「麻酔エアラインも離着陸、導入と覚醒が一番揺れるから…」

麻酔機に備わる人工呼吸器は、ガイウスの左肺に空気と麻酔ガスを送り込む。
 
全身麻酔は鎮静・鎮痛・筋弛緩、3つの要素が必要。薬剤の組み合わせで、麻酔効果を維持する。
BIS(脳波)モニターの値40…微細な波形は強い筋弛緩状態を示す。

全身麻酔はガイウスを深い領域まで、眠らせた。
 
「ピッ…ピッ…ポポポポッ…」
麻酔器の横、規則的だった心電図のビープ音が乱れた。速い脈が紛れ込んだ。
「問題ない、PAC(心房性期外収縮)」
麻酔科医はオペ室メンバーへ伝えた。
PACは健康な心臓、日常生活で発生する…。
 
ガイウスオペ出し20分前。
ERに続くロビーの長椅子、椅子は空きがなかった。
 
相沢は折りたたんだ車椅子を、定位置へ片付ける。
IC室から出てきた医師木山、続く山野一太。
彼はこちらへ回らなかった。
 
「うーん…助っ人、緑マントの騎士。雰囲気の似た人物、例の夢に登場してやしないか?」
断定しかねる、根拠不足だ。

それはさておき。
倫太郎先生が、頭を抱えていた。
「緑マントの騎士、担当ゲートはどこなんだ…」

スエットのバック・プリント、歪んだコロッセオを大柄な神様が伸ばしていた。
『Jupiter』
肩に下げた名前入り保冷バッグは、輸血バッグと同じくらいの大きさだった。
折れた心は、ウィットへ転換…ER看護師長を務める相沢の得意技。
「挿管チューブのサイズは8.5㎜だな…うん、いける」
最高神の首は、太く長かった。
 
「相澤君。マックス・サイズ、いつ使った?」
「あ、敦子先生っ。いえ、イメトレで」
麻酔科医はサージカルキャップとマスクの隙間へ、ハンドタオルを押し込んだ。

 
「ガイウスさん、昇圧剤と輸血開始してます。香苗先生が右橈骨に動脈ライン取ってますから」
揃って、ストレッチャーサイドへ。
「サンキュ。術前準備、ほぼ心臓手術だからぁ」
 
奥に並ぶベッドは全てカーテンが覆う。
アラーム音とERスタッフの出入りが、ほぼループする。
 
「術前診察、遅れました。ガイウス担当、麻酔科医です」
「ま、まだあった?!」
丸椅子が勢いよく倒れた。
「ディアナ、これが最後」
医師は椅子を立てながら、座るよう促す。
「全身麻酔を受けられる方へ」、パンフレットを渡す。
 
「ナース・外科医チームと一部、説明は重なるけど。短いし、目を通して」

麻酔科医は術中の呼吸・循環・体温を維持、コントロールするだけに。オペ前、患者さまの状態把握は必須だ。
 
もっか人工呼吸器設定は、アシストコントロールモード。
ガイウスさんの弱々しい自発呼吸を、消失時もサポートしている。
 
「んー…酸素濃度100%下で酸素飽和度は95%以下…か…仕方ない」
人工呼吸器の設定、数値と波形を読んだ上で含みのある言い方。要は正常な左肺だけでは換気(酸素を取り込み、二酸化炭素を排出する)が今一つ、ってところ。
 
ガイウスさんの右肺の原因を解決せねば…当たり前だけど…完全な機能は取り戻せない。

それでも胸腔穿刺のお陰で、右肺のエア・リークは減ってるはずだ(肺から漏れた空気)。右肺への圧迫は改善、肺胞も膨らみを取り戻せば、それだけ早い機能改善へ、希望が持てる。
 
ここで医師は患者さまの右側、ベッドサイドモニター前へ移動した。
「深部体温は32度から、33度前後に回復、維持してます」

「んーっ…溺水による低体温、若干改善」
 
「加温輸液は右抹消ラインから200mL/Hrで、保温ブランケット・ベアハガーと継続中です」

低体温はショックや不整脈の、引き金。
加えてオペ中は出血などで、ともすると低体温へ傾く。さらに全身麻酔は脳の体温調節中枢、コントロールを抑制してしまう。ガイウスさんには、厳しい条件が待ち構える。
 
