不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~ -2ページ目

不快速通勤「読書日記」 ~ おめぇら、おれの読書を邪魔するな! ~

読書のほとんどは通勤の電車内。書物のなかの「虚構」世界と、電車内で降りかかるリアルタイムの「現実」世界を、同時に撃つ!

♪ レプ~リコンは、明・治 ♪


さて。


前回の「猫皿」に関連して、犯罪一般の話になるが、おれが何か特定の犯罪行為をしないのは、おれが理性の力で慾望を抑えているからというわけではない。


たとえば、おれが小動物を虐待したり、幼児に悪さをしたり、猫の皿を盗んだりしないのは、べつに「そうしたいのを理性の力でぐっとガマンしているから」ではなく、そもそも「そうしたい」という慾望がおれの裡に存在しないからである(少なくとも顕在化するレベルでは)。


そういう意味で、「幼児虐待」をする人間の心理は、おれには実感として理解できない。


・・・ということを、最近題名に惹かれて購入した、


『殺人依存症』『残酷依存症』『監禁依存症』(櫛木理宇著)


を読んで、あらためてそうおもった。


変・態 & 残・酷・性欲者の気持ちは、わからない、と。



同じく、Deep・Sやネオコン、鹿婆褸の心理も、根本的なところで理解不能だ。

どうしてこれほど「非人道的な欲望」を「是」と解釈しているのか。

だが、変・態 & 残・酷・性欲者と同様、

 

 

変・態 & 残・酷・支配欲者も、

 

現に存在する

 

のである。


そしてまさに、バイデン政権で息を吹き返した変・態 & 残・酷・支配欲者を軒並み駆逐すべく、今年の大統領選で(あるいは、それを待たずして)ドナルド・トランプが復活してくる。


先週ようやく読了した、西森マリー著、副島隆彦監修

『帰ってきたトランプ大統領 ~アメリカに“建国の正義”が戻る日』(2024.4.20第1刷)

は、「帰ってくる」ではなく「帰ってきた」という題名が示しているとおり、トランプの復活を予測(希望)しているのではなく、すでに確定された事項としてとらえている。


さらに、本著は、トランプが初当選してまだ間もない2017年2月に刊行された、

『ドナルド・トランプはなぜ大統領になれたのか?』(2017.2.24第1刷)

と内容的に地続きになっている。

やや以前に刊行された書籍だが、今回はこの『・・・なぜ大統領になれたのか?』をレビューしてみる。

初読は、2022年11月。


トランプの初当選当時、

 

「どうしてトランプなどという政治的シロウトのならずものが大統領になれたのだ?」

「アメリカ国民のきまぐれか?」

「そのうち政治も経済も破綻するよ」

「早々に辞めるだろう」

 

と考えていた多くの日本人に対し、

 

「トランプが当選したのは当然の帰結ですよ」

 

ということを、「現地アメリカでトランプの選挙活動を追い、激戦州の住民の声を聞いてきた」(P-3)著者が、優しく、丁寧に詳述している。


個人的な話だが、2016年の大統領選の前、おれは端的にトランプの当選を願っていた。
(周囲は、マスメディア報道に完全にやられて、トランプを否定、批難、揶揄するものばかりだった)

政治経済の詳しいことは分からなかったが、アメリカという国が「超富裕層(めっちゃ金持ち)」、今で言うDeep・Sに牛耳られていることは、堤未果などの著作を通じて学んでいた。


超富裕層に完全に取りこまれているヒラリーなんかが大統領になったら、さらに貧富の差は拡大し、Deep・Sを潤すためのTPPも施行され、その影響で日本の経済も文化も生活もガタガタになってしまう、と憂えていた。

 

へたをすると、戦争も起こるかもしれない、と。

ところが、ドナルド・トランプなる人物は、自身が富豪のビジネスマンで、Deep・Sの援助がなくても選挙活動が可能だという。
さらには、非干渉主義のナショナリストで、不合理なTPPの導入にも反対しているようである。

暗闇に希望の光が射したようだった。
リベラルエリートに属さない大多数のアメリカ人にとっては、さらに強力な光と映ったにちがいない。

おれは主にTPPを懸念していたくらいだったが、トランプ当選前のアメリカは、オバマケアや不法移民の問題等々々によって民衆の不満や絶望や憤怒が沸点に達しようとしていた。(オバマケアは、保険料を払ってもいない不法移民の医療費を中間層が負担するという制度だったので、両者の問題はつながっている)

