皆さんこんにちは、kitです。
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お久しぶりです。
kitです。
YouTubeでの活動が徐々に実を結び始め、視聴者数や登録者数が増えてきたことを喜んでいます。しかし同時に、評価の裏返しとして否定的なコメントも目にするようになり、それが心に刺さることもあるそうです。
動画クリエイターとして成功するには、単に好きなものを発信するだけでなく、注目を集める何かを発信する必要があります。そのためには、世間の流行を先読みしてコンテンツに落とし込む力が求められます。さらに、クリエイターとしてのセンスと運も重要だと感じています。
自身のスタイルを確立し、それをどう良くしていくかを日々研究しながら、動画のバージョンアップを重ねています。プロデュースする過程で、自分なりのアイディアを入れ込むことが窮屈さを感じさせません。
動画制作は、5分と思えるかもしれませんが、実はかなり大変な作業です。日常の些細な疑問から着想を得て、真実を探り当てる力が必要不可欠です。当たり前と思われていることを解析し、その本質を動画化するプロセスには、多くの工数がかかります。
良いものを作るには、クリエイティブな発想力が何より大切です。様々な事象を多角的に捉えることで、その力を養っています。また、作業の効率化にも心がけ、音声入力やAIツールを活用しながらブログ執筆を行っています。
これからの時代、新しいものを生み出すためにはどのようなツールや道具を使うべきか、そのセンスが問われるでしょう。楽しみながら挑戦を続けていきたいと考えています。
時には一生懸命に努力していると、人は立ち止まることがあります。
その時に限って、なぜかやる気も半減します。自分が頑張っているのに上手くいかないことの方が多いですが、逆に考えてみましょう。上手くいかないからこそ、上手くいった時にとても嬉しいのではないでしょうか。
そう思っているだけれども、どんなに頑張ったとしても報われなさすぎると考えてしまう自分の努力が足りないのか、まだまだできるのに出し惜しみしているのか、そんなことすら考えてしまいます。
でもやっぱり弱い自分が出てきてしまい、「なぜこんなことをやっているんだろう」「どうしてこんなに行き詰まっているんだろう」とくよくよと考えてしまいます。
こんな情けない自分でも、すごいと思ってくれる人がいる。
それはとてもありがたいことですが、それがたまにプレッシャーになったりもします。でももう慣れましたけどね。
一生懸命頑張れば頑張るほど、課題はたくさんあるでしょう。
あることに気付かされることで、自分がいくつもの課題に直面して、ただただ前に進むしかできません。
そんな時に無になって、何も考えない時間を作ることが、自分の中のリセット方法です。
今日はリセットしてみようかなと、普段行かない温泉にやってきました。体も温まって、ボーっとする時間もあって、でもまあ相変わらず答えは出ません。
答えが出すのが目的ではなくて、ただただゆっくりと、自分の頭をリセットするのが目的だったので、それで大丈夫かと考えながら、とりあえず次に進みます。
答えはいつかわかるはずなので、未来の自分に期待しつつ、今目の前にある課題をただただこなしていきます。毎日でもそれがつまらないと思いません。
課題があるだけでもいいのかな
皆さん お久しぶりです 今年もこの日を迎えました もう33になります 早いですね。
今年は色々と変化のある年でした
いろんな 断捨離をしました 家にあるのも そうですし 人間関係に関してもものすごく変わったような気がします。
惰性で人間関係を続けるのではなくて自分に本当にそれが必要なのかどうか それを見極める 1年でした。
私はなるべく人を信じたいと思っています なぜならば そんな信用のできない人を周りに置いておくこと自体おかしなことだと思っていたからです。
しかしながら親友の忠告で信用に足ることができないと思われる人 がちらほらといることに気づかされました。
そしてその忠告通りにいろんな付き合いを断捨離しました もちろん 自分の父親の死というのが ターニング ポイントになったところはあります。
新しく何かを始める時に自分の周りを一度見直すというのは大事なことだと思います 確かに 仲間の数的には減るのかもしれません
しかしながら本当は しなくてもいい 余分な気づかいや本当に大切にしたいものをなくさなくていい という意味合いでは必要なこと なんだと 改めて思いました。
でもそれができるというのは自分の中で本当に信頼できる仲間や友達がいるから 断捨離ができるのであって
そうではなかったらただ単純に友達が減るだけなので何も メリットがないと思います。
