第80回 島田荘司『聖林輪舞―セルロイドのアメリカ近代史』 | 不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

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西森マリーの『ハリウッド映画の正体』でも詳述されているように、映画という媒体は、その誕生とほぼ同時に、政府や権力者たちの「プロパガンダ」「サイオプ」「洗脳」の道具として利用されはじめる。


たぶん映画黎明期の「制作者」たちは、映画という表現手法の可能性に夢を託し、ほぼ“純粋な”意図で映画制作に取り組んでいたのではないかと思う。だが、映画の「プロパガンダ効果」の可能性に策謀を託した権力者たちに、映画は早々に利用されることになる。

ハリウッドで映画が創設された時代には、すでに映画による人心操作は大々的に行なわれていた。映画という巨大メディアが持つプロパガンダ効果は実証されており、ハリウッドで制作される映画は、より露骨に、その役割を担ってきた。

つまり、ハリウッド映画は、始めから「民衆洗脳装置」として誕生したのだ。
日本の作品がアカデミー賞を受賞したといって喜んでいる場合ではない。


今回取りあげるのは、


おれのブログ上の名前(ニックネーム)の由来ともなった、


島田荘司著『聖林輪舞―セルロイドのアメリカ近代史』


である。


先日ニックネームの由来を紹介したのを機に、約20年(以上)ぶりに再読した。


書名としては「聖林輪舞(せいりんりんぶ)」だが、「聖林」「ハリウッド」の当て字である。


本書で取りあげられている人物は以下のとおり。

ロスコー・アーバックル
早川雪洲
チャールズ・チャップリン
バスター・キートン
上山草人
ウィリアム・ランドルフ・ハースト(いわゆる「新聞王」)
フレッド・アステア
ハワード・ヒューズ(実業家・発明家)
ジェイムス・ディーン
エルヴィス・プレスリィ
マリリン・モンロー
ケネディ兄弟(主にジョン&ロバート)
ピーター・ローフォード
チャールズ・ミルズ・マンソン
ブルース・リー
O・J・シンプソン


初読のときのおれは、まだDeep・Sの存在も知らず、また、映画がそこまで意図的にサイオプの道具として創作されているとは想っていなかったが、芸能界は本質的に碌なものではないという認識はあったので、ハリウッドが「乱交と酒とドラッグの、全米一堕落した魔窟」であるという表現もすんなり腑に落ちた。

「後書き」にはこうある。
 

(前略)アメリカ西海岸のここは、聖なる場所と最も遠い売春宿であり、若い道徳心に満ちた夢工場とは何万光年もかけ離れたアヘン窟であり、女神たちの美しさで男どもを酔わせ、この世のものではないほどの気高い恋愛で世界中の女性たちの貴い涙を絞る高利貸しどもの団体であり、もっともらしい道徳演技に充ちた、史上最大の乱交パーティ会場であった。(P−353)

 

 

島田荘司は、サイオプとしての映画の欺瞞性には直接触れていないものの、華やかな体裁に充ちたハリウッド映画「界」の腐敗と、世界の警察を標榜する正義のアメリカのかかえている堕落・凋落はシンクロしているとして慨嘆している。

 

(前略)スターたちの栄枯盛衰は、(中略)「アメリカ近代史」という名の地層である。ここにあるものは芸能史のみではない。政治史であり、移民の歴史であり、司法の発展史でもあった。(P−354)

 

島田荘司の本職は本格ミステリー作家だが、「歴史」を題材とした作品も多数ある。

『切り裂きジャック・百年の孤独』『写楽 閉じた国の幻』は、小説の体裁をとった上で、その登場人物が「実際の歴史上の謎」に挑むという内容だ。

一方、小説ではなくノンフィクションとして歴史上の事件を正面から取り上げた作品もある。
代表的なのは、『秋好事件』で、これは「謎を解く」というよりも、複数の「公開情報」の断片と断片を繋ぎ合わせ、一般に流布している「定説」とは異なる見解を提示しているという著作である。

『秋好事件』においては、「部分冤罪」(秋好英明が被害者の全員を殺害したわけではないこと)の可能性を示唆している。


本書も「歴史の断面」を照射したノンフィクションであり、華やかさの極致にある映画界の「光輝」と「闇」を活写したエッセイであり、「未解決の謎を解く」という趣旨のものではないものの、その人物描写、時代背景の説明は丹念で精緻。ミステリー作家の面目躍如というべき臨場感にあふれている。