それだけではない。

オバマ不況とよばれるものすべて。最低賃金の引き上げ。化石燃料業界つぶし。テロの擁護。難民受け入れ。軍隊・軍人軽視によるアメリカの弱体化。過剰なポリティカルコレクトネス、等々・・・。


MAGAを唱えて登場した“ブルーカラーの億万長者”であるドナルド・トランプは、これまでの政治屋の枠を大きく超えた、破格の経歴、破格の能力、破格の洞察力、破格の人望、破格の情愛、破格の魅力を兼ね備え、多くのアメリカ国民に塗炭の苦しみを与えていた破滅的な状況をすべて一掃し得る救世主として期待され、歓迎された。

さらに本書で強調されているのは、オバマの愚策(アメリカ破壊活動)だけではない。

 

民主党支持派(ざっくりと官僚、都会に住むリベラル・エリート、多くの芸能人、ジャーナリスト、効率学校の教師等が属する)と、共和党支持派(ざっくりと、中産階級・労働者階級)の絶望的な意識のギャップについてである。

典型的なのが、民主党が「環境保護」の立場からつぶそうとしている化石燃料業界に対する意識の差だ。

とくに炭坑作業員に対する箇所を、やや長くなるが、引用する。

 

 民主党派やジャーナリストには、炭坑作業員の友達がいる人は恐らく一人もいないでしょうし、炭坑の町に取材に行ったことさえないでしょう。ですから、炭坑の町の人々の多くは祖父の祖父の時代から5世代にわたって炭坑で働いてきた人々で、炭坑作業員であることに誇りを持っている、という揺ぎない事実を知らないし、たとえ小耳に挟んだとしてもきっと信じられないはずです。
 なぜならリベラルな都会の人々は「人間は皆、大学に行ってホワイトカラーの仕事に就きたいと思っている」と確信しているので、炭坑で働くなんて想像だにできないことですし、ましてやそんな仕事に誇りを持っている人が存在するなどということは、理性の枠を超えた不条理な次元でしかありえないことだからです。
 エリートたちは、「石炭なんて過去の遺物で、炭坑なんで早く潰れればいい」と思っていて、失業した炭坑作業員に関しては、「炭坑みたいな危険で汚いところで働く代わりにクリーン・エネルギーの会社で働けることになるんだから、ありがたいと思え!」という態度で対応しています。炭坑の町の人々が「我々から職を奪っておいて、ありがたいと思え! だなんて、どうしてこんなに蔑まれなきゃならないんだ!」と怒りに震えるのも当然の成り行きでしょう。(P-52~53)

 

 

両者の間に横たわる埋め難い溝。

(まるで、変・態 & 残・酷・性欲者と、そうでない人との間の溝のように)

 

 

互いに歩み寄ることは困難だ。

 

 

このような乖離は、他の多くの局面でも顕在化された。


そして、自分の生活(や誇りや信条など)をおびやかされた共和党派の人々が、オバマの政策にまっとうに反対したとしても、

 

「オバマが黒人だからオバマの方策を批判するんだろう。おまえは人種差別主義者だ」

 

という侮蔑的な非難とともに、意見は一蹴されてしまうのだ。(この批判封じについては、近著『アメリカ衰退の元凶バラク・オバマの正体』でも繰り返し強調されている)


愚策がこういったギャップを生み、ギャップがオバマ(民主党政権)の愚策を補強していく。

もともと民主党支持のはずだった人たちまでが、リベラル政策のあまりの不合理、不条理、不公平さに愛想を尽かしているのに、愛想を尽かされているということにすら気づかすに快進撃をつづけているつもりのヒラリー陣営が、トランプのまえにものの見事に惨敗したのは、まさに当然のことだった。

 

 アメリカでは選挙の度に「“あの候補は当選させたくない”というネガティヴな思いよりも、“この候補に投票したい”というポジティヴな思いのほうが動員力がある。しかしこの二つの感情を同時にかき立てられれば動員力はさらに増す」と言われています。
 今回の選挙では、Make America Great Again というメッセージを訴えたトランプに“投票したい”と思った人々が、同時に“オバマの第三期を目指すヒラリーは絶対に当選させたくない”と思い、雨が降っても槍が降っても投票所に向かい、トランプを投票させた、といえるでしょう。(P-27~28)

