不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~ -3ページ目

不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

通勤時あるいは街を歩いているとき、はたまた数々のニューズを観ている際、「乱舞」がまばゆく感じることがある。

といっても、おれの認知が乱れているわけではなく、現実に、視界のなかで、「乱舞」が繰り広げられているのである。


古今東西、

 

「賢者」の言説は「同じ」

 

だという。

そのときそのときの趨勢に左右されず、ぶれることなく、見解が常に一貫している。

ただし、それは「一人の賢者」が一生を通じて、いつでもどこでもつねに「筋の通っていること」を言っているというだけに留まらず、いつの時代の、どの地域の賢者も、つねに「同じこと」を説いているという意味らしい。

「Aについてどう考えますか?」という問いにたいしては、古今東西どの賢者の解答も「共通」しているというわけだ。

一方、「愚者」の言説は?

「愚者」という言葉で十把一括りにしたい感情とは裏腹に、愚者の言説は千差万別だという。
そのときそのときの状況に流され、影響され、それこそ「なにを口走るか予想がつかない」ブラック・ボックス。

愚者の言説は、まさに百花繚乱なのだ。


ドナルド・トランプもウラジーミル・プーチンも、その政治的思想や大義は共通していて、「同じ世界」を目指していると思われるが、それを否定し去ろうという連中のほうは、「そこまでしちゃうんだ!」という愚かさの多様性に満ちている。

偽旗作戦、テロによる挑発、不正選挙、不当逮捕、経済制裁、文化破壊、プロパガンダ報道、総デジタル化、等々・・・。


今回のコロナ惑沈の接種にしても、たぶん「賢者」の見解には共通項がある。


「治験が済んでおらず、安全性が確認されてもいない、薬だか毒だか判らないものを接種すべきではない」


この認識に至る背景(感性や予備知識等)はさまざまだが、どこかに一貫した、ぶれないコアが存在したように思う。


だが、惑沈を積極的に肯定したり、推奨したり、非接種者を人道にもとるとばかりに非難したりしていた「反・反惑沈」の言説は、おそろしくヴァリエーションに富んでいた。

おれからすると、「そういう理屈まで動員して惑沈接種を肯定するんだ!」という驚きの連続だった(それは過去形ではなく現在進行形だ)。


なかでもおれが驚いた「言説」は、

「接種による集団免疫の確立」という理屈と、

その屁理屈と対になった、

「非接種者が感染しないのは、接種者による集団免疫のおかげ。非接種はただ乗りをしてるんだ!」

という批判だった。


Deep・Sのドレイタレントのパト○ック・ハー○ンに至っては、「非接種=ただ乗り」という論を展開したあと、「日本はただ乗りの国じゃないないよね」という表現で、さらに接種を推奨していた。


だが、おれはここで「非接種者=賢者」「接種者=愚者」という図式的な思考を展開しているわけではない。


「賢者」「愚者」の境界線は、現実に接種したか否かとは微妙に異なる。


自分ではとくになにも考えていなかったのだが幸運にも非接種という人もいるだろうし、接種は避けたいと思いながらも、強制的に接種せざるを得なかった立場の人もいるだろう。


そうではなく、「接種を肯定・推奨・半強制する見解」こそがまさに「愚者の見解」そのものであり、それゆえにヴァリエーションに満ちていたということを、あらためてレ・ビューしているだけである。
(パ○リック・ハ○ランが愚かであることもふくめ)

さて。

通勤時、あるいは私用で街中を歩いているときに遭遇する「愚かな行為」も千差万別で、ある程度の頻度で「新種の愚行」を発見する。


そのたびに「このパターンがあったか!」と三嘆久しゅうするほどだ。


そのなかのひとつが、今年3月のブログでも触れた例である。
 

 

駅構内を歩いているおれの前方から、数人から成る「スマホ歩き連隊」が迫ってきていたので、おれがその間を苦心してすり抜けようとしたところ、その際に瞬間的に距離が近くなってしまった連隊長格の男から、舌打ちとともに睨まれた、という話だ。

このときも、「新しいパターンだ!」「新種発見!」と、まるで新しい植物を発見したときの牧野富太郎のように眼を輝かせたのだが、最近、またしても新種に出遭う機会に恵まれた(これも「スマホ歩き属」だ)

駅のホームには極端に狭い場所がある。

階段があったり、エレベータがあったりして、互いに身体を斜めにすれば、かろうじてすれ違えるという幅しかないところもある。


まさにそこがそうだった。


その「狭い場所」に差し掛かったところで、前方から大きなバッグを提げた女性がこちらにむかってきていた。その女性はすでに「狭い場所」の途中まで進んでいたので、おれとしては当然、その手前に立ち止まって、その女性をやりすごそうと待っていた。

その女性が、もうすぐで「狭い場所」を通りすぎようという段階で、おれのあとから来た別の女性が、前方から来ているその女性とぶつかり合ってもかまわないという勢いで、平然とスマホを見詰めながら、その「狭い場所」に進んでいった。


どういう状況か、おわかりだろうか?

