年下だけどとても尊敬している同僚がいる。

その人は、ここ何年か重要でとても大変なポジションを引き受けてくれていて、今年外れることができたはずなのだが、「コロナで先が見えない状況なので、自分で役に立てるのなら」と自ら名乗り出たのだ。

新年度を迎えようかというところ、予想を裏切ることなくコロナは広がり続け、新年度に入っても予想をはるかに上回る威力を振るい、世界は自分たちに我慢を強いる対抗策を取らざるを得なくなった。

分かりやすいものでいえば、政府による緊急事態宣言。
それ一発で、多くの人と同じように、仕事には様々な制限がかかる。
それによって、同僚は、僕たちを代表して、こんな中でもできることを考え、提案し、意見をもらい、改善し、再提案し、を繰り返してきた。

その人のことを悪く言う人が誰もいないことを、僕は知っている。
小さな陰口ひとつとして聞いたことがない。

理由ははっきり分かっている。
誰よりも一生懸命だからだ。

ちょっと意地悪な見方をしてみるとする。
その人はとても賢い。
その人が受け持ってくれているポジションは、やりたいからと誰にでもおいそれと務まるものではない。
だから単純に、人を選ぶ。該当する人は、その人含め、ごく少数しかいない。ちなみに、自分はそこにかすりもしない。
じゃあ、できる人がやることになるよね。
それで、なったら頑張るしかないよね。怠惰でいれば乗組員全員で沈むことがはっきりしているから。
「できる人」だから、上手くやれるよね。
大変な仕事を上手くやってくれたなら、そりゃみんなから称賛されるよね。

できる人というのは世の中にいる。
できる人、とは、いつからできる人だったのだろう。
「できる」とは「できない」の対であるから、「できる」の経験ばかりでいられることはあり得ない。
はっきりと「できない」期があったのかもしれないし、又は、できていくに連れて自分の中の「できない」が大きくなっていくようなこともあったのかもしれない。

その人のことは分からないが、とにかく、問題に対して勝ち筋を見てばかりきたはずがない。
努力して、勉強して、そうして積み上げたのが今の姿ということ。
とてもよくできるから、時々自分とは違う生き物かと思いそうになるが、そう考えると、きちんと自分のような人間の延長にいる人だなとよく分かる。

僕はその人とけっこう仲がいい。
というか、誰とでも仲がいい。僕が、じゃない、その人が、誰とでも仲がいい。
仲がいいから、よく冗談を飛ばし合う。なんというか、「くだけた職場仲間」だから、素直に褒めちぎることも照れ臭くないし、ひたすら馬鹿話するのもやぶさかではない。

その人は今日も、それは立派な仕事を全体の前でしてくれた。
その後すぐ、トイレで一緒になったから、思ったことを言った。
「ほんまにいつも話が分かりやくて、一つひとつ理解できていく上で、正しいなぁって思えるねん」
すると、とても恐縮っす顔で、
「ほんまですか? いやほんま、いつもどきどきっすよ。みなさんの前で話さなあかんとき、前夜、寝る前にめっちゃ練習しますもん」

今年度を迎える前、新年度へ向けての体制を話し合う会議に出た。
その人は、次の一年はコロナで大幅な変更が生じて混乱するだろうから、と本来降りれたはずの重要だが大変なポジションを自ら継続した。
「僕も、よろしければ引き続き名前入れておいてください」と、僕も言った。
その人ほどではないが、自分も、誰もやりたがらないポジションをここ何年か務めさせてもらっている。

今年もやります、と言ったことによって感謝されたりもした。
感謝されて満たされる部分は確かにあるが、それでも、どこか大きな別のところでは全然違うモチベーションが蠢いていたのだ。
(この人のように、なりたい)

どたばたの新年度から約2か月になろうとしている。
緊急事態宣言が一過し、そこに残ったのは、今年度、僕が影響力を持つ仕事の中止。
依然としてコロナの不安はあり続けるとのことで、これは仕方のないことだった。
そこで僕は、正直言うと、少しホッとした。
「とてもあんなふうには仕事ができそうもない」

緊急事態宣言の間ずっと、職場の舵をとり続けるその仕事ぶりをずっと見てきた。
「できる人」のすごみが、また一段階上がったんじゃないかとさえ思う。
その一段階上がる過程を見た気がする。それはあまりにも地道な熟考と話し合いの連続。
結局は、一つひとつの積み重ねなのであって、月並みなまとめかもしれないが、「できる人」とは、積み重ねる作業ができる人のことを言うのではないかと思ったのだ。
誰にでもできる「一つ積む」を、繰り返し繰り返し重ねていくこと。