水曜日
午前11時30分 消化器造影室
もっかのところ、僕と石川先生は「総胆管結石の粉砕」中。
手は胆道鏡、目は胆道鏡の動きから離せない。
カラー画像は胆道鏡の先端だ、胆管を詰まらせている黒色の「総胆管結石」が映る。
「…古代とか、旅の経過はややこしいから、すっ飛ばして。女神の古代ローマ名はディアナ、ギリシア名は豊穣の女神アルテミス、それでオッケー。忙しいんで、切ります」
背後で外来ナース島崎君がややぶっきらぼうに、通話を終えた。
彼の首には僕のピッチが下がっている。手が離せない僕が、彼に預けた。
再びピッチが鳴った、忙しい時は「至急」が続くもんだ。
「次は、誰だ…。ああ福田主任…えっ、ミラさんの状態変化を報告したい?」
ミラ、どうしたのだろう。
「低めの血圧は88/50mmhg、再検しても同程度。更に微熱 37.8度。おそらく倦怠感で不機嫌、でも間食はしてる。一太先生、ミラさん様子見でいいですかって」
主任が僕の判断を仰ぐ小さな変化は、ミラの病状では早めに原因を探り、対処すべきだ。
ミラは朝一で脳MRIとMRA検査と、脳神経内科の診察を受けた。それ以外、特別なエピソードは無かった。
「石川君、至急で採血と、胸部レントゲン検査を入れて下さい。その結果で、オーダーを出すかもしれません」
「了解しました」
その旨、島崎君を通して福田主任へ伝言した。
午後、ミラの治療方針についてインフォームド・コンセントがある。脳神経内科の結果と、今の変化も、加える事になりそうだ。
さて総胆管結石の処置に集中、集中だ。
鎮静を掛けた患者さまは、先週の土曜日、総胆管結石と胆管炎、閉塞性黄疸で緊急入院された。柿沢正弘さん(68)歳。
山路先生がERCP(内視鏡的逆行性膵胆管造影)で、総胆管へENBDチューブを挿入した。
このチューブは胆汁の排泄を促して(内視鏡的経鼻胆管ドレナージ)、同時に減黄と胆管炎の進行を予防した。
今日はこのチューブを、応用している。
逆行性に胆道鏡を挿入して、総胆管結石を粉砕したり、砕石用バスケットで取る。
胆道鏡の入り口になる「十二指腸乳頭部」は、胆管と膵管が合流する出口だ。
乳頭部は消化に関係する強力な胆汁と膵液が、十二指腸へ流れ出る。繊細な場所の治療だけに、胆管炎や膵炎を起こしやすい。
だから僕らも、かなり神経を使う。
「柿沢さんキツイ処置を、ごめんなさいね]
眠っていても、右腹部に違和感を感じているかもしれない。
僕の声かけに柿沢さんは閉眼したまま微動だにしない、でも体に取り付けたモニター類が示す値は安定している、順調に進んでいるサインだ。
僕は胆道鏡から出る特殊な衝撃波を、もう一度結石へ当てた。
「よしよし。一つ目、砕けました」
島崎君が画像を指す。
細かくなった石は、自然と十二指腸へ流れていくので問題ない。
「一太先生。奥にある結石は、粉砕しなくてもバスケットで取れますね」
うん、いけるだろう。次の結石は通称バスケット…把持鉗子で取る。
黒色の胆石は、ガイウスのお腹を詰まらせていた大きな胃石と、色だけは似ている。
柿沢さんの結石は、あの胃石よりも遥かに小さい。
しかし総胆管には結石が数個、詰まっている。手術はしなくても済みそうだが、仮に結石を全て除去できても、炎症や黄疸がおさまるまで、しばらくチューブは留置する。
それから1時間後。
柿沢さんは無事に家族の待つ、病室510号室へ帰室した。
結石は、全て胆道鏡で取り除けた。この先は合併症の有無、検査データーを参考にしながら、早めの退院が可能だ。
怒涛の緊急入院だっただけに、ご家族も緊張が続いたのだろう。
仕事を休んで駆け付けた長女さん夫婦と、お孫さんと手を繋ぐ奥さんが、安堵の溜息を漏らす、そんな報告をできた。
役目を終えた僕も、頭から滴り落ちる汗を手で拭いながら、肩の荷が降りた。
そのまま今度は予備室へ、気がかりだったミラの診察へまわりかけたが。そうは問屋が降ろさない、ピッチが鳴った。
