大地は乾いていた。
咲き乱れる大輪の花は、うつむいている。
いいや、ひまわりは耳を傾けているのだ。
どこからともなく奏でられる音楽は、壮大な真理を謳い、大地を潤す。
時に気高く、またある時は慈愛を注ぎながら。
同胞は勘付いている、音楽が全てを表現していると。どうか耳を傾けてくれ。
「名前は?いや、聞こえるか?合図を…」
硬い体に浸透する声は、不随意運動を止められるだろうか?
音楽に耳を傾ける、ひまわりと自分は。
おのれを眺めていた…。
「…おーいっ、あおいさーん。生きてる時代は、令和の日本。明日は遅番だぞぉーっ」
本当に意思と関係なく体が揺れてる?…。
「って…違う!まさかっ…」
瞼が開いた午前3時、寝坊はよくある勘違い。
「ハハハッ…毎回すみません。二度寝して」
せめて寝言のボリュームをコントロールしたい。
消化器外科医時代から見る、時空が交差する幻想的な夢。判明した音楽は、19世紀作曲。時代を遡り、奏でられている。
不思議な夢は過去性と、近日中の仕事を暗示する。
土曜日 丘永病院 ER 。
救急医、木山あおいは胸部CT画像を開く。
救急搬送された患者さまだ。
「つい、見直してしまう…」まず肺実質から。
おそらく誰が見ても、不自然な形で左右差を認める。
右肺は(画面向かって左)、上部を中心に「漆黒の空間」。肺胞が破け、漏れ出した空気だ。右肺は、気胸を起こしてる。残る性状な肺組織や血管などは、いびつなそら豆状に変形している。
注目は体内にあるはずがない、小さな灰白色の存在。それは2本の棘だ。右胸を貫通、穿通性外傷による、肺挫傷を起こした。
静止画面では右肺動脈の直近、さらに右肺の上葉と中葉の間に、ポツンと浮いて見える。肺実質は出血、綿菓子みたいな陰、すりガラス陰影が棘の周りからモヤモヤ広がる。
棘は複雑な海難事故の一部、かつ生命の樹を狙う、人面植物の一部だ。
読影を続ける。
「まず棘A」
棘刺部は腋窩線よりの、右第4肋間。ほぼ真っ直ぐ、肺野を貫通。
先端は上葉のS3区域だけではない、中葉はS5区域の間…水平列を「またいで」刺さった。(水平列…上葉と中葉をわける)
肺実質の出血、血液は重力に沿って貯留する。CTは仰向けで撮影する、血液は背面へ回り込む。
画面下に映る、三日月型の層だ。
更に画像をスクロール、断面を連続する。
細長い灰白色の棘が、S3とS5へ…ビュンッ…貫くシーンが再現された。
「棘Aは抹消から、呼吸を奪うつもりだった?」肺実質に留まる長さは、約5~6センチ。
「いやはや…」
患者さまは重症だ、さすがに読影をストップ。
マイボトルから、神々のクリア・ウォーターを口にした。
「よし」
感情は抑えているはずなのに。
操作する指先が、震えてしまう。
「棘B」
棘刺部は第2肋間。棘A同様、腋窩線に近い。
棘Bは若干、斜め下へ進んだ。右肺野上葉のS1区域から肺門部へ、右肺動脈近傍まで貫いた。
肺門部は肺の真ん中。
肺門の入り口から、気管や肺動脈・肺静脈、神経などが出入りする。非常に密接する付近の外傷は、ハイリスク。
「木山先生。この棘、只者ではないっす。棘Bと右肺動脈の間は、2~5ミリ。呼吸や心拍で棘は内側へ動く。棘Bが右肺動脈を貫く、時間の問題っす…」
当然棘Aも、同じ仕組みで肺野を刺激している。
「只者ではない」放射線技師のマトを得た指摘は、木山の胸をも貫いた。
大出血、失血性ショックは水面下で、目前へ迫っていた。
「棘Bは血流を遮断して、心臓を止めるつもりだった?」留まる長さは、約7センチ。
2本の棘は、特異な形状だった。
返し付きだ。茎の周りに、繊維状の微細な棘が覆う。ギョッとした、先端はV字型に割れていた。
「絶対。患者さまと同時に、トランスフォームしたでしょ?」
あの時、V字に割れたはずだ。
根拠は検査データーが裏付ける。
3D画像へ変更。
左右の肺、心臓や大動脈を始め大血管が現れる。
棘A,Bの先端は中枢、心臓を向いている。
棘の目的は「中枢」、それ以外なかったはずだ。
「棘は、優しさと愛の自壊?」
棘の主へ、本心を尋ねたい。
カラン、カラン…。カットした棘は検体ボトルに保管した、体外部分だ。
事の発端は、数時間前。
親友同期、山野夫婦のメールだった。
共にファイルが、添付されていた。
『あおいへ。樹脈不全症候群を発症した生命の樹、フォルム・アエテルヌムについて』
絵里のメールは永遠の広場に関する、ほぼ診療情報提供書。
かたや、一太はレポート。
題して『僕が垣間見た踊りの世界』。
消化器外科のダヴィンチ、色鉛筆画付き。
「心得た。現場の安全管理と医療は一体よ」
「私も中枢を守るメンバーね、決まっていた」
木山は夫婦へ返信しつつ、「搬送、あるかもしれない」予感がした。
ピピッ…。
「ER看護師、相澤です。終了ですか?」
背後で鳴ったピッチ。
心臓が飛び出しそうなくらい、不安と期待が脈打ってる。
さて19時過ぎの連絡は、早いか遅いか…?