「オペ室入室後、加温輸液は100ml/hr、保温ブランケットは43度設定。寒いオペ室は室温を2度上げて、低体温症をカヴァーする予定」
オペ中は、使用する薬剤の種類も増える。
加温輸液を抑え、心臓などへ負荷を回避する。
 
「ガイウス、汗ってヤツよ」
パンフレットを膝に置いた女神が、絶妙な突っ込み。

…オペ室、26度…。
囁いた敦子先生は、苦笑い。
 
「オペ中、大事な深部体温測定は、食道温プローブを挿入するから」
なるほど、肺動脈温を反映させる。
 
「敦子先生、最新の血液ガス値です。胸腔ドレーンから出血量が、急に増えて。昇圧剤と輸血、開始してます」
紙片を渡す。
「…ヘモグロビン8.2mg/dL…ヘマトクリット24.8%、乳酸3.8か…」
確かに出血で失った分は大きいが、輸液も相まって血液が希釈されてはいる。

挿入から1時間弱、右胸腔ドレーンの出血量は、300MLを超えた。当初、暗赤色でどろっとした重たい血液は、徐々に性状を変えた。

若干、サラッとしている。おそらく胸腔に溜まっていた古い分が、排出された。血液の性状変化に伴い、流出が増えた。
付随して低下した、血圧とヘモグロビンへ対応を始めた。棘Bが右肺動脈、血管壁に届いてないことを祈るばかり。
 
…溺水・右肺挫傷・出血性ショックと呼吸不全。オペ前から合併症リスクが高い、不安定な状態。逆に侵襲の小さな術式も、検討しています…
…最初に胸腔鏡で、内部を覗く。可能であれば棘2本は、胸腔鏡で抜去します。もちろん万全を期して…

先に診察した外科医たちは、術野を「覗いてから」術式を最終決定する。
 
「オペ室でまず、麻酔科が介入する。最初に点滴ラインを変更。右鼠経部からCV(中心静脈)カテーテルを入れる、クワトロ・ルーメン。(カテーテル内腔は4本の通り道)」
 
メイン輸液と他の薬剤、輸血などをCVから投与だ。使う薬剤はER以上、鎮静剤を始め微量投与可能なシリンジポンプは数台、連なるはずだ。
 
「んー…左抹消ラインは加温輸液に使う」
となると右腕に血圧計を巻く、右ラインは抜去だな。
 
 
「輸液ラインが整ったら。手術中は左肺だけで呼吸、分離肺換気をする。専用の挿管チューブへ入れ替え…」 

「待って!交換の間、呼吸は止まるでしょ!大丈夫なの?」
 
「止めない。酸素マスクを使う、1分で済ませるし。処置は気管支ファイバーを通して、慎重かつ迅速に済ませる」
分離肺換気にあたり、事前に鎮痛薬と筋弛緩薬を更に加える。その後、ダブル・ルーメンチューブ(DLT)を左気管支へ挿入する。この時点で、深い麻酔へ移行が始まっている。
 
「クワトロだの、ダブルだのって…その上、肺動脈ラインも入るんでしょ?管だらけ。しかも手術中は横向きの不安定な体制。ガイウスの全身は、耐えられるの?」
 「もちろん。それが麻酔科医の仕事」
 
ガイウスさんの術中体位は、右肺を操作するため「左側臥位」だ。当然、左肺は体重など負荷がかかる。左肺も膨らみにくい条件下で、麻酔科医は換気をコントロールする。
 
「ハイリスク・オペを乗り越える。ベテラン麻酔科医、敦子先生の腕の見せ所です。ディアナ、ここは委ねましょう」
腹部のバンビちゃん、しょんぼりしてないか?
 
…相澤君、学生時代にローマ史は勉強した?皇帝カリグラは死後100年、歴史家に暴君と決められた。そんな人物像だからこそ背景、歴史に埋もれた彼の優しさ愛情に興味が湧かない?あ、オタク倫太郎くらいか…
 
「相沢君がそう言うなら。でももう一人、この場に付き添ってもらえば良かった」

分離肺換気は、経験値が物を言う。
ケースは異なるが、アクシデントパターンで「片肺挿管」、てこともある。
 
「右肺を小さくした状態で二本の棘を抜くから、そのための分離肺換気。棘の刺さる右肺を虚脱、萎ませる。右肺は空気の出入りを遮断して、小さくする」
しぼんだ右肺の血液は半分くらい減少する、二酸化炭素の多い血液だ。
 
