『ユピテル健康保険組合の皆さま。健康診断・検診は予約をお願い致します。 

羽沢クリニック院長』

 

 

 

9月8日木曜日。
間も無く10時。
 
俺は半年前、早期胃癌を内視鏡切除した患者さまの、定期検査を終えた。
安堵は束の間、半日デーは検査の予約は埋まってる、ここに追加も出てくる。
 
内視鏡室内側の廊下、出入り口を引く。
その途端、待合室の普段と異なる雰囲気に気が付いた。
 
テレビ画面と受付方向を、交互に眺める患者さまが多い、気のせいではない。
ほぼ半年に一度の現象だ。
という事は、あの方は予約時間通りに来院されている。
 
テレビ画面はリラックス音楽と共に、壮観なピラミッドやスフィンクス…エジプトの風景が、たまたま流れてる。
映像は大抵、遺跡の多いエリア。
当院は神々も受診するから、情報にもなる。で陰ながらの息抜きは、大目にみて下さいな…。
 
さて、出入り口付近だ。
遠目にも分かる、豊穣の女神アルテミスは、アンティーク風チェアに腰かけている。
ベースカラーは黄色かな…ビビットなガラべーヤが際立っている。

「ロングヘア前髪ぱっつん。あの人、クレオパトラみたいだ…うわっ、倫太郎先生すいません」
「おっと、ごめんなさい」
スマホを片手に座席を探す患者さまと、肩が触れた。
 
そうねアルテミスのオリエンタルな雰囲気と容姿は、女王を彷彿させるかもしれない。
生前の女王も世界最古の踊りを、踊ったそうだし。
ローマの武将アント二ウスと共に、エフェソスを訪れた。荘厳な状態のアルテミス神殿を、詣でたかもしれない。

女神アルテミスと、女王の接点は見いだせるものの。クレオパトラの名前は、ユピテル健康保険組合員にない。
 
「タクシーバタフライに、今のところ落とし物はないそうです。もし時空の隙間でしたら、発見は難しいですね。保険証は再発行の手続き、された方が良いと思います」
 
「木村さん、お手数かけます。友人を送り出した後、予約時間に間に合わない、慌てて出発した。バタフライの中で財布を忘れてないか、確かめて。診察券と保険証を出した、ココに付いたらすぐに取り出せるよう、バッグのポケットにしまったはずなの」
 
おやっ、女神は保険証を落としたのだろうか?受診時に、起こりやすいな…。
財布やカードの紛失まで、重ならず良かった。
俺は、受付へ軽くお辞儀して、診察室へ戻った。
 
しかしアルテミスのうっかりは、珍しい。早めの行動、時間に正確だ。
豊穣・命の循環を司るお役目だけに、半年ごとの健康診断は、必ず「大地讃頌」祭事の前に予約される。体調不良は、比較的早く受診される。
 
ところが今回初めて、祭事の途中だ、「健康診断で、検査を追加したい」突然、連絡があった。
踊り手である女神は、広大な無意識の世界へ没入していたはずだ。健康診断の変更は、未だかつてあり得ない。

驚いたスタッフはまさかの「緊急事態」を、自宅へ確かめたくらいだ。女神と同居する友人も仰天、素早く動いてくれた。

アルテミス神殿は世界七不思議の一つ、巨体建造物は、過去何度か破壊、焼失した。
現在は広い草地に、柱が1本残る。

ほどなく女神の問診表は、診察室へまわってきた。
俺は診察の合間を縫い、目を通した。

これまでのデーターは揃っているが、今回は改めて、カルテの「基本画像」もチェックする。
 
神々の体は特殊だ翼を持ったり、動物などにも変身もする。
初診時は必ず、基本画像から個々の全身、骨格筋や臓器、内分泌線のなどの位置を紐解いてゆく。
 
女神アルテミスの基本画像は、エフェソス博物館に残る二体のアルテミス像を元に再現されている。両手を腰の辺りで八の字に広げるポーズだ。
帽子やアクセサリー、お召し物に至るまで蜂や牛だろうか、生き物が装飾する。スカートの裾には知恵を意味する「尾鰭」も付く。
豊穣の女神の全身は、まさに「森羅万象」。
 
そんな女神アルテミスの身体的特徴は。
「37つの乳房と乳腺」だ。

『主訴:1年前から、胸のシコリに気が付いていた。この半年の間で急に大きくなった、痛みもある』
『既往歴:特になく、健康でした。羽沢クリニックで健康診断を継続したお陰です』
 
なんと主訴は豊穣のシンボル「Brest・乳腺」。
乳腺疾患を疑う。自覚以降、時間も経過している、症状は変化を認める。
 
これまで女神はシンボルの検診を、なぜか避けてきた。岸田主任と亜子のさりげない勧めも、「おいおいね…」遠回しで断っていた。

こんな経緯にも関わらずだ。
大事な祭事中に、乳腺検査を希望された。看護師さんが、折り返し状態を確かめる訳だ。
 
さて人間の乳腺は、2つの乳房内にある。
比較してアルテミスの乳腺は、37つの乳房内に存在する。
カルテ画像では既に37の乳房が解析、区分わけされてる。
 
【縦4列は上から下へ、B-Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ
各列の配置は B-ⅠからⅢまでが10、B-Ⅳは7つ存在
 