他科依頼で、緊急の精査依頼が入った。主訴は熱発、皮膚と眼球の黄染、右季肋部痛。
仕方ない、ミラの診察は後だ。
僕は回れ右、面談室の前を通り過ぎた。
エレベーター脇の階段を駆け下りた。
僕は造影室へ舞い戻った。
「ああ一太先生…お疲れさまっす…」
「島崎君、準備宜しくね」
最初、腹部エコーに廻った患者さまが来るまで時間がある。まずミラのデーター諸々、カルテをチェックした。必要な指示変更、追加オーダーを出した。
福田主任への一報も忘れない。ちょうどガイウス達が面会に訪れていた、簡単な状況説明を頼んだ。
その後、他科に入院中の男性患者さまは、検査の結果「肝内結石」が判明した。
患者さまは、柿沢さんの年齢と患部よりも上…肝臓の中「肝内肝管」に結石がある。
一先ず緊急処置。
経皮的…皮膚からチューブを挿入して、胆汁を体の外へ出すPTCD「経皮経肝胆管ドレナージ」を行った。治療は全身の状態を確認してから決定。
緊急なので、入院する呼吸器外科へ帰室された。
時間はあっという間に過ぎた。
既に15時をまわっている。
僕は汗だくになったスクラブを着替えて、ギリギリ、ミラのインフォームドコンセントに間に合った。
面談室には、御馴染みキーパーソントリオと、ディアナ探索から戻ったガイウスも同席した。
福田主任はミラの治療について、内容別のパンフレットを、キーパーソン達へ渡した。
ガイウスは持参したファイルに、早速受け取った冊子を挟んでいる。
赤いファイルには几帳面にミラの検査類が、種類別に閉じてある。
彼が開いたページは、ミラの年齢が分かる、血管年齢やホルモン値などを表示する。
ミラは西暦170年8月、急性アナフィラキシーショックのため、29歳で旅立った。
病気の発症と当時に「年齢を維持する魔法」が溶けてしまった。検査結果では推定、現在48歳。
さて口火を切ったのは、勤勉なガイウスと知恵の女神ミネルヴァだった。
「ミラ自身、治療への希望は、痛くない、それだけでした。彼女には病状も治療も、包み隠さず、分かりやすく説明して下さい。内容は忘れてしまうでしょうが、私達もフォローします」
ガイウスは一瞬、フォローに役つファイルへ視線を落とした。
現在のミラは記憶障害もある、せん妄も完全に消失してない。物事をざっくり捉える意識状態だ。だから自らの治療に対してもキーワード、簡潔に希望を述べていた。
「知っての通り、魔法が溶けた肉体は、年齢が加速して進む。これだけでなく、他のわけもあってミラには、できるかぎり低侵襲の治療をお願いしたい」
ミネルヴァはガイウスから赤いファイルを受け取った。これを開き、ミラの年齢が分かる、血管年齢やホルモン値などを表示した。
ミラは西暦170年8月、アナフィラキシーショックのため29歳で旅立った。
病気の発症と当時に「年齢を維持する魔法」が溶けてしまった。
検査による推定値は、現在48歳だ。
過去ミラへ魔法をかけた女神ディアナが、フォロ・ロマーノへ無事に戻った。
神々もミラの今後について、会議を開いた。
彼女の治療が一段落して病態が安定したら、「魔法をリトライ」が決定した。
しかしこれも「侵襲」が大きい、「急変」の可能性もある。
そのため、入院中の実地を希望された。
だからできる限り、ミラの心身に掛かる負荷を軽くしておきたい。勘違いしないで欲しい、治療途中での「万が一」、神格化も危うい事は視野に入れている。
ミネルヴァは神々の葛藤まで、赤裸々に明かした。
「了解しましたけん。皆さんの希望に近い治療内容を、準備しとるけんねえ」
「魔法のリトライって、身体へ侵襲が大きいのかあ、勉強になるな…。担当ナースに、看護計画を立てて貰わないとなあ…」
僕の左隣では福田主任が独りごちながら、タブレットに看護記録を打ち込んでいる。
「それでですねえ。ミラさんの膵臓のインスリノーマと肝臓の転移、治療は別々に取り組むつもりですう」
