ちょっとブログを休憩した。

別に何があったわけでもなく、ただちょっと仕事や心が忙しかったから。
昨日などは書こうと思えば全然書けたが、ちょっと書かずにおくとそういう体になってしまうらしい。

そんな今日、不意にラジオから「毎日やることの意義」を説かれ、やはりそういう話に納得ができるから休憩終了、今夜は再開だ、という運び。
かと言って、別に大きな書きたいことがあるわけでもないのはいつもの調子。

週末が嬉しいのはかれこれ3か月ぶりくらいだろうか。
昨夜はレモンハイなんて買って帰ってきた。久しぶりの飲酒である。
先週はほとんど以前のように出勤し、朝の早いリズムに体が馴れず、終始時差ボケのような心地だった。
そんな体調も相まってか、たった一缶のチューハイでゆるやかに寝入ってしまった。
方々の電気つけっぱなしで。
途中何度か目が開いた気がするが、そのまま朝まで。

本当に、いつになれば「街へくり出そう」のモードになるのだろうか。

今日も、新聞やら昼食やら飲み物やらを買いに昼夕コンビニに行くだけ、後はひたすら在宅を、ストレス絶無で過ごした自分に驚いている。
しかも、日付けが変わろうとしているこの時間になっても、まだ新聞は目を通していないページがいくつも残っている。それくらい、なんやかやで忙しくしている。すべて愚にもつかぬことである。

19時からなんて最高だった。
「配信ポッド許可局」をネット視聴。大好きな東京ポッド許可局のイベントが、オンラインで開催されたのだ。
買ってきた黒ラベルを、トマトジュースで割って呑みながら見て満悦を極めた。最後のゲスト時間が満悦最高値をさらに更新させてくれた。
アーカイブで再視聴必至。

嬉しい誤算は、トマトジュースが三分の一ほど残ったこと。
ためらいなく俺は、それをトマトリゾットに使うことにした。
前に作ったトマトリゾットに勝算を得たのだ。それで再挑戦。
ただでさえ小ぶりなトマト2個使うつもりだったから、かなり豪華なものができた。
玉ねぎ大1個、細アスパラ4本、しめじ二分の一パック。具が多すぎて米は20ccも入れなかったと思う。
噂には聞いていたがトマトジュース、料理に使うのはありだな。

こんなんでも、文章を書くことはやっぱりいいな、と再確認。
今日の朝日新聞「折々のことば」を読んだ。
柳田邦男の言葉が引かれている。

“文章を書くということは文脈を作ることになるのです”

書くことで、散らかった思いを僅かなりとも整理できる、とあった。
確かにそうだと思う。「僅かなりとも」が特に気に入った。
心の内にあるものを、書けば書くほどどんどん遠ざかるようなこともあるけれど。それはそれで、「これじゃない」と顕在化されるのも効能か。

いつ何をやったっていいのだ。休憩を挟みながら。再開、再会、再出発。再はこれからも何度もある。ひょっとすると、「新」よりも多く?

年下だけどとても尊敬している同僚がいる。

その人は、ここ何年か重要でとても大変なポジションを引き受けてくれていて、今年外れることができたはずなのだが、「コロナで先が見えない状況なので、自分で役に立てるのなら」と自ら名乗り出たのだ。

新年度を迎えようかというところ、予想を裏切ることなくコロナは広がり続け、新年度に入っても予想をはるかに上回る威力を振るい、世界は自分たちに我慢を強いる対抗策を取らざるを得なくなった。

分かりやすいものでいえば、政府による緊急事態宣言。
それ一発で、多くの人と同じように、仕事には様々な制限がかかる。
それによって、同僚は、僕たちを代表して、こんな中でもできることを考え、提案し、意見をもらい、改善し、再提案し、を繰り返してきた。

その人のことを悪く言う人が誰もいないことを、僕は知っている。
小さな陰口ひとつとして聞いたことがない。

理由ははっきり分かっている。
誰よりも一生懸命だからだ。

ちょっと意地悪な見方をしてみるとする。
その人はとても賢い。
その人が受け持ってくれているポジションは、やりたいからと誰にでもおいそれと務まるものではない。
だから単純に、人を選ぶ。該当する人は、その人含め、ごく少数しかいない。ちなみに、自分はそこにかすりもしない。
じゃあ、できる人がやることになるよね。
それで、なったら頑張るしかないよね。怠惰でいれば乗組員全員で沈むことがはっきりしているから。
「できる人」だから、上手くやれるよね。
大変な仕事を上手くやってくれたなら、そりゃみんなから称賛されるよね。

