THE NIGHT SKY
この季節、街並みを彩るイルミネーションと共に、溜め息がつくほど美しく感じるのが夜空。
澄んだ空気に星が夜空いっぱいに広がり、まさに天然のイルミネーションじゃないかな?
北極星をはじめ、オリオン座、カシオペヤ座、北斗七星、そして南の空に青白くまたたくシリウス・・・。
俺の子供の頃はまだ今のように夜空が明るくなくてさ(田舎だったし)、今よりもたくさんの星が空いっぱいに散りばめられていたのが普通に見えた。
そして指を指して星座や星の名を教えてもらったもんだ。
そんな時にフッと思った素朴な疑問は「あの星はどれだけ遠くにあるの?」
大人達は困りながら"何万光年"と答えていたのを何となく覚えている(笑)
1光年は光の速度で1年間に進む距離、と教わってきた。
最速だと言われている光の速度、それが何万年もかかってこの地球に届いている星の輝き。
今見ている星の明かりは何万年も前の姿なんだ・・・、と。
宇宙って規模が桁違いの、全くドワイルドな世界だな~!なんて子供心に思ったりして(笑)
この我々が住む地球がある太陽系、それは銀河系の中のちっぽけな一部であり、更に宇宙には同じような天体の集まりが無数に存在すると言われている。
ちなみにこの銀河系の直径は約10万光年だそうだ。
宇宙という言葉の"宇"は空間全体、"宙"は時間全体を意味し、"宇宙"で時空(時間と空間)の全体を意味している。
人間が想像もつかないような果てしない空間と時間の中にこの地球が存在し、その中に俺たちの存在があるんだよね。
そう思うと1人の人生ってちっぽけなものなのかもしれない。
「遠い昔、遥か彼方の銀河系で・・・」
と始まるスターウォーズ。
こっちから呼ぶと宇宙人って事になるのかな。
宇宙について思いを巡らしていくと、スターウォーズで観たような世界が存在していても不思議じゃないよね?
海や平均温度などから、生命が存在しうる環境がある可能性があるという惑星、グリーゼ581c。
太陽系から約20光年離れた場所にあるこの星に、もしかしたら生命がいるのかもしれない。
先日、民主党の国会議員が「UFOに関する情報収集や研究、日本に飛来した場合の対応」などについて問題提起した。
それに対して「政府としてはUFOの存在を確認していない」と答弁し、なかなか面白い波紋を呼んでいる。
ここ最近のダークな話題しかなかった日本政府において、ちょっとした楽しい話になったんじゃないかな?
町村官房長官は「個人的には(UFOが)存在すると信じている(笑)」なんてね。
欧米先進諸国の政府はUFOに関する目撃情報の分析や研究を着実に進めており、飛来時の緊急作戦のマニュアルも整備しているという。
俺もこのドワイルドな宇宙の中には、この地球と同じように生命が存在する惑星があると思うな~。
冬の美しい星空を見上げていると、ついそんな事を考えてしまうんだ☆
dowild.m
SANTA CLAUS
華やかなクリスマス・イブが終わり、今日が本当のクリスマス・デー。
余韻が残る今日もドワイルド・クリスマスでいいかな?
クリスマスの夜、子供達に夢と希望を与えるサンタクロース。
俺も子供の頃サンタクロースに手紙を書いたんだ^ ^
宛先は確かフィンランドのサンタクロース村だったかな?
フィンランドにいるサンタさんへの手紙・・・、もちろん日本語ひらがなで(笑)
ところでサンタクロースのルーツって?