毎週のように会っていた 仲間と 会わないようになりました。
そのことに関しては 会う回数が減ったなとは思いますが それ以外は別に何も感じません。
私の信頼している仲間はその会合を実施するために 幹事をやって積極的にやろうとしていましたが 他の人たちはただ 便乗しているだけで声がかかればいい 自分からやりたくないという人たちだけだったので自分から 主催するということの方が多かったのもあるかもしれません
でもそういう人たちに限って 自分では何もやらないくせに 俺だったらこうできるとか なんでこんなことができないのみたいなことを言い始めるので 既存にあった仲間関係が崩れるような事態も発生していました。
そして私もそのことに気づいていたので それがうまく回るように気を使い 周りに合わせていたりなどしていたので
楽しい仲間の集まりというよりかはどことなく義務に近い何かを感じていました なので 合わなくなって思ったのは意外と気が楽であること
本当に必要な仲間と密に連絡を取り 好きなものや 趣味に没頭する方が価値があるということに気づかされました。
私がただただ 集まる だけ の仲間から趣味へと 路線を変更させた時に何人かに声をかけましたが 結局その人たちも渋ってなかなか 参加しようとしてくれませんでした。
であれば別に本当に気の合う仲間や趣味を共有できる仲間でなければ ただただ時間を浪費するだけになってしまうということに気づいてしまった側面もあります。
確かに今まで 惰性で開いていた会合がなくなったことにより大人数で何かをやるという機械は確かに減りました
しかし 大人数でやったとしても周りの人たちが 人数でやった時のメリットを生み出さなければ
結局は 少人数でやっても変わらないということに 改めて気づかされてしまったので それに関しては残念だなあ という思いは一切ありません 逆に感じたのは 今まで 何であっていたのだろうかという疑問しかなかった。
4月に1人の人と疎遠となりましたがその人に足りないのは他者を気遣う心 が全くなかったということです
その人は性格上 誰も信用することができず ただただ ネガティブに考えてしまう人なのですがその人のせいで親友とも関係が悪化しましたし その人の口癖でお前らが気に入らないのであれば俺をいつでも仲間から外してくれと言っていたのに いざ覚悟をしてじゃあもう仲間でいられないねと伝えると
まるで人が変わったように俺を捨てないでくれ 本当にお前らしか友達がいないんだと泣きながら言われるのですがその人はいつも私たちの前で簡単に嘘をつきます。
友達がたくさんいてお前らに構っている時間がなかった だから連絡を取らなかったということを言われたり、自分の所有物ではないものを自分のものと言ったり自分が格好がつかないことに関して 嘘を連発する人でした。
一時の嘘は一生付きまとう その時は何とかなるかもしれませんが その嘘のせいで自分が追い込まれ本当に大切にしなきゃいけない何かをその人は失ったのです。
最後はまるで 尋問のようでした あの時こう言いましたよね あの日私にこう言いましたけど あれは本当なんですか とか自分が今まで 言い訳に使っていた言葉がその場ではまるで洪水のように溢れ返り
そしてそれを聞かれるたびにそんなことを言ったかな いや違うんだ 本当はこうなんだ みたいなことを言い続ける彼の姿はただただ無様だった親友も嘘をつく彼に対して ものすごく 許せなくて喧嘩別れをしてやる という気持ちで最後 会っていたのですが
あまりの無様な姿に戦意消失してしまい あそこまで無様な姿を見せられたら あれ以上もう追求できないよと意気消沈してました。
関わってみるまでは その人のいいところや 悪いところは 分かりませんですので 一度 関わってみて それで本当に仲間として受け入れるのか 受け入れないのかが大事であって 一度繋がったからそれでいいわけではない。
私の父も友達はいない人でした自分がなくなると分かってから電話帳の人に手当たり次第 電話して自分の置かれた状況を話していました。
コロナの関係で会社関連の人が病院へのお見舞い 等ができなかったので それもあると思いますが やっぱり最終的には人間は人に共感を求めた 生き物なんだとそう感じました
だからこそ自分は今ある仲間を大事にしようと思いました それは ただただ 数を増やせばいいのではなく数以上に質を高めなければいけない そう感じました。
そんな自分を振り返り 自分の周りを取捨選択する1年なのでした ですので 次の誕生日はもう少し気持ちも楽でいられるような そんな1年を送りたいと思っています。
人が生きていく上で必要な物って何だろう
簡単じゃないかもしれないけども 一つだけあげれるのであれば それは 仲間なのかもしれない。