例えば、2台の自動車がすれ違えないような狭い道に差し掛かったときは、一方の自動車はその手前の「待避所」でいったん停まり、対向車が過ぎるのを待つだろう。そのときに、待っている自動車のあとから来た別の自動車が、対向車とガリガリ接触してもかまわないとばかりに、狭い道に突っこんでいくようなものである。

大きなバッグを提げている女性からすると、せっかく「優しそうなジェントルマン」が道を譲ってくれてありがたや、とほっこりしてるところへ、急にスマホ歩きのジャンキー女が前方から突進してきたと思うだろうし、おれからすると、待っているおれを差し置いて先に行くのか、と釈然としない気持ちになる。おれが「待ったこと」の成果も台無しだ。


平和なのは、そのスマホ・ジャンキー女だけである。


そういった、現実を「虚化」している輩がもっとも厄介なタイプに属すると思うのだが、そのほかにも愚かさの方向性は多岐に亘る。(多岐に亘りながらも、それぞれの特質が微妙に重なり合っている)


他者への無意味な対抗心。

場違いな自己主張。

自分が嫌な思いをしてでも他者を快適にはさせないというスパイト行動。

赤の他人のためには1ミリたりとも譲らず、1カロリーたりともエネルギーを費やすまいとする狭隘な料簡。

 

それから、最短距離主義者も珍しくない。


頭のなかに「無人の地図」しかないのだろうか。
他人がそこにいる・いないにかかわらず、とにかく、物理的に最短となるラインを盲進し、通路の動線の矢印を超然と無視して、ひたすら物理的なインコースを突いてくる。

他人のためにカロリーを費やすのは名折れであるという対抗意識が肥大しているわけではなく、とにかく1カロリーたりとも余分なエネルギーは使わないというゴリゴリの倹約家なのだろう。


そこで節約したエネルギーを、さぞ、他の局面で有効活用しているのだろう、と皮肉のひとつも言いたくなる。


「余計なエネルギー」は一切使わないことが正義である、といったひとに遭遇するたび、おれは

「息をするのも面倒でいやだ」とボヤく『北斗の拳』の愛すべきザコキャラのひとりであるゲイラを連想する。
これこそが究極の吝嗇であり、その考えを突き詰めると、「生きていること」自体がムダとなる。
 

 

 

ともかく。


おれからすると、よくわからない「謎の内在的論理」が錯綜し、賑々しくもあでやかな「乱舞」が、季節とは無関係に、年中クルい咲いている。


「石川や浜の真砂子は尽くるとも世に盗人の種は尽くまじ」(by石川五右衛門)


この「盗人」を、「愚者」や「愚かさ」に替えても同じことが言える。

ヴァリエーションも豊富だが、数も多い。


「賢者」は基本的に少数派だが、「愚者」は次から次へと、まさに尽きることなく湧いてくる。


これからも、まばゆさと謎に満ちた新たな「内在的論理」に、きっと出遭えることだろう。



 

おれ自身は賢者ではない。賢者を目指してはいるけれど。

 

西森マリーの『ハリウッド映画の正体』でも詳述されているように、映画という媒体は、その誕生とほぼ同時に、政府や権力者たちの「プロパガンダ」「サイオプ」「洗脳」の道具として利用されはじめる。


たぶん映画黎明期の「制作者」たちは、映画という表現手法の可能性に夢を託し、ほぼ“純粋な”意図で映画制作に取り組んでいたのではないかと思う。だが、映画の「プロパガンダ効果」の可能性に策謀を託した権力者たちに、映画は早々に利用されることになる。

ハリウッドで映画が創設された時代には、すでに映画による人心操作は大々的に行なわれていた。映画という巨大メディアが持つプロパガンダ効果は実証されており、ハリウッドで制作される映画は、より露骨に、その役割を担ってきた。