できる人というのは世の中にいる。
できる人、とは、いつからできる人だったのだろう。
「できる」とは「できない」の対であるから、「できる」の経験ばかりでいられることはあり得ない。
はっきりと「できない」期があったのかもしれないし、又は、できていくに連れて自分の中の「できない」が大きくなっていくようなこともあったのかもしれない。

その人のことは分からないが、とにかく、問題に対して勝ち筋を見てばかりきたはずがない。
努力して、勉強して、そうして積み上げたのが今の姿ということ。
とてもよくできるから、時々自分とは違う生き物かと思いそうになるが、そう考えると、きちんと自分のような人間の延長にいる人だなとよく分かる。

僕はその人とけっこう仲がいい。
というか、誰とでも仲がいい。僕が、じゃない、その人が、誰とでも仲がいい。
仲がいいから、よく冗談を飛ばし合う。なんというか、「くだけた職場仲間」だから、素直に褒めちぎることも照れ臭くないし、ひたすら馬鹿話するのもやぶさかではない。

その人は今日も、それは立派な仕事を全体の前でしてくれた。
その後すぐ、トイレで一緒になったから、思ったことを言った。
「ほんまにいつも話が分かりやくて、一つひとつ理解できていく上で、正しいなぁって思えるねん」
すると、とても恐縮っす顔で、
「ほんまですか? いやほんま、いつもどきどきっすよ。みなさんの前で話さなあかんとき、前夜、寝る前にめっちゃ練習しますもん」

今年度を迎える前、新年度へ向けての体制を話し合う会議に出た。
その人は、次の一年はコロナで大幅な変更が生じて混乱するだろうから、と本来降りれたはずの重要だが大変なポジションを自ら継続した。
「僕も、よろしければ引き続き名前入れておいてください」と、僕も言った。
その人ほどではないが、自分も、誰もやりたがらないポジションをここ何年か務めさせてもらっている。

今年もやります、と言ったことによって感謝されたりもした。
感謝されて満たされる部分は確かにあるが、それでも、どこか大きな別のところでは全然違うモチベーションが蠢いていたのだ。
(この人のように、なりたい)

どたばたの新年度から約2か月になろうとしている。
緊急事態宣言が一過し、そこに残ったのは、今年度、僕が影響力を持つ仕事の中止。
依然としてコロナの不安はあり続けるとのことで、これは仕方のないことだった。
そこで僕は、正直言うと、少しホッとした。
「とてもあんなふうには仕事ができそうもない」

緊急事態宣言の間ずっと、職場の舵をとり続けるその仕事ぶりをずっと見てきた。
「できる人」のすごみが、また一段階上がったんじゃないかとさえ思う。
その一段階上がる過程を見た気がする。それはあまりにも地道な熟考と話し合いの連続。
結局は、一つひとつの積み重ねなのであって、月並みなまとめかもしれないが、「できる人」とは、積み重ねる作業ができる人のことを言うのではないかと思ったのだ。
誰にでもできる「一つ積む」を、繰り返し繰り返し重ねていくこと。
緊急事態宣言が解除されて初めての週末が終わろうとしている。

昨日書いたように、金・土は実家に帰ったが、今日は一日じっと家にいた。

それが当たり前の生活スタイルだったから特に不自由はもう感じないけれど、まぁ一応外出可になったことからすれば、巣ごもりしていたことはちょっと異常である。

コロナが蔓延る前は、休日、誰かと会う予定がなくても、必ず一人でどこかには出かけていた。単純に、家にい続けることに耐えられなくなるから。
それが今やすっかり、まったく一人でいても容易く自分の機嫌を取ることができるようになっている。
うっかりまだ緊急事態宣言下にあるように思ってしまう。いやそれくらいの気構えでもいいと思うが。