人は楽しみを共有できることで幸せを感じれる 逆に孤独を感じると幸せを感じなくなるという
つまり何かを得たとしても誰かと共有できなければ それは 半減してしまうということなんだろう
自らを発信しなければ楽しみを得られないということに今の子たちはきっと気づいていて それが故によくないことまで 動画で発信してしまっているんだろう
不特定多数の人と共有できればいいという問題ではなく自分が知り得る 親しい友人や 仲間と時間を共有することによって楽しみを得られるのだと思う
世の中には そのような楽しみから自ら遠ざけてしまっている人たちもいる
そのような悲しい人たちをなるべく
減らせるような努力が
今後 社会では必要になってくるのかもしれない
私の周りにはたくさんの仲間がいることを実感させられる 困っていた時に声をかけてくれる仲間や自分が困った時に手を差し伸べてくれる仲間などそういう仲間に恵まれているんだとそう思う。
でもそれを当たり前だとは思っていない もちろん やってくれたことに対して それ以上の感謝を持って接している
でも 世の中には 形だけというもの そういう人たちも存在する。
本当にこの人と深く付き合っていいのかどうか どう接してればいいのか考えさせる機会はよくある自分が追い込まれた時にどのように接してくれるかでその人の本質がわかる。
そして付き合いをしていく中で本当にこの人が必要なのだろうかというのを今一度考えさせられる。
不安を煽るようなことをずっと言い続ける人とは一緒にいたくないと思う。
なぜならば 自分が前向きな気持ちになっているのに関わらずその人の一言で自分の気持ちも 盛り下がってしまうから。
常に人に影響力を与え続ける人は常に前向きなんだと思う。 そのような人が発する言葉はどこか エネルギーを感じる。
言葉の一言一言に気迫を感じられなおかつ 言葉の 発音 だったり語尾が綺麗だったり 言葉に 美しさを感じられる。
声で人にエネルギーを届けられる人は才能なんだと思った。
不思議と 人間はそういう人たちに集まってくるんだって私の恩師が言っていた 確かにその通りだと思う言葉を聞いてその紡いだ言葉が綺麗な人はとても素敵な人なんだと思う。
私自身 そのような人たちと関わっていく方がいいと恩師にお説教を食らった確かにその通りだと思う 綺麗であり続けること それは日々の努力から成り立つものであり その日々の努力は普段の生活に反映されるものだと。
私自身 これからしっかり 努力を重ねていく 身としてやはり 周りの人たちもそうやって努力を重ねる人たちを周りに置いた方が自分自身にも刺激にもなるし そして一番大事なこととして自分のやっていることに応援してくれる人たちを仲間にしているということが何よりも大事なんだ。
どうせ無理とかそんなのできっこないよとかそういうやる前から無駄だとかそう感じさせるような言葉を多用する人たちと関係を断つべきだとそう教えられました
私の周りには努力をして前に進んでる人はたくさんいますが 一部 人生を悲観して後ろ向きに生きている人たちもいます 私もそのような人たちをないがしろにしてはいけないと思ったので 平等に接していましたが 1つだけ分かったことがあります なぜ悲観している人が仲間ができないのかということです。
それは簡単なことでした 悲観 をしている人たちは確かに自分の環境や 自分のしてきたことについて取り返しがつかないと感じているのもあるかもしれません しかしそこから這い上がる人もいます その中で 這い上がることができないのはそれを自責ではなくて他人のせいにしているからです。
そして自分よりも醜いものを見つけ その対象に自分の方が上回っていると言葉をぶつけるのです。
弱い立場から強い立場へと変わった時 それをやり返そうとしているのです そのような人たちが一定数いて自分が弱いという状態があるので手を出さないだけ。
自分の立場は逆転したら いつか やり返してやろうっていう人が周りにいるんだなぁということを改めて感じました
殴られたから殴り返すのではなくて他の解決法が絶対あるはずです。
大人になっても子供の時のトラウマをいつまでも 言い続ける人もいます その人にとってはそのことはとても辛いことだったのかもしれませんが それを乗り越えて次へ行く という決断をする時が来ると思うのです
自分と向き合い何が今大事なのか それを見極める必要があるんです なので 私は決めました
今後生きていく上で仲間とどう向き合っていくのか どのような仲間と一緒にいるべきなのかゆっくり考えたいと思います
全国でも 場所によっては 子供にゲームをやらせるのを制限をかけている県もありますね もちろん 何かしら 考えがあってやっていること なんだと思いますじゃあ 果たして何が問題なんだろうとそう思いませんか?