今日はそんなサンタさんの起源を追ってみようか。
さかのぼること4世紀。
イズミール(現在のトルコ)にキリスト教の神父ニコラウス司教という人がいた。
お金持ちであったニコラウス司教は寛大で子供達を愛する人だったんだ。
貧しい子供達に時々窓からプレゼントを差し入れ、喜ぶ姿をそっと見ている・・・。
また、こんな逸話もある。
貧しさのあまり、三人の娘を嫁がせる事が出来ない家の存在を知ったニコラウス司教は、真夜中にその家の屋根にある煙突から金貨を投げ入れた。
このとき暖炉には靴下が下げられており、金貨は靴下の中に入っていたという。
この金貨のお陰で娘達の身売りを避けられた、と。
ニコラウス司教は学問の守護聖人として崇められており、また教会では聖人とせて列聖去れていたため"聖(セイト・ニコラウス)"という呼称が与えられていた。
"セント・ニコラウス"をオランダ語にすると「シンタクラース」。
ギリシャ正教会は、ニコラウス司教を「奇蹟の奉仕者」として大聖人の称号を与えている。
彼の名誉をたたえて、ロシアでは最古の教会が建てられ、ローマのカトリック教会も子供たちと貧しい人々の味方であるニコラスを誉めたたえた。
こうして聖ニコラスは、ドイツの北部と中部のプロテスタントの地域では「バイナフトマン(クリスマスの人)」として知られるようになっていった。
また、イングランドではファーザー・クリスマスとも呼ばれ、17世紀アメリカに植民したオランダ人と共にこの話は海を渡り、聖ニコラスは「サンタクロース」として語り継がれるようになった。
ところで子供達には素朴な疑問があった。
「サンタさんは何処から来るの?」と。
そこで
「サンタクロースはクリスマスプレゼントのための仕事場がある、北極に住んでいる」という伝説が生まれた。
ところが1927年のフィンランドの新聞で
「北極では食料が不足し、トナカイに餌をあげることが出来なくなったため、サンタクロースはフィンランドのラップランドに引っ越しました。」
との記事が掲載された。
さらに"マークスおじさん"で親しまれていたフィンランドのラジオ番組「子供の時間」の司会をしていたマークス・ラウシオも1927年重大な事実「サンタクロースはラップランドのコルヴァチュンティリ(Ear Fell)に住んでいる」ことを明らかにしたんだ。
このFell(高原)はフィンランドの東部辺境に位置し、野兎の耳の形に似ていることから「サンタの耳」として知られている。
この"耳"は世界の子供たちの声が良く聞こえるためとも言われ、またサンタクロースはスカンジナビアの独自の伝説で良く知られている、忙しい時に手伝ってくれるトントゥ(小人)たちと一緒に暮らしている・・・。
という話に発展していった。
こうして、何世紀も北半球のいたるところでサンタクロースは語り継がれ、その伝説が混ざり合って世界のサンタクロースが生まれたんだよね。
白い髭、赤いジャケットにボンボリのついた帽子という格好で、クリスマス・イブに8頭のトナカイの引くソリに乗り、さっそうと現れ煙突から暖炉の横に置かれている靴下にプレゼントを入れていくサンタクロース。
世界中の子供達、いや大人にもドワイルドな夢と希望を配ってくれるクリスマスの象徴だ。
このサンタさんのお陰で世界中でハッピーなクリスマスが行なわれているんじゃないかな?
☆Marry dowild christmas☆
dowild.m
dowild X'mas☆
ハッピー・ドワイルド・クリスマス☆
さぁ、今日はクリスマス・イウ゛だ♪
1年の中でも最大のビッグイベントとして楽しまれる諸君も多いコトだろう^^
クリスマスって、大人にとっても子供にとっても特別なロマンティックな日だもんね。
日本人のどれほどが正しくクリスマスの意味を理解しているのかはともかく(笑)「クリスマスにはサンタクロースが子供たちにプレゼントをくれる」というカルチャーは、古くから、深く、広く、浸透している。
ドワイルドな諸君も幼少の頃は「サンタさんは今年もちゃんと来るかな?」なんてドキドキした夜を過ごした経験お持ちではなかろうか?