瞑色の空に、放射線状の光が放たれる。
ハラハラ金粉が舞っている。
「まるでレンブラント光線、美しいな」
アンナの首の痣が、ピンク色に染まる。
人智を超えた現象は、空間に張られた金色ネットから発生していた。
2頭のペガサスにまたがる個的無意識が、左右からネットを引く。
城壁「真実」を崩壊、突破した集合体を吸収していた。集合体は超意識と彷徨う魂だ。
対処にあたる個的無意識の正体は、カエサルとミラ。赤いマントと金髪が、風になびく。
過去性でミラは、女性剣闘士。
網闘士らしいレスキューだ…倫太郎は肩の荷が降りた。彼も主治医の一人だったから。
「到着が遅れてしまった、申し訳ない。ヒヤヒヤさせたな」
ユリウス・カエサルは、前髪を振り払う。
集合体は回転しながら、吸収される。万が一片手で握る手綱…命綱を緩めれば…遠心力に巻き込まれてしまう。
「二人の女神は、異変を察知できる状況ではなかった。聖母が、我々へサインを出した」
かつ聖母は、拓海と楓を危険から遠ざけていた。
インキタトゥスの立て髪…純白モヒカンアンテナへ、聖水を入れたアンフォラを覗くよう、サインを送った。
「見て!アンナッ!」
ミラは背筋をグッと伸ばす。パワフルなネットを引くだけに、前傾姿勢だった。
「おおっ、ありがたい」
グリーンのマントを羽織る騎士が、V字に崩れたゲート「真実」へ到着した。被害状況確認へ来たからには、彼の担当ゲートは安全だろう。
「アンナ。フォルム・アエテルヌムの復活は、これからが本番だ。良い仲間に恵まれた。なあ倫太郎、ディアナ?」カエサルが微笑む。
くすぐったい倫太郎は頷いてみせた。
「さあ第一段階、完了。ミラ、急ぐぞ」
「あっ、はい…」
突如、押し寄せる後悔。
アタシは彼に、ありがとうを言いそびれた…2000年近く一緒に過ごしてきたのに。甦った熱情に比例して?リアルな年齢と、病気まで進んだ。うっかり好物のパンを食べたて、喉を詰まらせた…。
後ろ髪引かれる、でも。
「第二段階へ進みましょう、カエサル。集合体はネットを突き破る力を秘めている」
超意識の状態は、特別な感情が蘇りやすい…教えを受けた。繰り返しながら、ミッションを重ねるごとに、それは薄らいでゆく。
ミラとカエサルは距離を縮め、ネットを折りたたむ。行き先は「解放」の場所だ。
ガイウス、無事でいて…。
最後にミラは、振り返る。
崩れたゲートの先、内海は人面植物達が、波にのまれていた。
「あとは頼むっ!」
見送る二人の姿が小さくなるにつれ、西から再び瞑白のカーテンが引かれた。
生まれ変わりへ進んだ、カエサルとミラに相応しい役目だ…。倫太郎が感慨に耽った、その時だ。
「倫太郎っ!ぼっとしてる場合かっ!」
「す、すいませんっ!」
…どっ、どなた?
咆哮の様なバリトンボイスに、気押された。仲間の騎士だった。
「アモーレが鷹を救助した、重症だ!」
『ええっ…』この場が凍りつく。
「鷹は穿通性外傷だ!」
ヒラヒラなびくグリーンマントが、みるみるこちらへ迫る。
「棘が2本刺さる、呼吸困難だ!溺水から低体温!アモーレに代わり、伝えたぞ!」
「了解っ!」
返事は、あらん限りの力を込めた。
咆哮の理由は、推測できた。
騎士は首を、斜め後ろに逸らしてる。体は亜子と向き合う、進行方向と逆向きに飛んでいた。
しかもマントのフードを深く被る。
体勢と視界が不安定な状態で、亜子をサポートしていれば、咆哮せざるを得ないだろう。
亜子と騎士は大きな「おくるみ」を、両腕に抱えている。
「ごめん。アタシもボーッとしてた…」
ディアナはおくるみに釘付け、顔面蒼白だ。
「救急対応、整えておく。拓海君用に持ってきた一部を、倫太郎へ使ったでしょ」
女神はペガサリオンで救急・災害用品をプロデュースしている。通販や宅急便の会社だ。
「ディアナ、手伝うぞ。前世で鳥類の生態、病態は習得した、診察できる。鷹は飼っていた」
「お願いします先輩、ディアナの様子も」
船室へ駆け出したディアナ、アンナが続く。
亜子と騎士が、看板へ辿り着く。
「緊急時に助かりました、ありがとうございます」
「礼を言うのは我々だ。主根の治療、感謝する」
騎士と交代、ヒマティオンのおくるみを抱く。
ズシッと重たい、鷹が海水へ暴露した分だ。
「亜子、怪我は無いか?」
案の定、彼女は頷くだけで精一杯。
「後でアモーレを、休ませろ」
「はい。あっ…」
騎士は颯爽と飛び立った。
残念だ。名前も聞きそびれた、フードと白髪混じりの長髪が素顔を隠していた。
「棘刺部からの出血に、勢いはない。ジワジワ出てる感じ。なにより鷹の体から…振動は避けたつもり…ゆ優先順位、合ってる?」
「お疲れ様、正しい判断だよ。ありがとう。船室へ運ぼう、ゆっくりで構わない」
亜子は満身創痍、呼吸が荒い。
それでも優先は、アモーレではない。
とにかく鷹の体を、揺らしてはならない。
亜子はそのまま、宙に浮いてもらう事で、鷹へ振動を防ぐ。
おくるみは、鷹の低体温改善が目的。
全身状態確認のため、棘刺部と顔以外、ヒマティオンにくるまれていた。
黒紫色の棘は、胸の辺りだろう…刺さっていた。2本は斜め縦並び。
妙だ、おくるみが不恰好だ。ラグビーボールの様な形は一部、盛り上がっている。
搬送は、難儀だったろう。
「ガイウス、意識レベルは II-200…抱き上げた時に痛みを感じたのか…反応があった…」
亜子は途切れ途切れ、深呼吸する。
(痛み刺激で少し手足を動かしたり、顔をしかめる)
「右目ブルーは瞳孔散大ぎみ…白い膜が覆ってた。左目は分からない。発見時の、左下のままです」
「観察は判断の根拠になるよ、ありがとう」
最低限の観察を済ませた亜子が、命懸けで「揺れ」を防いだ理由は3つ。
振動は棘を揺らし、出血を助長する。
低体温症時は、振動による全身への微細な刺激が、VF(心室細動)リスクを潜む。
加えて溺水は、骨折のリスクが高い。ましてガイウスは加速しながら落下した。
…VF起こして、心臓はブルブル震えるだけ、その先は止まる。アタシと野間の様にね…
鷹の初期対応を済ませた亜子の視野は、進行方向をそれなかった。
それでも蘇る、友人の言葉はループした。
真下では人面植物達が、次々と波に飲まれる…彼らの声なき声は届く距離だ…亜子は正直、怖かった。
彼女にいち早く気付いた騎士が、救いの手を差し伸べた。
「亜子。棘は、薔薇の棘なのか?」
倫太郎は、棘の異変に気付いた。
黒紫色の棘は、「返し付き」。
茎の全周は繊維状の微細な棘が、蔦の様に覆う。肌にチクチク付着しそうだ。
長平の頭部や顔面は、薔薇が覆っていた。鷹に放った棘は…花に疎い自分が見ても…薔薇とタイプが異なる。
「鷹を発見時、棘は既にイレギュラーな形状だった。朋子と友人の顔に、最後は蔦が生えていたから。放った棘は、反映されていたのかも…」
船上の倫太郎は、そこまで見えなかった。
2箇所の棘刺部から、ジワジワ出血が続く。
クマ鷹特有の羽毛、白地に黒褐色の縦縞に、赤い筋が下へ伸びる。
「鷹だからなのか?思ったより出血量は、少なく感じる…」その理由。
既に、止血段階か?