 

嘆かわしいことに、日本のマスメディアは、トランプの実像は愚か、このような愚策がアメリカを破壊に導いていること、このような乖離があること、愚策に反対する国民が多数に昇ることをいっさい報道しないので、多くの日本人は、トランプの勝利がまるで何かの「誤り」であるかのように感じてしまったのである。


次回は、『帰ってきたトランプ大統領 ~アメリカに“建国の正義”が戻る日』を取りあげる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

じつは、この3冊のうち最初に読んだのが『監禁依存症』。

各々のストーリーは独立しているのだが、登場人物や背景は共通しているので、時系列に沿って読まないと隔靴掻痒の心持ちになる。ということで、他の2冊をあとからあわてて読んだ次第だ。オチが衝撃的なのは、やはり『監禁依存症』かな。3冊とも、闇に射す曙光にわななくべし。

 

ついでながら、明治製菓ファルマは、変・態&残・酷・企業に堕してしまったと思う。残念だ。モ○サントやファ○ザーとその点を張り合ってどうするんだ。

 

 

 

 

500冊読めば昇段する、という呉智英の読書論。

原典は、


なんと



なんと



なんと!



『読書家の新技術』(朝日文庫 1987/10/1刊)だった!!


もう、初期も初期の著作である。


おれが最初に読んだ呉智英の著作は、当時の(いまでも継続している)友人にもらった『バカにつける薬』(1988/2/5第1刷発行)。

 

次が、(自宅の周辺の小さな本屋には到底置いていなくて)神田神保町の書店まで行って購入した『インテリ大戦争』(1984/1/10新装第1刷)。


その『バカにつける薬』の巻頭コラム「折々のバカ」のなかで、『読書家の新技術』に触れていて、

『読書家の新技術』のことを「読書ってのは技術で読むものではない!!」と批判した内藤陳に対し、「読まずに言えるか」

 

と反論している。


本文を読んでもいないくせに、題名だけで判断して難癖をつけてるだろう、と。


つまり、『読書家の新技術』の方が刊行が早いということだが、おれがそれを読んだのは、『インテリ大戦争』の次だったんじゃないかな。
(また言うまでもなく、内藤陳のことを「読まずに言えるか」と揶揄しているのは、内藤陳の代表的な著作『読まずに死ねるか』をもじったものだ)


そんな40年も前に読んだ初期の著作で、すでに呉智英は「500冊で昇段」論を説いていたのか・・・。


足もとをすくわれた、というか、灯台下暗しだった。

 

私の経験では、本は、五○○冊読むと新しい世界を展望できるようになる。つまり、五○○冊の蓄積ごとに、読書の“段位”といものが昇段する。そして、昇段するごとに、本を読む速度が早くなる。

 

 

P-131 「本を読む速度 速読のすすめ」より。

 

 

ちなみに、ここのところブログの投稿が滞っていたのは、


「500冊で昇段」の原文をもとめて蔵書を探索していたから、


というわけではない。


・・・・・・・・。


さて、今回は、日常の些事というより、ちょっとホラー的な妄想のお話。


些事にはちがいないんだけど、あんまりマジメに受け取らないで、といいたくなるレベルの戯言である。


題して、昇段・・・、いや  

 

怪談 ~猫皿屋敷の巻~ 

 

である。


おれの家の近所に、玄関先で猫を飼っている家がある。(たぶんメス)


通勤時に通りかかる家ではなく、むしろ、その反対方向、コンビニや、近所のいきつけの居酒屋にむかう道沿いにあるので、週に数えるほどしか、その道は通らない。


飼い主がふだん家のなかに入れているのかどうかは判らないが、通りかかるときは、だいたいいつも玄関先(ポーチというのか)でのんびり寝そべっていて、こちらにむかって可愛い声でニャーニャー鳴き、撫でようと思えば撫でさせてもくれる、人懐っこい猫(茶トラ)である。

 

玄関ではなく、周辺の道端をトコトコ歩いている姿もときどき見かける。


猫好きのおれとしては、見かけるたびに微笑ましい気分になっていたのだが、あるとき、玄関ポーチのところに、通行人宛に以下のような「注意書き」が貼られているのに気がついた。