僕ら消化器外科内科医師も、ミラの特殊な事情は、ある程度把握していた。
だからミラの個別的な治療は検討を重ねた、一昨日の症例検討会で最終決定した。
ウェヌスも毎日面会に来ている、羽沢クリニックのフォローから、ミラの経過をよく知る。僕の胸に刺さる言葉だ。
ミラは腹部を始め全身に、現役時代の傷が多く残る。傷の発生は防具を未使用だった、ならではの事情も関係した。
グラディエーターは腕や脛を金属性の装具で保護した、これはミラも然り。
さらに種目別に青銅製のマスクを始め、防具を身に付けて、得意技を魅せた。
防具の種類によって、重さは20キロ近くになったらしい。ローマ兵の装備より重かったそうだ。
流石に女性選手は、重量のある防具使いこなせなかった。
かつての主治医フェリクスの診療記録にも、ミラが練習以外で防具を付けた記述はない。
「それでもごめんなさいねえ、腹腔鏡手術でも傷は出来てしまうけん。大きさは5mmから1cmくらい、術後の痛みも発生してしまいますう」
立花先生はお詫びしたあと、腹腔鏡手術の画像を開いて、傷の位置を示した。
「パンフレットにも、傷が載っています。ご覧下さい」
主任はパソコンから離れた位置に座る、ウェヌスと真紀子さんに該当ページを伝えた。
腹腔鏡手術はお腹をガスで膨らませて、数か所を切開する。ここから必要な器具を通す。
「次に多発性肝臓転移の治療ですけんが、肝動脈化学塞栓術を考えとりますう」
肝臓転移は全部で4つ、場所は肝臓の左葉と右葉だ。
先週行った血管造影の3D画像、ラクビーボールのような形をした肝臓がデンと、空間に浮かんで見える。
4つの腫瘍は、赤く表示される。腫瘍に繋がる肝動脈と肝静脈、太い門脈と下大静脈も色分けされている。
先生は肝臓を回しながら説明する、キーパーソン達も把握しやすいだろう。
静止画面では向かって右側、左葉を時計回りに、S2・S3・S4に転移した腫瘍は3つ。
大きさは20mmから30mm。
右葉S7区域は、背中側に位置する。先生は肝臓をぐるっと回転した。S7の腫瘍が45mmと大きい事が見てとれる。
4つ腫瘍は肝機能にも、徐々に影響を及ぼしている。午前中ミラに現れた変化は、肝機能低下の影響も出ていた。
インスリン―マの肝臓転移も、手術が第一選択だ。しかしミラの場合、出血過多や腫瘍を取り切れないなど、リスクの可能性が高くなってしまう、手術は適切でない。
「肝臓の手術は難しい、これは予測していた。ねえ、ガイウス」
「ええ。それを見越して、友人の中沢さんから塞栓術に関しても、実際の様子を伺ってました。だから治療のイメージは、掴んでます」
「ガイウスさんとミネルヴァさんは病気について随分、学んだとねえ。肝動脈化学塞栓術は腫瘍の栄養血管へ薬剤を注入して、塞栓物質を詰めますう。腫瘍だけにシュヨウ基地の補給路を断って、陥落させる作戦だけん。今週の金曜日、一太先生が行いますう」
立花先生は左右肝動脈と、そこから分岐して「シュヨウ基地」へ栄養を補給する血管を、ここぞとばかり何度もペンでなぞった。
ガイウスとミネルヴァは、肝動脈から分岐する血管を目で追い、「通り道」を確かめている。
そこで僕は血管造影でのカテーテルの「通り道」を、穿刺部位…鼠径部の血管に遡って腫瘍までの道のりを話した。
「アハハ!ご家族にも噂になってる里ちゃん節、たくさん聞いちゃった。あっ、ごめんなさい」
『ハハハッ…』
先生なりの気遣い、ユーモアがジワジワ効いてきたのか。堪え切れなくなったんだろう、笑い上戸のウェヌスが噴き出した。釣られるように他のメンバーも、初めてクスっと微笑んだ。
良かった…硬かった空気が、いくらかゆるんできた。
そうそうガイウスは闘病仲間、退院した中沢さんから、血管造影による肝臓癌の治療体験を聞いていた。
ガイウスの勤勉さは、皇帝時代の面影を彷彿とさせる…なんて感慨に耽る情報源は、ローマ帝国オタク・倫太郎だ。