流される間に、相当量失った。
体外より体内へ、多く溜まっている。
棘が浅く刺さっている…?いや呼吸状態から判断、これは除外だ。
「ヒッ、ヒッ、ヒッ」
鷹の小さな胸が、忙しなく上下する。微かに開いた鉤嘴で浅く速い呼吸、努力様呼吸を繰り返す。
獣医療は専門外どころか素人、しかし間違いなく低酸素血症だ。
「くーっ、厄介な棘め」
猛禽類でも人でも、胸郭が動けば棘も動くだろ。
亜子の追加報告。
外傷を受けた鷹は、溺れながら内海へ流された。
城壁「調和」沿いの岩場へ、打ち上げられていた。
崩れたゲート「真実」から、南西へ200メートル以上先だった。
亜子はゲートの崩壊前に、内海へ渡った。
岩場に張り付いた人面植物達が、鷹の行方を彼女へ知らせた。彼彼女らは、集合体の衝撃とゲートの崩壊で岩場から剥がれ落ち、海へ投げ出された。
だから植物達は、鷹の海難事故を目撃していた。時間を遡ると、記憶が消えていた亜子の様子も眺めていた。
「人面植物達が、鷹を岩場へ打ち上げた。助けてくれたの。中には前世で、医療関係者だった人もいた」
「ありがたい。後日、俺も感謝を伝えなきゃ」
亜子と倫太郎は、込み上げる何かを堪えた。
鷹を助けた人面植物達は内海の岩場が、新たな住処となった。他の者は、海へ沈んだ。
寝室へ到着した。
「何かの拍子に、鷹が元の姿に復活しても。対応できる体制、整えたわ」
ベッドは溺水による骨折、脊椎・脊髄損傷の保護、低体温に備えていた。温かい室内も深部体温を上げてくれますように…ディアナは祈りながら、エアコンをオンした。
「酸素マスクは、大人用のみ持参してた」
ディアナは紙コップで代用、小型の酸素マスクを装着。嘴の長さ35mmに適した、アンナのアイデアだった。
鳥類の状態で酸素は低濃度30%、流量1L/分で開始。アンナは濃度と流量を、鳥類の特殊な呼吸システムに合わせた。
「アンナ。穿通性外傷を起こした棘は異質だ。返し付き。全周を繊維状の微細な棘が、覆ってる」
「異質な棘は、胸部に刺さってる。フォルム・アエテルヌム史上、かつてない事故だ…」
ベッドはバックボードが設置されていた。
ボードの上に毛布、女神の私物サバイバルシート、バスタオル三枚、重ねてある。
「まず鷹の体を、固定しながら寝かせよう」
指揮はアンナ。
亜子は、そのまま頭頸部を固定。
アンナは体幹。胸部に出っ張る竜骨突起から下、お腹から背中側、腰にかけて包み込むように。
倫太郎は、両足の付け根。
(竜骨突起、人間では胸骨に該当)
「せーのっ」
丸太を一直線に転がすイメージ。
これで振動を抑える。
小さく見える、全長72センチの鷹を、左右へ傾ける。女神はヒマティオンを抜く。
鷹の体は非常に冷たかった。
シンボル黒褐色に白が混ざる冠羽が、ベタっとタオルへ張り付いている。
右翼は半開き。羽毛の一部が、膨隆していた。おくるみが不恰好だった理由だ。
「倫太郎。膨隆部分は皮下気腫だ」
海水を含むだけに、羽の膨らみが目立つ。
「という事は、内部は空気だ。多少、出血も混ざっているだろう」
アンナの見立てでは、皮下気腫は竜骨突起から、右翼の付け根まで広がっていた。
「しかし右翼の浮きは、骨折を否定できない」
医療機器は足りない、アンナも慎重な態度を崩さない。
「出航時、連絡して」
ディアナはストローを入れたグラスを持ち、鷹を固定する亜子へ聖水を飲ませた。
「船首で待機してるから」
女神は号泣しそうだった。
「倫太郎、棘は保護を。自分は、鷹の全身状態を掴む」
「了解。異質だからこそ、基本に忠実で。亜子、介助をお願い」
「ドーナツ・ガーゼ対応ね」
棘は決して、抜いてはならない。
アンナの判断は、救急の現場で鉄則だ。
事故など、鋭利な物が体に刺さった場合。大血管や臓器まで、達しているケースがある。安易な「抜去」は大出血、失血性ショックを招いてしまう。
「ヒッ、ヒッ」
鷹の呼吸は、相変わらず浅く速い。
苦しい思いをさせてしまった、申し訳ない…胸の内で呟いたアンナ、診察を開始する。
「呼吸回数60回/分、正常の倍だ。鳥の場合、開口呼吸は重度の呼吸困難を示す、普通は鼻呼吸」
続いて、脚の付け根に触れる。
「脈拍250回/分、頻脈かつ触知は弱い」
アンナは首に下げた懐中時計で、バイタルサインを計測した。倫太郎と亜子の腕時計、船内の時計はとっくに止まっていた。
アンナは鷹の嘴を僅ずかに開く。
口腔内の異物を除去した。
口腔粘膜は蒼白、舌は暗赤色だ…続けて内側、口角を軽く押す。白色から薄いピンク色に戻るまで1,2…3秒以上かかった。
「倫太郎。鷹は出血と低酸素による、チアノーゼだ。ショック兆候だ」
「呼吸不全と循環不全を起こしてるな…」
専門以外は、経験値を応用。
鷹の全身は酸素が足りない、かつ出血で血液の巡りが悪いだけでなく、不足している。 残念ながら人間用の体温と血圧計、パルスオキシメーターは適切ではない。
「鳥の呼吸は、人間と違って…」
アンナは手を動かしながら、鳥類の特殊な呼吸について簡単に説明した。
鷹のオッドアイをチェック。白い膜…瞬膜が半分、閉じている。足りない酸素を補う記しだ。
本来瞬膜は高速で飛行する際、異物の混入を防ぐ膜だ。最後に頭頸部の骨から順に、指を這わせた。
倫太郎は診察に耳を傾けつつ、亜子の介助で棘を保護した。摩擦や振動を回避、更なる外傷と出血を防ぐ。棘の周りを、高さの付いたガーゼで、ドーナツ状に囲む。ガーゼはテープで「井」の字型に固定。