○○をいつも可愛がってくださっている皆様へ

最近○○のご飯のお皿が何枚も盗まれています。

このようなことはやめてください。窃盗罪です。

警察にも通報済みです。



○○というのは飼い猫の名前だ。


たしかに、そのとき○○ちゃんのそばには、ご飯は盛られていなかったが、小ぶりの皿が置かれていた。


いつも、ここで食べているのだろう。


そして、そのような皿が何枚も「盗まれて」いるのだという。


1ま~い、2ま~い、3ま~~い・・・、と。


不思議なこともあるものだ。


おれにはまったく理解できない「犯罪」である。

猫の餌皿を持って帰ってしまう人間の心理が、まるでピンと来ない。


どうして、そんなものを欲しがるのか?


それとも「盗癖」という慾望とは別の事情がからんでいるのか?


・・・という「盗むひとの気持ちがわからない」というところを出発点として、ここに大胆すぎる推理を展開する!!


餌皿が何枚もなくなる理由。


じつは、この皿は盗まれているのではなく・・・、


通りすがりに自分を可愛がってくれる人たちに・・・、


ときには、通りすがりに餌をくれる人たちに・・・、


猫の○○ちゃんが・・・、


お礼としてプレゼントしている


のではあるまいか!!!


「あるまいか」と言ったところで、まったくなんの根拠もなく、容疑者に「証拠を見せろ」と言われるとトラウマを刺激されてフリーズしてしまう『イップス』の森野(バカリズム)のように、おれも根拠を求められたら固まってしまうかもしれない。

 

だが猫にも、

 

「いつも猫ッ可愛がりされているだけでは申し訳ない!」

 

「餌をもらっているだけでは申し訳ない!」

 

という気持ちが、なきにしもあらずなのではなかろうか?


それゆえ、猫なりの「反対給付」の衝動にかられ、とくに可愛がってくれる人・餌をくれる人を厳選して、


「粗皿(そべい)ですが・・・」


といって、餌皿をプレゼントしているのではないかと想像する。







「あげる」と言われたほうも、そんなものをもらっても本音では困ってしまうのかもしれないが、可愛い猫にニャーニャー鳴きながら言われたら、そうそう断ることもできないにちがいない。


きっとそうだ。まちがいない。


おれがまだ○○からプレゼントをもらっていないのは、おれが一度も餌をやったことがなく、そして可愛がり方がまだ足りないせいだと思われる。



プレゼントをもらえるように、もっと○○ちゃんを可愛がろう・・・、って、それで皿をもらっちゃったら、即「窃盗罪」で逮捕されるかもしれないな・・・。



後日談:


上の文章をとりあえずまとめてから数日後の夕方、近くのコンビニに行く際に、件の家の前を通った。

そのとき、玄関ポーチに○○はいなかった。そして、皿もなかった。

飼い主が、もうそこには置かないと決めたのかもしれない。

(貼り紙はそのまま残っていた)

 


そして、帰り道、今度は玄関ポーチに○○がいて、おれの姿を見かけるとニャーと鳴き、そこから道端まで階段を降りてこようとした。(昇段ではなく、降段)


おれは、「降りてきても、エサはないよ」と伝えようとしたのだが、トコトコと最後まで降りてきてしまった○○は、おれの横で立ち止まって、また「ニャー」と鳴いておねだりしてくる。


「エサは持ってないんだよ、○○ちゃん。コンビニで買ってきたのは缶ビールだけなんだ。ごめんね~」といって諦めてもらった。


もしかして、皿が無くなってから、餌をもらえてないんじゃないのか?

そんなことはないか。

 


 

 

 

「知的武装」のための方法を説いた初期の名著。読書に「技術」はそれほど必要ないかもしれないが、読書で得た知識(情報)を無駄なく整理し、記憶に定着させ、必要に応じて活用(武器化)するには、それなりの技術が必要だ。

 

 

 

先月、5月10日のブログ「読書姦覚 ~『速読』」について思うこと~」の末筆で、「読書には段位がある」という呉智英の言説の概要を紹介した。

その原文を見つけたので、あらためて紹介する。

 