つまり、ハリウッド映画は、始めから「民衆洗脳装置」として誕生したのだ。
日本の作品がアカデミー賞を受賞したといって喜んでいる場合ではない。


今回取りあげるのは、


おれのブログ上の名前(ニックネーム)の由来ともなった、


島田荘司著『聖林輪舞―セルロイドのアメリカ近代史』


である。


先日ニックネームの由来を紹介したのを機に、約20年(以上)ぶりに再読した。


書名としては「聖林輪舞(せいりんりんぶ)」だが、「聖林」「ハリウッド」の当て字である。


本書で取りあげられている人物は以下のとおり。

ロスコー・アーバックル
早川雪洲
チャールズ・チャップリン
バスター・キートン
上山草人
ウィリアム・ランドルフ・ハースト(いわゆる「新聞王」)
フレッド・アステア
ハワード・ヒューズ(実業家・発明家)
ジェイムス・ディーン
エルヴィス・プレスリィ
マリリン・モンロー
ケネディ兄弟(主にジョン&ロバート)
ピーター・ローフォード
チャールズ・ミルズ・マンソン
ブルース・リー
O・J・シンプソン


初読のときのおれは、まだDeep・Sの存在も知らず、また、映画がそこまで意図的にサイオプの道具として創作されているとは想っていなかったが、芸能界は本質的に碌なものではないという認識はあったので、ハリウッドが「乱交と酒とドラッグの、全米一堕落した魔窟」であるという表現もすんなり腑に落ちた。

「後書き」にはこうある。
 

(前略)アメリカ西海岸のここは、聖なる場所と最も遠い売春宿であり、若い道徳心に満ちた夢工場とは何万光年もかけ離れたアヘン窟であり、女神たちの美しさで男どもを酔わせ、この世のものではないほどの気高い恋愛で世界中の女性たちの貴い涙を絞る高利貸しどもの団体であり、もっともらしい道徳演技に充ちた、史上最大の乱交パーティ会場であった。(P−353)

 

 

島田荘司は、サイオプとしての映画の欺瞞性には直接触れていないものの、華やかな体裁に充ちたハリウッド映画「界」の腐敗と、世界の警察を標榜する正義のアメリカのかかえている堕落・凋落はシンクロしているとして慨嘆している。

 

(前略)スターたちの栄枯盛衰は、(中略)「アメリカ近代史」という名の地層である。ここにあるものは芸能史のみではない。政治史であり、移民の歴史であり、司法の発展史でもあった。(P−354)

 

島田荘司の本職は本格ミステリー作家だが、「歴史」を題材とした作品も多数ある。

『切り裂きジャック・百年の孤独』『写楽 閉じた国の幻』は、小説の体裁をとった上で、その登場人物が「実際の歴史上の謎」に挑むという内容だ。

一方、小説ではなくノンフィクションとして歴史上の事件を正面から取り上げた作品もある。
代表的なのは、『秋好事件』で、これは「謎を解く」というよりも、複数の「公開情報」の断片と断片を繋ぎ合わせ、一般に流布している「定説」とは異なる見解を提示しているという著作である。

『秋好事件』においては、「部分冤罪」(秋好英明が被害者の全員を殺害したわけではないこと)の可能性を示唆している。


本書も「歴史の断面」を照射したノンフィクションであり、華やかさの極致にある映画界の「光輝」と「闇」を活写したエッセイであり、「未解決の謎を解く」という趣旨のものではないものの、その人物描写、時代背景の説明は丹念で精緻。ミステリー作家の面目躍如というべき臨場感にあふれている。


なかでも不慮の死を遂げたスターの場合、たとえば、自動車事故死に至るまでのジェイムス・ディーンの心理・行動描写においては、まさに「専門家」としての筆致の冴えが際立っている。
 

「あっちにはぼくたちが見えているよな」
 そしてそのまま突っ走った。続けてこう叫んだ。
「なんで停まらないんだ!」
 前方のセダンが、思いもかけない動きに出ていた。迫ってくるジミーにかまわず左折をはじめ、ジミーの進む車線に飛び出したのだ。そうしてこの瞬間、セダンは前方から矢のように迫ってきていたポルシェに気づき、急ブレーキを踏んだのだった。
 ポルシェの眼前に、障害物が立ちふさがって停まった。距離はもう鼻先だった。ジミーはブレーキでなく、とっさにアクセルを踏んでハンドル操作で避けようとした。しかし遅かった。(P-186)

 