なかでも不慮の死を遂げたスターの場合、たとえば、自動車事故死に至るまでのジェイムス・ディーンの心理・行動描写においては、まさに「専門家」としての筆致の冴えが際立っている。
 

「あっちにはぼくたちが見えているよな」
 そしてそのまま突っ走った。続けてこう叫んだ。
「なんで停まらないんだ!」
 前方のセダンが、思いもかけない動きに出ていた。迫ってくるジミーにかまわず左折をはじめ、ジミーの進む車線に飛び出したのだ。そうしてこの瞬間、セダンは前方から矢のように迫ってきていたポルシェに気づき、急ブレーキを踏んだのだった。
 ポルシェの眼前に、障害物が立ちふさがって停まった。距離はもう鼻先だった。ジミーはブレーキでなく、とっさにアクセルを踏んでハンドル操作で避けようとした。しかし遅かった。(P-186)

 

全編を通じて、これでもかと言及されるのは、ハリウッドの性的な無秩序ぶりだ。

とっかえひっかえ、手あたりしだい。
いわゆる「枕営業」はあたりまえ。

たしかに、のっぴきならない「恋情」も散見されるが、多くは肉欲にまかせた遊戯であり、浅ましい痴情のもつれは日常茶飯事。欲得ずくの「政略結婚」も珍しくない。

まさに「売春宿」であり「史上最大の乱交パーティ会場」と言える。


早川雪洲やチャールズ・チャップリンの色好みは本書を読むまでもなく有名だが、「俳優」ではないもののハリウッドに深く介入していたウィリアム・ランドルフ・ハーストやハワード・ヒューズ、そしてケネディ兄弟においては、財力や権力が桁違いだけに、その乱脈ぶりや悪影響も甚大であり、どれだけの人間の人生を狂わせたのかと思ってしまう。(これと、JFKの政治的業績とはいちおう別物だ)


クンフースターのブルース・リーも相当の漁色家だったが、彼の場合、「好色」というより「絶倫」という形容のほうがぴったりだろう。(本書では、彼が女の子からモテて騒がれるという記述はあるが、女遊び自体については言及していない。せいぜい死亡にまつわる箇所で愛人のベティ・ティン・ベイの名前が出てくるくらいだ)


もちろん本書で描出されているのは、聖林の肉林ぶりばかりではなく、各々のスター・有名人が、いかなる資質・能力を「武器」にして大成したか、という解説に必然的に多くの紙幅を割いている。


たとえば、たぐい稀な身体能力に恵まれたバスター・キートンの場合、有名な喜劇役者の父親に連れられて、赤ん坊のうちから舞台に強制的に出されており、幼児期にすでに身体を張った手荒な「アクション」も「こなして」いた。
 

(前略)親父が、数歳に成長した息子を使って思いついたギャグは、舞台に抱いて出て、まずステージの上に落とす。続いて書き割りを破いて舞台裏に投げ飛ばし、さらには大太鼓の皮の上に放り出すというものだった。しかしキートン少年は泣きだしたりせず、怪我もせず、嬉々としてこれを楽しんだから、観客はたいてい仰天した。(P-62)

 

 

 

 

身体能力の描写(厳密には引用)としては、ブルース・リーの章における次の一文も鮮烈だ。初読の際に脳裏に焼きついていて、今回20年ぶりに再読した際も、「ここをまた読みたかったんだよね!」と三嘆した箇所である。

 

アメリカ有数の武道家エド・パーカーは、この時期のブルースと親交があったが、彼を称して二十億人に一人の才能と言い、「彼が空を打つと、空気がぽんと弾ける」と言った。(P-319)

 

 

 

スター各人の成功譚、サクセスストーリーの記述は、あたかも小説の人物造形を読むようだ。


島田荘司の愛読者であれば誰でも知っていることだが、著者の音楽への造詣の深さには並々ならぬものがあり、それもあってエルヴィス・プレスリィの章には熱が籠もり、「また読みたかった」と思わせてくれる記述もある。

 

(メジャーデビュー前のレコーディングの際)B面用に「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」を録音しようとした時のことだ。エルヴィスは、ファルセット(裏声)混じりのワルツで歌われていたこの曲を、歌詞の語彙を少し増やし、四拍子のリズムに乗せて激しく歌った。瞬間、サムの背中に電撃が走り、興奮したサム・フィリップスのこの時の声は、CD「コンプリート・サン・セッション」で今も聴ける。スタジオのドアを開け、彼はこう叫んでいる。
「おい凄いぜ! 今までのとは全然違う。そいつはもうポップ・ソングだ!」
 一九五三年七月五日、世界の音楽史にロックという新しい音楽が生まれた瞬間だった。(P-199-200)