かつて即位前のガイウスは、文武両道バランスの取れていた前皇帝ティべりウスから、帝政を維持するリーダーシップを学んだ。
即位できずマラリアで亡くなった彼の父親も、ティべリウスの信頼厚い部下だった。
うーん育った環境や経験が、現在進行形でガイウスの血や肉となり、息づいているのだな。
以上ガイウスの勤勉さを考察して、実は僕もプレッシャーを和らげた。ミラの病状と治療は、正直ハードだから。
先生はゆっくり、先を進めた。
そして肝機能低下に対して。
ヘモグロビンの低下は、いわゆる貧血なのだが。この鉄不足については、同時にフェリチンも低下していた。肝臓にある「貯蔵鉄」の減少も意味する。これは鉄剤を補充して対処する。
低タンパク・低アルブミン血症は、本日から3日間アルブミンの投与を始めた。これは肝機能を補う。免疫機能や解毒機能の改善にも、効果を期待する。
「こういうアップダウンは、病気の進行だけでなく、今後は治療の合併症としても、出現するでしょう。その都度、対応していきます」
症状コントロールを続ける。
「アタシ達ね福田主任から、状態変化についてザックリ教えて貰って、病状を悪い方へ考えてしまっていたの。気にしないでね、主任のせいじゃないわよ。今こそ南向きの窓、外を見るべし、皆が癒されるって本当ね」
感情表現豊かなウェヌスのお陰で、再び重たくなっていた空気が、もう一度流れた。
光のカーテンが幾筋もキラーン、降り注いでいた。
なんだか…アリーナへ注がれる様だ。
「いよいよメイン・イベントが始まる。太陽光をスポットライト代わりに、グラジエイタアー・ミラが、上がり舞台から、グワーッと登場するようですけんねえ」
数少ない女性剣闘士の試合は、満員の客席から大歓声が湧き起こったろう。
「立花先生、よくご存じね。古代ローマ世界では、現代に引き継がれる優れた舞台技術を持っていた。お客さんがあっと驚く凝った演出も、実は剣闘士競技の見所、人気の秘訣だったわ」
へえ、試合を盛り上げる工夫が凝らされていたんだなあ。
凝った演出で登場した格闘家たちは、10分間の短い試合に挑んだ。青銅製の盾やマスクを身に付けて、人並み外れた技を披露した。
「現代でも格闘家のパフォーマンスに、興奮するでしょう。剣闘士の試合も同じ。アタシはハンサムな騎馬闘士に萌えたなあ。外見はキュートなミラは、熱狂的なファンが大勢いたわ」
ファン選手を思い出したウェヌスは、頬が紅潮してきた。
「アリーナは赤い波打つ、こう捉えがちだったけど。ちゃんと審判もいてルール、選手を守った。視野広げると景色も違って見えてくる。彼の昔話で長年抱えてきた、この競技に対する違和感が、解消したんです」
真紀子さんは伝令の神メルクリウスがパートナーだけあり、当時の景色へ想い巡らす。
彼女は競技の「一般的な視線」に、違和感を覚えていた、倫太郎みたいだ。
「一般的な視線」、それは仕方ない。
ようやく引き上げた皇帝カリグラの船が燃えてしまったように、人間が長年繰り返している事象も、影を落としているだろう。
ゲームや映画、アニメや漫画で、類似した物を体感できてしまう。当時はそれを人間、ほぼプロ選手が挑んでいた。
10試合中、9人は無事に帰宅した。魂の行進へ進んだ者に対しては、主催者がチームのオーナーへ賠償を払った。
大事な選手に対して衣食住、医療までサポートもあった。決して命を軽んじていた訳じゃない、僕なりの解釈だ。
「私も前世では選手や、剣闘士競技に夢中だったかもしれない。だからピエタ…ピエタ、人間と命へ、慈しみがあればいい。今の私はそう思ってます」
真面目な真紀子さんらしい優しい捉え方は、僕も同感。
伝令の神メルクリウスは、かつて広大なローマ領内を西から東へ飛び回った。仕事の合間を縫って、各都市の円型競技場で試合観戦をした。
当然、長期記憶に残っていた。フォロ・ロマーノ会議で「生前のミラ」を共有するうちに、剣闘士競技をリアルに思い出した。