「オペ終了時に、両肺換気へ戻す予定。DLTはそれが出来るチューブ。ICUで落ち着いてから、シングルチューブへ入れ直す」
DLTは太く硬い分、体位変換などで気管粘膜を傷つけやすい、早めに交換が適切。
しかし敦子先生、「DLTはいつでも両肺換気へ戻せる」、とは表現しなかった…。
 
分離肺換気をすれば、心臓から出る血液の1/4程度が、酸素を含まないまま全身を巡る事になる。低酸素血症がリスクだ。そういう意味でも、麻酔時間は短く済ませたいはずだ。
 
「質問なければ、先に進めるけど?…うん。分離肺換気が整ってから、本格的に麻酔ガスを送り始める」医師が握った彼の両手は冷たいはずだ。ピクリとも動かない代わりに、瞼が微かに震えた。
 
BIS(脳波)で60~80程度、中等度から深い鎮静のギリギリ手前。イコール、強い刺激で覚醒する可能性がある段階。鎮静薬はシリンジポンプで微量投与を継続中。
 
「ガイウス、もっと深く眠ってもらうから」
刺激が伝わらない、BIS60~40の段階だ。
 
麻酔深度と維持は、モニタリングする。
筋弛緩モニターとBISセンサー(術中脳波)を、耳の前と額に張る。
 
「今使っている物より大きなモニターで、麻酔をモニタリングしながら、麻酔深度を維持します」
「印象の薄かった、失礼…麻酔科って、オペの中枢だ」
「いえ、チームでこなすんで。術野の縫合が終わるころ、徐々に麻酔ガスを切っていくから」
本来は完全な覚醒を図る。
しかしガイウスさんは、人工呼吸器を継続するので鎮静が続く。今の状態、BIS60~80だ。
 
「相沢君、麻酔科の指示は出した。今回はプレメデイ不要。人工呼吸器の設定、変更なしで入室して」
「分かりました」検査時同様、コンパクトな呼吸器を使う。
 
意識がある方は「プレメディ」(麻酔前投薬)をオーダーする。彼は挿管時に、鎮静と筋弛緩を受けているから不要。
 
「で、その後PVC(心室性期外収縮)は?」
「敦子先生。棘の抜去時以外、出てません」
発現時は散発。
重症度はグレード1、経過観察の範疇。
 
それにしてもガイウスさん、PVCまで誘発しやすい条件が揃ってしまった。
総じて循環動態・深部体温・肺換気の維持とコントロール…麻酔科医のスキルも、手術の進捗を左右するぞ…。
 
電子カルテを乗せたワゴン、中段に手を伸ばす。
「敦子先生…コレが人面植物の棘。カットした部分」
「ほほう、噂の」
検体容器に赤黒い棘が二本。周囲を覆う繊維状の微細な棘は、しんなりした。

「短いほうが棘A3cm。長いほうが棘B5㎝です」
体内に残る長さ、7㎝以上。
「術中、お手柔らかに」
中枢を向く先端は二股。
神聖な果実を、主に変わりほおばるつもりだ…噂は渦を巻いてる。
 
「ディアナ。家族待機室、迷わず行ける?」
一太先生も集合して、謎の画像を検証しているか?中枢の配信に仰天した山野夫婦と、ユピテルが血相を変えて来院した理由だ。
 
「ありがと、数日前に下見してる」
「んん、では後ほど」

ちょうど救急車が到着した。
麻酔科医は裏口から戻った。
 
普段の敦子先生ならば。
女神のスエット、フロント・プリントへ関西弁でウィットを…説明の何処かで一言、添えたろう。
 
 
16時5分。
ガイウスを乗せたストレッチャーは、ハイブリッド・オペ室へ入室した。
近未来的なブルーの壁、ここにしかない高性能C型アームが待っていた。
 
血管造影や透視(レントゲン)が可能なC型アームは手術台と一体化、ガイウスの胸を挟みこむ形でセットされた。現在C型アームはガイウスの右頸部、撮影を控えている。
 
麻酔科医は20種類近い正体情報、モニター類が術野だ。数値と波形から、患者さまの全身状態を可視化する。
 
「左肺、きれいに入ってる。酸素飽和度94%、ETCO2は38mmHgを維持。このままなら左肺だけで充分いける」

(ETCO2…吐き出した息の最後に含まれる二酸化炭素濃度。相応しい呼吸が維持できているか、大事な指標の一つ)
 
