくも
前方後円墳のように大型化してゆきます。
そして
後期6世紀後半からは、質素な円墳へと戻ってゆきます。
そうして質素な円墳に戻っていったということは
ヤマト王権(大和朝廷政権)の確立を象徴し
その時期に、中央から地方まで統治システムが確立していったことをも意味します。
その円墳が故郷の北海道江別市にあるわけです。
しかも
旧石器時代を合わせれば確認されているだけで3万年
縄文時代では1万年の文明の歴史があり
北日本の文明の一大拠点ともなってきた長い歴史のある江別に。
その古墳の造られた時代は遡ること擦文時代 。
それは、本州古墳時代の土師器 の影響を大きく受けた擦文式土器を特徴とする時代で
その時代から縄文式土器は衰退の一途を辿ります。
擦文土器 by江別市郷土資料館
また
弥生時代の弥生式土器の流れをくむ土師器は大和政権文化圏で広がったものであり
擦文時代一つ前の続縄文時代 に本州東北圏と密接な文化的交流があった江別に
その土師器をも埋葬された古墳があるということは
平和的な文化的な交流から東北圏~北海道へと広がっていったというよりも
大和政権発足以来の気質である、時の天皇の命による、先住民たちへおこなってきた
神の名の元の、武力と不平等条約をもっての支配構造の拡大という傾向からしても
大和政権が、北関東~東北~北海道へと、拠点ごとに攻略しながら北上し
北海道に中央の統治システムを確立してゆく上で、考古学的にも判明しているように
続縄文時代の江別文明において千島・樺太、東北、北関東圏にまで文明圏を拡大
していた太古の一大拠点の江別を攻略することは、最重要項目だったであろうことは
時代背景の照合からしても容易に観えてくることです。
江別式土器の拡がりに見る江別文明の拡がり
by 江別市郷土資料館
そして
江別市郷土資料館のパネルにも書かれていたように
大和政権から、エゾ(蝦夷)、エミシと呼ばれ討伐対象になった
東北、北海道の北日本の先住民たちの故郷は
江別であったであろうことも、同じく垣間見えてきます。
by 江別市郷土資料館
~
ちなみにここでご参考までに北海道の時代区分をあらためて。
約3万年前~約1万年前 :旧石器文化
約1万年前~約1,800年前 :縄文文化(早~晩期までの5期区分)
約1800年~約1300年前 :続縄文文化
約1300年~約700年前 :擦文文化(8世紀から13世紀という区分説も)
約1200年~約600年前 :オホーツク文化
約700年~約200年前 :アイヌ文化
約200年~現在 :近・現代
※ ちなみにここでご紹介。。「北の遺跡案内」
このサイトで北海道全域の確認済みの古代遺跡がすべて検索できます。
そして、本州との対比年表もここに。
アイヌ文化入門
これでもわかるように
本州が弥生時代に移行しても北海道はいまだ縄文時代真っ只中。
そして、北海道固有の続縄文時代 が
本州が古墳時代に移行しても、その後も長く続きます。
∞
こうしてざっと時代背景を説明してきましたが
長い年月の末に大和政権の拠点ともなっていった
江別古墳群に訪れてきたわけでした。
一礼とともに江別古墳群内に訪れ
深いチューニング(瞑想)状態に入り、土地の記憶に意識を合わせてゆくと
様々な光景や纏わる背景や出来事をめぐる感情がよみがえってきます。
大和政権による蝦夷討伐から追われてきた本州の民たちや
ともに北上してきた大和政権下の民たちに対して
江別の先住民たちは、共栄共存のための対話姿勢で向き合いますが
追われて来た民たちにも色々な人たちがいることや
ましてや大和政権下の民ともなると、武力をもっての北海道支配の目的があるので
いかんせん調和的な話し合いには難いものがあり、江別の民側としても
家族や暮らしを守るためにやむなく争いに発展することにもなってゆきました。
それでも
長い月日の中で共に暮らし、先住民たちの心や文化にふれるうちに
中には、相互理解が生まれ、民同士は仲良くなっていったりもしていました。
だが
大和政権中央の北海道支配への目的に変化があるわけでもなく
政権もまた
奈良・平安・室町・鎌倉時代と、武家社会主導へと徐々に移行してゆくに従い
やはりどうしても調和的な共栄共存とはゆかなくなってゆく状況が観えてきます。
それには
大和政権下の民も、江別支部を任されていた長たちの中にも
強く葛藤を憶える人たちもいたほどでした。
~
そしてやがて、擦文時代後のアイヌ文化期
本州でいうところの14世紀、鎌倉時代末期から室町時代に至っては
和人との争いは激化してゆきます。
その象徴としての江別チャシ。
ここは、続縄文時代までは集落地でした。
その集落地も、擦文時代を経てアイヌ文化期には
和人の侵略行為に対する最期の砦にもなりました。
そして
15世紀ともなると、和人の移住は一気に増大し
中央を受けての松前藩の処遇により支配者と被支配者の関係性は強化され
江戸時代末期には、3万年の歴史と共に、かつて北海道の一大拠点ともなってきた
江別のアイヌの民は、たったの7軒26人にまで減ってゆくわけです。
by 江別市郷土資料館
~
そうして
一通りを観させていただいた頃に
古墳に眠る古の長たちのスピリッツが古墳上に浮上してきてくださいました。
そしてぼくは
心よりのお礼を賜るとともに
この地、江別の、真実の歴史を伝えてゆくことを託されるにいたりました。
こうして
今回の江別古代遺跡巡りは、まずはの終了を迎えることと相成りました。
∞
そうして帰りには
元々東京で友だちになり
その後にネイティヴアメリカンのナバホ族の旦那さんとともに
なんと江別市の旧豊平川河畔遺跡群の近くに引っ越したご一家宅に訪れました。
北米のどの辺りから来たのかと訊くと
カリフォルニアのちょっと下のエリアとか。。。
なんとそのエリアは
雛型地図で云うところの江別市に対応している処なんです!