私も 子供時代は生粋のゲーム好きでした。
でも私は子供時代にゲームをやりすぎて怒られた覚えはありませんなぜならば 両親が共働きで家を留守にしていて 私が遊べるものがゲームしかなかったからです その頃に比べ 今は子供達もある程度 親が見てくれるような環境になったんだとそう思います
ゲームなんかやってないで勉強しなさい そんな風に言われる 友達の姿を見て ちょっと 羨ましく思ってました。
でも私もゲームをやりすぎちゃいけないんだなと感じたことがあったので 今はほぼほぼ やってないんですよね それはなぜかと言うと 高校時代の友人の一人にゲームにどはまりしている人がいてその人が何食わぬ顔でまた今月も大量課金しちゃったと言うんですよね
もちろん 課金をしちゃいけないというわけではなくてお金を使うことに対して抵抗がなくなるもそうですがお金よりも大事な時間という概念をゲームで忘れつつあるのが問題だと思うのです。
その人は家でやることがないからゲームをやっているというのです それならば私が何かしら イベントを開催して参加すれば それを解消できるのではないかと思って仲間を集めて パーティーをしたのですが 問題はそこからでした。
その人は 他の人がいてもお構いなく ゲームを始め その上に他の人から初対面の人もいるのにその人をほったらかしでゲームをするのはどうなの と問われたところ
ゲームのイベントがあるのにわざわざ こっちは来てやったんだぞ イベントがない時にそういう イベントを開けよと逆上したのです 私も確かにそのゲームをやっていないので イベントがやっていたということを知らなかったのですが 彼が言っていた家でやることがないからゲームに走っていたというのが嘘だったんだなと そこでわかったのです
ゲームのしすぎで何が問題かというと 現実に何かしらのイベントがあった際にゲームの方にとらわれてしまって現実のイベントを楽しめないというのが問題なのです。
私たちは 現実世界で生きている
ゲームという世界はあくまでも 仮想空間です その仮想空間に時間を費やす あまり 現実から遠ざかってしまっている それが問題なのです なので 一概にゲームが悪いのではなくてゲームと現実をしっかり区別できれば問題ないのですがそのように 区別ができなくなった時に 自分で問題なんだと判断できない状態にあるのが問題なんだと思っています
その状態は自分ではどうすることもできません なぜならば 自分はそれが正常だと思っているからです。
この状態にならないようにゲームを ほどほどにやる分には問題ないと思いますが 上記のような状態になってからでは正常な判断ができないので直すことができません
ゲームという文化はとても面白くていいものだと思いますがしかし現実に満足できてない人がそのゲームの世界に溺れてしまうという悪い一面も持っているのです。
一番 望ましいのはゲームに逃げなくても楽しい人生を送れることが一番大事だとは思いますが それを 目をつぶってゲームに逃げるような世界を作ってはいけないと思います。
現実というこのオープンワールドをどうやって生きていくのか ゲーム内の達成感を現実で味わうことができればそんな風にはならないと思います。
ゲームと現実が区別できない なんていうことはありえないだろうと思うかもしれませんが 実際にそういう人は 私の周りにいたんです なので 現実問題 このような事象はどこかで起きているんだと思います なので 気づけるうちに直されれば理想ですね
本当に ゲーム以外 友達がいなくなってしまいますよ そうならないように ほどほどに楽しんでください。
全然更新できていませんでした…
更新できなかったのには理由がありまして…。
最近、You Tubeチャンネルを始めたのですが、自分のポートフォリオサイト代わりに動画をアップロードしています。
昔から思うのですが、
何かを発信するのは難しいですよね…
悪く言えば炎上、よく言い過ぎると嘘だと言われる。
程々がいいんですよね。
動画制作を仕事にするために
撮影機材に投資を行い、編集機材も揃えました。
あとは、クリエートするまで。
ストーリーを作るのは難しいというか、エンディングをどんなふうにするか先に考えてストーリーを構成する癖がいいふうに働くときもあれば良くないときもある。
高校から映像作品を作っている身としては、色々と考えさせられる。
You Tubeの映像作品というのは少し特殊で、ダイジェストを作るようなイメージ。
切り抜き文化からスタートしたYou Tubeは、やっぱり、最初から最後までというテレビ的な見方をされない。
動画の視聴維持率が重要とのこと。
テレビは早送り出来ないけど動画ならできる。
だからこそ、視聴者の見たいシーンが一発でわかる。
このコンテンツはウケたけど、これがだめだというのがわかる。
でも、不思議なのは…
あとから流行ることもあるということ。
テレビ番組を作ることを学んだ私はYou Tubeで通用するのか?