体外に出た棘の長さを測定、1.5~2センチだった。
鷹は再び全身おくるみ状態。船の振動は、徒手固定する事で、腕から吸収できるだろう。
帰路も、時空トンネルを通過する。
鷹の腹部だけ、バックボードのベルトで固定した。やはりサイズの問題、人間用は一部を活用した。
瞬く間に、応急処置は終了。
「搬送だ。羽沢クリニック連携機関、丘永病院のERへ繋いで下さい」
倫太郎はベッドの上部へ、コンパクト・ミラータブレットを開いておいた。
「はい。丘永病院ER医師、木山あおい…あっ倫太郎だった…」
「木山っ!そう羽沢です」
ナイスタイミング、凛々しい同期は親友の一人。
「救急搬送の受け入れ、お願いしたい。ガイウスが鷹に変身したまま、海難事故に遭った」
ミラーの上に映る、薬品棚や医療機器。
向こうの画面は、鷹を固定する3人の姿。
倫太郎の視線は自然と、時刻を捉えた。
まだ14時。クリニックの待合室から、出発した時刻だ。時間は十分ある、鷹の回復へ期待がつのる。
「倫太郎、お疲れ様。フォルム・アエテルヌムの病態、騎士の存在も聞いてる。ERで鷹を元の姿へ復活させれば良い…うん…受け入れ、オッケーです」
木山はスタッフを見渡した。
「あ、ありがとうございますっ!涙出そうっ…」
顔馴染みの医師やナースはオッケーサインを出し、頷いてくれた。
「お願いします。ディアナ、出航して下さい」
「オッケー。振動、最小限にしてみせるわ」
ガタンッ、スーッ…。
船が動き出す。
木山はこちらの状況を、ほぼ把握していた。機転を利かせた親友夫婦が、一報を入れていた。
「倫太郎。ガイウスの特殊な全身状態、詳しく教えて」
ガイウスは丘永病院で入院手術歴がある、木山はカルテを開いた。
「ガイウスは鷹の姿で海面を飛行中、人面植物が放った棘が2本、胸部へ刺さった。穿通性外傷だ。海へ転落、溺水。低体温症は間違いない」
倫太郎の報告を聞くナースが、ホワイトボードへ次々書き込む。
「棘刺部から、ジワジワ出血が続く。棘は返し付き。繊維状の微細な棘が、周りを覆ってる」
「全周に棘?その割に、出血量が少ないようね」
救急専門医は、倫太郎と同じ疑問を抱いた。
彼は保護したガーゼの上部から、2本の棘を映していた。ガーゼ周辺が、赤く染まり始めた。
ここから、アンナへバトンタッチ。
「棘刺部周辺から右翼の付け根まで広がる、皮下気腫形成あり」
キーポイント、鳥類特有の呼吸システムをざっと補足。
「気嚢か。なるほど鳥類は肺だけでなく、気嚢がある分、空気が含まれる。気嚢が破れたら皮下気腫は、広がるはずね」木山は即座に理解。
鳥類の呼吸は肺と「気嚢」を使う。肺を覆う気嚢は袋状だ。「空気を溜める、送る」ポンプの役目。
アンナの予測では、「前気嚢」を貫通している。
クマ鷹は、9個の気嚢を持つ。
皮下気腫の拡大から、後気嚢の一部も破けたかもしれない。
「低体温は、加温中。海水も誤嚥しているだろう」
気嚢は、体温保持も担う。故に体温調節は困難、低体温が進んでしまう。
「木山。鷹の全身状態を人間で判断すると…」
『肺挫傷、血気胸を起こしてる』(血胸・気胸)
時空を超えた、医師の判断は共鳴した。
おやっ、俺はアンナを紹介したか?…二人は初対面とは思えない、情報交換がスムーズだ。倫太郎は首を捻った。
それはともかく。木山は元の姿へ戻る前提で、最優先すべき事を告げた。
「体温が32°C以下で、VF出現の可能性が高まる。振動はそのリスクになる、かつ出血も助長するから。倫太郎、可能な限り振動は回避して」
「了解、正念場だ」
やはり木山も、振動を懸念した。心臓が止まったら、到着まで蘇生を続けるのみ。
さすがに鷹の心肺蘇生、経験はない。正確な位置も分からない。しかし頼もしい先輩がいる、何とかなる…倫太郎は不安を打ち消した。
「鷹の骨折だが。ハイリスクな頭頸部ほか、兆候はない。しかし確定はできない」
「細部まで診察、ありがとう。参考になる」
骨折時に見られる不自然な曲がり、腫脹、骨の摩擦音は無かった。おそらく右翼の半開きと浮きは、皮下気腫による盛り上がり…アンナは最終的に、判断した。しかし確定まで固定は解除しない、鉄則だ。
「アンナ先輩、あと一つ教えて」
最後に木山は、嘴の先から鼻までの長さを尋ねた。
…助手さん!大至急、ギネ(産婦人科)から借用品、お願いします!連絡すみだから…
木山の背後では、続々オーダーが出る。怒涛の如く、受け入れ準備が始まった。
…ストレッチャーにバック・ボードを乗せて、ベアカバーを敷いて。保温ブランケットも準備…
…レベルワンで保温輸液セットして下さい、ソルラクト2本。輸血前提で、採血オーダー出すから…
保温ベアカバー(温風式加温装置)と保温ブランケット、レベルワン(輸液用加温装置)は低体温症の改善に使う。加温した輸液も、深部体温を上昇させる。
「船ごとERの出入り口に付けて、待機してる。何分後、到着できそう?船室へ行く」
「5分かからない。光速に乗ってる」
ミラー越し、ディアナは答えた。
ガタン…スーッ…。
カリグラの船は無事に丘永病院ER、救急車到着位置で止まった。
出入り口は目の前。
待ち構えていたERスタッフ5人。木山を先頭に、船へ乗り込んだ。 直ちに女神が船室へ案内。
「バックボードや酸素等、後ほどERの物と交換しますから…」
スタッフはガイウスを乗せたバッグボードごと、ERへ運んだ。もちろん「振動」は、極力回避で。
木山が船室へ現れた際、アンナは駆け寄った。