仕事が、一応本格的に、とは言え段階的だが、再始動する。
不安は、生活リズムを戻せるかどうか。
はっきりと乱れまくっていたから、これは大変だろうなぁ。しかもその期間たるや、これまでのどんな長期休暇の比ではない。

またコロナ前のように、いつもの時間に、いつものメンバーでの仕事の毎日になる。
前にも書いたが、そのとき、きっと、「あれ? 新しい能力身につけた?」みたいな驚きが見られるだろう。
会うたびに「ひたすらだらけてしまって、何もしていないわ〜」とどの同僚も言うが、知っているのだ、人はだいたいそうやってこちらの守備力を下げようとすることを。

そんなふうに謙遜を美徳とする向きもあるだろうが、実際、自覚していないが確かに身についた能力はあるに違いない。
自分でさえ、それが何であるか分からないけれど、巣ごもり(=合宿)で身につけた何かしらはあると思うのだ。

さっき、日課となっていた夜の散歩に行ってきた。こんなに毎日行ける日々は、一旦最後だろうと思ったから。
21時頃。まず、ジョギングなど含め、外で見かける人の数が多い。運動の人もいるが、帰宅なのか移動中の人も多く目についた。
大学生くらいの小集団もたくさん見かけた。
そして、お店で楽しそうに呑んでいる人たちもそれなりに見た。
この町の日曜日って、こんな感じだったなぁと、かなりの確度で思い出した。

こんなふうに、ほどなく活気を取り戻していくのだろうなと、なんとなく見えた。

素人なりの展望だが、解除されたから、慎重な日本人とは言え、人の移動はぐんと増えるに違いない。
それに伴って、一度、感染者数は増えるだろう。
そこでだ。
それくらいの想定できそうなことを念頭に入れておくこと。それはこちらがやらなければいけない仕事だ。
(そんな人あまりいないと思うが)何も考えなしにいて、一旦増えた感染者数の報道を見て、鬼の首を取ったかのような大声を上げる様だけは勘弁してほしい。
とにかく、自分でも考えよう、ということ。
よく言われるんだよなぁ。そうだ……! と、めっちゃ悔しい気持ちになるやつ。
実家に帰り、美容院にも行ってきた。

まずは実家。
やはり、たかだか2か月ぶりだとそう大して何も変わらない。
訊ねられるのは近況。職場の日々とか、今後の見通しとかが興味を惹くようだ。

あとは、テレビから流れる時々ニュースを話題としてあれこれ話す。
これまででいちばん、親と対等に世の中について話ができた日だったように思えて、話しながらもそのことに終始驚いていた自分だったように思う。

ただでさえ世間が在宅ムードで必然的にニュースに触れることが多い日々だ。
それを差し引いても、市井に生きるならば「なんか変じゃない?」と思うようなことが起こりすぎている日々だとも思う。
詳細に語れるかどうかは大きな問題ではなく、違和感を覚えるとか、「なんか気持ち悪い」と喉の通りが悪い話が多い。

それらが理由で、テレビを持たない自分が、自ら新聞を買ってはせっせと読むようになった。
おかげで、ホットな話題については両親と話せるくらいにはなったのかなぁと実感したのだった。

新聞とテレビから主に情報を仕入れる両親と、新聞とネットニュースと、あとは時事を扱うYouTuber(プチ鹿島さんとダースレイダーさんが白眉)から情報を仕入れる僕。
すると若干、両親と自分との間に、持つ知識や見方に違いがあって、それによって話していておもしろさが増していた。

かつて実家暮らしだったときは、基本的には親と同じところから情報を得ていたものだから、ニュースについて話していてもそれほど幅は広がっていなかったように思う。以前との大きな違いが見えておもしろかった。

母は母なりにテレワークを頑張っているようで、帰省したとき僕が寝る部屋(かつての僕の部屋)を、急ごしらえのテレワーク部屋にしていて立派だった。
いつも家族優先で、「欲しい欲しい」と言いながら決して自分の部屋、スペースさえも持とうとしなかった母が、そんなふうに「自分の城」を構えていたことが、なんだか妙に嬉しく感じたのだった。

