社員旅行で九州へ

 先週末,会社で2泊3日の社員旅行がありました。行き先は福岡長崎でした。
 長い人生の中で,いろいろな都道府県を訪れましたが,九州は未訪の地が多いです。
 12年前に福岡を2回,大分を1回訪れましたので,福岡はこれで3回目です。博多の屋台は見覚えのある光景で,大変に懐かしく感じました。今回も,もつ鍋・明太子・博多ラーメン…と,ひととおり味わってきました。

 

 太宰府天満宮と賽銭

 観光としては,太宰府天満宮に行きました。こちらも2回目ですが,前回の記憶があまりなく,新鮮味がありました。やはり,パワースポットはいいですね。
 バスガイドさんから聞いたのですが,神社や寺院に投げる賽銭には,縁起のよい金額と悪い金額があるそうです。(下記以外にも説明を受けましたが,覚えている範囲で記載します。)

     5円 … 御縁 ⇒○
   10円 … 穴がないので見通しが悪い ⇒×
   15円 … 十分な御縁 ⇒○
   25円 … 二重の御縁 ⇒○
   35円 … 再三の御縁 ⇒○
   65円 … ろくな御縁がない ⇒×
 125円 … 十二分な御縁 ⇒○
 415円 … よい御縁 ⇒○
 500円 … これ以上の硬貨(効果)がない ⇒×


 とは言っても,結局のところは神頼みなわけですから,何が正解というものはないのでしょうが,せっかくならば験を担ぎたくなりますよね。
 私はあいにく5円玉を持ち合わせていなかったので,50円玉を投じました。穴が開いている硬貨は見通しがよくなるので,50円も縁起がよいとされているそうです。

 

 

 

 初めての長崎旅行

 2日目と3日目には長崎に足を運びました。長崎は初めてだったので,何もかもが新鮮でした。歴史的に要所となった地域だけに,市内は洋風の街並みが目立ちました。大浦天主堂グラバー園出島原爆資料館平和公園軍艦島を2日間かけて回り,盛りだくさんのツアーとなりました。
 原爆資料館に展示されている資料は,どれも生々しく,いたたまれない気持ちになり見ていられなかったです。戦争をせざるを得なかった当時の国の事情にまったく理解を示さないわけではありませんが,やはり罪のない人々を苦しめるようなことは,二度と起きてほしくないですね。

 軍艦島には上陸する予定だったのですが,波の高さが基準値を超えていたとかで,残念ながら船で周遊するだけとなってしまいました。それでも世界遺産を間近で見られたのは,よい体験になりました。
 長崎名物の皿うどん・ちゃんぽん・卓袱料理・カステラも味わいました。ついでにいろいろなお酒をちゃんぽんで飲みすぎました。頭痛薬を持っていかなかったら大変なことになっているところでした。
 旅行前と旅行中では,体重が3kgも増えていました。サンドウィッチマンの伊達みきおさんが,「回転テーブルの料理は,回したときにカロリーが飛ぶ」と言っていたので気にせず飲み喰いしましたが,それを信じて食べ過ぎたのがよくなかったようです。
 
 

 空港での珍体験

  実は,社員旅行と同じ期間に,天皇皇后両陛下が長崎を訪問されていました。2日目の出島付近で厳重な警備体制が敷かれていて,ものすごい数の警備隊を目にしました。さらに帰りの長崎空港での待ち時間に,ちょうど両陛下がご帰還されるタイミングと重なり,通路で旗を振ってお見送りすることができました。
 下の写真を撮ることができたのですが,天皇陛下は後部座席奥側にいらっしゃったため,皇后さましか写真に収めることはできませんでした。それでも,両陛下を生で謁見したのは初めてのことですので,これは貴重な経験でした。

 

 

 

 九州の気候

 九州の気候は,私の住んでいる愛知県よりは少しはマシだと思っていましたが,まったくそんなことはなく,9月半ばとは思えない猛暑でした。途中で雨に降られたこともあり,気候にはあまり恵まれないものとなりました。まさに「長崎は今日も雨」ですね。汗と雨で,毎日のように服やタオルが濡れてしまったので,着替えを余分に持っていくべきでした。このことは反省点として次回に活かします。
 そんな不安定な気候の中,たくさんの観光が詰め込まれたため,3日間の合計歩数は45,000歩に達しました。翌日は足が酷い筋肉痛でした。