全編を通じて、これでもかと言及されるのは、ハリウッドの性的な無秩序ぶりだ。

とっかえひっかえ、手あたりしだい。
いわゆる「枕営業」はあたりまえ。

たしかに、のっぴきならない「恋情」も散見されるが、多くは肉欲にまかせた遊戯であり、浅ましい痴情のもつれは日常茶飯事。欲得ずくの「政略結婚」も珍しくない。

まさに「売春宿」であり「史上最大の乱交パーティ会場」と言える。


早川雪洲やチャールズ・チャップリンの色好みは本書を読むまでもなく有名だが、「俳優」ではないもののハリウッドに深く介入していたウィリアム・ランドルフ・ハーストやハワード・ヒューズ、そしてケネディ兄弟においては、財力や権力が桁違いだけに、その乱脈ぶりや悪影響も甚大であり、どれだけの人間の人生を狂わせたのかと思ってしまう。(これと、JFKの政治的業績とはいちおう別物だ)


クンフースターのブルース・リーも相当の漁色家だったが、彼の場合、「好色」というより「絶倫」という形容のほうがぴったりだろう。(本書では、彼が女の子からモテて騒がれるという記述はあるが、女遊び自体については言及していない。せいぜい死亡にまつわる箇所で愛人のベティ・ティン・ベイの名前が出てくるくらいだ)


もちろん本書で描出されているのは、聖林の肉林ぶりばかりではなく、各々のスター・有名人が、いかなる資質・能力を「武器」にして大成したか、という解説に必然的に多くの紙幅を割いている。


たとえば、たぐい稀な身体能力に恵まれたバスター・キートンの場合、有名な喜劇役者の父親に連れられて、赤ん坊のうちから舞台に強制的に出されており、幼児期にすでに身体を張った手荒な「アクション」も「こなして」いた。
 

(前略)親父が、数歳に成長した息子を使って思いついたギャグは、舞台に抱いて出て、まずステージの上に落とす。続いて書き割りを破いて舞台裏に投げ飛ばし、さらには大太鼓の皮の上に放り出すというものだった。しかしキートン少年は泣きだしたりせず、怪我もせず、嬉々としてこれを楽しんだから、観客はたいてい仰天した。(P-62)

 

 

 

 

身体能力の描写(厳密には引用)としては、ブルース・リーの章における次の一文も鮮烈だ。初読の際に脳裏に焼きついていて、今回20年ぶりに再読した際も、「ここをまた読みたかったんだよね!」と三嘆した箇所である。

 

アメリカ有数の武道家エド・パーカーは、この時期のブルースと親交があったが、彼を称して二十億人に一人の才能と言い、「彼が空を打つと、空気がぽんと弾ける」と言った。(P-319)

 

 

 

スター各人の成功譚、サクセスストーリーの記述は、あたかも小説の人物造形を読むようだ。


島田荘司の愛読者であれば誰でも知っていることだが、著者の音楽への造詣の深さには並々ならぬものがあり、それもあってエルヴィス・プレスリィの章には熱が籠もり、「また読みたかった」と思わせてくれる記述もある。

 

(メジャーデビュー前のレコーディングの際)B面用に「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」を録音しようとした時のことだ。エルヴィスは、ファルセット(裏声)混じりのワルツで歌われていたこの曲を、歌詞の語彙を少し増やし、四拍子のリズムに乗せて激しく歌った。瞬間、サムの背中に電撃が走り、興奮したサム・フィリップスのこの時の声は、CD「コンプリート・サン・セッション」で今も聴ける。スタジオのドアを開け、彼はこう叫んでいる。
「おい凄いぜ! 今までのとは全然違う。そいつはもうポップ・ソングだ!」
 一九五三年七月五日、世界の音楽史にロックという新しい音楽が生まれた瞬間だった。(P-199-200)

 

 

 

 

また、著者は無類のカーマニアということもあり、同じく自動車(とくにポルシェ)を愛したジェイムス・ディーンには、奥深い共感をいだいている。

 




本書には、島田荘司みずからが撮影した写真も多数掲載されているのだが、ジェイムス・ディーンが事故を起こした現場を事故発生と同じ時間帯に撮影した写真も載っている。


一方、本書に登場する数々のスターのうち、ハリウッドの「毒」に比較的染まらず、みずからも周囲に「毒」を振り撒いていない人物もいる。

ブルース・リーが芸能界の芥などに「毒されて」いないことは明白だ(悩まされてはいたが)。

そして、稀有な人格者として、フレッド・アステアが挙げられている。

アステアのダンスに賭けた想いや、その卓越した技能についても描かれているので、おれとしても「名前だけは知っているが出演映画を観たことがなかった」アステアに、今回、俄然興味が湧いた。
 

いくつかのYouTubeも閲覧したが、そのうち代表的作品のDVDを購入しようかとも考えている。

1957年の夏、58歳で来日した際のエピソードは素敵である。
来日を聞きつけた「映画の友」編集部長の淀川長治が、一度アメリカで顔を合わせたことのあるアステアに連絡をとる。「会いにうかがいたい」と伝えると、アステアのほうから「自分がそっちにいくよ」と言われて、編集部一同はパニックに陥る。編集部にやってきたアステアは気さくに写真撮影やインタビューに応じたあと、即興でサービスのダンス・パフォーマンスまで演じてみせたという。