「木山。特殊で重症な症例、受け入れを感謝する」
「アンナ。現場の安全と医療は一体ね、昔から」二人は微笑んだ。
鷹をスタッフへ委ねた4人は、聖水で喉を潤し体力を回復、着替えを済ませた。
「砂埃や、葉っぱが付いてるし。アタシ達、自覚以上に、匂ってるはずよ」
ディアナは4人分の着替え、カラフルなビタミンカラーのスエット上下、ローマンサンダルを準備した。
倫太郎とアンナが、室内へ赴いた。鷹はERストレッチャーへ移動していた。
左向きの体に、保温ブランケットが掛けてある。ベアカバーとブランケット、サンドイッチ状態で深部体温を上昇させる。
酸素マスクは、ジャストサイズ「新生児用」へ交換。酸素も付け替えられた。流量と濃度も「新生児」対応、アンナの指示を継続だ。
「ヒッ、ヒッ…」
ブランケットが呼吸に伴い、上下に動く。2本の棘も小さく揺れる。
オッドアイは、やはり閉じたまま。
「最初に、ガイウスを鷹から人の姿へ戻す。呼吸を仕切り直すから」
木山は緊急時の「ABC」を基本に、変身を解く作戦だ。(気道・呼吸・循環)
「アンナ、教えて。口腔内サクション、チューブは新生児か未熟児用、どちらが適切?」 吸引圧も、合わせて低く設定した。
「未熟児用で。挿入長さは、口角から5センチ程度。鳥は人と違って咽頭蓋がない」
「本当だ、鷹の気道は短い…」
医師吉村が少し嘴を開いた、吸引する木山をサポートだ。吸引は一回につき5秒程度、長くて10秒。
細い吸引チューブ内に、淡い桃色の泡状液体、少量血液が混ざる。吸引を何度か繰り返す。
小さな命を守る機器が、大きな力を発揮している。リーダーナース相澤は、珍しく涙を堪えた。
「海水、あまり引けないな…」
「これで良いのか?少ない事を願うわ。誤嚥も出血も」倫太郎の希望を、木山は口にした。
海水の誤嚥が少なければ、呼吸不全の改善に伴い、吸引や排痰に伴い喀出される。
誤嚥性肺炎…一つでも、リクスは取り除きたい。
「オッケー、ある程度引けた。アンナ、確認お願い」
木山は赤いステートを渡す。吸引後の、呼吸音チェックだ。首にかけたアンナ、小児用ステートを胸部に当てる。
「…ヒュ…ツ…ヒッ…」
「呼吸音左右差あり、右は減弱著明・左は減弱。
湿性ラ音は左右差を認める。だが湿って掠れるような音は、人間のラ音だ。復活は臓器から先に進んでいる」
(ラ音、肺に異常がある場合に出現する)
左右の肺は、液体の貯留を示した。右肺上方の高い音(鼓音)は、気胸により出現したはすだ。
『やった!』『あと半分っ!』歓声が湧く。
「ラ音」は鳥類にも発生する。しかし肺胞を持たないため空洞に風が鳴る、そんな「ラ音」だ。
「ガイウス。呼吸は再構築し神聖な力は蘇った、案ずるな」水底から湧き上がる様な声が、復活を促す。
木山は思い出していた、彼女の首の痣だけではない。はるか昔、幻想的な声の持ち主が、瀕死の自分に気付いてくれた事を。レインボー・ウルフカットは、今の姿に似合う。
「ヒッ…ヒッ…ヒヒヒッ…」
鷹の呼吸は、リズムが乱れた。
「…ヒヒッ…」呼吸が止まった。
「アプネア!」ナースが小型アンビューバッグを、素早く掴む。
「ガイウス、あと一息よ。元の時空で、呼吸して」
青のステートを下げた木山の視線は、閉じた瞼と並行だ。
「ゴソツ…」
鷹の小さな胸郭が、わずかに引き伸ばされる。
半開きだった右翼から、輪郭がぼんやりしてきた。
「…ゴフッ…」
喉の奥から、重たい音が漏れた…。
「…ハアッ…ハアッ…」明らかに、先ほどまでの鷹の呼吸とは違う。重く深い、「人間の呼吸」だ。
「ガイウス。私は救急医、木山です。ミラの急変時、対応したスタッフが揃っています」
「ギシッ」続いて、骨格が軋む様な音。
鷹の体が、真上を向く。
翼が縮み、羽が崩れ落ちる。
全身の羽毛は濡れたシート、海水と共に吸収されてゆく。代わりに現れたガイウス…。
「よし、続けるよ!」
「レントゲン確認まで、骨折対応継続で!」
ナースは酸素マスクを、成人用へ変更。
流量10L/分、濃度100%へアップ。
ガイウスの体にモニター類、ネックカラー(頸椎固定)が装着。骨盤と膝に固定ベルト、続々と医療機器が取り付けられる。保温ブランケットも、身長178センチサイズへ変更。
木山は胸部に刺さる2本の棘、状態を改めて確認する。斜め上下に縦並び、棘刺部は腋窩に近い。
「第2肋間から刺さる棘B。第4肋間から刺さる棘Aで…あれっ?」
聴診器を胸に当てた木山は、咄嗟に離した。
今度は棘が、変異していた。
「棘はいつの間に、長さを変えたの?」
スタッフの視線は、一斉に棘へ集中。
「俺、測定した。確かに、伸びてるぞ」
鷹に刺さっていた時点で、棘の長さは1,5~2,5センチだった…倫太郎は船内でメモを残した。
小さな棘は人体に合わせるかのごとく、変化した。かつ注意がそれた、タイミングを見計らったような動きをした。
棘のサイズアップが、ガーゼ汚染をジワジワ増す。ナースはドーナツ・ガーゼを交換、高さを増して、固定した。
ディアナが手続きへ周り、正解だった…。倫太郎はそれだけは、胸を撫で下ろした。亜子が付き添っている、女神は任せて大丈夫だ。
「ガイアス、私の声が聞こえたら合図して」
木山は皮下気腫に触れる。プチプチ雪を踏んだような感触。羽毛が消えたから、内部は明確。透明な空気以外、淡々血性混ざり。
ガイウスの端正な顔立ちは苦悶表情、閉眼したままだ。浅速呼吸はゼーゼー喘鳴を伴う。乱れた金髪にこびりつく砂や小さな貝殻は、ナースへ託そう…。