でも、小学生くらいになると「サンタって本当にいるの?いないんじゃない!?」などと薄々気付いてきたりなんかして^^;
やがてソレをすっかり理解し逆に親のコトを「大人げない」なんて思ったりさえする。
大人になるって、そういうコトだからね^^
しかし、やがてそうやって自分たちが大人になり父親そして母親になった時、その「大人げないコト」を我が子のためにまず間違いなくやるだろう。
「サンタさんに何を欲しいってお願いしたの?」なんて探りを入れてプレゼントを用意したりサ♪
かつて自分がドキドキしたコト、親にしてもらって嬉しかったコトを、“サンタになり”我が子にも同じようにやってあげたいからだ。
俺には子供はいないが、聞けば近年、親が子供と“本気で遊ぶ”コトが少なくなったという。
都市化開発が進み、空き地とか公園が身近になく物理的に難しいといったコトもあるのだろうが…
でも、一度、自身に問いかけてみてはいかがだろうか。
そういう“本気で遊ぶ”気持ちがあるのか、ないのかを。
子供を持ち、もしそういうコトをしてあげてないのであれば、こう考えよう。
それは「出来る」んだと。
だって、サンタクロースにだってなれたんだし♪
“サンタクロース”も“本気で遊ぶ”のも言っちゃえば根源は同じ「大人げない」コトなんだよ。
そしてそういう「大人げない」コトが、子供はとっても嬉しいというのも同じだ。
大人じゃないコトが、大人であるコトだったりするしね^^
それは子供のいない諸君も同じだろう。
ドワイルドなハートを持つ…サンタクロースはあなたの心の中にきっといるはず☆
ドワイルドに素敵なイヴを☆
dowild.s
Harry's Bar
イタリア・ヴェネツィアのサンマルコ広場近くに伝説のレストラン・バー「ハリーズ・バー」がある。
昨日のブログでも書いたヘミングウェイをはじめ多くの芸術家や著名人、セレブ達が愛し、そしてエリザベス女王までもが訪れたという数々の伝説を残している場所なんだ。
1931年に開店したハリーズ・バー、その創業者であるジュゼッペ・チプリアーニは今ではイタリア料理の定番となっている二つのメニューを生み出した。
一つは「カルパッチョ」
生の仔牛フィレ肉を使ったカルパッチョは、1950年に常連客であった公爵夫人が厳しい食事制限中で調理された肉を食べられない事を知ったチプリアーニが即興で考案したもの。
マヨネーズ系のソースで味わうここのカルパッチョは絶品らしい。
今では牛肉のみならず、様々な肉や魚介類などで作られているカルパッチョだが、チプリアーニが考案したこのスタイルが本家本元なんだ。
ちなみに"カルパッチョ"の名は、当時ヴェネツィアでルネサンス期の画家ヴィットーレ・カルパッチョの回顧展が開かれていたことに由来する。
そしてもう一つはカクテル「ベリーニ」
白桃のピューレにイタリアのスプマンテ(スパークリング・ワイン)"プロセッコ"とグレナデン・シロップを加えたピンク色のカクテルだ。
爽やかな口当たりのプロセッコにピーチの上品な甘さが加わった極上のカクテル。
ここのベリーニは、ハリーズバーをこよなく愛した作家ヘミングウェイによって世界中に知られるようになったのだ。
名前の由来はイタリア人画家であるジョヴァンニ・ベリーニ。
彼の展示会をヴェネツィアで行なった時の記念にチプリアーニによって作られたのがこのカクテルだ。
ベリーニといえばお馴染みの華奢なフルートグラスに注ぐのではなく、ずっしりとしたタンブラーに注ぐのがハリーズ・バー流。
白桃の皮を剥き丁寧に漉したピューレを使用したベリーニは、白桃のピュアな香りと共に果肉の食感も味わえ最高に美味しい♪
何でもハリーズ・バーでは専門の桃剥き職人がいるとか。
ピーチネクターでも簡単に作れるが・・・、せっかくならフレッシュ・ピーチにこだわりたい。
また、以前では6月から8月までの白桃のシーズンでしか味わえなかったベリーニだったが、現在では冷凍技術も進み1年中楽しめるようになった。
ハリーズ・バーで外国人が席に着くと、メニューも見せずにベリーニが出てくるという噂も聞いたことがある。
それ程、こだわりの自信を持って作っているカクテルなんだ。
ところで「ハリーズ・バー」という名前の由来は・・・
チプリアーニがまだホテルのバーで働いていた頃、アルコール中毒を治す為にアメリカから来たハリー・ピカリングという青年に出会った。
にもかかわらず、ハリーはチプリアーニのバーでいつも飲んだくれていたそうだ(笑)
ところがしばらくしてハリーはバーに顔を出さなくなっていった。
心配したチプリアーニは「お金が必要なのではありませんか?」とハリーに尋ねた。
実際ハリーの所持金は底をついており、相談に乗ったチプリアーニは決して裕福ではなかったのだが1万リラをハリーに貸したんだ。
その後何の音沙汰も無しに月日が過ぎていったが、ある日ハリーが訪れ
「本当にありがとう!お金を返すよ。そして、これは僕からの感謝の気持ちとして受け取ってくれ。一緒にバーを始める資金にしよう。」
と、1万リラに加え4万リラを持ってきたのだ。
そうして共同経営を始めた二人、オープンしたバーの名前は「ハリーズ・バー」。
また、ハリーズ・バーがオープンしてから数週間後、1人の客が新聞を携えてチプリアーニの元にやってきた。
その新聞には
「ちょうどヴェネツィアにいる読者で、町のことが知りたい人は旅行代理店や観光案内所はよしたほうがいい。
ハリーズ・バーへ行くのが一番だ。
ジョゼッペ・チプリアーニが至れり尽くせりのもてなしをしてくれる。
チプリアーニに会えばすぐわかるだろう。
ヴェネツィアの町が親しげに手を広げ、あなたを歓迎してくれているのが」
と書かれていた。
最高の料理とカクテル、そして癒しの雰囲気を作り上げるさりげないホスピタリティにより伝説のバーと言われる"バリーズ・バー"
ここは今でもチプリアーニの「人の信用する心」が受け継がれ、訪れる人に至福の時を提供するドワイルドな空間なんだ。
dowild.m
DAIQUIRI -Hemingway-
かの文豪アーネスト・ヘミングウェイは晩年の22年間をキューバで過ごした。
そのヘミングウェイがこの地で愛したカクテルがダイキリ。
夕方になると小説の執筆を止め、ハバナにある「ラ・フロリディータ」というバーに通いカウンターの奥の席でこのカクテルを飲んでいた。
ダイキリとしては、キューバ産のラム酒を使いシェイクしたショート・カクテルとしてお馴染みだよね?