 

 

また、イメージとは裏腹にエルヴィス・プレスリィも「純真」に近い性質だったようだ。

ジェイムス・ディーンは微妙である。
彼はハリウッドの毒に本格的に染まるまえに早世してしまったようにも思える(享年24歳。むしろ死後に世界的に有名になった)
有名になる前の「男遊び」は盛んだったようだが(おれは、ジェイムス・ディーンが同性愛者であったことを本書を読んで初めて知った)、ジェイムス・ディーンが、はたして毒に染まる前に亡くなったのか、毒に染まりかけたことによって死期を早めたのか、判断はむずかしい。


・・・・・・。


マリリン・モンローの死と符合するように、アメリカの崩壊が始まったと島田荘司は説く。

 

(前略)彼女の死は、結果としてよきアメリカの死ともなった。シュガー・キャンディのような他愛のないモンロー・スマイルが消えると同時に、冷戦の地獄の釜の蓋が開いたからだ。
 女優の死から一ヵ月後、キューバ危機が発生した。(P-252)

 

 

 モンローの死から、アメリカはまったく変わった。ヴェトナムがこの国の驕る体質を引きずり出し、アメリカは恥辱の汚泥にまみれることになる。若者は核戦争の恐怖に直面してホワイト・ハウスの権威は失墜する。甘いメロディを背後にした佳き時代は遠くに去り、アメリカはテロの血に沈む、暗い別の国にと変貌した。しかしその予兆は、モンロー時代の終焉とともに、すでにあったのだ。(P-241)

 

 

 

本書が発刊された時点(2000年)では存命だったチャールズ・ミルズ・マンソンも、O・J・シンプソンも現在はすでに逝去している。

みずからのテロを正当化していたチャールズ・マンソンは2017年11月19没、享年83歳。

警察の初動捜査の不手際によって棚ボタ式に証拠不十分で不起訴となった(と考えられる)O・J・シンプソンは、つい最近の2024年4月10日没、享年76歳。


時代は動いているが、アメリカは軍産複合体の策謀により、ヴェトナムでの挫折から再び「驕る体質」に揺りもどされ、中東、アフリカ、西アジア、ウクライナ、パレスチナをテロの血に染めている。そしてハリウッド映画は相も変わらずサイオプ機関として、間接的に(というにはあまりにも露骨に)テロリズムに加担しつづけているのである。


ぺらっぺらのセルロイドの表層の奥には、人間の「業」や「宿痾」が凝縮されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何をフレッド・アステアの映画における最高傑作とするかは難しい。他にも「ブルー・スカイ」や「イースター・パレード」といった大ヒット作はあるのだが、本書の記述内容を基に「トップ・ハット」を選んだ。

 

 

三島由紀夫は『文章読本』のなかで、

「昨今の『文章読本』の目的が、素人の文学隆盛におもねって、だれでも書ける文章読本というような傾向に陥」っているのを苦々しく思い、自分の「『文章読本』の目的を、読む側からの『文章読本』に限定した」

としている。

そして云う。

 

 チボーデは小説の読者を二種類に分けております。一つはレクトゥールであり、「普通読者」と訳され、他の一つはリズールであり、「精読者」と訳されます。チボーデによれば、「小説のレクトゥールとは、小説といえばなんでも手当たり次第に読み、『趣味』という言葉のなかに包含される内的、外的のいかなる要素によっても導かれていない人」という定義をされます。(中略)一方、リズールとは「その人のために小説世界が実在するその人」であり、また「文学というものが仮の娯楽としてではなく本質的な目的として実在する世界の住人」であります。リズールは食通や狩猟家や、その他の教養によって得られた趣味人の最高に位し、「いわば小説の生活者」と言われるべきものであって、ほんとうに小説の世界を実在するものとして生きていくほど、小説を深く味わう読者のことであります。私はこの「文章読本」を、いままでレクトゥールであったことに満足していた人を、リズールに導きたいと思ってはじめるのであります。

 

以上が、先週のブログでおれが感銘を受けたと言った「精読者=リズール」の定義である。少々長かったが、引用した。

原文では、「一つはレクトゥールであり」から「と訳されます」までの一文に傍点が記されており、
「ほんとうに小説の」から「深く味わう読者のことであります。」までの一文には、おれが初読の際に赤鉛筆で線をひいてある。