 

 

 

 

また、著者は無類のカーマニアということもあり、同じく自動車(とくにポルシェ)を愛したジェイムス・ディーンには、奥深い共感をいだいている。

 




本書には、島田荘司みずからが撮影した写真も多数掲載されているのだが、ジェイムス・ディーンが事故を起こした現場を事故発生と同じ時間帯に撮影した写真も載っている。


一方、本書に登場する数々のスターのうち、ハリウッドの「毒」に比較的染まらず、みずからも周囲に「毒」を振り撒いていない人物もいる。

ブルース・リーが芸能界の芥などに「毒されて」いないことは明白だ(悩まされてはいたが)。

そして、稀有な人格者として、フレッド・アステアが挙げられている。

アステアのダンスに賭けた想いや、その卓越した技能についても描かれているので、おれとしても「名前だけは知っているが出演映画を観たことがなかった」アステアに、今回、俄然興味が湧いた。
 

いくつかのYouTubeも閲覧したが、そのうち代表的作品のDVDを購入しようかとも考えている。

1957年の夏、58歳で来日した際のエピソードは素敵である。
来日を聞きつけた「映画の友」編集部長の淀川長治が、一度アメリカで顔を合わせたことのあるアステアに連絡をとる。「会いにうかがいたい」と伝えると、アステアのほうから「自分がそっちにいくよ」と言われて、編集部一同はパニックに陥る。編集部にやってきたアステアは気さくに写真撮影やインタビューに応じたあと、即興でサービスのダンス・パフォーマンスまで演じてみせたという。


 

 

また、イメージとは裏腹にエルヴィス・プレスリィも「純真」に近い性質だったようだ。

ジェイムス・ディーンは微妙である。
彼はハリウッドの毒に本格的に染まるまえに早世してしまったようにも思える(享年24歳。むしろ死後に世界的に有名になった)
有名になる前の「男遊び」は盛んだったようだが(おれは、ジェイムス・ディーンが同性愛者であったことを本書を読んで初めて知った)、ジェイムス・ディーンが、はたして毒に染まる前に亡くなったのか、毒に染まりかけたことによって死期を早めたのか、判断はむずかしい。


・・・・・・。


マリリン・モンローの死と符合するように、アメリカの崩壊が始まったと島田荘司は説く。

 

(前略)彼女の死は、結果としてよきアメリカの死ともなった。シュガー・キャンディのような他愛のないモンロー・スマイルが消えると同時に、冷戦の地獄の釜の蓋が開いたからだ。
 女優の死から一ヵ月後、キューバ危機が発生した。(P-252)

 

 

 モンローの死から、アメリカはまったく変わった。ヴェトナムがこの国の驕る体質を引きずり出し、アメリカは恥辱の汚泥にまみれることになる。若者は核戦争の恐怖に直面してホワイト・ハウスの権威は失墜する。甘いメロディを背後にした佳き時代は遠くに去り、アメリカはテロの血に沈む、暗い別の国にと変貌した。しかしその予兆は、モンロー時代の終焉とともに、すでにあったのだ。(P-241)

 

 

 

本書が発刊された時点(2000年)では存命だったチャールズ・ミルズ・マンソンも、O・J・シンプソンも現在はすでに逝去している。

みずからのテロを正当化していたチャールズ・マンソンは2017年11月19没、享年83歳。

警察の初動捜査の不手際によって棚ボタ式に証拠不十分で不起訴となった(と考えられる)O・J・シンプソンは、つい最近の2024年4月10日没、享年76歳。


時代は動いているが、アメリカは軍産複合体の策謀により、ヴェトナムでの挫折から再び「驕る体質」に揺りもどされ、中東、アフリカ、西アジア、ウクライナ、パレスチナをテロの血に染めている。そしてハリウッド映画は相も変わらずサイオプ機関として、間接的に(というにはあまりにも露骨に)テロリズムに加担しつづけているのである。


ぺらっぺらのセルロイドの表層の奥には、人間の「業」や「宿痾」が凝縮されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何をフレッド・アステアの映画における最高傑作とするかは難しい。他にも「ブルー・スカイ」や「イースター・パレード」といった大ヒット作はあるのだが、本書の記述内容を基に「トップ・ハット」を選んだ。