 

 

 

 総括

 久しぶりの福岡と初めての長崎ということで,観光を中心としたイベントが凝縮された有意義な旅行となりました。
 ただ,一度も訪れたことのない佐賀県は通過しただけだったので,ワンスポットでもいいからどこかに寄りたかったという名残惜しさもあります。旅行自体は90点です。
 私が勤める会社の社員旅行は,普通ではなかなか行かないところに連れていってもらえるので,とてもありがたいです。一昨年は北海道(道東)に行かせてもらいました。次回はどこに行けるのか,今から楽しみです♪
 一方で,社員旅行の最も重要な趣旨である社員どうしの交流というのが疎かになってしまいました。30人以上の大所帯でしたが,誰とどう話したらよいかがわからず,浮きがちになってしまいました。この点は自分自身の反省として15点です。

 第三章 二年前

 

 年が明けてすぐに、感染症蔓延を理由に、面会が一切禁止された。リモートでの面会は認められたが、耳が遠くてハイカラな機器に懐疑的なばあと、リモートでやり取りなんかができるはずもなく、六か月もの間、ばあに会うことができなくなってしまった。

 ようやく面会が解禁され、半年ぶりに貞夫は施設に顔を出した。

 ばあは髪の毛が真っ白になっていて、表情から生気が消えていた。半年前のように歓迎する言葉をかけてくれることもなかった。そして驚くことに、貞夫に対して敬語で話し始めたのだ。会話になっているようでなっていない。何よりも、貞夫のことを孫だとわからずにしゃべっている。たぶん、施設の職員だと思い込んでいたのだろう。

 あまりにも衝撃的だった。貞夫は一時期、介護の仕事をしていたことがあるので、認知症というものについて、ある程度は知っていた。自分の家族のことさえもわからなくなってしまった利用者を何人も見てきた。しかし、貞夫の身内で認知症になった人は今まで見たことがなく、病気になっても認識だけはしっかりできた人ばかりだったので、最も近い身内の一人であるばあが、まさか貞夫の顔まで忘れてしまうとは…。

 貞夫は帰りの車の中で荒れた。

 「感染症だか何だか知らんけど、施設に入っとる高齢者を半年間も家族と会わせんかったら、そりゃこうなるわ。面会禁止、面会禁止と、いつまでもしつこく、いい加減にしとかなかん。ばあが俺の顔を忘れてまうことと、感染症にかかって死ぬことを選べって言われたら、俺は感染症の方を選ぶわ。」

 誰もいない車の中に、貞夫の叫び声がこだました。

 それでも貞夫は諦めなかった。

「今日は久しぶりだったし、何回か顔を見たら少しずつ思い出してくるかもしれん。」

 

 その後、足しげく面会に通った。しかし、何度会っても、ばあは貞夫のことを思い出さなかった。

 「孫だよ。」

と言って自分の名前を名乗っても、

 「孫? ワイには孫はおらせん。」

と来たものだ。

「四十歳を過ぎて、まさかの絶縁宣言か?」

と自虐ネタを言ってごまかしたが、心中は穏やかでなかった。

 

 あるときは、ばあの弟を連れて面会に行った。そのときは、その弟のことをはっきりと覚えていたようだ。だが、隣にいた貞夫のことは、やっぱりわからないらしい。

 認知症になると、若い頃の記憶だけが残り、近いところの記憶は消えていくことがある。ばあにとって、人生の半分もいっしょにいなかった貞夫よりも、子どもの頃からいっしょにいた弟の方が鮮明に記憶に残っていても、無理はない。

 

