主任は予備室の窓、カーテンを開けた。
「昨日女神ディアナは、入院中ミラさんが過ごしたこの部屋で確かめた。何もかもピエタ、ピエタって事なんです」
南東はカウンターに囲まれる、解放的な空間は、こちらより明るい。
白い光が眩しい、僕は目を逸らした…。
…「医務室を覗く剣闘士は、ミラのライバルだ。試合は来週だ、彼女がなぜここに?」
ミラは引退直前の試合、彼女が操るSica(シカ・前方が三日月型の短刀)で腹部に深手を負った。
「ルフスさま。彼女は円型闘技場でエレンと遭遇、ミラの急逝を知って駆け付けた。彼女はジャンの行先を、小耳に挟んでいた。エレンはそちらへ、馬を走らせました」
時空は直ぐに整った…。
自分の目がステーションの眩しさに慣れた、自覚した途端。
ガタン、吉村君が俊敏に動く。
「女神様ッ、申し訳ない祈りは後ッ!中林先生ッ、ミラさんのリズムチェック、タイムリミット1分ッ!」
ゴンゴン…ドンッ!
彼は主任の隣で窓を叩く、だのに。
中林先生はパンを両手で掲げ、女神ウェヌスは胸元に白い紙を押し当てたまま。ディアナとミネルヴァが胸元で十字を切る。
「お願い、応じてぇ!!」
「一太君、交代する」
山崎さんが声を上げる。
僕は反射的にアドレナリンシリンジを、点滴ラインの側注部分へ装着、木山先生に託す。
「ミラさんの超個的無意識は、ゼロ・ポイントフィールドを巡っていた。同時に自身を生まれ代わりへ進める役目を担う彼ら、彼らの超個的無意識と繋がっていたんです」
タイムリミットを承知する主任も、早口だ。
「彼らの正体は。私達医療スタッフ、数人の患者さまと家族だった。私や皆さん、他のメンバーも含まれる」
『えっ…』
互いの顔を見合う。
だから今し方前世を視た、顔に書いてある。
「全てピエタ、ピエタだ。太古の時代に縁のあった者が現代に生きていたら。医療スタッフ側も、ミラの生まれ変わりを加速してた訳だもの」
僕の返事に主任は頷く、ステーション内でも祈りを終えた。
ウェヌスと中林先生がステーションを飛び出す。ワンテンポ遅れ、ディアナとミネルヴァが続く。
ドク・ドク…ドク・ドク。
とうに僕の心臓は洞性頻脈、で期外収縮も自覚した、一つ脈が飛ぶ。
案の定ディアナは昨日ここで自ら現象を起こした、彼らの正体を確かめた上で、僕に明かし口止めした。
「超個的無意識の魅力、力が。ミラさんを生まれ代わりへ選択させた。病気の発症から現在に至るまで、全てをもたらした。私はここまで、中林先生は詳細を知ってます」
主任が振り向く。
ガタン、ガタン。バタバタバタッ…。
ピピピピ、ピピピピ…。
落ち着け、ピアノの音じゃない。南側ドアの開閉音と足音、リズムチェックのタイマー音だ。
「時間です」
山崎さんがタイマーを止める。
「ミラッ!今回の魂の行進、ゴールでは優しいマリアちゃんが待ってるから。パナユル山で、ディアナは約束したのよ」
胸骨圧迫を止めた相沢君が右ベッドサイドを離れる、そこへ女神ウェヌスが駆け込む。
ミラに取り付けたベッドサイドモニター、心電図波形が整ってくる。
「初期対応に当たった僕が、ミラさんの誤嚥窒息から人工呼吸器装着、心停止までの経緯は説明しました」
「ミラは胸骨圧迫と薬剤を用いても、心停止からの回復が困難です。いまその効果、3回目を確かめます、正直厳しい。ガイウスの来院まで、蘇生を望まれますか?」
僕は中林先生から、肝心な部分を引き継ぐ。
昨日のI.Cで、ガイウスはミラの治療計画書を一旦、持ち帰った。二人は、2000年近い膨大な時間を過ごし、神々と共に歴史を眺めてきた。しかしミラは病気の発症から、経過は早急だった。別々の未来をもたらすNO-CPR(緊急時に心肺蘇生をしない)を、繊細なガイウスが即決できようか。
「一太、みなさん、ありがとう。古代ローマの神々に誓う、これ以上ミラの蘇生は望まない」
女神ウェヌスの返事とほぼ当時。
ミラの心電図波形は真っ直ぐ「基線」のみ、心静止を示した。脈拍、血圧も表示されない。
「分かりました…。ミラの左頸動脈を触知できません、心静止です。力及ばず申し訳ありません」