右から左へ数える。
B-IからⅢは1~10、Ⅳは1~7、数字上記する】
例えばB‐Ⅱ/4は、2段目の右から4番目の乳房・乳腺をさす。
 
人間と比較すると、はるかに特殊な形態だ。
ゆえに乳腺のベース検査、マンモグラフィーと乳腺エコーは、正直スムーズにはいかない。
経験された方は、なんとなくイメージできるだろう。
 
「アルテミスの胸は、上下左右に並んでる。特にマンモグラフィーは、一つずつ挟みずらいでしょうね。その分デッドスペース、映らない部分が広くなりそう」
「うーん…念のため、丘永病院の乳腺外科へ相談する」
亜子は、乳腺検診を欠かさない。
何気ない一言のお陰だ、俺は女神から連絡を受けた時点で、先廻りした。
 
当院の乳腺疾患検診は、エコーとマンモグラフィー。結果が要精査であれば、関連病院へ紹介する。
 
アルテミスの問診票をチェックした後、数人患者さまを診察した。
さていよいよだ、半年ぶり女神の診察だ。
 
「倫太郎先生、今まで症状を黙っていてごめんなさい。大地讃頌の祭事でした、生まれ変わっても愛してる…場所的に意訳ね…この曲で踊っていた時、乳腺の検査を促されたのです」

「いいえ。タイミング、だったのですね」
 
決意のきっかけは祭事、踊りの最中だった。
弦楽器カヌーンの音に混ざり、「地母神よ怖れるな。貴女が育んだ命は、循環を続ける」、囁き声がした。

「シコリは進行している、実は腰も痛いのです。こちらも、はっきりさせて下さい」
「腰痛…ですか?」
 
ご本人によると一番大きなシコリは、「ボコッ」隆起し、時折ズキズキ痛む。
他の乳腺も、シコリが触れる。
そこへ腰痛が重なった、「進行・転移」を仄めかす、根拠になったようだ。
 
「囁き声を聞いた後でした。特にカヌーンの演奏部分になると、腰の痛みが際立つ様になった。日常も、腰にコルセットを巻いてます」
 
祭事は鎮痛剤の内服を中心に、対症療法でなんとか切り抜けた。
腰に巻いたコルセットは上下衣装の工夫と、ジャラジャラ飾り付きのベルトで、うまいこと隠した。

「踊りでも腕のパターンを増やした。腰の痛みをカバーしました」
女神はビビットなアラベスク模様、黄色ガラベーヤの袖をまくった。左右の上腕に絡まる、ゴールドの蛇を外し忘れていた。
 
「腰が痛んだ箇所も、踊りのパターンがあるのですか?」
「亜子さん、あります。動きは胸のシコリにも響いて、痛んだくらいです」
世界最古の踊りの名手は、右胸付近をさすった。
 
「腰痛の原因、レントゲンで調べましょう」
腰椎6方向を追加する。

さらっと返事をするにとどめた。
診察を始めてから、切れ長の目とすれ違ってばかりだ。
 
女神だけでない。
診断前は、何かと深刻の沼へはまりやすい。
必ず情報収集する、つい「し過ぎる」でしょ…俺もそのタイプ。
 
かつアルテミスの分身は災害援助、救助物資を自らプロデュ―スする女神ディアナ、医療情報も詳しい。アドバイスを受けた可能性は十分ある。
 
「丘永病院の乳腺外科と相談しまして。特殊な乳腺の病気を確かめるには、当院の検査だけでは足りない。より精度の高い検査が、必要です。こちらも準備を進めて宜しいですか?」
必要時は腰椎MRIも行える。
「もちろんです。豊穣のシンボルは、とことん調べます」
 
ユピテル健康診断は、本日で終了だ。
乳腺エコー、マンモグラフィーは当院で分割で実地する。
 
人間の場合乳腺エコーの検査時間は左右で10~20分、マンモグラフィーも大差ない。
仮にどちらも所要時間、20分として。ここに着替えや待ち時間、結果説明が加わる。
「乳腺検診は、1時間が目安です。ご利用下さい」当院の案内だ。
 
アルテミスは分割実地に踏み切る、結果は最後に伝える事になるだろうから、時間は短縮する。
それでも検査回数を始め、ストレスは承知の上。
 
アルテミスの乳腺、精密検査関して、丘愛病院の乳腺外科医師と思案した。まず向こうは、更に混雑する。だからベースの検査は、当院で行う。

ウチで検査を進める間、丘愛病院は女神の受け入れ体制を整える。二週間を目途に、紹介状を持って受診する頃には、精密検査を実地できるだろう。
乳腺検診のプロトコールに従ってはいるが、アルテミスの場合、そこに手を加える。