 ちょうどその頃、たまたま読んだ本におもしろいことが書いてあった。

「おじいさんやおばあさんは、孫に愛情を注ぎきったら、自分の役割を終えたと考えて、孫のことを忘れてしまう。」

という趣旨のものだった。

 貞夫は妙に納得した。おばあちゃん子だった貞夫は、幼少期からばあといっしょにいることが多かった。小学校低学年までばあといっしょに寝ていたし、二人で買い物に行ったり、ゲームの相手をしてもらったりと、かなり愛情を注いでもらったと思っている。四十を過ぎて、嬶を見送って、もう一本立ちしたから、自分が注げる愛情はすべて注いだ、とばあは判断して、貞夫が生まれるよりもずっと前のころの童心に戻ったのだろう。

 そう考えると、少しだけ開き直ることができた。ばあの認知症は、ここからよくなっていくことはない。それから、今の状態のままでいいから、少しでも長く元気でいてもらうことを願おう、と貞夫は考えるようにした。

 

 第二章 三年前

 

 ばあが入所してからの自宅は、想像していた以上に静寂としていた。二階建ての一軒家に貞夫は一人で住むことになった。何もかも自由になり、ばあの身を案じなければならないこれまでの心労がなくなった反面、夜に帰宅すれば家の中は真っ暗。「おかえり」と言ってくれる人もいない。まるで別の住居に引っ越したような感覚だった。

 

 貞夫は何度か施設に面会に行った。ばあは車椅子生活になっていたが、頭ははっきりしていて、きちんと会話することができた。おまけに、施設では食欲旺盛なのだそうだ。

 「眼鏡を家に置いてきてまったから持ってきて。」

 「ここの金は払えるんか?」

などと、つじつまの合った発言も聞かれた。

 「病気を患っとるわけじゃないから、こりゃ当面だいじょうぶだな。」

と貞夫は安堵したものだ。

かなり昔のことだが、ばあは冗談めかして、

「百二十歳まで生きる。」

と言ったことがある。まあ、百二十はアレとしても、百歳までは生きられるといいな、と貞夫は思っていた。

 

 ばあが入所してまもなく一年になろうとする年の瀬、久しぶりに施設に面会に行った。ばあは入所したばかりの頃よりも顔色がよくなり、

 「おお、来てくれたか。やっとかめだなぁ。」と貞夫を歓迎してくれた。最初は渋っていた施設生活も気に入ったようで、

 「皆んなええふうにしてくだれる。あんたが入れてくれたんやなあ。」

と面会のたびに言っていた。

 ばあはもともと内弁慶タイプで、家では意固地さや卑屈さが見られることが多かったが、一歩外に出ると、声が一オクターブ上がり、とても控えめでお行儀がよくなる人だった。なので、本心から施設生活を気に入っていたのかは、正直なところ、わからなかった。施設の職員も見ている手前、社交辞令を言ったのだと考えることもできる。それでも、安心できる環境で何事もなく暮らしてもらえるだけで、貞夫はよかった。近いうちに、一日だけ帰宅させてもらえるように頼んでみることも検討していた。

 

 第一章 四年前

 

「ばあ、何やっとるの。」

 夜の八時に、ばあがおめかしをしているのだ。

 「もうすぐデイサービスの人が迎えにくるから、支度しとるんだが。」

 たしかに、ばあは週に二回、デイサービスに通っている。朝の八時に送迎車で迎えにきてもらえる。しかし、今は夜の八時。

 「今は夜の八時だぞ?」

と貞夫が尋ねるも、ばあは、

 「テレビに八時って書いたるがや。」

と言って譲らない。

 こんなことが、一回だけでなく、短期間に何度かあった。今思うと、これがばあの終末の始まりだったのだ。

 

 貞夫の家族は大所帯ではなかった。貞夫は一人っ子で、嬶とじいばあとの四人暮らしだった。親父は物心がつく前に蒸発していて.貞夫は一度も会ったことがないし、どんな人かもほとんど知らない。じいは貞夫が高校生のときに病死したので、ばあ・嬶との三人で生活していた時期が長い。しかし、五年前に嬶が先に死んだ。こちらも病死だった。そこから、貞夫はばあと二人で生活することになった。ばあは九十歳を過ぎていたが、自分の身の回りのことくらいなら自分ですることができた。何なら八十代後半まで自転車に乗っていたほどだ。貞夫は平日の日中は仕事で留守にしていたが、ばあを一人家に残しておくことに、とくに不安はなかった。

