精読者と「虚毒者」~虚構を現実にし得る幸福と、現実を虚無化してはばからぬ危難~ | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

三島由紀夫は『文章読本』のなかで、

「昨今の『文章読本』の目的が、素人の文学隆盛におもねって、だれでも書ける文章読本というような傾向に陥」っているのを苦々しく思い、自分の「『文章読本』の目的を、読む側からの『文章読本』に限定した」

としている。

そして云う。

 

 チボーデは小説の読者を二種類に分けております。一つはレクトゥールであり、「普通読者」と訳され、他の一つはリズールであり、「精読者」と訳されます。チボーデによれば、「小説のレクトゥールとは、小説といえばなんでも手当たり次第に読み、『趣味』という言葉のなかに包含される内的、外的のいかなる要素によっても導かれていない人」という定義をされます。(中略)一方、リズールとは「その人のために小説世界が実在するその人」であり、また「文学というものが仮の娯楽としてではなく本質的な目的として実在する世界の住人」であります。リズールは食通や狩猟家や、その他の教養によって得られた趣味人の最高に位し、「いわば小説の生活者」と言われるべきものであって、ほんとうに小説の世界を実在するものとして生きていくほど、小説を深く味わう読者のことであります。私はこの「文章読本」を、いままでレクトゥールであったことに満足していた人を、リズールに導きたいと思ってはじめるのであります。

 

以上が、先週のブログでおれが感銘を受けたと言った「精読者=リズール」の定義である。少々長かったが、引用した。

原文では、「一つはレクトゥールであり」から「と訳されます」までの一文に傍点が記されており、
「ほんとうに小説の」から「深く味わう読者のことであります。」までの一文には、おれが初読の際に赤鉛筆で線をひいてある。

そして、後のページで「リズール」への第一歩として三島由紀夫は、
 

「文学作品のなかをゆっくり歩いてほしいと申します。」

 

「声を大にして」いる。

単に小説のテーマと筋だけを読み取ろうとするのは、目的地に自動車でむかうようなもの。それでは、目的地に至るまでのまわりの景色は、ただ流れていくだけだ。

そうではなく、「文章そのものを味わう」こと。


小説のなかをゆっくり歩いていくと・・・、

 

生垣と見えたもの、遠くの山と見えたもの、花の咲いた崖と見えたものは、ただの景色ではなくて、実は全部一つ一つ言葉で織られているものだったのがわかるのであります。

 

遠くからは大きな一枚の写真と見えたものが、近づいて見ると、膨大な数のピースからなる巨大なジグソーパズルだったことを知ったときにも似た感動。しかも、ピース一つ一つの存在を認識したあとのほうが、写真の深部に分け入ることが可能になるという逆説的な感銘。

想うにこれは、言葉を紡いだ(パズルのピースを創った)作者の内面や血肉に触れることができたからかもしれない。

一方、どんなに心血を注いで取捨選択した言葉であっても、急ぐ者にとっては、それはそこに始めから在り、永遠に在り、あたりまえに在る記号でしかない。


ちなみに、チボーデとはフランスの文芸評論家のアルベール・チボーデのことで、ポール・ヴァレリーやフローベールに関した評論を著しているが、おれは読んだことがない。


長々とリズールについて書いたのには訳がある。昨今のブログでおれが、スマホ・ジャンキーの認識が虚実逆転しているのではないか、と説いていることと関連性があるからだ。


リズールなる最高位の趣味人においては、作品世界が「現実」同様となっている。
  

だからといって実際の現実を蔑ろにしているわけではない。


実世界も「現実」であり、同時に、味わう作品世界も「現実」なのだ。


ある意味、贅沢であり、幸福であり、愉悦である。


一方のスマホは?


たとえスマホであっても、それはたんに媒体の違いだ。

スマホから得られる情報を(紙の本同様に)「精読」し、深く味わうことは可能である。


だが、多くのスマホ・ジャンキーは、たんに「現実逃避」としてスマホに惑溺しているだけだ。


「スマホを見ている(操作している)のだから周囲の状況に対応しなくても許される」という、どこから我田引水してきたのかすらわからない謎の自己ルールによって、現実から遊離しているだけである。

 

 




そして、そのような自分に都合のよい、認知の歪んだ「謎認識」に簡単に陥ってしまうような思考の持ち主が、スマホから得られる情報を「精読」し、深く味わっているとは思えない。


スマホを見ること自体を否定するものではない。

また、「スマホを閲覧する」より「紙の本を読む」ほうが無条件で上等だと思っているわけでもない。



そうではなく、スマホ閲覧と引換えに簡単に現実を「虚」化できる思考や、現実を「虚」化するためにスマホ閲覧を臆面もなく免罪の口実にできる思考に疑問を感じてしまうのだ。


目的地に至るまでの景色を簡単に「虚無化」できる思考と、リズールの思考は対極に位置する。


「精読者」は、虚構と現実が逆転したものとは違う。

三島由紀夫に限らず、「精読者たれ」と推奨する者たちにしても、小説世界だけに惑溺して現実を蔑ろにしてもいいとは説いていない。

むしろ、現実をより豊饒にするために、作品世界を現実同様に生きてみては、と奨めているのだ。


「精読者」が、作品世界と現実世界をともに手中に収めている幸福者であるとするならば、スマホ・ジャンキーは、所詮、虚にしかならないレベルの「表面世界」に立脚点を置き、せっかくの現実を「虚」にしてしまった、「大虚」の住人でしかない。

精読者が「実」+「実」ならば、スマホ・ジャンキーは「虚」+「虚」なのだ。


精読者と対極どころか、もはや廃人同様であり、しかも、その廃人に自ら率先して墜ちていっているわけである。