(自分にとって、読書は「ためになるから」というより「面白いから」つづけているのだ、という主旨の前段につづき)
 しかし、中には、読書は面白くないと言う人もいる。早まってはいけない。読書には“段位”というものがあるのだ。やっと初段の人に三段や四段向きの本の面白さがわかってたまるか。それなら、三段になった時、読む本がなくなってしまうではないか。何段になっても面白い本があるからこそ、読書は面白いのだ。無段から有段に、初段から二段三段に、面白がりながら段位を上げていけばいい。
 しかし、上位段者になってから初段向きの本を読んで、やはり面白いと思うことはしばしばある。『坊ちゃん』『嵐が丘』『罪と罰』などは、そうだった。そういう本を名作と言うらしい。

『知の収穫 ~時代のライブラリー~』 株式会社メディアファクトリー/1993.5.21初版第1刷 所収「読書昇段」より。初出は、岩波文庫用のパンフレット「私の一冊を求めて」(1989.4)


およそ500冊読むごとに段位が上がる、とはここには書いていなかったね。
でも、どこかでたしかにそのような意味のことを言っていたので、その別情報がおれの頭のなかで結びついていたのだろう。

この際なので、「500冊」に触れた原文も探してみようと思う。(少なくとも『知の収穫』のなかには見当たらなかった)



さて。


前回に引き続き、ごくごく気楽な些事について。

前回は、父親 VS 息子又は娘 だったが、

今回は、夫 VS 妻 である。


これも「約束」がらみで、よく登場するのが、「結婚記念日」もしくは「妻の誕生日」




@さらさ


この日は仕事を早く終え、二人きりでお祝いのディナーを楽しもうという約束をしていたのに、あろうことが、夫のほうに急な仕事(とくに出張)の予定が入ってしまう!!!!

すまない。その日は一緒に食事ができなくなったと平謝りする夫に対し、妻がほとんど殺意を籠めて放つ定型句。


「私と仕事、どっちが大切なのよ!?」


しかし、ききわけの・・・、いや、がんぜない子どもとちがって、相手は「大人」だ。

言葉を選び、意を尽くして想いを伝えれば理解してくれるはずである。


だが、ここで夫は、言葉を選ばない。

意も尽くさない。


ただただ、黙る。

ドラマのなかで、このような場面に出っ喰わすたび、おれは、

「私と仕事、どっちが大切なのよ!?」と幼稚な批難を口にする妻にも腹が立つが、それに対し、有効な反論、または弁明、あるいは懐柔ができない夫にも歯がゆさを感じる。

ただ、

「なにを言ってるんだ。きみのほうが大切に決まってるじゃないか。仕事は、きみとの生活を守るための手段でしかないんだ」

と言えばいいじゃないか。



そして、補足的にこう説明する。


「しかし、仕事を優先しなければいけない局面も一時的にはある。ここで仕事に行かなければ、ボクは仕事を失うか、職場での立場を失ったりして、結局は、きみとの幸せな生活を守りきれなくなってしまう。だから、今回はたいへんすまないが、わかってほしい」と。


しかし、このように理路を尽くして妻に真意を理解してもらおうとする夫は、まずドラマには登場しない。

丸く収まらずに軋轢モードにならなければ、ドラマにならないということなのか。


だが、もっと簡単に解決する手段があるのに、それをしないで、わざわざトラブルを増幅させてしまうようなサスペンスの作り方はNGであると、かのディーン・R.クーンツ先生も『ベストセラー小説の書き方』のなかで言っている。


そのようなシナリオは、やはり書いてほしくない。


もっとも、ふだんから妻のことも家庭のことも心底顧みず、「私と仕事、どっちが大切なのよ!?」と憤懣を叩きつけたくなる夫は、ドラマのなかにも現実世界にも存在する。


だが、そういった「家庭にも結婚にも不向きな男」に対しては、「私と仕事、どっちが大事なのよ!?」という

 

問いかけ自体が愚問

 

である。

問いかけたところで、「私は大切に思われていない」ことを確認するだけで終わってしまう確率が高い。
 

 

 

 

 

ここに書かれているノウハウは、近年出版されている小説ではすでに常識(以下)になっているのではないかと思う。

 



 