 ばあの様子が不穏になったのは、嬶が死んで少ししてからだ。前述のように軽い見当識障害の症状が見られたり、自分で高いところの物を取ろうとして転倒したり、体がダルいと言ってデイサービスを勝手に休んだり、ひいては、嬶の三十五日法要に出席できないと言い出したりと、年齢相応の心身の衰弱が見られるようになってきたのだ。そして、ついには足が痛くて立てないと言って、ほぼ寝たきりになってしまった。ケアマネージャーに相談して、病院に連れていくことにした。

 

 ばあを病院に連れていくために、貞夫は仕事を休んだ。そして、いざ出かけようとすると、

 「立てんで病院は行かせん。」

と、ばあは通院拒否をし始めた。何度も説得して起こそうとしたが、ダメだった。わざわざこのためだけに仕事を休んでいた貞夫は、さすがにしびれを切らして、

「いい加減にしやあ。そんなことばっか言っとるなら救急車呼ぶぞ。」

と怒って、結局通院は諦めた。

 

ケアマネージャーに再び相談をした。事態が深刻だと理解したケアマネージャーは、即座に施設入所を検討してくれた。そして、嬶が死ぬまで入っていた施設にかけ合ってくれて、その日のうちに入所できることになった。

 態勢が整ったのはよいのだが、問題は、ばあをどう説得するかということだった。病院に行くことでさえ渋っていたのを、無期の施設入所なんて、受け入れてくれるはずがない。しかし、施設への送迎車が来る時間が決まっていたので、それまでに説得しきらなければならない。

 貞夫は、丁寧にばあに話をした。状況が深刻であることを強調しすぎず、しかし、施設に入る必要があること、自分で動けるようになったらすぐに家に戻れること、利用料は年金で相殺できること…。

 最初はばあも渋っていた。だが、最終的には折れてくれたようだった。ただ、施設に行くのを観念したときのばあが、目に見えてわかるくらいに寂しそうな顔をしていたことを、今でも忘れることができない。ひょっとしたら、ばあは悟っていたのかもしれない。もう家には帰ってこられないことを。

 

 本日9月12日は,私の祖母の命日です。
 97歳という大往生でした。
 おばあちゃん子だった私にとって,この出来事は精神的に大きなダメージを与えるものでした。私にとって最後の家族だったので,なおのことです。
 私はまだ人生の折り返し地点。残り半分近くの人生を家族なしで過ごしていくと考えると,途方もない気持ちになりますが,残された自分の人生を,自分のために生きていくことが,唯一の使命だと思っています。

 祖母の死を受けて,自伝風小説「ばあ」を執筆しました。
 自伝風ではありますが,あくまで小説ですので,三人称視点で描き,脚色も加えています。
 5,000字程度の短編ですが,4章構成になっていますので,明日から4回に分けて投稿していきます。

 

 5人の戦士ダイナマン

 科学戦隊ダイナマンというスーパー戦隊をご存じでしょうか。
 1983~1984年に放送されたシリーズ7作目で,「科学」「夢」をテーマにした戦隊です。
 
 

 なぜいきなりダイナマンのことを書き出したかというと,私はスーパー戦隊の中でこの作品がいちばん好きだからです。リアルタイムでは見ていませんが,小学生のときに再放送で何度も見て,一気にやみつきになりました。DVDも全巻持っていました。(今は売却してしまいましたが。)

 時代が時代なので,ビジュアルや展開はかなりレトロな感じですが,わかりやすい勧善懲悪ストーリーで,これぞ「ザ・スーパー戦隊」といってもよい作風だと思っています。
 なんといっても,戦士5人のキャラクターが上手にすみ分けられています。

 ダイナレッド(弾北斗)
 … 真面目で正義感の強いリーダー。熱血漢。剣術が得意。
 ダイナブラック(星川竜)
  … クールなサブリーダー。忍者の子孫。アクロバティックなアクション。
 ダイナブルー(島洋介)
 … 水中戦のスペシャリスト。純情。アクロバティックなアクション。
 ダイナイエロー(南郷耕作)
 … パワーファイター。コメディリリーフ。植物好き。
 ダイナピンク(立花レイ)
 … 紅一点。勇敢で男勝り。動物好き(猫を除く)。