彼は冥界の遣いもこなしていた。時には「魂の行進」、こちらの仕事も一部、関わっていた。
行進を終えた魂たちを、一休みする光の場所へ案内していた。
ハードスケジュールだった剣闘士チームも、広すぎる国内を巡業して廻っていた。メルクリウスと親しい選手もいた。
お守りだったのか、選手の中には防具にメルクリウスの翼や、戦いの女神ミネルヴァの姿を刻んだ選手もいた。
「ミラさんを始め皆さんとの関りを通して、私はフェリクス先生のようなグラジエイタアー専属医師を身近に感じるけん。不思議ですねえ」
…私達の仕事は、相手の心も読む。時に話題が反れてもねえ、そこから患者さまと家族の背景が見えてくる時もある、お互いの距離が縮まるかもしれん。意外な発見があったり、知識も広がる、それはそれで必要な時間だけんね…
我らが里ちゃんの、仕事に対する姿勢だ。
「先人の胸を借りるつもりで、ミラさんの治療を誠心誠意、努めさせて頂きますけん」
おっと、立花先生と福田主任は揃ってお辞儀した。
僕も後に続いた。
面談室を出て、ミラの待つ予備室へ向かった。
二人は到着したエレベーターへ、いそいそ乗り込んだ。
主任、やっぱり様子がおかしいぞ。患者さまや家族を前に、愚痴をこぼすなんてあり得ない。
ミネルヴァは、これからフォロ・ロマーノへ戻る。インフォームド・コンセントの内容を、守護神ウエスタ、最高神ゼウスへ報告する。やや難しい病態と治療を伝えるとなると、知恵の女神は適任だろう。
「あっ、林のおばあちゃん病室から出て、壁つたいにフラフラ歩いてる!危ないって。さてはセンサーマットの電源をオフにしたなあ。明日退院でしょ、転んだら元も子もないよ」
「担当ナースさんを探して来ます。でも今日は人手不足、すぐに動けないだろうなあ…」
ウェヌスは502号室、真紀子さんは一応ナース・ステーションへ、速足で向かってくれた。
二人も入院環境とスタッフの事情は慣れてしまった、細やかな配慮は実に有難い。
立花先生と僕は、二人へお辞儀していた。
林さんの元に到着したウェヌスは、病室へ誘導している。
趣味だった海外旅行の話題など、うまいこと持ち出しているのかもしれない。
「うわあッ噂をすれば影、ガイウスさんッだ!紹介します、彼氏です」
「楓ちゃん、青春してるね」
背後から人の気配を感じると思ったら、511号室へ入院する松本久美子さんの長女さんと、ボーイフレンドだった。
「松本さんの様子を診てくるけん」
「了解しました」
二人と入れ替わりに、立花先生は室内へ入って行った。
僕は若い二人に引き止められているガイウスもそっとしたまま、予備室へ向かった。
松本久美子さんは膵臓癌だ。
術前の薬物療法の副作用で骨髄抑制、白血球の減少が現れていた。
でも造血薬の効果はスムーズに現れた、面会はフリーに戻った。
松本さんの「膵頭十二指腸切除術」、開腹手術の執刀医は立花先生だ。
そうそう松本さんのお父さんへ、立花先生は初めてこの手術を執刀した。青春時代だったかもしれない僕と倫太郎も、膵臓の手術に入った初回だった。
「ガイウスさんのクールな様子からして、皇帝カリグラに纏わる、ビッグ・ニュースをキャッチしてないよね?」
皇帝カリグラに纏わるビッグニュースってナニ?
気になるじゃん、歩くペース遅くした。
「ネミ湖で皇帝カリグラが造船させた船の一部かもしれない、装飾品が発見されたんすよ」
「ええっ、本物かな。つい最近ネミ湖へ立ち寄ったのに、調査は気が付かなかった」
マジっ!?そりゃあ、オーダーした本人が一番うれしいっしょ…。
2000年前に造船された船の一部が水中に残っていた、奇跡に近い。
だってカリグラがオーダーした二艘の船は、ムッソリーニの肝いりで引き上げに成功したものの、悲しいかな時節、柄焼失した。
おやっ、先ほど頭をかすめたのは、大発見の知らせだったのか?