ダイキリとはキュ-バ南西部のサンチャゴ・ク-バにある鉱山の名前。
1896年に、そこの炎天下で働く鉱山技師達が現地で手軽に手に入るラムとライム、そして砂糖を使って作ったのが発祥なんだ。
ライムの酸味がラムの中でサッパリと広がり、実に爽やかな飲み口が最高のカクテル。
ホワイト・ラム45mlにライム・ジュース15mlとガムシロップ1tspをシェイカーに入れてミックスし、カクテルグラスに注ぐ。
シンプルであるがゆえに細かい部分で味が決まってしまい、なかなか最高のダイキリを作るのは難しい奥の深いカクテルなんだ。
一口にライムといっても「フレッシュライムでなきゃ」とか「甘味のついたライム・ジュースの方が本格」だとか、バーテンダーのこだわりが強いほど意見が分かれる。
日本の酒場・バーにおいてはこのショート・スタイルが一般的だが、やはり南国ではフローズン・スタイルがピッタリはまる。
フローズンにする事でガムシロップを増やし飲みやすくして飲むフローズン・ダイキリ。
ストロベリーやキウイ、バナナ、マンゴーを入れたフローズン・ダイキリも人気だ。
ところが、ヘミングウェイが飲んでいたダイキリ、「The Hemingway Cookbook」によると
ホワイト・ラム110ml、ライム2個分、グレープフルーツ1/2個分、マラスキーノ6滴。
砂糖抜き。
原料だけでも300ml、さらに氷を入れるのだから500mlにもなる・・・。
しかもヘミングウェイは毎日このダイキリを1日12杯は飲んだという。
ラム110mlを12杯・・・、ボトル2本を空けていた事になるよね。
さすが世界の酒豪、じゃないや文豪ヘミングウェイ(笑)
どんな味なんだ、かなりドライじゃないの?って前にこのレシピで作ったことがあるんだけど、これがよりフレッシュな感じでとても美味い♪
グレープフルーツがいいポイントになって、ドワイルドなダイキリに仕上がっているんだ。
さすがにグルメでも知られているヘミングウェイ・オリジナル。
何でもこのダイキリを飲んでいた頃は糖尿病になっていて、甘いものがダメだったという。
それでも大好きなカクテルが飲みたい一心で「ラ・フロリディータ」のマスターと試行錯誤を繰り返し、このレシピに辿り着いたのだそうだ。
ここハバナの「ラ・フロリディータ」では、ヘミングウェイが毎日座っていたカウンターの奥の席はロープで囲まれた予約席であったが、今では等身大のヘミングウェイ像が陣取っている。
そしてオリジナル・ダイキリも「パパ・ヘミングウェイ」の名でメニューに載っているんだ。
フローズンというとやっぱり南国で味わいたいが、この冬クリスマス・パーティーなんかで飲んでみるのも粋じゃないかな?
dowild.m
WOLFMAN JACK
先日masayaの書いた記事「FEN(FarEastNetwork)」
810kHzの中波放送は東京でさえFM局が2局しかなかった頃、1日中音楽をかけてくれるゴキゲンなステーションだった♪
そんな中学生の時の懐かしい思い出といったらやはり「Wolfman Jack Show!!」
時間帯は結構変更があったが、20:00とか23:30頃だったかな?