「ウウッ…」
ガイウスは微かに発声、瞼から一瞬、ブルーアイが覗いた。意識レベルⅡ-200。鷹の状態と並行だ。
続いて聴診。
これはアンナの診察と、寸分違わず。
吉村は左右前腕へ16,18ゲージ、太い針を挿入した。輸液ライン確保と同時に、採血を済ませた。
右ラインから加温急速輸液が始まった、体内から深部体温、血圧を上げる。
ダブルのライン確保は、用途が異なる。
「深部体温32°C、心拍数HR120代。血圧88/54mmHg、呼吸回数32回/分。酸素飽和度 86%」
低体温症はギリギリ、軽度の分類。
裏付けるように心電図は、低体温を示す特殊な波形の出現なし。出現は、VFへ移行する可能性を示す。
「頻脈だけど、洞調律ね」
一つリスクは減った、木山は胸を撫で下ろす。
心臓のリズムは、時計の様に規則正しく刻まれる。深部体温は亜子から始まった初期対応で、幾らか上昇しただろう、木山は推測した。
「ガイウス。体の温度、上がってきますからね。保温は完璧です。シャツとパンツ似合ってます…でも、すみません」
ジャキジャキッ…。言葉と反対の事をしてる、ナースは自覚しつつ海水暴露した衣類を、外科用ハサミで手早くカットした。肌の露出は最低限、バスタオルを使う。
赤いシミが残るブルーのシャツ、グレーのパンツは破棄。倫太郎から承諾を得た。
「木山先生、血ガス(血液ガス分析)です」
「ありがとう」ナースから渡された紙片。
ガイウスの肺、呼吸の状態が数字で裏付けされている。
「血ガスデーターは。肺挫傷に典型的な、呼吸性アシドーシスね」肺のトラブルで、二酸化炭素が過剰に溜まっている状態だ。小さな検査結果は、呼吸不全治療の決め手だ。
「木山先生。気道確保、挿管します」
吉村は気管挿管に入る。
「セデーション(鎮静)、ワンショット入ります」
若手医師がニ種類の薬剤を、左ラインから注入。
鎮静薬は血圧を維持、気管支拡張左用を持つ。
組み合わせる筋弛緩薬で、不随意運動を抑える。自己抜管などトラブル予防だけでなく、異質な棘も振動を避けられる。
「吉村先生、セデーションオッケーです」
頸椎カラーは、前面だけ外した。
ナースは二手に分かれた。一人はガイウスの頭部を慎重にやや後傾、もう一人は両手で頭と頬を挟む。
「ガイウス…ごめんなさい、喉に管を入れます。僕のこと、忘れてないですよね?吉村です。新メンバー、意識が回復したら紹介しますね」
吉村が持つ喉頭鏡が、喉を青白く照らす。スタイレットを経て、挿管チューブを挿入。左口角へ、バイドブロックと共に固定された。
(開口を維持、挿管チューブを噛まないよう保護)
「シューッ、シューッ」
規則正しい呼吸音。
呼吸チューブが、呼吸器と繋がった。
頸椎カラー前面部分を、再び装着。更にガイウスの頭頸部全体を、四角型のフレームで固定する。
…神聖な中枢で、複雑な海難事故が起きてしまった…アンナは悔やんだ。
「倫太郎先生、アンナ。A/C(アシストコントロールモード)モードで、呼吸器と同調してます」
吉村が機械のパネルを指す。
『ありがとうございます』
ガイウスの自発呼吸に合わせて、機械が呼吸をサポートする設定だ。
木山はE-fastエコーを開始した。
(気胸や血胸、胸部の評価まで行えるエコー)
倫太郎とアンナが、背後から覗き込む。
ナース二人でガイウスの体を、心待ち左へ傾ける。
木山が持つプローブが、右側胸部に当たる。
モニター画面に映る、右肺の下。肺と横隔膜の間に広がる黒い部分に倫太郎は注目、液体だ。
「右胸腔内に体液が多い…おそらく出血は外よりも、内部へ溜まってるわね」
左肺は右に比べると、液体の貯留は僅か。誤嚥した海水だ。右肺は血液と海水の区別はつかない。しかし左肺の状態を加味すると…誤嚥性肺炎のリスクは低い、木山は判断した。
「やっぱりだ、アンナ見て。右肺、スライディングサインが消えてる」
「気胸は、ほぼ確定だな」続いて現れた気胸のサイン。正常ならば胸膜が、呼吸に伴い揺れる。
すると右から左へ、滑るように揺れて見えるのだが。その動きが無い。
木山はプローブの角度を変える。
「あっ、内部の棘!脈打ってる!」
鋭い白い線は、黒い影を伴った…しかしほんの一瞬。プローブで追いかけたが、消えてしまった。
「もう、映らない。本当に異質な棘ね」
「今の肋間の影か、プローブ角度の偽像じゃないか?」
無い物が機械のエラーで映っただけ…倫太郎の見え透いた打ち消し。自分を助けるため時空を超えた親友へ、重症をおわせてしまった…罪悪感、悲しみ、後悔がごちゃ混ぜだった。
アンナは俯く後輩の肩を、そっと撫でた。
木山は次の処置へ。
「右気血胸の治療。胸腔ドレーン、挿入します」
空気と血液を体外に出して、傷ついた肺を修復する。
「棘、外側をカットします」吉村がワイヤーカッターを握る。処置のため、棘の一部をカットする。
パキッ…黒紫色の棘が、ガーゼに落ちる。
ピッ…ハサミを入れたと同時にPVC。
(心室性期外収縮。心室の異常で起こる、最初の波が消える)
「生命の樹を狙う存在が、生体エネルギーに反応しているみたいだ」 PVCはおそらく、単なる痛み刺激…迷走神経反射だ、洞性頻脈だし。
問題ない、VFへ続く危ないタイプでは無い…吉村は分析で、勇気を立て直した。
切り落とした棘の長さを測定。
「棘Aは3センチ。棘Bは5センチ…」棘はサイズアップした、体内にどれだけ残してる?