血が騒ぐ。なんせ息子の俊は、前世で、ガイウス船の漕ぎ手だったらしい。
となると僕だって、古代ローマと縁があってもおかしくない。それこそご先祖さまの「貯蔵鉄」が、遺伝子の合成時に使われながら、脈々と受け継がれてきた事になる。
「ガイウススさん、水上コテージのデザインは覚えてます?カリグラが崇拝した、女神ディアナの祠も備えていたらしいっすね」
「ミラさんみたいな剣闘士は、フィギアとか魔除アクセサリーの一部だったり、人気デザインだったんでしょう?船にも描かれていたんじゃない?」
「ありがとう、想像するだけで、華やかだったローマ世界へ迷い込むようでしょう」
ガイウスの弾んだ声に、少し安堵した。
「ローマ帝国には各都市に優れたクリエイター、アーテイストがいました感謝してます。ちょっと待って。長期記憶にアクセスして、船のデザインを思い出してみますから」
ガイウスがミラと出逢うずっと前、彼が楓ちゃんや拓海君と同じ年齢だった頃、同盟国からやって来た仲間達と、彼の祖母の家で過した期間があった、即位する前だ。
多民族国家ならでは、オリエント地方やユダヤ…文化や言語、宗教も異なる仲間達から受けた刺激は、最高のスパイスだったろう。
遡ると彼の幼少期は、アナトリア地方からシリアへ南下しエジプトまで、父親の赴任先を旅して廻っていた。まさにディアナの巡礼ルートだ。
こんな過去の経験が、のちのち皇帝カリグラが「水上コテージ」の造船に至る、アーティスティックな才能に磨きを掛けたろう。
皇帝カリグラと言えばイメージは「クレイジー」、でもメルクリウスの言葉を借りれば、異なる面が見えてくる。
現在のカリグラはパートナーの危機に直面しても、あまり感情を表に出さない。でも胃石をため込むほど繊細だ、ミラについても苦しみを抱えているだろう。
だからローマ帝国の魅力へスポットを当ててくれた若い二人から、キラッキラなエネルギーを貰っているよう願う。
「失礼します入ります、山野です…ディアナいらしたんですか、受診お疲れ様でした」
「一太、お疲れ様。今度は整形外科の先生と貴方まで、お騒がせしてごめんなさい」
予備室では診察を終えた女神ディアナが、ミラに付き添っていた。
女神は点滴スタンドの横、ベッドの右側だ、椅子に低反発クッションを椅子に敷いて腰かけている。隅に縫いつけられたタグから、ちらっとぺガサリオンのロゴマークが覗いた。
自らプロデュースした商品だ。
マルタ島で救出された時に比べると、声にもキラッと艶が出ている。「尾骨骨折」の痛みは、鎮痛剤で緩和しているようだ。
ゆったりデニムと白シャツ姿は、ローマの休日ならぬ、さながら「女神の休日」。
僕はベッドを挟んで、ディアナの反対側に立った。
ミラは生クリームの乗ったパンを、ジュースで流し込むように、ムシャムシャ食べている。
女神のお土産はカフェ・グレコのスイーツ、ミラの好物だったな。床頭台に紙袋がある。
夕食前のオヤツは、低血糖予防にはなるだろうが。ナース記録にも残ってる、最近ミラは間食が増えている。
インスリノーマの患者さまは重度の低血糖予防のため自然と補食、体重が増えてしまいがちだ、ミラも然り。最近は、更に頬がふっくらした。
とは言え症状を覗けば、ミラの外見は良い意味で年齢相応、イタリア人女性っぽくなってきた。身長も高いし、三日月型のバレッタで留めている茶色の髪は、軽くウエーブが掛かってる。
ガイウスがベッドサイドに立つと、当然彼が年下に見える。
午前中、僕はミラを診察できなかった。
福田主任の報告では、クーリングで熱は下がった。血圧も一時的に下肢を上げ、上昇した。さきほども話しした、こういった変化は、病気と治療の進行と共に頻発する。
「アタシの奇想天外な巡礼の結末と、想定外だった診断結果を話していたの。ねっ、ミラ…もう少し、ゆっくりお上がんなさい」
「うん…ゴホッ、ゴホッ。ディアナは貧血が分かったんだったね」
ディアナに背中をさすられながら、ミラは幾分ぼんやり返事をした。
一見、どこか上の空のように感じるが、この意識状態は過剰な糖代謝、肝機能低下、せん妄の影響だろう。
僕が怠さの程度を尋ねたら、ミラはゆっくり首を左右に振った。
既に投与したアルブミンの効果もあるのか、倦怠感は幾らか改善した様だ。現在は高カロリー輸液とブドウ糖液の他に、茶色の鉄剤を投与している。
「そうそう、我ながら驚いたのなんのって。豊穣の女神が栄養不足、貧血、タブーよね」
ディアナは点滴スタンドに下がる茶色のボトル、鉄剤を見上げた。
「太古の時代だったら、アタシを信仰してくれた民へ、顔向けできないわ。信仰心も、サーッと冷めちゃったかもね」
整形外科を受診した女神に、なんと他科の専門「巨赤芽球貧血」が判明した。
「ハハハッ、確かにタブーかもしれません。僕は豊穣の女神アルテミスの像が、頭に浮かびましたよ」
「アルテミスの上半身にぶら下がる卵は、豊穣の象徴だったね」
ミラが返事をしたから驚いた。
ガイウスと共に、長年敬愛してきた女神の像が浮かんだ。嬉しい兆候だ、記憶の回復も期待が募る。
おやっ?ディアナは、口を真一文字に結んだまま、ミラを見つめている。
ダブル受診が、疲れたのかな?