狼の雄叫びとともに始まり、あの低音のダミ声でマシンガンのように捲し立て、R&Rを流すのが最高にカッコよかった♪
何より曲がガンガンかかるのが彼の番組のいい所。
本名ロバート・スミス、1938年生まれでニューヨーク、ブルックリン出身のアメリカの超有名なラジオDJだ。
その名のごとく風貌もまさに狼のよう(笑)
かつて代表的なラジオ番組はアメリカで制作され、メキシコのAM放送局で放送されていた。
'50年代、メキシコのラジオ局「XERB」でエルウ゛ィスのレコードをかけまくる伝説の怪物DJだったんだ♪
'70年代から長い年月にわたり活躍した、世界で最も有名なラジオパーソナリティーと言っても過言ではなかろう。
ラジオから電波を通して伝わってくる向こうの世界には俺もいろんな想像力を膨らましたもんだが、彼もまた同じような想いを持ってソレを自分の仕事としてしまった人物なんだ。
「アメリカン・グラフィティ」(1973)では本人役でラジオDJとして、「地獄のモーテル」(1980)では牧師役で映画にも出演している。
アメリカン・グラフィティでは彼の魅力をたっぷり見てとれるのだが、ある意味ストーリーの核となってたように思う。
監督のジョージ・ルーカスも彼の大ファンだったし、ストーリー同様、若者たちの心強い見方だった^^
因みに映画でのDJのほとんどが、彼の最もノリノリだった過去のラジオ番組からの録音だったそう。
日本語版の吹き替えに小林克也と桑田佳祐だったってのも、まさにって感じで懐かしい。
'69年、ラスウ゛ェガスのショーで、あのエルウ゛ィスも若い頃にウルフマン・ジャックの番組を聴いていたコトを話し、観客に彼を紹介したのはつとに有名な話だ。
1995年4月に、TOKYO FM開局25周年記念特別番組で「赤坂泰彦の東京・ニューヨーク25時間スペシャル」をニューヨークから生放送した。
その時、ウルフマン・ジャックは赤坂氏とダブルDJを行った。
残念ながらその年の7月1日、心臓病のため57歳という若さで死去…
史上最高のアメリカンDJをもっと知りたい諸君は「ハブ・マーシー!―ウルフマン・ジャック自伝」という本がある。
最高にオモシロイ本だ、ぜひ読んでみては♪
ウルフマン・ジャックの「Wow!」とか「Yeah!」とか「Baby!」「Here we go!」に生のアメリカを感じ、ラジオから聴こえてくるドワイルドなアメリカがソコにはあった。
dowild.s
Hot Dog
たまには俺も食べ物の話を^^
普段、料理もする俺だけど、実は大・大・大の食べず嫌いだったんだ^^;
ウィンナー、卵焼き、ハンバーグさえあればいいみたいな^^というかソレ以外は食べれない、食に関してはホントお子様だったんだよね★
いい大人になるまでずっとそうだった(>_<)
そんなのもあって、今もソーセージは大好物の一つなんだ♪
とりわけアメリカン・フードの代表選手「ホットドッグ」には目がない(笑)
温めたソーセージを細長いパンで挟んだだけのあのシンプルさもいい♪
味付けはたっぷりのトマトケチャップとマスタード、食べず嫌いだった昔はソレで十分だったけど、そこに玉ねぎやピクルスを細かく刻んだレリッシュ、サワークラウトなんかを添えると格別だよね♪
チリソースやチェダーチーズをかけたチリドッグ、チーズドッグなんてのも食べてきたけど、やっぱり王道はケチャップ&マスタードじゃない?!
ところで、ソーセージのコトを何故“ドッグ”と呼ぶようになったか知ってるかな?