そして、後のページで「リズール」への第一歩として三島由紀夫は、
 

「文学作品のなかをゆっくり歩いてほしいと申します。」

 

「声を大にして」いる。

単に小説のテーマと筋だけを読み取ろうとするのは、目的地に自動車でむかうようなもの。それでは、目的地に至るまでのまわりの景色は、ただ流れていくだけだ。

そうではなく、「文章そのものを味わう」こと。


小説のなかをゆっくり歩いていくと・・・、

 

生垣と見えたもの、遠くの山と見えたもの、花の咲いた崖と見えたものは、ただの景色ではなくて、実は全部一つ一つ言葉で織られているものだったのがわかるのであります。

 

遠くからは大きな一枚の写真と見えたものが、近づいて見ると、膨大な数のピースからなる巨大なジグソーパズルだったことを知ったときにも似た感動。しかも、ピース一つ一つの存在を認識したあとのほうが、写真の深部に分け入ることが可能になるという逆説的な感銘。

想うにこれは、言葉を紡いだ(パズルのピースを創った)作者の内面や血肉に触れることができたからかもしれない。

一方、どんなに心血を注いで取捨選択した言葉であっても、急ぐ者にとっては、それはそこに始めから在り、永遠に在り、あたりまえに在る記号でしかない。


ちなみに、チボーデとはフランスの文芸評論家のアルベール・チボーデのことで、ポール・ヴァレリーやフローベールに関した評論を著しているが、おれは読んだことがない。


長々とリズールについて書いたのには訳がある。昨今のブログでおれが、スマホ・ジャンキーの認識が虚実逆転しているのではないか、と説いていることと関連性があるからだ。


リズールなる最高位の趣味人においては、作品世界が「現実」同様となっている。
  

だからといって実際の現実を蔑ろにしているわけではない。


実世界も「現実」であり、同時に、味わう作品世界も「現実」なのだ。


ある意味、贅沢であり、幸福であり、愉悦である。


一方のスマホは?


たとえスマホであっても、それはたんに媒体の違いだ。

スマホから得られる情報を(紙の本同様に)「精読」し、深く味わうことは可能である。


だが、多くのスマホ・ジャンキーは、たんに「現実逃避」としてスマホに惑溺しているだけだ。


「スマホを見ている(操作している)のだから周囲の状況に対応しなくても許される」という、どこから我田引水してきたのかすらわからない謎の自己ルールによって、現実から遊離しているだけである。

 

 




そして、そのような自分に都合のよい、認知の歪んだ「謎認識」に簡単に陥ってしまうような思考の持ち主が、スマホから得られる情報を「精読」し、深く味わっているとは思えない。


スマホを見ること自体を否定するものではない。

また、「スマホを閲覧する」より「紙の本を読む」ほうが無条件で上等だと思っているわけでもない。



そうではなく、スマホ閲覧と引換えに簡単に現実を「虚」化できる思考や、現実を「虚」化するためにスマホ閲覧を臆面もなく免罪の口実にできる思考に疑問を感じてしまうのだ。


目的地に至るまでの景色を簡単に「虚無化」できる思考と、リズールの思考は対極に位置する。


「精読者」は、虚構と現実が逆転したものとは違う。

三島由紀夫に限らず、「精読者たれ」と推奨する者たちにしても、小説世界だけに惑溺して現実を蔑ろにしてもいいとは説いていない。

むしろ、現実をより豊饒にするために、作品世界を現実同様に生きてみては、と奨めているのだ。


「精読者」が、作品世界と現実世界をともに手中に収めている幸福者であるとするならば、スマホ・ジャンキーは、所詮、虚にしかならないレベルの「表面世界」に立脚点を置き、せっかくの現実を「虚」にしてしまった、「大虚」の住人でしかない。

精読者が「実」+「実」ならば、スマホ・ジャンキーは「虚」+「虚」なのだ。


精読者と対極どころか、もはや廃人同様であり、しかも、その廃人に自ら率先して墜ちていっているわけである。

 

 

 

 

 

 



 

先週、筒井康隆に触れたので、始めに、氏の有名な文章の一部をここに載せる。
みなさんも読んだことのある文章かもしれない。

 

 青春時代の読書によって一生の読書傾向が決まるといっていいだろう。たまたま自分の波長に合わぬ本ばかり読んだ人は一生ハウ・ツーもの以外何も読まなくなる。速く読む癖を身につけた人は一生速読する。熟読・再読の癖はなかなか抜けず、とばして早く読んでしまうと気持ちが悪くてしかたがないし、気に入った本を常に身のまわりに置いておくことになる。
(後略)