11時。
僕の行為が魂の伴侶へ、別々の未来をもたらす。
左大腿動脈を確認した吉村君も、頭を下げる。
アドレナリンシリンジを輸液ラインから外した木山先生は、「申し訳ありません…ピエタ、ピエタ」深々頭を下げる。
「ミラ、どうぞ貴女が心の奥で望んだ生まれ代わりへ、安心して進みなさい。心電図の横線が少し動いてる、イエスって返事してる」
愛の女神は涙をぬぐいながら、ミラだけでなく、僕らスタッフにも微笑んだ。
心電図基線の揺れは、原因は幾つかある。明かに小さくなったミラの体を女神がさする振動、機械による呼吸運動が主な要因だろう。でも見送る側の反応は、様々だ。
「ガイウスと真紀子、間もなく到着するからね…。ミラ、もう少し待っていて」
「NO-CPRを記入した、書類を持参する。申し訳ない、ガイウスの到着までにできるだけ医療機器を外して欲しい、それは可能だろうか?」
やや遅れて、不安定なつま先立ちで歩くディアナと、女神の手を引くミネルヴァが入室。
ミラの旅立ちは受け入れているようだが…。
二人は様子がおかしい。、明かに覇気がない。
俯き加減で、ベッドサイドへ近づいた。
この場にいる4人の医師は、ミラの不可逆的な状態と蘇生中止、そして人工呼吸器の停止が齟齬のない事を確認した。輸液を止め、最終確認へ進む。
「11時5分
主治医山野、ミラさんに装着した人工呼吸器を停止す。自発呼吸認めず。
呼吸音聴取できず、呼吸停止を確認。
瞳孔散大、対光反射なし。
以上、全てを医師4人にて確認。
11時10分 旅立ちの時刻とす」
山崎さんはミラの最期を記録した。
僕らは急いだ。
ガイウスの到着までに、蘇生で乱れたミラの全身を出来る限り整える。
僕ら医師は挿管チューブを抜去、人工呼吸器と心電図を外した。輸液ラインもロック、Piccカテーテルだけ右腕に残った状態。
看護師さんらはミラの顔を拭き髪をとかす。ブロンドに混ざるホワイトヘアは、うまいこと隠してる。
山崎さんは気転を利かし、青白い唇に淡いピンク色、グロスをいい感じで塗ってくれた。
タオル地の柔らかい黄色パジャマも、ボタンを止めた。終末期のBMI低下が急速に進み、外見もお婆ちゃんになったミラは、幾分若返ってみえる。
主任が、外の動きを目ざとく察した。
「あっガイウスと真紀子さん、到着したようです」
502号室に、ストレッチャーが入りかけてる。その横を二人はお辞儀して、通り過ぎた。
搬送されるのは呼吸器外科から転科、PTCDチューブを自己抜去、再挿入を終えた高崎仁さんだ。
処置を行った山路先生と石川先生、外来看護師島崎君が、人手不足の病棟をヘルプしてる。
「失礼します。のちほど…」
主任は、高崎さんの対応へまわる。
ガタン…。
時空の揺らぎは、敏感に伝わる。
甘酸っぱい果実の香りが、鼻をくすぐる。DNAに刻まれた、故郷の風景がよみがえる。
そうだ自宅から西方向へ石畳の街道を進めば、円型闘技場だ。
…引退した騎馬闘志エレンが、泥酔したミラの夫を愛馬に乗せて戻った。
ところが、ジャンは泥酔。
ミラの急逝、フェリクス医師の説明を聞くどころか、浴室付近の床で寝てしまった、大いびきをかいている。
看護師ルカが、ドナウ側のほとりから戻ったタイミングで、エレンがジャンを起こした。別室へ移してくれた。
ミラの急逝を遅ればせながら夫へ、幾らなんでも知らせにゃならん。その役を、エレンが勤めてくれた。私の妻と娘がジャンのために飲み水や着替えを届けると、彼はさめざめ泣いていた。
「勝利の女神ニケは、なぜ目を背けたのかッ。ミラを冥界の遣い、メルクリウスへゆだねる必要はあったのか?私が育て、無事に引退した人気選手の、あまりにもあっけない最期じゃないか」
ジャンよ。酔いが覚めた途端、現実が洪水のごとく襲ったろう?
ミラ以外との家庭、幾人かの恋人にも愛情を示す。お前さんの体にも血は流れている、確かに心優しいのだろうがね。
網闘士引退後も人気トレーナーとして遠征…いいや寄り道する疲れが、そろそろ身に染みやしないか?