実家に一泊し、一人暮らしに帰る前に、恒例の美容院。
「来たくてもなかなか来れなくて……」と言うと、仕方ないですよねーと笑っていた。
やはりお客さんはぐっと減っていたらしい。でも、経営が立ち行かなくなるとか、そういう心配は、一応全然なかったそう。
先週くらいから客足が戻ってきて、この週末なんてめちゃめちゃ忙しいみたい。

そんな感じに、多分どこもみんな同じ風な、然るべき話題の会話に終始する。
楽器で言うチューニングみたいなものかもしれない。今日を経て、次回からいつもの調子に戻る、みたいな。

2か月分、たっぷり伸びていてくれたから、「ちょっといつもと感じ変えてみますね」と狙いどおり、新しい髪型を提案してもらえた。
長いところを活かして、さっぱりと仕上げてもらう。
要求せずとも、希望を叶えてくれるから、やはり行きつけのここがいいなぁと再認識した。
落ちた髪の毛の量を見て、あぁこれが「時間」だ、と思う。

整髪料でセットしてもらう。
プロはすごいね。手から何か、セットを持続させる成分が滲み出ているのだろうか。同じものを使って同じ手順を心がけても絶対再現できないもの。

途中下車して久々に街を流そうかと思ったが、ちょっと心と体に負荷がかかる気がしてやめた。まっすぐ帰る。

慣らし運転が、どうやら一つひとつに必要だ。
何も考えずにいると、うっかり頑張りすぎちゃう人が多発すると見る。
今日、美容院へ行く予約を取った。
2か月ぶりに、髪を切ってもらえる。
いつもなら毎月必ず行っていたのだから、2か月分伸び、膨らんだと思うと、髪の毛周りも非常事態なのだろう。
それを実感するのはきっと、すべてが終わった後、出来上がりの自分、そして床に落ちた髪を見たときだと思う。
それは、目に見える「時間」。
なんだかいつになく楽しみに思えてきた。

いつかブログでも書いたが、地元の美容院に通っている。
だからほぼ必ず、帰省とセットなのだ。
ということは、毎月帰省をしていたところ、それ自体も2か月ぶり。

この間、美容院からはさすがに「おーい、来ないんか?」とLINEが来ることはないが、実家からは来る。
一応県内の移動で、距離も、誰に聞いても「遠いね」なんて言われない。
だから地元に帰れなくもなかったのかもしれないが、なかなか律儀に自粛を通してきているなぁと思う。ともすると自分に対して「頑固」とか「意地」とか思ってしまうほどに。

一つは、帰省のためには利用者の多い電車に乗らないといけないことがあった。
電車の車内感染は自分の中でシビアに思うところがあるため、頑固に帰省を我慢するに足る理由だったと思う。

でも多分、意地になって帰省を自粛する最大の理由は、「こんなこと、今しかできないから」があるように思う。
いつものペースを崩して2か月ぶりに帰省&髪を切るなんて、平常時ではあり得ない。し、そんな発想すら出てこないはず。
仕方ないこととは言え、今しかできないことがあるならば、思いきってそっちに乗っかるほうが良い経験になると思うのだ。
(ちょっとお遊びっぽく言っているかもしれないが、自分に対してのみそう思っています。)

これだけ物も情報も溢れた時代、あ、と思ったタイミングで得ようとしなければ、たちどころに埋もれてしまってもうそれきりになる。
この自粛も、(できるものに関しては)いっそ思いっきり自粛する方が得られるものが多いと思った。必要最小限の自粛をしながら、平常時に近づけようと画策することよりも。

特に美容師さんとは、2か月ぶりの会話になる。
話すのがとても楽しみだ。
「しばしの別れは次に会うときの楽しみをくれるもの」と思っているが、まさにそれ。
実家とは、時々メッセージのやり取りはあるから、さほど久しぶり感はないかもしれない……。

おかげさまで2か月伸び放題だった髪の毛、しっかり長くなってしまったから、逆にそれを活かしたスタイルをお願いしてみようか。
いくらでもポジティブに捉えられる切り替えポイントに、今立っている感。

わーわー言うとりますが、この後、懸念していた電車に乗って帰省するのだ。
「気を緩めないように」
自分から自分に言っておこう。承知しました。