当ブログは現在のところ、基本的に1週間に1回という頻度で投稿している。
そして、1回の分量は比較的多い(長い)。

作成に費やす時間はまちまちだ。

1~3日間かけて、空き時間を使って少しずつまとめ、こまめに保存しておいた内容を週末に投稿・・・というパターンが多い。

しかし最近諸事情で、ブログに費やす時間がなかなかとれない。

別に義務ではないのだから、休んでも誰も文句は言わないと思うのだが、ブログの投稿がなんとなく自分の生活のリズムにもなっているので、短文でも投稿しようと思う。


・・・ということで、長年、ず~~~と感じていた些事について述べてみたい。


ドラマのなかで、子どもがお父さんと、次の日曜日に一緒に遊園地に遊びにいく約束をする。

お父さんはいつも仕事で忙しいので、なかなか一緒に遊園地に行けなかったが、その願いがようやく叶うことになったのだ。

次の日曜日をものすごく心待ちにしている子どもの姿を描写することによって、子どものいたいけなさと、いかにお父さんのことが好きなのか、ということを強調する。


しかーし!


お決まりのパターンで、その待ちに待った日曜日、お父さんは急に仕事が入り、遊園地に連れていけなくなってしまう。

そこで「そうか、お仕事じゃ仕方ないよね」と、寂しさをぐっとこらえて諦める子どもはめったにいない。


泣く。

叫ぶ。

物に八つ当たりする。

「お父さんのウソつき!」と、父親が犯罪者であるかのように糾弾する。

そして、ふてくされる。

 

 


@めたせこ


ドラマのなかで、この手の泣き喚く子どもを観て、おれ自身が子どものころからうんざりしていた。


こんなアホな子どもが現実にいるのか、と思ってしまう。


こんなのは、ドラマのなかだけで起きる「トラブル」なのではないか。

さらに、わざわざこの種の「行き違い」「父と子の分断」を描く必然性があるとも思えない場合がある。

たんなるストーリーの都合による、トラブルのためのトラブルにしか思えない。


おれの家庭が参考になるかは判らないが、おれが子どものころは、

父親は土日も関係なく仕事に行っていて、家にいないのがあたりまえ

だった。

(さすがに、平日のどこかで休んでいたのだろうけど)


父親のことはそれなりに好きだったが、一緒にいないのが常態で、一緒に遊んでくれたときは「ラッキー」だった。


そもそも父親と「次の休みの日に○○に行こう」という約束をした記憶がないほどだ。

(当日になって、どこかに連れて行ってもらったことはある)


「日本のお父さんの多く」は似たようなものだったのじゃないかな。
そして、子どもも、そんなものだと思っていた。


まるで、それではいけないという爆弾を投じるかのような、


「約束」→「反故」→「糾弾」という家庭内(ア・リトル・ビット)トラブル。


怖いのは、


「一緒に遊びに行く約束を守らなかった父親のことを、こうやってとことん責めてもいいんだ」


と、子どもの視聴者が錯覚してしまうことである。


穿った見方かもしれないが、これこそが、「テレビという洗脳装置」を使った、日本の伝統的家庭の破壊工作の一貫なのではないかと考えてしまう。


勤勉で責任感のあるお父さんを非難するように仕向けたサイオプと言える。そして、それは家族の分断につながるのだ。


おれが子どものころからうんざりしていた、と言ったように、この手のパターンはけっこう昔からあった。


さすがにこんな陳腐な展開はいまどきのドラマにはないだろうと思いたいところだが、油断をしていると、不意に似たような展開に出っ喰わすから要注意だ。


こんな黴の生えた展開、もう書くのはやめてよ、脚本家さん。



話は変わって。



そういえば本日は、横浜スタジアムで惑沈の集団接種が行われる日だ。(来週6/21もそうだ)

時間は18:00から21:00まで。


怖いもの見たさで、接種のようすを見物してみたい気もするが、やめておこう。
(始めから行く気は無いのだが)


どうせスタジアム内に入ることなどできないだろうし、近くにいくだけでも、発生している邪気(瘴気というべきか)にやられてしまいそうなので、君子危うきに近寄らず。


 

前回のブログで、「最短距離主義者」のことを「1カロリーたりとも余分なエネルギーは使わない倹約家だ」と皮肉った。

そこで節約したエネルギーを、さぞ他の局面で有効活用しているのだろう、と。


同じ主旨のことを「時間」の節約において、かの伊丹十三も批判している。

 

 

『ヨーロッパ退屈日記』所収「ロンドンからの電報」のなかの挿絵

 