分離肺換気にあたり、呼吸器の設定をアシストコントロールをベースに、幾つか変更した。
一回の換気量を確保しながら、同時に左肺への負荷、損傷をやさしく防いでいる。
 
「ピッ…ピッ…ポポポポッ…」
麻酔器の横、規則的だった心電図のビープ音が乱れた。速い脈が紛れ込んだ。
「問題ない、単なるPAC(心房性期外収縮)」
健康な心臓、日常生活で普通に起こる。
でも導入、案の定揺れた…。
 
「外科チーム。麻酔、呼吸共に準備完了。いつでも始められる」
心持ち首をひねる。ガイウスへ被せた青のデイスポ・キャップは微動だにしない。
 
「敦子先生、管理は任せた!」
「こっから本丸だぞ」
 
なぜ麻酔は、魂を解放する?
 
 
数分後。
「綾さん、注入して」
心臓外科医は血管造影をオーダー。
「典子先生、はじめます」
インジェクターを押す臨床工学士。
 
今しがた心臓外科医は、ガイウスの右内径静脈(首)からダブル・ルーメン、肺動脈カテーテルを挿入した。

アクセスルートは上大静脈から右心房・右心室を経て肺動脈へ、左右へ分岐する地点で右肺動脈へ曲がった。
現在カテーテルの先端は、肺動脈区域枝(肺動脈の分岐)の手前、棘Bを超えた位置だ。
 
 
ブワッ…前方の大型パネルに、樹木状のシルエットが現れる。右肺動脈は樹木のように、肺の奥へ美しく枝分かれする。
 
右肺は3葉、上・中・下葉で構成する。伴い血管も、区域枝となり走行する。
造影剤は分離肺換気でしぼんだ右肺、内部の状態を正確に反映した。
 
「なかなかやるな、棘は問題をすり替えてきた」
呼吸器外科医、高崎は視線を胸腔ドレーンへ、第5肋間から挿入されたままだ。
 
「棘Aの肺損傷は、棘Bの比じゃないぞ。造影剤の漏れ、血腫が目立つ」
Aの棘刺部は第4肋間、ほぼまっすぐ貫通。
S3区域だけでなくS5区域まで達した…水平列を跨いで刺さった。右肺動脈から分岐した、主要な血管付近を通っている。
 
では、問題視されていた棘Bは。
「右肺動脈本幹から、造影剤の露出はない。近傍に存在する棘Bは、肺動脈に触れるか否かの距離を、静かに保ってる」
 
Bが貫通した部分の肺実質は、造影剤の血管露出、血腫は予想以上に少ない。
棘刺部は第2肋間、S1区域から若干斜め下へ進んだ。
 
「Bは肺門部深くまで達したにも関わらず、主要な血管、気管支をすり抜けたな」
心臓・呼吸器外科ハイブリッド・チーム最年長、高崎の読影は早かった。
 
「2時間前の状態と、違いは一目瞭然です」
放射線技師、河合は起点を利かせた。3DCTと自ら操作したC型アーム、血管造影画像を重ねた。
 
「棘Aのまっすぐな軌道付近に、CT時には無かった造影剤の漏れ、血腫が目立ってます」
呼吸器外科医の読影を、確固たるものにした。
 
「典子先生。2本の棘は、開胸で抜去が適切。胸腔鏡で内部を覗く、時間の余裕はない。逆に開胸の方が、オペ侵襲は少なくすむ」
当初は胸腔ドレーンの刺入部を使い、胸腔鏡カメラで内部を確認する予定だった。
 