19世紀中頃からそう呼ばれているんだけど、コレはフランクフルター・ソーセージのその細長い形状から“ダックスフント・ソーセージ”とも呼ばれていたからという説が一般的だ。
当時盛んだった、野犬狩りで捕まった野良犬の肉が混入されているという都市伝説に由来するなんて気色の悪い話も(*_*)
また、この名称がより広まったのは、あるマンガ家が作品中で“Dachshund”のスペルがわからずに仕方なく“Hot Dog”と看板に書いた屋台を描いたコトがきっかけであるとも言われている。
英語における“hotdog”とは、この種のソーセージのモノを指す単語で、パンの有無は関係ないみたいだ。
というのも、ホットドッグ用に作られたソーセージだけの状態や、串に刺し衣をつけて揚げたコーンドッグ(日本で言うアメリカンドッグ)のコトも総称してホットドッグと呼んでいるからね。
ソーセージをパンに挟んで供するという工夫は、どうやらドイツからやってきた移民たちにより伝えられたようだ(さすがソーセージ大国^^)
アメリカで広まるきっかけを作った人物は、コニー・アイランドで屋台を開いていたチャールズ・フェルトマンの使用人をしてたネイサン氏が始めたホットドッグスタンド“ネイサンズ”が最初だとか、いろんな諸説があるが実際のところは定かではない。
いずれにしても19世紀後半のニューヨークで、このような形の食べ物が認知され様々な場所で販売されてたコトは間違いのない事実のようだ。
そんなホットドッグ、アメリカでは1人あたり年間60本ほど消費してるらしい。
特に野球観戦とホットドッグの繋がりは深く、ドジャー・ドッグ(ドジャー・スタジアム)、フェンウェイ・フランクス(フェンウェイ・パーク)など、野球場にはそれぞれ名物のホットドッグがあるんだ♪
1916年より、毎年7月4日の独立記念日にニューヨークでは「ネイサンズ国際ホットドッグ早食い選手権」が開催されている。
発祥の地と言われるコニー・アイランドでホットドッグに思いっきりカブリついてみたいものだ^^
スローフードとか、ロハスとか、マクロビだとか言って、カロリー気にしてちゃアメリカのジャンクフードは語れない(笑)
dowild is a real hotdog☆コレいかに(笑)
dowild.s
WOODSTOCK FESTIVAL '69
"愛と平和と音楽の三日間" -Woodstock Music and Art Festival-
ウッドストック・フェスティバルは1969年8月15日~17日までの3日間に渡り、ニューヨーク州サリバン郡ベセルで開かれた大規模な野外コンサート。
30組以上のアーティストが昼夜問わず演奏を続け、入場者は50万人以上と言われている伝説的なイベントだった。
1960年代のヒューマン・ビーインと呼ばれる人間性回復のための集会でもあり、ヒッピー時代の象徴としても有名な出来事だ。
このフェスティバルはもともとボブ・ディランら多くのアーティストが住んでいたウッドストックで行なわれる予定だったが、住民や市当局の反対により直前になってニューヨーク郊外のベセルの農場に会場を変更した。
また、主催者側は当初1~2万人程度の入場者を見込んでいたため、ステージをはじめトイレや駐車場、食料など全てにおいて不十分のまま開催された。
ハイウェイは会場に向かおうとする人々でごった返し、駐車車両に塞がれ交通は完全に停止、食料を運ぶ手段も無く、ステージの演奏を聴けたのはごく一部の人だけだった。
当初は18ドルのチケットを用意していたのだが、この混沌の中ゲートやフェンスが取り壊されほとんどの観客は入場料金を支払わなかった。
その結果、アナウンスで「こいつをいつ言うか考えていたんだが、もう言ってしまおう。今からフリー(無料)コンサートだ!」と流れ、このときに自由という名の風が吹いたのだ。
「これは歴史的イベントだ。お金の問題じゃない。」と。
実際のところ、この現場での収益は全く無く大赤字であったが、話題になったウッドストックの記録映画やレコードが大ヒットしたことで最終的には収益にも結びついたと言われている。
どしゃ降りの雨に見舞われ会場は泥沼状態になった日もあり、食糧不足の問題も深刻だった。
そんな中、人々は食べ物やアルコール、ドラッグを分かち合い、食料不足を聞いた地元住民達によって数千個のサンドウィッチが空輸されたりもした。
また、アメリカの根病といわれている人種差別や精神的拒絶は全く無く、この3日間に暴力や犯罪が1件も記録されなかったことも有名な話だ。
交通事故による死者が2名、病人5,000人、出産2件という異例のハプニングは、時代を象徴する出来事として取り上げられ世界中にインパクトを与えた。
観客がお互いを助け合い、このフェスティバルを成功させたとも言えるんだ。
出演アーティストもそうそうたる顔ぶれで、ジミ・ヘンドリックスをはじめ、ジャニス・ジョップリン、スライ&ザ・ファミリーストーン、ザ・フー、グレイトフル・デッド、サンタナ、テン・イヤーズ・アフター、ザ・バンド・・・。
ちなみに出演予定だったジェフ・ベック・グループがこの前日に解散してしまい、そのピンチヒッターとして抜擢されたデビューしたてのサンタナはウッドストックがきっかけで一躍有名となったんだ。
ベトナム戦争による反戦の風潮の中、世界平和の祈りと愛を音楽に託し、何十万人もの人々が"幸せな時間を共有した”3日間。
ウッドストックを締めくくったジミ・ヘンドリックス、彼が登場したときにはもう4日目になっていたため、会場には数百人しか観客が残っていなかった・・・
でも、最後にギターで弾いたエキセントリックなアメリカ国歌「星条旗よ永遠なれ」は会場に心地良い余韻を残し、輝かしかったドワイルドな60年代に区切りが付いた瞬間でもあった。
そして、ベトナム戦争と共にヒッピー幻想の終焉と崩壊、新しい時代に切り替わったんだと思う。
dowild.m
Apple Corps Ltd.