ミラは選手仲間の協力で、とっくに自宅へ戻ったさ。お前さんの寄り道先からほど遠くない屋敷に勤めていた、彼女の両親と過ごしているだろう。
はるばるクサンテンにも知らせを出した、ミラの兄弟も馳せ参じるさ。
石畳みの街道を、東へ向かえばいい。
未来へ希望を託したミラの両親と兄弟は、見事に独立した。故郷を追われた、波乱万丈を乗り越えた。兄弟の子供達は、ローマ市民権を得るだろう。
「ミラの側には、皇帝ガイウスが付いてます心配ありません。行先も、任せましょう」
白い光を追った看護師ルカは、ドナウ河のほとりへ到着した。
カルヌントム基地からそう離れてない、普段は誰でも気軽に足を踏み入れる場所だ。
「久しぶりに、幻想的なあの景色を目撃しました。クサンテン基地ライン河付近でも、何度か遭遇しました。ねえ、フェリクス先生?…」
「ああ懐かしい風景だ。でも景色の先は、生きてる私達は想像しかできない、辿り着けないから」
景色は靄の様な白い光が変幻自在に膨張し、ドナウ河の水面と対岸、空に至るまで覆っていた。今回遭遇した景色は、クサンテンのそれとやや異なっていた。
「これまで耳にした事のない音色、音楽がどこからともなく流れていた。剣闘士競技前のパレードで演奏する、角笛や水オルガンの音でもなかったです」
音楽に誘われるように、ガイウスとミラは景色の先へ進んで行った…。
ガタン。
予備室の南側、ドアが開く。
颯爽とした空気と、ほのかに甘い香りが舞い込む。
ガイウスと真紀子さんだ。
「ハアッ…お、遅くなり申し訳ない。主任から一報を受けた時は、流石に慌ててしまった」
「ミッ、ミラが急変する可能性もある、万が一は考えていたつもりが。まさかの準備に、手間取ってしまったんです」
二人は肩で息をしながらも、丁寧にお辞儀した。
ウェヌスとミネルヴァは、ガイウスが背負うレザーバッグパックを素早く外しにかかる。
僕は真紀子さんから、治療計画書の控え、NO-CPRを承諾、サインした物を受け取った。
彼女のボストンバッグしまわれていた書類は、皺や折り目が付いていた。ガイウスを始め、4人のキーパーソンの名前が記載されていた。
「ガイウス。ミラの病気を最後まで治療できなかった。申し訳ありません」
「一太、ありがとう。ミラが先へ進むために、誤嚥窒息は起こるべくして起きた、私はそう思う。皆さん、急変対応に感謝します」
ミラは神格化ではなく、長い年月をかけて、生まれ代わりを選んだ…。クールに告げたガイウスは、ミラの額やブロンドをゆっくり撫でる。
「ミラ。次に目を覚まし、年月を重ねる内に。古代ローマ世界が、何かを切っ掛けに琴線に触れる物だと気が付く。私はその時を、ちゃんと眺めている」
僕らの様に、ミラにもその時はやって来るだろうな。ガイウスのメッセージは、ミラが次に誕生する時代の情報を、書き換えたはずだもの。
本来時間には、過去と現在、未来まで情報が存在するからさ。
そのあと僕ら医師は、手分けしてPICCカテーテルなどを抜去、必要部分をナート(縫合)した。
看護師さんに代わり、輸液ポンプや点滴スタンド、救急時に用いた医療機器など外へ出した。
山崎さんと相沢君は、キーパーソン達とエンゼルケアを始め、打ち合わせ中だ。
看護師さんへ連絡を頼み、医師メンバーは一旦、解散した。中林先生はRRS科の二人と共に、一目散にエレベーターへ向かった。
時刻は本来、鉄剤フェジンが終了する11時30分。
僕は職員用階段を、慎重に駆け降りる。踏み外しても、助けてくれる秘書デミルはいない。
超個的無意識がもたらしたミラの経緯、治療出来なかった後悔、生まれ変わりへ進めてしまった悩ましさは一旦、頭の隅に置こう。
今、反芻すればキリがない。マクロな情報の中を、ミクロな自分が彷徨ってしまう。
それにもう「現象」は起こらない。待ってる仕事へ集中すべく、頭を切り替えていこう。
僕自身も、ピエタピエタだ。
かつて剣闘士の命を守った短剣や槍、盾などの道具、そして古代の医療器具を、現代の医療機器…手術器具や穿刺針、カテーテルや内視鏡に持ち替えたのだから。
僕の場合、更に血を遡ると、ヒッタイト人だったかもしれない。個人的には鉄剤、フェジンの製造に辿り着く。古代の仕事、前世の一部を知った理由が、なんとなく分かった。
ローマ帝国時代、それ以前から引き継がれた僕の血に流れる、任務へ突き進むためじゃないか?「鉄・血」も、シンボルっぽい。
当然ミラも、それを知る未来が待っている。ガイウスの旅立ちのメッセージは、未来のヒントになりそうだ。
ギイッ…。
僕は二階、外来へ続く扉を開けた。
中央の吹き抜け部分から、眩しい白い光が差し込んでいる。患者さまや家族から「光に癒される」、評判だ。
「ハアッ。しかし、参ったなあ…」
緊急事態とはいえ約1時間、外来診察をストップしてしまった。患者さまと付き添いの家族、関係各所に謝らなきゃ。
前世の僕、ルフスもそうしたろう。
ミラの引退セレモニーは、勝利の女神ニケの代役を始め、大幅な変更が必要だったはずだもの。
お時間を割いてお読み下さり
どうもありがとうございました
参考図書ほか
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山川出版 本村凌二著 帝国を魅せる剣闘士 血と汗のローマ社会史
インターメディカ 益子邦洋/大塚敏文 ER救急ハンドブック
www.mhlw.go.jp 人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン
www.jaam.jp 救命・集中治療における終末期医療に関するガイドライン
kango-room.com 「人工呼吸器は外せるのか?」の答えを求めて なぜ今『救急×緩和ケア』なのか