いやはや…豊穣の女神が疲労、病気を抱えていたら、崇拝する国はピンチの前兆みたいだ。
神殿に祈りを捧げる巫女さんがエネルギーの枯渇をキャッチして、お告げを出すかもしれない。
仮にヒッタイト帝国だったら、国のトップシークレット製鉄所の場所が暴かれる…そんなお告げが広まったら、えらいこっちゃ。
貧血の判明した女神ディアナは、当初整形外科を受診した。
まず「尾骨骨折」と、「左右の足底筋膜炎」が分かった。
「尾骨骨折」はエフェソスの円形劇場で熱中症を起こし、尻もちを突いた、ハプニングが原因だった。
「左右の足底腱膜炎」は、足の裏にある腱膜の炎症で発症する。
主な症状は踵を中心とした、足裏の痛み。
僕らのような立ち仕事、スポーツを習慣にする人に多い。ディアナはこれまで、幾度も長期間に渡り巡礼の旅に出ていた。
役目の一つが、発症の元になってしまった。
整形外科の担当医は、足底腱膜炎に対して踵にブロック注射を打ちながら疑問が沸いた。
女神は「足裏と指の痺れ」も強く訴えていた。
ディアナはこれを承諾した。
その結果、「巨赤芽球貧血」判明した。こちらも足の裏や指の痺れを招いていた、原因の一つだった。神々でも、体は繊細だ。
巨赤芽球貧血はビタミンB12、もしくわ葉酸の不足が原因で起こる。どちらかが不足すると、成長途中の未熟(大きくていびつな形)な赤血球が、血液中に増えてしまう。
ディアナはビタミンB12の不足が、貧血を招いていた。ビタミンB12は、主に動物性食品に多く含まれる。ディアナはベジタリアンだった。
ビタミン・ミネラル類はサプリメントで補っていたものの。多忙だった女神は、飲み忘れも増えていた。
ベジタリアン、動物性食品を控える理由を、ディアナは整形外科の問診票に記入していた。
「太古の時代、狩猟の女神でもあった私に、動物は命の尊さを教えてくれた。愛犬アンナはエフェソス遺跡の付近に、捨てられていました。
私は神獣クリニック・アポロンの院長を兄に持つ。こんな理由から、動物性食品の摂取を躊躇するようになった。気が付いたら、ベジタリアンになっていました」
なにはともあれ、ディアナも暫く当院でフォローが決まった。
基本は内薬治療、プラス代替療法も症状緩和に期待できる。
整形外科ではシューフィッターによる「巡礼シューズ」選びも、取り入れていく。
貧血の改善は、栄養指導と並行して摂取中のサプリメント類の見直し。こちらはディアナの得意分野だろう。
整形外科の担当医師は、女性外来へ診察依頼に当たり、旅の経緯やらディアナとアルテミスの関係に混乱していた。
本人に聞けば済むはずだ。
しかし女性外来へ向かったはずのディアナは、女神らしい…フフフッ…またもや行方をくらましていた。日本の病院は初めて、好奇心旺盛な女神の胸は高鳴っていた。
で…ディアナを探す、整形外来ナースの連絡に対応したのは島崎君だった。
ディアナは足底腱膜炎用、踵のサポーターを売店で購入した。その後、院内を「探索」していた。いつの間にか、僕が結石の粉砕処置を行った、造影室前も通過していた。
「そうそう一太、アタシね相談があるの」
「あら消化器症状も、あったんですか?僕の外来日は明日…」
ディアナは意味ありげに、目配せした。
椅子から立ち上がった。
間食を続けるミラを、横目でチラチラ確めつつ、ソロリソロリ…臀部を抑えながら僕の隣へ廻って来た。
「先ほど聖杯への厳かな行進、ピアノ曲が流れた。彼らの気配も漂った、ミラを生まれ変わりへ進めるって、張り切ってたわ」
「うわっ。先ほどって、いつ…」
ディアナは衝撃的な出来事を、耳もとで囁いた。
驚愕をグッと堪えた、自分で自分の口を塞いだ。