棘は素早く、検体容器へ保管した。
残る棘は5ミリ弱、外へ顔を出す。ドーナツガーゼの高さは、低くなった。
休む間もなく、胸腔穿刺が始まる。
丸く開いた滅菌ドレープから覗く皮膚は、消毒を終えた茶色。局所麻酔時、確認のための血液が引けた。
木山はチューブ挿入部位を、右腋窩線から第五肋間に決めた。空気と血液を排出するには、チューブ2本を挿入も適切。しかし皮下気腫と棘指部が、微妙に邪魔をする。皮下気腫は数日で、吸収されるにしも…。棘は内部の様子、先端は方向が不明確だ。
まして棘によるチューブの損傷は、避けなければならない。木山はリスク回避を優先した。
胸腔へ滑り込ませた細いチューブに、太いチューブ…チェスト・ドレーンバッグが繋がった。
一体化した状態で、持続吸引機へ接続。陰圧で溜まった血液と空気を引く、体外へ出す。
早くも、3層に仕切られたチェスト・ドレーンバッグの中央に、気泡を認める。気胸のエアーが引けている、正常な現象だ。傷ついた肺は、回復の兆しが現れた。
しかし内部に溜まっていた血液は、特殊な性状。
ベテラン木山も、初めて遭遇した。
ドロリ…。暗赤色の排液、血液が流れ出す。
排液の性状と排液速度が、通常の血液よりも重く、若干遅い。かつ普通の血液は、糸を引くように揺れはしない。
特殊な血液はチェスト・ドレーンバッグ、向かって左エリアへ排出される。ドロドロした性状であるにも関わらず、血液は瞬く間に100MLを超えた。
仮に出血が規定量を超えて増え続けるならば、緊急手術だ、棘を抜く。
しかし緊急の必要性は、血液データが覆した。
「倫太郎、アンナ。血ガス同様、Hb(ヘモグロビン)9.2g/dl。Ht(ヘマトクリット)27%…予測したほど低下してない。どうやら肺内部も、体外と同様ジワジワ出血している」
データーから判断すると、海に流されていた間に失った血液も大量ではない。
出血量が多ければ、データはもっと下がっておかしくない。現時点で輸血、緊急手術の必要はない。
出血は今のところ、経過観察だ。
とはいえ予断は許さない、相手は異質な棘だ。
炎症反応は受傷直後、急激に上昇しない。ガイウスのデーターも然り。確保していた左ラインから、抗生剤がスタート。外傷と異物、海水暴露による炎症を鎮静だ。
「予防的に、破傷風ワクチンを打ちます」
ナース相澤が左肩へ、筋肉注射を打った。
破傷風はリスクだ。フォルム・アエテルヌムの土壌中、さらに多種多様な植物が生い茂ってしまった。任務に着く我々も、外傷は要注意…アンナの胸中は複雑だった。
程なくガイウスは、ポータブルのレントゲンまで終えた。造影CTへ移動した。
この間、4人は手分けして、各所へ連絡対応にあたった。ガイウスの海難事故、経過を報告した。
「低体温は、深部体温が34度まで改善すれば、保温解除の目安…えっ、なぜ低体温か?溺水って…今からフォロ・ロマーノを発つ?好物のジェラードを買った?…経口は当分無理っす、喉越しよくても」
最高神ユピテルの優しさは、ナーバスだった倫太郎をほぐしてくれた。
検査が終わった頃を見計らい、4人はERへ戻った。
しかしここに来て、予想だにしない足止め。
「ガイウスさんは戻られていますけど。処置中です。お掛けになって待ち下さい」
対応は、看護助手さんだった。
殺風景な廊下で待つ時間は、ひときわ長く感じた。
「お待たせしました。中へどうぞ」
現れたのは若手医師。
「骨折はなく、バックボードとカラー固定は全て外しました。ガイウス、ハンサムですもんね」
4人は安堵しつつ、ガイウスの元へ。
固定が無くなったとはいえ、彼は沢山の医療機器に囲まれていた。丸椅子が4脚、準備されていた。
「んん、TEE?…(経食道心エコー)」
雑多な空間から、倫太郎は瞬時に判別した。エコーの配置は、ストレッチャーの足側。
「CTの結果でTEEを始めた、順を追って説明する」
倫太郎はこの先の流れまで、当然読み取ってる…木山は操作の手を休めず、返事をした。
内視鏡と間違えそうな黒く細いプローブが、ガイウスの口腔内へ挿入されている。食道側から、心臓や大血管の状態を確かめるエコーは、外見が内視鏡と似ている。
心臓の後ろに位置する食道から、木山はエコーをあてている。拍動で揺れる、ガイウスの心臓が映っている。
左口角は呼吸チューブを固定。こちらは抜去などトラブル予防の為、ナースが抑えている。ガイウスは気管と食道、ダブルでチューブが挿入された状態だ。
「最初に、肺炎の状態から説明します」
木山に変わり吉村が、カルテ画面を示す。
「海水の誤嚥は、やはり少なかった。誤嚥性肺炎は避けられる、抗生剤も開始してますからね」
左肺に小さな灰白色の、すりガラス陰影。
「となると。おそらく右肺は、大部分が血液の貯留。左より白く、かつ広く映ってます」
E-fastエコーの様子は、CTではっきりした。
吉村は左右の陰影像を、ボールペンで囲む。
「左右の陰影は、エコーよりも大きさの違いが、はっきり分かる…」ディアナが呟く。
「気胸はドレナージで改善、萎んだ肺は再びガス交換が出来るでしょう。呼吸不全は改善が期待できます」呼吸器はしばらく継続だ。
「ここから、肺を貫いた2本の棘に関してです」
説明は木山へ。
「どちらも先端がV字型に、割れていました。後ほどCTで、明確な姿を見て頂きます」