倍速でYou Tubeを見る人が多いみたいですね。
作る側としては…複雑。
としても、弱小You Tubeチャンネルをあえて作ったのは…1から運用して、ノウハウを蓄積したかったからにすぎない。
アカウントの売買が行われている事を考えると収益化が済んだアカウントを買うのも一つの手だと思う。
だけど…それじゃつまらないよね。
一人から始まった登録者をいかに伸ばすのか、再生数をどうやったらあげられるのか。
それを研究している。
やっぱり、自分はこの仕事にしてればよかったな…と毎回思うけど。
手元に資金が無いと何もできない。
機材をケチったところで、作品にもろ影響がでるし…仲間に声をかけて出資をしてもらったり、チームメンバーになってもらって…
撮影に同行してもらったり。
仲間はそれなりにあつまってきた。
声をかけてもらえるうちが花だと。
そのうち声がかからなくなったら。
きっとそれは、まぁいいや。になっちゃったってことだよね。
ゆっくりだけど。
一歩ずつ前に進んでる。
自分の周りにアンチじゃなくて、仲間を置くために。取捨選択しないといけないのか…。
がんばらないと…
人生は一度しかないからね!
友達ってなんでしょうか。
最近、考えてしまう私です。
一人でいるのが嫌だからとりあえず、おいておく人みたいな人が増えている…
そんな人に求めるものはなくて。
ただ、横にいてくれるだけでいい。
そういう理由でおいています。
しかし、ふと考えるのです。
横にいるだけの人…この人はなにをかんがえているのかな?と。
でも、聞いてみると。
呼ばれたから来ただけ。
そう答えるのです。
暇だったからなんとなく。
そういう友達関係ってあるんですかね?
友達に何かを求めるのは間違っているのでしょうか?
人に興味がないというより…
人生において楽しみがないのでしょう。
そういう人と接していると。
移ってしまうものですよ。
でも、私の父が亡くなって。
遺品であるスマホの検索画面を見ていると。
占いのページが検索履歴に残っていたんです。
人は、最後何かにすがりたくなるのかもしれません。
自分だけではどうしようもできないことに。
ただ…ただ…願うように。
いい行いをすれば良くなるとか、悪いことをすればどうにかなるとか。
それは本人のこころのもちようだと思います。
自分の想いや、いろんな感情がどうか。
健やかなものでありますように。
そう、願うしかないんだと思います。
失って気づくことがあると思います。
私も失ってから気づきました。
ただ、思うのは。
謝れるうちに、謝るべきだし。
お礼ができるうちにお礼をしておくべきだと。
辛いこと
いっぱいあると思います。
だけど、考えてみてください。
それは、いま無理やりやらなくてはいけないことですか?
たまには逃げてもいいんじゃないですか?
歩くの辛いなら、たまには休憩すればいい。
私も辛いことから離れてやっと落ち着きました。
いてもたってもいられない。
不安というのは急にやってきます。
心にも休みを与えないときっといつか倒れてしまいます。
がんばれなんて言いません。
無理しないで、うまく逃げることをおすすめします。
皆さんいかがお過ごしでしょうか。
最近では暑い日も増えました
父親が亡くなってから4ヶ月ほど経ちますが色々とこなしていくうちにそれがだんだんと実感へと変わっていきました。
実際亡くなってから振り返ってみるといろいろ思い出があることに気づきました。
色々と介助や介護に追われていましたが
大変だったなぁと感じます。
いろんなことを急ぎ足で決めてきたので今になってこれでよかったのかなと思ってしまいます
人が病気でだんだん弱っていく姿を改めて見てみると胸が締め付けられます
上司のせいで介護休業が早く取れなかったため会話する事もままならず色々と伝えることができなかったため恨んでも恨みきれないなぁと思ってしまいます。
介護休業をずらされたことによって休業に入った日に危篤となってしまったのでまともに会話もできなかったんです。
もし一日でも早く休業が取れていたらもし1日でも早く話すことができたならいろんなことを話せたんじゃないのかなって思います。
それが叶わなかったので今振り返っても心が痛いです。
上司からしたら所詮他人ごとにしか過ぎないんです。
職場に戻ってきて言われた一言は案外早かったんだねと言われました。
人の命が一人いなくなってるのに案外早かったねという回答はどうなのかなと思ってしまいます。
上司からは冷たい言葉をすごくかけられこの人を信用していいのかものすごく不安に思いました。
他人にとってみたら人の命なんてどうでもいいのかもしれませんですが安倍元首相が襲撃されてなくなってしまい悲しいように一人の命がなくなるということは誰にとっても嬉しいことではないと思います。
そのような上司のもとでデリカシーのない上司の元で働くということに対してものすごく苦痛に感じます。
人の痛みや気持ちいろんな思いを理解できるような人間に上司になってほしいなって思います
工場や現場ではあくまでも人は機械の代わりにしか過ぎないのかもしれません人がいなくなれば適当に人を持って来ればいいと思っているのかもしれません。ですが、機械と人間が一番違うところは感情があるかどうかではないんでしょうか人間が人間らしく仕事をするためにはまず第1に人を変えていかなければならないと思います。