丘永病院乳腺科の部長は、大学病院時代の先輩。
俺たちが在職した同時、消化器外科で乳腺も診療していた。その後、先輩は乳腺を専門にした。
 
何はともあれ豊穣の女神のシンボル「特殊な乳腺」は、診断前の検査をスタートした。

で…ユピテル健康保険証も、ちゃんと見つかった。
処置室担当の岸田主任が、女神をフォローした。主任曰く、検査着へ着替える際、保険証だけガラベーヤのポケットからポロッ、落ちてきたらしい。
 
やがて13時を過ぎた、院内はガランとした。

独特な香りが漂う待合室には、ミラと深く関わったスタッフ5人が残った。
 
これから「魂の行進」、生まれ変わりへ進むミラを見送る。

アルテミスは俺達を長椅子に座らせた。

「ミルラの催眠効果を使います。没薬の香りを、意識して下さい」
 
女神が腰の付近で、両腕を八の字に広げる。
おやっ?今度は左右の手首にゴールド、蛇の腕輪が絡まってる。
 
ミルラの香りは、奥深い甘さの中に木々の匂いが、微かに混ざる。
没薬は太古から薬、ミイラの作成時に防腐剤としても使われたらしい。聖書にも登場する…聖母の出産時、東方から持参した貢物の一つだった…かな?
 
内視鏡に比べると、ミルラの鎮静はゆっくりだ。
 
ああ…ピアノの音「聖杯への厳かな行進」が、近づいてる。
正面のテレビ画面に、青い河とミラの棺を乗せた船が映った。漕ぎ手は、シルバーグレーのマントに身を包んだ二人。
 
そうそう、アルテミスの来院時間はミラの急変時刻と、ほぼ重なっていた。俺はミラのインスリノーマを最初に診断した、主治医の一人だったな…。
 
「ミラの誤嚥窒息は、正直戸惑った」
「ユピテル健康保険、抜けるのね」
俺と亜子は、自然と呟いてた。
 
風景を眺めているうち、いつの間にかミラの個的無意識へ入り込んだ。
 
鎮静が深まったからなのか?

俺にとっては超推しの『彼』が登場しても、熱情が掻き立てられる事もなく。
広大なエネルギーにも、引き寄せられなかった。
ただ淡々と、ミラの変化を眺めていた。
 
やがて青い河と船、そしてミルラの香りは、残響と共に消えていった。

不思議だ。
消していたはずのテレビ画面は、現代ローマ風景が映る。

 壮大なコロッセオ、フォロ・ロマーノの遺跡群が次々と現れる。いくらかボーっとしている意識状態でも、前柱廊式の神殿だけ、ぱっと目に飛び込んできた。神殿を守るように、数本の柱が前面に連なる。
 
『倫太郎も見送りできたでしょ?ドコで、ナニしてんの?』
 
俺は一太へ、混乱気味のメールを送ってた。
記憶にない、その時は時空の隙間だったのかもしれない。

「恥ずかしいです。単なるぎっくり腰を、転移だと思い込んでいたなんて。受診までの道中も、心ここにあらずだったのね。フフフッ…今回は何かとお騒がせしました」
 
祭事前は自宅にこもりがち、踊りの稽古も休みがちだった。別れ際、女神は口元をガラベーヤの袖で抑え、初めて笑った。
行きの車内では、もしもの「保険」まで、保険証を見つめ考えあぐねていたそうだ。
 

診療が終わった院内は、静まり返ってる。ドラマチックな半日デーは、幻みたいだ。

「さてと。着替えて、戸締りしよう」
「悠久の時に浸るのは、その後ね」
亜子がハンドルを握ってくれる。

寂しさ半分ミラを見遅れた、アルテミスのシンボルは、準備に沿った精査が進みそうだ。

そう、まずは診断だ。
自分へ言い聞かせた、若干肩の力が抜けた。

しかし特殊な検査と並行するかのように。
「生まれ変わっても愛してる」
こんな事態の発端になるとは、この時は思ってもみなかった。
 
 
お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
 
参考図書ほか
早川書房 ステイシー・シフ著 二木めぐみ訳 近藤二郎監修 クレオパトラ
新潮社 塩野七生著 ローマ人の物語Ⅴ 
GAIA BOOKS ナイジェル・ロジャース著 田中敦子訳 ローマ帝国大図鑑
メディックメディア 病気がみえる①・⑨
新共同訳 聖書
 
リスト・パラフレーズ・舞台神聖祝典劇
「パルジファル」より 聖杯への厳かな行進 
ピアノ 近藤嘉宏
 
Ahwak Arabtanngo Soumaya Baalbaki
 
癌術後二ヵ月めの7月、コロナに感染しました。
やれやれ、免疫力も落ちていたのかもしれません。

今度は母が、緊急入院しました。
9日の今日、面会に行きます。

第二章から、豊穣の女神に登場して頂きました。
母と娘に重なった出来事は、色々な意味がありそうです。
 
台風や地震など、色々起こりますね。
皆さまも、ご自愛ください。