アップルといってもMacの方じゃないよ(笑)
1968年にザ・ビートルズによって設立された、多角的な会社組織がこのアップル・コア。
当時のマネージャーであったブライアン・エプスタインが、税金対策の為にビートルズの経営を多角化して投資対象を増やした方が良い、と会計士からアドバイスを受けたのをきっかけにブライアンはベイカー・ストリートに「アップル・パブリッシング」という音楽出版社を作った。
1967年にブライアンが亡くなると、ビートルズのメンバーは自分達で自らをマネージメントすることを決意し、「アップル」をビートルズの会社として拡大することにしたんだ。
こうしてミュージシャン、そしてアーティスト本位の会社「Apple Corps」が誕生。
アップル=レコード・レーベルのイメージが強いが、設立当初はエレクトロニクス、映画、出版、レコード、小売店の部門を抱え数多くの人々の夢を実現するべくスタートした。
しかし成功したのはレコード部門のみで、事業縮小ののちレコード・レーベル「Apple Records」として知られるようになったんだ。
社名の由来は
英語圏の子供が最初に文字を覚えるのがAのAPPLEであるから・・・
アダムとイブの話から・・・
リンゴ・スターのRingoと日本語の林檎をかけて・・・
なんて諸説が言われているだ。
ロゴのリンゴ・マークは、ポール・マッカートニーが当時購入したルネ・マグリットの青いリンゴ(オーストラリア原産のグラニースミス・アップル)の絵画がヒントになっているそうだ。
ちなみに会社名「Apple Corps(リンゴの団体)」は「Apple Core(リンゴの芯)」との語呂合わせ。
現在はビートルズの権利を管理することが主な事業であり、「BEATLES」 の商標もアップル・コアが登録している。
しかし今や"アップル"といえば「アップル・コンピューター」の方が印象が強い。
1976年に創業したアップル・コンピューターは一口齧った跡のある、横縞6色のカラフルなリンゴのマークがロゴとして使われていた。
アップル・コンピューターの創業当時からリンゴを企業の顔とする"アップル"同士の闘いは始まっていた。
アップル・コアは“アップル”を企業名に使ったことに関してアップル・コンピュータを相手取り訴訟を起こした。
その結果アップル・コアは高額な和解金と引き換えに、アップルコンピュータが"アップル"の名を企業名とコンピュータ製品に使用することに合意。
ただし、音楽市場に参入しないことが条件とされた。
1991年には両社の間で商標契約が結ばれ、それぞれに"アップル"の名称とロゴ・マークを使用できる分野が定められた。
アップル・コアは楽曲の制作と販売に、アップル・コンピューターは音楽を配信するためのデバイスとソフトウエアに使う権利が認められたんだ。
ところがこの契約締結後にアップル・コンピューターが始めた音楽配信サービス「iTunes Music Store」で"アップル"の名称とロゴを使用することは契約違反として、アップル・コアは再び訴訟を起こした。
契約上ではアップル・コンピューターが楽曲を配布・販売することは音楽事業とみなされる、と。
しかし裁判の結果、アップル・コンピューターは提供者ではなくデータを転送しているに過ぎない、とこの訴えは棄却されロゴ使用は正当であるとの判決が下され和解合意した。
この和解合意での金銭的条件は明らかになっていないが、アップル・コンピューターがビートルズに1億ドル!を支払ったとみられている。
アップル・コンピューター側は「われわれはビートルズを愛しており、商標をめぐり対立するのはつらかった。今回、前向きに解決できてうれしく思う」
ビートルズ側は「対立が解決して喜ばしい。アップルの成功を祈るとともに、同社と長期にわたり協力していくことを楽しみにしている」と。
この和解によってアップル・コンピューターがビートルズの楽曲をiTunesで販売できるようにするための大きな障壁は取り除かれ、年明けにも配信サービスが開始されるだろう、と言われているんだ♪
今や音楽をはじめダウンロードは無視できない存在。
今後ビートルズの楽曲が有料配信されることによって、かなりの収益が見込まれると言われているんだ
また、世界的な音楽チャートにもかなりの影響があるだろう。
実に30年に渡るわだかまりも収まり、また"アップル"同士のドワイルドなタッグによって「THE BEATLES」旋風が再び巻き起こるんじゃないかな?