 どのキャラクターも魅力的ですが,私はとくにイエローが好きです。割と頻繁にドジを踏むのですが,決めるときは決めるという,メリハリのある戦士なんですよね。

 

 魅力的な敵キャラ

 ただ王道なだけでなく,独自性もあり,ちゃんと他作品との差別化が図れています。
 その独自性とは,敵キャラクターのドラマです。
 ダイナマンと対峙する敵組織はジャシンカ帝国。地底に土着し,尻尾の数が多いほど地位が高いとされています。そのことから,有尾人一族とも呼ばれています。

 帝王アトン(9本尻尾)
 … ジャシンカの首領。基本的に基地の定位置から動くことはなく,ミステリアスな部分が多い。
 カー将軍(7本尻尾)
 … ジャシンカの副官兼博士。進化獣の生成を担当する。稀に戦線に立ったときは,圧倒的な戦闘力を見せる。
 メギド王子(5本尻尾→4本尻尾→尻尾なし)
 … アトンの息子。行動隊長ポジション。王子として高尚に振舞おうとするが,性格が軽く失策が多い。
 王女キメラ(4本尻尾)
 … アトンの姪。メギドと交互に戦線を仕切る。作戦のバリエーションが広い。メギド同様に,感情的な面も目立つ。
 女将軍ゼノビア(7本尻尾)
 … 物語途中から登場。メギド・キメラに代わって戦線のリーダー的ポジションになる。アトンに屈するふりをしながらジャシンカの乗っ取りを企てる。
 ダークナイト(尻尾なし) 
 … 物語終盤に登場。ダイナマン・ジャシンカどちらの味方にもつかない第三勢力。その正体は……

 尻尾の数に執着し,それによって自らの存在意義にしていくという基本線がありながら,この「尻尾」というギミックが最終版の大きな伏線になっているところが面白いです。個々のキャラも立っていて,とくに高圧的な王子のメギドが,いいキャラをしているんですよ。

 

 歴代屈指の変身シーン

 数あるダイナマンの魅力の中で,最も特筆すべきだと思っているのが,変身バンクのかっこよさです。
 スーパー戦隊では,どの作品にも変身シーンというのがあり,さまざまな趣向が凝らされているのですが,ダイナマンのそれは群を抜いてかっこいいのです。
 そもそも,初期の作品にはちゃんとした変身バンクというものがなく,体を転換したり,跳び上がったり,手を簡単に掲げたりといったものばかりだったのですが,ダイナマンを皮切りに,凝ったバンク映像が作られるようになりました。
 ダイナマンが複数人でいっしょに変身するときは,画面を分割してバンクを流す演出がとられます。5人同時の場合は,まずレッドの単独バンクが流れ,次に4人の分割バンクという具合です。2人や3人での変身の際も,人数分の分割がなされ,バリエーションが豊富です。
 とある動画サイトに,ダイナマンの変身シーンだけを集めた動画か挙がっているのですが,私はこれを何度見たかわからないくらいです。

 

 

 

 耳から離れないBGM

 ダイナマンは,劇中音楽もかっこいいです。オープニング・エンディングはもちろんのことですが,何といっても挿入歌やBGMです。ほぼすべての挿入歌が収録されたCDを持っているのですが,何度聴いてもすばらしいです。この中で,「俺のハートは夢じかけ」という歌は神曲です。ダイナマンを見たことがある人なら,この曲が流れるシーンを思い浮かべると思います。BGMの方はCD化はされていないと思われますが,こちらも動画サイトに挙がっていました。どれも聞き覚えがある名曲ばかりです。聴いた直後はいつも耳から離れません。

 
 以上,ダイナマンの魅力を紹介しました。
 昔のスーパー戦隊を見てみたいけど,どれを見たらよいのかわからない,という人がいましたら,私は自信を持ってダイナマンをおすすめします。
 
 
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 去る9月7日,阪神タイガースがリーグ優勝を果たしました。2年ぶり7回目です。
 今年の阪神はとにかく強かったです。他の5チームが弱かっただけ??