驚きの導きを感じつつ
無理がなければスエットロッジ開催のリクエストをしてきました。
※ ネイティヴアメリカン、ラコタ族が主に行うスエットロッジは
(ナバホ族もおこないます)
焼き石を用いたスチームサウナで行う瞑想法で、スウェットロッジ内では
様々なスピリット(土地の精霊や神々、動物、植物、虫等)が
浄化と瞑想の旅路の手助けをしてくれます。
また、スエットロッジをとおしての神秘体験から
失われた土地の記憶や歴史が紐解かれたり、まつわる土地や残像思念などに
豊かな浄化がおこることもあります。
そのステキ友人ご夫妻♪
おかみさんのなよごんは、すてき絵描きさんでもあり。
彼女のポスカにはいつもお世話になっています♪
なよごんのHP
ちょっと作品の更新が滞ってるっぽいけど
他にもたっくさんのすてき作品いっぱいです。
だんなさんのティムは
友人とすてきハンドメイドのティピ販売もしています。
ハイホースのティピー
~
♪ そして、ちなみに昨日は友の紹介で
血筋やご活動ともに江別にご縁の深い方と魂の再会をしました。
拍車がかかりそうです ∞
~
さてと。。。
これで江別古代遺跡巡りシリーズは一端幕を閉じます。
(ほっ。。ぼくもやっと一息 笑)
毎度の長文&ローカルベースな話題にお付き合いくださり
真に真にどうもありがとうございました ∞
皆さんも
よい夜をお過ごしくださいね。。☆
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江別古墳群 (後藤遺跡)の再現モデル。
密集する円墳それぞれに
時代々々の長が眠っています。
その数は、確認されただけでも21基にもなります。
場所は、豊平峡を源流にする旧豊平川河畔遺跡群の近くで
大雪山系を源流にする石狩川とも近く。
※ 旧豊平川とは古代より豊平峡を源流とする元々の豊平川のこと。
現在の豊平川は、開拓の時代に造られた運河です。
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この遺跡MAPですが
遺跡として残っているのは左上の旧豊平川河畔遺跡のみです。
ここに
東京に戻る前日にようやく訪れることになりました。
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ここで意識を合わせると
この古墳一帯でおきてきた長い歴史の光景が観えてきます。
その話に進む前に
一端、ちょっと(大事な 笑)横道にそれますね^^
∞
そもそも古墳時代とは本州や九州特有のもので
時代区分は3世紀から8世紀。
また、歴史学的には北海道には古墳時代という区分は存在せず
古墳には、ヤマト王権(大和政権)を治めていた歴代天皇たちを忠心に
地方の統治者たちが眠っています。
形状の変遷は、初期の質素な円墳から
中期に至っては、大和朝廷(ヤマト王権)の権力の強大さの誇示らしくも
前方後円墳のように大型化してゆきます。
そして
後期6世紀後半からは、質素な円墳へと戻ってゆきます。
そうして質素な円墳に戻っていったということは
ヤマト王権(大和朝廷政権)の確立を象徴し
その時期に、中央から地方まで統治システムが確立していったことをも意味します。
その円墳が故郷の北海道江別市にあるわけです。
しかも
旧石器時代を合わせれば確認されているだけで3万年
縄文時代では1万年の文明の歴史があり
北日本の文明の一大拠点ともなってきた長い歴史のある江別に。
その古墳の造られた時代は遡ること擦文時代 。
それは、本州古墳時代の土師器 の影響を大きく受けた擦文式土器を特徴とする時代で
その時代から縄文式土器は衰退の一途を辿ります。
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擦文土器 by江別市郷土資料館
また
弥生時代の弥生式土器の流れをくむ土師器は大和政権文化圏で広がったものであり
擦文時代一つ前の続縄文時代 に本州東北圏と密接な文化的交流があった江別に
その土師器をも埋葬された古墳があるということは
平和的な文化的な交流から東北圏~北海道へと広がっていったというよりも
大和政権発足以来の気質である、時の天皇の命による、先住民たちへおこなってきた
神の名の元の、武力と不平等条約をもっての支配構造の拡大という傾向からしても
大和政権が、北関東~東北~北海道へと、拠点ごとに攻略しながら北上し
北海道に中央の統治システムを確立してゆく上で、考古学的にも判明しているように
続縄文時代の江別文明において千島・樺太、東北、北関東圏にまで文明圏を拡大
していた太古の一大拠点の江別を攻略することは、最重要項目だったであろうことは
時代背景の照合からしても容易に観えてくることです。
![EartHeartH](https://stat.ameba.jp/user_images/20091030/18/earthanks/29/ce/j/t02200293_0240032010291234926.jpg?caw=800)
江別式土器の拡がりに見る江別文明の拡がり
by 江別市郷土資料館
そして
江別市郷土資料館のパネルにも書かれていたように
大和政権から、エゾ(蝦夷)、エミシと呼ばれ討伐対象になった
東北、北海道の北日本の先住民たちの故郷は
江別であったであろうことも、同じく垣間見えてきます。