「心臓外科、異論なし。開胸下・肺門部異物抜去術を決定。敦子先生、チームメンバー、宜しく」
片手を上げる、麻酔科医。
 
臨床工学士は胸腔鏡を、手術台から遠ざけた。代わりに人工心肺を近づける。
 …いざって時は5分以内に組み立て、稼動してみせます…。術前、彼女は自信をのぞかせた。
 
 「山崎君。輸血2パック目、行こう」
「敦子先生、ダブルチェックお願いします」
麻酔科医は外回りナースへ指示。

出血量を反映、血圧は90を切った。
昇圧剤の速度も上げた。
 
反対に脈拍は上昇。裏付けるように血液ガス値は、電解質が低下。循環不全の進行は、待ったなし。
 
「電解質を補正、メイン輸液に追加するから」
麻酔科医は薬品カートの上段、準備した薬剤をつかむ。電解質の低下は心臓機能へ影響、頻脈や不正脈の助長、血圧低下を招く。
 
術野も加速。
「ガイウス、ごめん。ドレーンは、再挿入になる」
呼吸器外科、第二助手は使うはずだった胸腔ドレーンを抜去。
 
心臓外科チームへ、バトンを渡す。
「開胸、始める」
執刀医は第4,5肋間の皮膚表面を右腋窩方向、真横へメスで切開。
 
続いて電気メス。皮下脂肪と筋肉まで深く切開しつつ、同時に止血。クリアな術野は確保されるが、空気は焦げた匂いに覆われる。
 
プシューッ…エアが抜けた、胸腔に到達した。
機械出しナースは、執刀医の額、汗を拭く。

「典子先生、胸壁保護入ります」
第二助手はガーゼ、シリコン製のドーナツ型保護プロテクターを使う。
 
トン…執刀医は、機械出しナース早川から開胸器を受け取る。
 
キリキリッ…。
様々なモニター音、そこに混ざる骨が軋む様な音。
助手が固定する開胸器は、執刀医がハンドル…歯車を回すたび第4,5肋間をじわじわ引き離す。
 
 
ほどなく術野は、確保された。
 
右肺は呼吸する臓器では、なくなっていた。
成人男性の握り拳より、一回り大きい程度。
暗い赤紫色の平な塊が、横たわる。
 
小さくなっても表面は網の目のように、血管が覆う。しかし通常はない、血管の露出と出血、血腫が目立つ。
そして肺実質から飛び出す、二本の棘…。
 
棘Bの数ミリ先で暗赤色の肺動脈が脈打つたび、二股の先端が距離を縮める。同時に血腫に紛れそうだ。術野の血液を吸引する執刀医には、「Bは静かに横たわる」ように見えた。
 
「高崎先生、見て。棘Aの周辺、繊維状の棘はBのそれより太くて鋭い。先端もAの方が長い」
実際A、Bの先端は非常に近い、1センチ弱。
 
 「Aは二度目のトランス・フォーム果たした。右肺を存分に使って、換気してんだよ。Bを引けば、Aの茎が擦れて、血管の枝を削りかねないぞ」

んー…二人の人面植物が放った棘だけに、2本は役目が違った?
Aは肺胞で酸素を求めた、目的は破壊?
Bは脇目も振らず中枢、生命の樹を目指した?
 
「順子先生、早川君。生理食塩水を含ませた脳外パティを、Aと肺動脈の間に挟んで保護しよう」
(脳外科用パティ。脳外科手術で、脳や微細血管を保護するガーゼの一種)。
執刀医は第二助手、器械出しナースへ指示。
 
三人の心臓外科医はサージカル・ルーペで術野を拡大、ヘッドライトで肺門部の深い闇を消した。
 
生理食塩水で湿った薄い綿パットが棘Aの鋭い表面と、ドクドク脈打つ血管壁との間に、ピンポイントで滑り込む。
「糸、出しました」
パティに付く黒い安全糸が、術野の外へ出た。ごく小さなパティの、残存予防だ。
 
「典子先生」
トン…。
心臓外科医、執刀医は剥離鉗子を受け取る。
オペ手順はインプット済み、いきなり棘に触れない。
 
ライトが照らす、ドクドク脈打つ右肺動脈。
執刀医は細長い指で、血管を慎重かつ手早く剥離にかかる。

続いて青色ベッセルテープ(血管テープ)を用い、肺動脈を下から柔らかく持ち上げる。
場所は血流と反対、心臓側。
抹消側は棘Bを超えた地点で、肺動脈カテーテルが待機している。
 
「右肺動脈の保護終了」
「A抑えます…」
第二助手はAを鉗子の背で抑え込む、棘Bの抜去に伴う振動を遮断した。

執刀医は萎んだ肺を、両手で挟むようにそっと触れる。指でやさしく触れながら「肺組織に隠れたルート」を再確認。

Bの棘刺部は第2肋間、腋窩線に近い。S1区域から斜め下へ進み、S3区域を抜け右肺動脈近傍へ達した。抜去ルートは長い斜線を、下方から前外側へ引き返すのみ。
しかし少しでも軌道が外れると、先端は肺動脈。かつ肺は気管支や肺胞、血管とリンパ管、神経も走る繊細な構造だ。
 