 4月こそ,広島に引けを取っていましたが,5月からは独走態勢に入り,それをキープしたまま優勝に漕ぎつけました。9月7日に優勝が決まるのは,プロ野球が2リーグ制になって以来,最短のことだそうです。いかに阪神が独走していたかを物語っていますね。
 MVPは佐藤輝明選手になると予想します。

 藤川球児監督は,赴任1年目にしてチームを優勝させました。もちろん,戦力が安定していたこともありますが,やはり新監督の手腕が大きく実を結んだのでしょう。藤川監督は私と同い年ということもあり,とても誇らしいです。

 ……と,ここまで書いておいてなんですが,私は中日ドラゴンズファンです。当の中日は現在4位。4年連続最下位こそ免れられそうですが,Aクラス入りはだいぶ怪しくなってきました。残り20試合を切った今,少しでも来年に繋がる野球をやってもらいたいです。暗黒時代を乗り越えて今では常勝チームになった阪神を見習わなくてはいけません。

 ともあれ,阪神タイガースには,このまま日本シリーズに出場し,パリーグ優勝チーム(たぶんソフトバンクか?)を倒してほしいです。阪神はここまで,前身も含めて日本シリーズでソフトバンクに3戦全敗。そろそろ意地を見せるところですね。

2026年ドラえもん映画発表

 来年のドラえもんの映画タイトルが発表されました。
 「新・のび太の海底鬼岩城」です。
 https://doraeiga.com/2026/

  「海底鬼岩城」は根強い人気があるイメージでしたが,調べてみると,観客動員数が歴代で最も少ない作品だったようです。海底が舞台ということで,暗くて怖いイメージが強かったのかもしれません。しかし,クライマックスではドラえもん映画史に残る感動シーンがあり,今では数字以上の評価を得ている作品といえます。
 私は,子どもの頃にビデオと大長編コミックで見たのですが,細かいストーリーは覚えていないので,公開されたら久しぶりに映画館に見にいってみようかな,と思います。

 

 

 

新作とリメイク

 ドラえもんの映画は,2005年に声優が一新されて以来,新作とリメイクを織り交ぜて公開されています。下記は,その一覧です。

 2006年 のび太の恐竜2026(1作目リメイク)
 2007年 のび太の新魔界大冒険(5作目リメイク)
 2008年 のび太と緑の巨人伝
 2009年 新・のび太の宇宙開拓史(2作目リメイク)
 2010年 のび太の人魚大海戦
 2011年 新・のび太と鉄人兵団(7作目リメイク)
 2012年 のび太と奇跡の島
 2013年 のび太のひみつ道具博物館
 2014年 新・のび太の大魔境(3作目リメイク)
 2015年 のび太の宇宙英雄記
 2016年 新・のび太の日本誕生(10作目リメイク)
 2017年 のび太の南極カチコチ大冒険
 2018年 のび太の宝島
 2019年 のび太の月面探査記
 2020年 のび太の新恐竜
 2022年 のび太の宇宙小戦争2021(6作目リメイク)
 2023年 のび太と空の理想郷
 2024年 のび太の地球交響楽
 2025年 のび太の絵世界物語
 2026年 新・のび太の海底鬼岩城(4作目リメイク)

 10年くらい前までは,ほぼ隔年の頻度で新作とリメイクを繰り返していましたが,近年はリメイクの頻度が下がっていることかわかります。リメイクは1980年代のもののみが扱われていますが,ここで満を持して4作目の「海底鬼岩城」が登場することになりました。ここ最近,海をテーマにした作品がなかったので,バランスとしても絶妙のタイミングですね。
 

今後リメイクされる作品は

 2026年に「海底鬼岩城」のリメイクが作られるので,そのあと数年は新作が続くのでしょうが,数年後に作られるであろうリメイク作品の候補としては,8作目の「竜の騎士」が真っ先に思いつきます。前作の「鉄人兵団」が名作ということで「竜の騎士」はやや不遇な作品ですが,私が初めて映画館で見たドラえもん映画ということもあり,何十年ぶりかに見てみたい作品の1つです。9作目の「パラレル西遊記」も見たいのですが,こちらは原作漫画を藤子先生が描いていない作品なので,リメイクがされにくいかもしれません。