背中からジッとり、妙な汗が吹き出してる。
ディアナのアドバイス通り、彼らに意識を向けないでいた。これが仇になったのか?音楽と彼らの気配に、全く気が付かなった。
彼らは面談室や廊下にいた僕らの様子を、伺っていたのだろうか?まさか今後の治療方針まで、筒抜けだったらマズイ。
「彼らの中に、ミラの意識も存在した。どうやら長期記憶に眠っていた願望ね。私を置いて行かないで、祖先から受け継いだ血を、私も早く繋いでいきたい。間違いなくミラの声、彼女の持つエネルギーだったわ」
「マッ、マジですか…」
聞きたい事が山ほどある、ヒソヒソ話はもはや許容範囲を超えてる。
女神ディアナが、彼らとミラの気配を感じていた最中だ。ミラは本人は、現在同様スイーツに夢中だった。彼らの存在は、気が付かないでいた。
トントン…。ドアが開いた
「失礼しますう」
あちゃー、肝心なところで尻切れトンボだ。
スクエアメガネをクイっと上げる立花先生を先頭に、ガイウスそして女神ウェヌスと真紀子さん、最後にナース山崎さんが入ってきた。
…ヒューン、ギューン
赤いF1マシンが、ぶっちぎり独走態勢でチェッカーフラッグを受けた。マシンのフロント、サイドには金色の聖杯、ロゴマークが付く。
楕円形の競技場コースに、マシンが止まった…。
「アナタが女神ジアナさんねえ、初めまして立花里子ですう。同期の晶子ちゃんがあ、感極まって連絡くれたんよお。巡礼の旅、防災グッスのプロデュースと販売、アンナちゃんが入院する神獣クリニックの話しに、涙したってねえ…」
…マシンから降りてきたのはグラディエーター。
青銅製、聖杯のロゴ付きヘルメットを脱いだ。
女性ドライバー、ミラは喘ぎながら両腕を掲げ、熱狂する観衆に手を振った…
「里子先生。お目に掛かれて光栄です、女神ディアナです。整形外科では和田先生に、もう大変ご迷惑、お世話をお掛けしました。これからもアンナと共に巡礼を続けられる、感謝しています」
僕は、我に返った。
クールビューティ―な女神は何事も無かったかのように、我らが里ちゃんと笑顔で握手を交わしている。
点滴スタンドに下がる茶色のボトルからは、鉄剤フェジンが指示速度に従い、投与中だ。
間違いなく、ここは現実世界だ。
いやはや…鉄は血液中の酸素を運搬するだけでなく、遺伝子の合成にも貯蔵鉄が必要だ。
ミラの病状に、フェジンを投与して正解なんだろうけども…。
これまで幾度か疑問が沸いた、やはり僕らは水面下で、ミラの意識の底に眠る願望を叶えてやしないか?
いよいよ、速度を上げて。
お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
参考図書ほか
メディック・メディア 病気がみえる VOL.1・3・9
照林社 氏家弘 監修 運動器ケア
山川出出版 木村幸弘・篠原千絵 ヒッタイトに魅せられて
新潮社 塩野七生著 ローマ人の物語Ⅶ
ナショナル ジオグラフィック 日本版 2021年8月号 グラディエーター 熱狂の裏舞台
東京新聞 井上たかひこ 水中ミステリー 海底遺跡と難破船
jstage-jst.go.jp ガイドラインからみたインスリノーマの外科治療
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nagaoka.jrc.or.jp 超音波内視鏡検査によって診断できたインスリノーマの1例
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List Paraphrase Yosihiro Kondo(Piano)
舞台神聖祝典劇「パルジファル」より「聖杯への厳かな行進」