トン…執刀医は渡された剥離鉗子を、Bの先端に沿って差し込む。棘と周囲組織の癒着を、丁寧かつ迅速に剝がしてゆく。
 
ん-っ…棘を抜きやすくするため、隙間を作る作業だ…麻酔科医は前方のパネルで進行をチェック。

「典子先生。血圧100/70mmHg、心拍数110から120回/分。深部体温33,5度。脈不整なし」
 
「敦子先生、サンキューッ。準備完了」
執刀医は右手でベッセルテープごと右肺動脈を、絶妙なテンションで持ち上げる。
 
「典子先生。棘B抜去、始めます」
第一助手は把持鉗子、ウェーブ状の溝で棘を挟む。滑らないタイプで体外に残る5ミリの部分、わずかな突き出しを利用する。
 
「棚橋君。棘は30度、鋭角で肺門へ刺さった。そのままバック・アンド・フォースで…順子先生、脱落した血腫を排除して」
放射線技師が作成した棘の軌道は、胸骨に対して30度。軌道は検査画像とともに、パネルに表示されている。
 
第一助手はBを回旋しながら、数ミリずつ後退させる。少しでも軸を外せば、先端が血管壁を破る。
 
執刀医が持ち上げたベッセルテープは、棘が抜ける軌道から、1ミリでも右肺動脈を遠ざける。かつこちらもAの保護同様、抜去に伴う振動の伝達を回避している。
 
「順調、棚橋君。そのまま数ミリ抜いては戻し、繰り返して」
執刀医の左手は、ガーゼを挟んだ圧迫鉗子。助手が数ミリ棘を引くたび、連動して動いてしまう右肺実質を鉗子の背でそっと押しとどめる。
 
棘が抜けてゆくに従い、盲目下となる。隠れていた血管壁の亀裂や噴出が起きても抑えこめるよう、執刀医は指先に集中する。
 
とにかく微小な揺れすら、肺動脈に触れる可能性をはらむ。万が一の時は、ベッセルテープを絞り血流を一時的に遮断する。
同時にテープよりも先、抹消側へ留置した肺動脈カテーテルの先端を膨らませ「挟み撃ち」作戦だ。人工心肺を稼働せず、済むかもしれない。
 
「典子先生。体外に出てきた部分も、周りを覆ってる繊維状の棘…肺を傷つける力は無さそう」
検体容器に閉じ込められた一部と等しい。
「Bの軌道に、血腫や出血が少ない理由ね。でも棚橋君、油断しないで」
 
Bの基部が、肺実質へ隠れた。
執刀医は決して、ベッセルテープから左手は離さない、もちろん圧迫鉗子で肺実質を抑え続ける。指先に伝わる微かな脈動とテンションへ、さらに全神経を研ぎ澄ます。
 
「おっ。PVC、散発だ」
高崎は患者の頭側でスタンバイ、呼吸器外科も三人態勢で挑む。
「棘の変化に加えて、どこへ行き着くとも知れぬ不安定なメロディーで、俺たちを惑わすつもりか?」
今度はBGM、癒しのジャズがすり替えられた。
 
麻酔科医はカートの上段、抗不整脈薬を手前に移す。
「循環管理、アップダウンする。心拍数120回/分以上、血圧も上がってきた。山崎君、輸血とメインの輸液速度、90ML/Hrへ絞って。血圧は再検結果を待とう」
 
麻酔深度、筋弛緩状態は問題ない。呼吸も機械に同調している。心電図波形だけ小刻みに揺れ、その中に単発のPVC…。
 
んー…音楽は離れてなお引き合う二人が、本来呼吸する場所へ向かっている、そんな雰囲気へ変わってきた…。


 
かつてフォルム・アエテルヌムの空から、あまたのレンブラント光線が注がれた。
 
「ア、アンナ!ここの騎士に嘘は、タブーだろ?」
ギィッ…背もたれが軋む。
「基本な。例外の代表が、あの魂だ」
アンナは「魂」と対面しなかった、私の緊急対応に備え船室にいた。
 
新たな衝撃を受けたも同然。
亜子と私を助けた、緑マントの騎士が病?
軽い体は、妙に息苦しい。分離肺換気と二重マスクの影響、はたまた船酔いか?
 