 もちろん1990年代以降にも良作がたくさんあるので,今後はそれらにも脚光が当たるときが来ると思っています。

長渕剛というアーティスト

 「好きなアーティストは誰ですか?」
と聞かれたら,私は迷わず「長渕剛」と答えます。33年間,ファンをやっています。
 CDはすべて持っていて,楽曲はすべて把握しています。ライブも,名古屋に来れば必ず行くようにしています。11月にアリーナツアーがあり,それにも参戦する予定です。
 日本に,長渕剛ほど好き嫌いが分かれるアーティストはいないと思います。恐そうに見えるため,敬遠する意見も周りからたくさん聞いてきました。しかし,恐そうな雰囲気の中に,人間臭さが垣間見えるのが魅力的なんですよね。実際に楽曲を聞いてみると,自分自身の弱さや挫折,そしてそこから這い上がる勇気を歌ったものもたくさんあります。シンプルな曲調に乗せられたアツくて個性的,ときに哲学的な歌詞。とても良いと思います。

 長らくファンをやっていることもあり,自分の音楽性が長渕剛の影響を受けていることはまったく否定できません。作る楽曲も似たようになりますし,カラオケで何を歌っても「長渕じゃん」と言われます。でも,私はそれで良いと思っています。好きなアーティストに影響を受けてオマージュする。何も悪いことではありませんよね。
 

いちばん好きな歌は?

 「長渕剛の歌の中でいちばん好きな歌は何か?」という質問には,私は答えられません。300曲を超える楽曲の中でいちばんを選ぶのは,容易ではありません。また,長渕剛の楽曲には複数の良さがありますので,どういう観点で「好き」とするかによっても,回答は変わってきます。そういうわけで,ベストソングは「回答不可」とさせてください。
 カラオケでよく歌うのは,「とんぼ」と「しゃぼん玉」です。ファンでなくても多くの人が知っていますし,それなりに盛り上がりますからね。何といっても,長渕剛の真骨頂が凝縮された2曲ということが大きいです。
 

語りつくせぬ長渕剛

 長渕剛についてであれば,1記事1曲ずつでも書けますので,それだけで300記事を即効で突破してしまいます。試みとしては面白いのでしょうが,そこまでするのはやめておきます。ただし,今後も長渕剛に関連した記事を書くことは出てくるかもしれません。
・好きなアルバム
・各楽曲のベストテイク
・ライブの思い出
・好きなドラマ
などなど,語っても語りつくせないことがたくさんあります。
 

バックバンドに…

 長渕剛はソロ歌手なので,バックバンドのメンバーは頻繁に変わります。そんな中で,1人,大好きなメンバーがいます。キーボーディストのエルトン永田さんです。

 こんな方です↓↓
 https://www.jzbrat.com/liveinfo/post-454.html

 スタジオでもライブでも,いろいろな著名なアーティストのバックで演奏している大ベテランのミュージシャンです。テクニックで魅せるタイプではなく,パフォーマンスや味のある奏法が特長です。突然立ち上がってグリッサンドを連発したり,鍵盤に肘打ちを喰らわせたりと,ソロが回ってくるととにかく暴れてくれます。とりわけオルガンワークを得意とし,彼のオルガンソロはそれだけで一聴に値します。
 1996年に発売された長渕剛の「LIVE COMPLETE」というアルバムのDISK2#1「三羽ガラス」でそのプレイを聴くことができます。本当にかっこいいですよ。

 