p.s. ちなみに楽曲のダウンロードはまだしたことが無いんだ。
CDやレコードとして所有しないと満足できないんだよね、何となく・・・。
データって目に見えないじゃない(笑)
今日は何回"アップル"と打ったことやら・・・
書きながらリンゴが食べたくなってしまった(汗)
dowild.m
Fastener(Zipper )Story
ドワイルドな諸君は普段穿いてるジーンズなんかだと、ボタンフライとファスナー(ジッパー)どちらがお好みかな?
俺はね、501が好きなのもあるけどボタンフライが好きだったりする。
しかし、革ジャンなんかだと機能美を優先してファスナーの方が良かったりも♪
衣服の着脱のスムーズさを考えるとファスナー(ジッパー)って本当に便利な発明品の一つだよね。
そのファスナーは19世紀末、シカゴに住む“ホワイトコーム・L・ジャドスン”という人物が、ボタンよりもっと素早く開閉できる方法がないかと考えたのが始まり。
当時の履き物はすでにブーツが主流となっていたんだけど、その多くは紐かボタンで開け閉じするモノだった。
どちらであろうとも、ブーツが深くなればなるほどその鳩目(紐を通す穴)やボタンの数は当然増えていく。
それゆえブーツの着脱はうんざりする位の一仕事だったんだよ。
そこでなにかソレに代わる方法がないものか?というのが発明の動機となったワケだ。
1893年、一種の細長い金属製の帯を2本かみ合わせるコトによって、開け閉じを自在にする仕組みを考えた。
さっそく自らのブーツにも組み込み、さらには友人であるルイス・ウォーカーのブーツにも付けてやった。
ウォーカーは元軍人で弁護士、そして投資家でもあった。
ジャドスンはこの仕組みに「クラスプ・ロッカー」というネーミングで特許を得る。
そして翌1894年、ルイス・ウォーカーは「ユニウ゛ァーサル・ファスナー会社」を設立し、ジャドスンが技術協力をするコトとなった。
さらに滑らかな、さらに安全な、さらに軽量な“開閉自在器”を目指して改良を続けていった。
1905年に社名を「オートマティック・フック&アイ・カンパニー・オブ・ホボケン」と変更し、1908年、新型ファスナーを開発する。
呼び名は「Plako(プラコー)」おそらくはPlacket(プラケット)=スカートなどの「開き」にちなんでの造語であったのだろう。
しかし、ホックやボタンでコト足りてた女性たちには受け入れられなかった。
それは会社存亡の危機、ジャドスンはすでに袂を分かっていた。
ウォーカーは、新しい出資者を募り1913年「ザ・フックレス・ファスナー会社」という新会社を作る。
新しい製品名は「フックレス・ナンバーワン」コレは“セパレータブル・ファスナー”のコトであり、特許も得た。
しかしなかなかどうして、実際の商品としてはまだまだ不完全なモノ。
何度も改良を繰り返し、苦労の末に生まれたのが“フレックス・ナンバートゥー”
発売されたのは1914年10月28日のコト。
コレこそが現在のファスナーの姿により近いモノ。
1917年には2万4千本のファスナーを売るコトができ、1923年には雨除け用のゴム製オーウ゛ァー・シューズに採用され、採用したグッドリッチ社はその新製品に“ジッパー・ブーツ”と名付けた。
そう、開閉の際の音が「ジー・パー」と聴こえたからなんだ♪
1926年、世界で初めてジーンズの前開きに“フックレス”を採用したのはあのLeeだった。
その時代のジッパーをよく見るとたしかに“フックレス”と刻印されている。
1928年になって商標名を“フックレス”から“タロン”へと変更。
1937年にはこの商標名が「TALON」という社名となった。
そう、アメリカを代表するジッパーメーカーの誕生となったワケだ。
この年、初めて紳士物のトラウザーズに前開きのファスナーが付いた記念すべき年ともなった。
衣類はもとよりバッグなど我々の日常に必要不可欠なファスナー(ジッパー)は、こんなドワイルドな歴史があったからこそ生まれた。
くれぐれも“社会の窓”の閉め忘れにはご注意あれ☆
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