「魂のフェイクは完璧だった。咆哮のような嗄声まで。画像のアングル的に、中枢の異変を配信した本人だろう。配信理由は、分からん」
正体不明の魂を、危機下の我々は疑いもしなかった。
「で、では。手助けした目的は?」
「現段階で察するに。新たに加わる騎士の、お手並み拝見、ってトコだろう」
もっかフェイクは、行方知れず。
 
方や本物。
緑マントの騎士は南に位置する第2ゲート「愛」、担当だった。

「なんせ、この環境だ。彼の体は過去生の弱点を突かれた。行動可能範囲は、自宅と周辺に限られる」
「ゲート真実まで飛行して、一人と一羽を救助どころではないな…」
全身からヌルッと汗が噴き出した…感覚だけよみがえる。ここの温度と湿度はオペ室以上、匂いも独特だ。
 
 
彼の勧めで、アンナは古いマスクを引っ張りだした。細工を加えて、使っている。
薄く軽量、臭気を遮断するフィルター付き。
 
「彼の全身状態では、カリグラ・ブーツに操られてしまう」
「…では、オペ室にいる私も」
とはいえ若干、くすぐったい。
アンナの足元は浮遊可能、ハイセンスな編み上げブーツ。クッション性フィット感も含め、性能は抜群に進化した。
 
麻酔エアラインに運ばれた私は。
第1ゲート「真実」で、無事アンナと合流した。

しかし、悲しいかな。
四角形だったゲート「真実」は、空間に逆三角形を作っていた。直角部分は、貝紫色の海水に浸かっている。
 
いわずもがな、私の海難事故の発端。
集合意識と彷徨う魂達が、ゲートと城壁「再生」を破壊した。
 
いとも簡単に、壊された原因は「共鳴性木脈不全症候群」。生命の樹は、4本の主根が詰まる寸前。

しかし希望はある。
一つは、楓ちゃん命名「ヤバイ棘」。
危機的状況下でも、生物は複雑な匂い、人面植物を吐き出している。姿を変えられた彷徨う魂達だ。

彼、彼女らは長期に渡り、岩場や海底へ張り付く。次の生まれ変わりへ備え、エネルギーを転換する。

「仲間の状況報告を待ちつつ、南ゲートを確かめよう」
西と南、二か所担当だ…含み笑いするアンナが、マスクをかぶる。
これまで騎士仲間と女神アルテミスが、ゲート「愛」の守りを兼務してきた。
 
さてフォルム・アエテルヌムは、茫漠とした場所ではなかった。仮に車で八角形の外周を回ったら、1時間程度だ。アンナ曰く「過去の記憶」が、イメージを植え付けた。

「ここはシチリア島のパレルモを、すっぽり包みこむ大きさだ。美しい青い海に囲まれたミヤコ島と、ほぼ同じ面積だ」
 
私の船に、カリグラブーツのエネルギーを注ぐ。
騎士の盾に咲くブラック・クロスは万能だった。
 
「さすがに私も、小休止せてもらう」
「ジェラード、食べたいもんだ」
私は軽い状態…。

コンパクト・ミラーの予測では5分後、到着だ。
 
 
 お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
 
くしくも熊本地震発生、一時間ほど前でした。在宅で母を看取りました。たまたま私は自宅へ戻っていた、父が最期を。そんな事も重なり、ガイウスのオペシーン、もう少しお付き合い下さいませ。
 
参考図書ほか
きれい・ねっと 光田茂・森井啓二 神理の扉
ガイアブックス ナイジェル・ロジャーズ著 田中敦子訳 ローマ帝国大図鑑
新潮社 塩野七生著 ローマ人の物語(Ⅶ)
 
www.kango‐room.com
関西大学麻酔学講座 分離肺換気・DLT
www.shizuokahosupital.jp www.med.nagasaki_u.ac.jp 全身麻酔
www.jfcr.or.jp www.lab.toho_u.JP VATS胸腔鏡手術
www.mera.co.JP人工心肺とV-AECMOの違い
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近藤嘉宏「リスト・パラフレーズ」
楽劇「トリスタンとイゾルデ」より「愛の死」