 

 

筒井康隆著『言語姦覚』(中公文庫/1986年発行)所収「青春時代の読書」より

初出は、あの「新潮文庫の100冊」として有名な「新潮文庫パンフレット」(1978年3月)。『言語姦覚』が未読でも、パンフレットのほうで読んだことがある方も多いのではないかと思う。


「再読」はともかくとして、おれはまさに「とばして早く読んでしまうと気持ちが悪くてしかたがな」くなる質(たち)で、これは「青春時代の読書」の影響というより、もともとそのような性格なのだろう。


三島由紀夫が『文章読本』で説いている(奨励している)「精読者(リズール)」の概念に感銘を受けてからは、ますます熟読の度合いが深まり、なかでも文学作品の場合、「読み飛ばす」ことはほとんどない。


それでも、「速読」にたいする憧れはある。


「もっと早く本が読めたらな~」と思ったことは、これまで一度や二度ではない。
(精読者でありながら古典をすべて読破しているとされている三島由紀夫は、どれほど読むのが速かったのだろうと想像してしまうことがある)

「速読」というのは、読書を趣味(あるいは職業)とする者にとって、一度は夢に見る「能力」かもしれない。


一般に流布している速読の「コツ」は、「斜め読み」「飛ばし読み」、あるいは「拾い読み」だ。
これらは、いわゆるキーワードを適宜とらえて、内容を把握していくとういう技法である。


こちらに詳しく書いてある。
 

一般社団法人 日本速読解力協会の「速読にも種類がある!自分に合った速読の方法とは?」のページ

 

だが、この速読技法が、自然に行われている場合もある。
概して、「読み慣れている文章」は速く読める。

たとえば、部下から提出された、どれも似たような内容の報告書。これをいちいち精読する必要はない。

それが営業報告なら、極端な話、「予算達成」なのか「未達」なのか、そのキーワードを拾い読みをすればいいだけだ。未達の場合の「言い訳」や「弁明」に使われている単語も、たいてい似たり寄ったりなので、これも速く読むことを可能にしている。

だが、それは読書ではないし、速く読めるとしたらそれは職業的な習熟によるもので、必要なワードをあらかじめ把握しているからこそである。契約書や論文などの「定型文」を読む場合もこれに該当する。


また、知識は積み重ねであるから、それまで培ってきた素養が次に読む書物への理解を助け、結果として速く読めるということは、もちろんある。

 

それは、文学書でも、法律書でも、歴史書でも、医学書でも、数学書でも、経済書でも変わることはない。



だが、ここで言おうとしているのは、そういった「慣れ」や「熟達」、あるいは「素養」や「把握力の高さ」などによって速く読めるというレベルを超え、よく言われるように「1ページ1秒」といった速度で本を読み、しかも普通に読んだときより内容を深く理解でき、記憶にも永く残るという「魔法」のような速読術についてである。


多くの「速読術」の解説書で説かれているのは、同じく日本速読解力協会のサイトでも解説している

 

「フォトリーディング」

 

「1ページ読み」

 

といった手法である。
 

毎秒 1 ページを超えるスピードでページをめくり、写真を撮るように本の情報を脳に送り込む速読法です。
事前に読書の目的を明確にし、読む価値があるかどうかまで検討します。
一度にページ全体を眺めて本の全体像をつかみ、要点や必要な情報を自分自身に問いながら読み進めることで、必要な情報を効率的に取り出します。

 

つまり、文字を「言語」としてではなく「画像」ととらえるというわけだ。
もちろんトレーニングによる習熟は必要だが、言語ではなく画像のほうが理解度も高まり、記憶にも残る、と(日本速読解力協会だけではなく)多くの「速読本」でも説いている。

おれからすると一番の疑問は、ページを写真(画像)として脳に送りこんで、果たして内容の理解が速まったり、深まったりすることがあるのだろうか、ということである。


このような疑問は、たぶん誰でも抱くのではあるまいか。

同サイトでは、以下のように解説している(以下、多くの「速読本」も同様の主張だ)

 

速読ができたら、魔法のように知らなかった言葉の意味が急に分かる!といったことはありません。
外国語の文章を読むためには語彙や文法を学ぶのと同じく、日本語であっても難しい本、たとえば専門書などであれば文章内に出てくる用語の意味を知らなければ理解は困難となります。

基本的に読むために必要な知識となる単語・文法、教科知識や専門用語などはトレーニングと別で学習が必要となります。
知らない単語をじっと見てしまったり、文法を知らないことで意味が理解できずに文章を何度も読み返したりしていては、せっかく鍛えたスピードも十分に発揮できない…ということになります。