『ええっ?…』
唖然とする4人。
「問題は棘の先端、位置です」
木山はプローブを、僅かに動かす。ここはTEEが、問題をリアルに映してくれる。
「最初に棘Bから。これが右肺動脈、丸く明るいグレーの輪郭です。右肺動脈は右心室から出た肺動脈から分岐します。右肺へ戻る、静脈血が流れますが…」
右肺動脈の中は、墨を流した様に真っ黒な空洞だ。
「Bの棘刺部は、第2肋間です。やや下方へ進んだ棘は…」木山は一呼吸置く。
「先端は肺門部、右肺動脈近傍まで迫っています」
プローブが映す、白い線が闇の中に鋭く光る。
「なんてこったい…」
またクラクラしてきた…木山がTEEを急いだ訳は、棘Bと大血管の位置関係、裏付けだ…。
「うぎゃっ!倫太郎先生まで、迷走神経反射っ…」
「椅子、変えます。背もたれ付き…」
「倫太郎?!」木山も振り返る。
親友の体は床スレスレの前傾姿勢。
3人が抱き起こす。
「大丈夫、続けて下さい…時空を行き来したから…副作用みたいなもんだ…」親友の意識は明瞭だ、木山は胸を撫で下ろす。
彼は背もたれ付きの椅子に腰掛けた。奥さんからボトルを受け取り、口を付けた。たぶん聖水。船内は特殊な匂いの中に、神聖な香りが混ざっていた…。
木山は説明を再開した。
「棘Bと右肺動脈の距離は、2ミリから5ミリ。血管外膜に触れるか、触れないかの距離です」
V字に割れた先端が、心拍の振動で揺れる距離だ。
体内の長さ約7センチ。全長、約12センチ。
「棘Bが右肺動脈を貫通する、時間の問題です」
木山は流れを切らないために、ここで伝えた。
「続いて棘Aです。先端は水平列を、跨いでいました。右肺の上葉S3区域と中葉S5区域。この間へ、刺さっています。胸骨まで、約3センチ」
体内の長さ約6センチ。全長、約8センチ。
「CTで棘の全貌を、立体的に映してみます」
吉村がカルテのCT画像を、スクロール。
肺野と肺門部に刺さる2本の棘は、全貌を露わにした。V字型の先端が、どちらも心臓を向く。
『棘がパックリ口を開けてる。果実を食べようとしてる…』
4人の想像は生命の樹、シンクロした。
「ハイリスクな棘Bですが、どうやら…」
木山は先を急ぎつつ、声のトーンをやや上げた。
「右肺動脈の、栓の役目を果たしてる。故に大出血を免れている。同時に、体外へ出血が少ない理由の根拠です」画像以外に、血液データも「栓効果」の根拠だ。
返しの棘は、微細な繊維状。幸い、肺組織を大胆に傷つける力はなかった。
栓と返しは朋子の声なき声、優しさの一雫…そう思いたいのに。堰を切ったように、哀しみが亜子を襲う。
「ガイウスさんの、これからの治療です」
木山は口調を改めた。
「2本の棘は、確実に奥へ進みます。緊急手術で除去が適切です。呼吸器外科、心臓血管外科へコンサルを掛けた結果、総合的な判断です」
大出血が刻一刻と迫っている、心臓は狙われているのだ…。
木山はキーパーソン、一人一人と目を合わせた。
「大至急、手術をお願いします。どうか、ガイウスを助けて下さい」
メイン・キーパーソンディアナが、返事をした。
アルテミスの件は、ウェヌスへ頼んだ。
実のところ手術の心つもりは、出来ていた。
船室で着替える直前だ。
オペの可能性を、倫太郎は告げた。
救急は専門じゃないが…前置きして…。
「棘の位置、あるいは出血量によって緊急手術はあり得る」説明する倫太郎の視線は、ガランとしたベッドを向いたままだった。
「専門を超えて、敏腕ドクターが執刀します。出血量は、最小限に済ませてくれる事を祈ります」
木山は初めて、頬を緩めた。
その反応か、4人も眉間の皺が消えた。
「最初に棘Aを呼吸器外科医が、胸腔鏡で抜きます。次にハイリスクの棘B。心臓血管外科医が開胸下で抜く、慎重に対応します」
出血が少なければ、手術時間は3.5-4時間。
出血量いかんで人工心肺を回す、輸血も行う。
手術時間が、オペの進捗状況を匂わせる。
間も無く15時30分。多分オペ出しは、16時目標だ…倫太郎は腕時計で確かめた。
「オペ室が整い次第、ERからオペ出しで。術後はICU管理。回復状況にもよりますが。ガイウスさんは、呼吸器科病棟へ入院になります」
ナース相澤から、オペ前後の説明を受けた。
倫太郎達が手術承諾書など、書類記入に取り掛かった頃だ。
「いてもたっても、いられなくてさ」
山野夫婦が来院した。
二人は両腕に大きな紙袋を、引っ掛けている。
長丁場だ、差し入れを持参した。
ERと消化器病棟にも。
「倫太郎、大丈夫か?まるで苦手なMRIの後、顔色悪いぞ、休め。救急車は来てないな…」
一太はソワソワ、ERの受付へ。
「棘を放った人面植物は、朋子ね。亜子…状況を包み隠さず教えて」
絵里の瞼は、パンパンに腫れていた。
「手術が終わる前に、戻ってくる」
さてアンナだ。
一旦、フォルム・アエテルヌムへ帰った。
「カリグラの船を、しばらく借ります」
アンナは聖母へ連絡した。
お読み下さり
どうもありがとうございました
参考図書ほか
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文春文庫 佐々淳行著 重大事件に学ぶ危機管理
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