 余談ですが,私のハンドルネーム「エルトン」が,エルトン永田さんから取ったのは言うまでもありません。決してエルトン・ジョンからではありませんよ。

 最後になりますが,本日は長渕剛の69歳の誕生日です。HAPPY BIRTHDAY

 音楽活動記第3弾です。

 【関連記事】

 音楽活動記①
 音楽活動記②

 今回は,作詞作曲について書きます。

 このブログでは,私のオリジナル曲をいくつか投稿しています。
 これからも定期的に挙げていく予定です。

 【アップ済みオリジナル曲】
 金魚のふん
 Summer Blue
 孤独
 ポニーテール
 DREAM


 自分の持ち歌を数えてみたら,34曲ありました。28年間作り続けていることを考えたら,明らかに物足りないですね。まあ,本職ではないので,なかなか簡単にできるわけでもなく,ライフワークとして地道に作り続けていきます。

 次に,私の曲作りの方法についてです。
 曲作りの方法には,大きく分けて2つあります。
 詩先と曲先です。

詩先 … 歌詞を先に書いて,それにメロディーを乗せていく。
曲先 … 曲を先に作って,それに歌詞を乗せていく。

 私は曲先派です。曲を作る人の多くはこちらのようです。やはり難易度が全然違うんです。曲先は,楽器を適当に弾きながら,何となく気に入ったフレーズが出てきたときに,そこから派生させて形にすることができます。一方で詩先は,先に文字数が与えられているわけなので,思いつくままにメロディーを乗せることができず,制約が多くなりがちです。書かれた詩が散文詩タイプだったら,もう手が付けられません。そういうわけで,曲先の方がぐんと難易度が下がります。

 ただし,曲先のデメリットもあります。先に作られたメロディーによって字数制限されているので,うまくやらないと歌詞が単調になってしまうのです。結局,うまい言葉が出てこずに,同じフレーズを繰り返したり,通り一遍の対句表現を多用したりすることになりかねません。心に響く歌詞を書きたいのなら,詩先の方が断然向いています。

 詩と曲を同時進行で作っていく手法を採る人もいます。弾き語りをするような形で作詞作曲するわけですね。私は,部分的にこのやり方をすることもあります。よほど調子がよくないと,両方がうまい感じに噛み合って生み出されるということはないので,これもまた難しい手法だと思います。

 曲先に話を戻しますが,私が作るときは,次の手順で行います。

STEP① 曲のテーマを考える
 人生観,社会風刺,ラブソング,コミックソングなど,おおまかなジャンルを設定したうえで,主題を決めます。この段階でタイトルまでできあがっていることもあります。
STEP② 曲の雰囲気を考える
 メジャー調かマイナー調か,テンポはアップかスローかミディアムか,などです。この段階で,ピアノ主体かギター主体かも決めておきます。
STEP③ コードを考える
 コードと言っても無限にあるわけではないので,どんな組み合わせ方をしても,たいていは何かの曲と似た感じになります。そこで,リズムを変えたりテンポを変えたり試行錯誤して,真新しさが出せるように工夫します。
STEP④ メロディーを考える
 ③で決めたコードにメロディーを乗せます。この作業の中で,②や③が軌道修正されることもあります。
STEP⑤ パート編成を考える
 ②の段階で,ピアノ主体かギター主体かは決めましたが,全体のサウンドをどの楽器で構成するかを決めます。たとえばピアノ主体なら,ギターを入れるのか入れないのか。入れるとしたらどのタイミングから入れるのか。間奏のソロはエレキギターなのかオルガンなのか。といったことを決めるわけです。
STEP⑥ 実際に演奏してみる
 ここまですれば,曲の全体像ができあがっていますので,ピアノだけ,あるいはギターだけで通して弾き語ります。しっくりくる状態になったら完成。ここから作詞に取りかかります。

 全部が全部このフローというわけではありませんが,基本的な形は上記のとおりです。③で書いたように,ほとんどのコードパターンは使い尽くされていますので,「○○のパクリじゃん!」と言われないように手を加えなければいけないという制約があるのですが,その制約の中で作曲するのが結構楽しいんです。
 あと,別の記事で詳しく書こうと思っていますが,楽譜は一切使いません。サラの紙にコード表を書くだけです。

 ということで,今回は曲作りの手法について書きました。偉そうにいろいろと書きましたが,私は音楽理論なるものは全然持ち合わせておらず,常に自分の感性だけを頼りにやっています。このやり方ではいつか限界がくるのではないかとビクビクしながら。