 

速読の効用を説いていながら、やや腰が引けているようにも思うのだが、結局、いくら画像を脳に「プリント」しても、そのことによって「それまで知らなかったこと」を即座に理解することは無理なのだ。

考えてみればあたりまえのことである。
 

おれは以前、「数学」に関する本を集中的に読んでいたことがあり、そのレビューで、


紹介される個々の概念にしても、
できるだけ、そのイメージ(あるいは数学史的な意義)を
理解しようとしながら読み進めたので、
1時間で1~2ページしか進まなかったこともあり、
400ページほどの本文を読み切るまでに
半月以上かかってしまった。



と書いたことがある。

 

(2011/9/25投稿 ジョージ・G・スピーロ著『ポアンカレ予想』のブログ)

 

 

こういった読書体験を通じて、おれは、速読の「メイン・メソッド」である「ページを画像として脳にプリントすること」の有効性に、あるときから、はっきりと「否」を突きつけていた。

「速読」は憧れだけど、原理的に無理だな、と。

なんど読み返してもなかなか理解できない文章を、仮に「絵」として把握(記憶?)できたとしても、そこにはなんの意義もないな、と。


逆に言えば(これこそがおれのメインの主張なのだが)、

ページを「画像」として脳にプリントして即理解できる程度の文章なら、わざわざ読むに値しない

ということなのだ。

それは(少なくとも)おれの求める読書体験とはかけ離れたものである。

「いやいや、たしかに専門的な記述のある書物なら熟読は必要かもしれないが、たとえば、平易な物語のストーリーを把握するだけなら、『フォトリーディング』も有効でしょう」という反論に対して、おれはこう再反論する。

「平易な物語というが、そのなかに、はたと立ち止まって、熟読吟味するような記述はないのか?」と。

もし、そんな記述がないというなら、はやりその物語を読む意味もないのではなかろうか。


平易な物語である『ピノッキオの冒険』のなかにも、はたと立ち止まらずにいられない場面は多々あった。

そういうものを感じるための読書ではないのか。


最後に、「速読術」にたいする反論を2点だけ挙げて終わりとする。


まず、「画像というのは文章より印象的だから記憶に残りやすい」という前提。
これは個人差があり、たとえば、絵や写真を職業としているような人のなかには、「一度眼にした画像を忘れることなく、いつでも脳内で再現できる能力」を持っている場合もある。
(TVドラマの『ドラゴン桜 2シーズン』のなかにも、「カメラアイ」の瞬間記憶能力を持つ、たぶんASDの生徒が登場した)


速読トレーニングによって、そういった視覚情報処理能力をある程度は養成できるのかもしれないが、多くの人は、毎日見慣れているはずの家族の似顔絵を描こうとしたとき、「あれ? どんな顔してたっけ?」という程度の再現能力しか持ち合わせていないのだ。

画像=印象的なのはまちがいないが、誰の脳内でも、それが崩れることなく、いつまでも残存しているかどうかは疑問である。パソコンだって、テキストデータより、画像データのほうが容量を要する。


2つ目。

速読の能力を持つ、いわば「速読の達人」は、たいてい本を出版している。
だが、そのテーマの多くは「速読術」に限られる。

速読の能力を活かして常人の何十倍、何百倍もの書物を読破しているなら、そこで得た豊富な知識を基に速読術以外の「専門書」も著せるのではないかと思うのだが、どういうわけか、

 

書くものは「速読術」の解説ばかりである。

 

いったい、速読術の達人たちは、ふだん何の本を読んでいるのだろう。


 

 

 

「青春時代の読書」の後半はこうである。

 

 最初、あまりにも面白い本にぶつかってしまった場合はちょっと困ったことになる。最初の本の面白さに及ばぬ本ばかりを読むことになるし、「あの面白さ」を求めるあまり、別の種類の面白さを持つ本を読んでもその面白さに気がつかない。ついにはあきらめて本を読まなくなってしまうのだ。
 なんとなく、恋愛に似ているではないか。

 

恋愛に似ている面もあるが、イコールではない(と思う)。
呉智英は、読者には段位がある、と説いている。およそ500冊読むごとに段位(読者としてのレベル)が上がるという。

でなければ、ある程度の量を読んだら、もう読みたい本がなくなってしまうではないか、と。

だが、現実には読めば読むほど、読みたい本(これまでよりさらにレベルの高い本)に出逢うものだ、と。
 

だいじょうぶ。
最初に読んだ本がどれだけ面白くても、読みつづけていれば、それを凌駕する書物はかならず現れるはずだ。