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~
ちなみにここでご参考までに北海道の時代区分をあらためて。
約3万年前~約1万年前 :旧石器文化
約1万年前~約1,800年前 :縄文文化(早~晩期までの5期区分)
約1800年~約1300年前 :続縄文文化
約1300年~約700年前 :擦文文化(8世紀から13世紀という区分説も)
約1200年~約600年前 :オホーツク文化
約700年~約200年前 :アイヌ文化
約200年~現在 :近・現代
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アイヌ文化入門
これでもわかるように
本州が弥生時代に移行しても北海道はいまだ縄文時代真っ只中。
そして、北海道固有の続縄文時代 が
本州が古墳時代に移行しても、その後も長く続きます。
∞
こうしてざっと時代背景を説明してきましたが
長い年月の末に大和政権の拠点ともなっていった
江別古墳群に訪れてきたわけでした。
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一礼とともに江別古墳群内に訪れ
深いチューニング(瞑想)状態に入り、土地の記憶に意識を合わせてゆくと
様々な光景や纏わる背景や出来事をめぐる感情がよみがえってきます。
大和政権による蝦夷討伐から追われてきた本州の民たちや
ともに北上してきた大和政権下の民たちに対して
江別の先住民たちは、共栄共存のための対話姿勢で向き合いますが
追われて来た民たちにも色々な人たちがいることや
ましてや大和政権下の民ともなると、武力をもっての北海道支配の目的があるので
いかんせん調和的な話し合いには難いものがあり、江別の民側としても
家族や暮らしを守るためにやむなく争いに発展することにもなってゆきました。
それでも
長い月日の中で共に暮らし、先住民たちの心や文化にふれるうちに
中には、相互理解が生まれ、民同士は仲良くなっていったりもしていました。
だが
大和政権中央の北海道支配への目的に変化があるわけでもなく
政権もまた
奈良・平安・室町・鎌倉時代と、武家社会主導へと徐々に移行してゆくに従い
やはりどうしても調和的な共栄共存とはゆかなくなってゆく状況が観えてきます。
それには
大和政権下の民も、江別支部を任されていた長たちの中にも
強く葛藤を憶える人たちもいたほどでした。
~
そしてやがて、擦文時代後のアイヌ文化期
本州でいうところの14世紀、鎌倉時代末期から室町時代に至っては
和人との争いは激化してゆきます。
その象徴としての江別チャシ。
ここは、続縄文時代までは集落地でした。
その集落地も、擦文時代を経てアイヌ文化期には
和人の侵略行為に対する最期の砦にもなりました。
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そして
15世紀ともなると、和人の移住は一気に増大し
中央を受けての松前藩の処遇により支配者と被支配者の関係性は強化され
江戸時代末期には、3万年の歴史と共に、かつて北海道の一大拠点ともなってきた
江別のアイヌの民は、たったの7軒26人にまで減ってゆくわけです。
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by 江別市郷土資料館
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そうして
一通りを観させていただいた頃に
古墳に眠る古の長たちのスピリッツが古墳上に浮上してきてくださいました。
そしてぼくは
心よりのお礼を賜るとともに
この地、江別の、真実の歴史を伝えてゆくことを託されるにいたりました。
こうして
今回の江別古代遺跡巡りは、まずはの終了を迎えることと相成りました。
∞
そうして帰りには
元々東京で友だちになり
その後にネイティヴアメリカンのナバホ族の旦那さんとともに
なんと江別市の旧豊平川河畔遺跡群の近くに引っ越したご一家宅に訪れました。
北米のどの辺りから来たのかと訊くと
カリフォルニアのちょっと下のエリアとか。。。
なんとそのエリアは
雛型地図で云うところの江別市に対応している処なんです!
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驚きの導きを感じつつ
無理がなければスエットロッジ開催のリクエストをしてきました。
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(ナバホ族もおこないます)
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様々なスピリット(土地の精霊や神々、動物、植物、虫等)が
浄化と瞑想の旅路の手助けをしてくれます。
また、スエットロッジをとおしての神秘体験から
失われた土地の記憶や歴史が紐解かれたり、まつわる土地や残像思念などに
豊かな浄化がおこることもあります。
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さてと。。。
これで江別古代遺跡巡りシリーズは一端幕を閉じます。
(ほっ。。ぼくもやっと一息 笑)
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