 

こんなことはトイレットの中で済ましてもらいたい。
心せかるるままにトイレットを出て、かかる姿を衆目にさらす。こうして得た数秒であなたは一体何をしようというのか。
紳士として、最も失ってならないもの、それは心のゆとりである。

 

 

エネルギーにしても、時間にしても、「無駄に節約してるひと」(ものすごく矛盾した表現だ)は、畢竟「心のゆとり」という美質を無駄に切り崩しているのである。



さて。


先日の週末、ある「会合」で約1年ぶりに顔を合わせた知り合いが、杖をついていた。


これが何を意味するかは、お分かりだろう。


おれより少し歳上なので、現在60代半ば。


彼が惑沈の接種者であることは、昨年会ったときに本人の口から聞いていた。

そのときは元気そうだったが、昨年の秋に突然倒れ、何日も生死の境をさまよったあと、ようやく意識を取りもどしたのだという。


そういった顛末を知っている他の仲間たちは、「ここ(杖をついて歩ける状態)まで復活した」と言うのだが、倒れたことを知らなかったおれからすると、「あれほど元気だった○○さんが杖なしでは歩けなくなってしまった」と衝撃を受けた。


もちろん、いまや年齢不相応に杖を使用している人たちは街や電車でも珍しくないし、勤務先でも、急に外見的に老けこんだ同僚、若いのに老人のような動きしかできなくなった同僚もいる。じわじわ癌も増えているし、見た目は元気そうでもじつは毎週のように通院している者もいる。


親しくしていた別の年配(80代前半)の知り合いが一年半ほど前に癌になり、癌の治療は無事に済んだのだが、最近になって突然死のようにあっけなく亡くなってしまった。しかし「後期高齢者」といわれる年齢になると、深刻な体調不良になっても、四肢が不自由になっても、癌になっても、惑沈のせいとは露とも思わず、みんな年齢を原因にして済ませてしまう。たとえ亡くなっても、周囲も年齢のせいだと納得する。


そういった事例は目の当たりにしているのだが、それでも、まだ若く、元気いっぱいだった○○さんの杖はあたらめてショックだった。

何年か前にはマラソンのことで話が盛りあがったこともある。そのころ走り始めたという○○さんは、おれが昔走っていたことを知って、「練習の仕方を教えてよ」とか「こんど一緒に走ろうよ」と言っていたのに・・・。


・・・・・・。

ところで。



おれがブログのなかで、主にスマホ・ジャンキーを執拗と思えるほど非難していることを、不思議に思っている方もいるのではないかと思う。


いろいろ枝葉末節的なことも言っているが、おれの主張の骨子は、まるで賢者の見解のように変わらない。


「スマホ歩きが物理的に危険だというのはいうにおよばず、スマホ歩きをしても平気という思考が危険である」


というものだ。


「平気」には、

 

「本人が危険な目に遭うかもしれないのに平気でいる」

 

というほかに、

 

「周囲の人たちに嫌な思いをさせても平気」

 

という心理も含まれる。



そして、おれが「スマホ・ジャンキー的なるもの」を批判する理由について補足すると、

 

「その思考のままだと、やつらに都合のよい『餌』になっちゃうよ!」

 

と警告したいからである。


やつらとは、いうまでもなく、Deep・Sであり、鹿婆褸であり、大衆を一元化で管理し奴隷化しようと目論んでいる輩と、その手下たちのことである。


多極化にむけた世界規模の大きな流れのなかで、やつらは、最後に残ったシープルの楽園である株式会社ニッポンの社員(国民)たちを、最後の最後までしゃぶり尽くそうとしている。

惑沈禍をふくめたコロナ禍を大きな契機として、潜在的覚醒者たちもはっきりと覚醒し、もともとの覚醒者とともにやつらに反旗を翻し始めたが、まだまだ眠れる子羊たちが大半だ。


やつらが性懲りもなく、どのような手段で大衆を管理・操作しようとしているか。


相変わらずの「温暖化対策」。


COVID-19とCOVID-19以外の感染症でのmRNA惑沈奨励。


それを補強するためのパンデミック条約。


偽旗テロリズムによる経済的混乱・制約、人心の分断。


日本人から搾取した金で外国人をもてなす法令。


デジタル化。


NISAに代表されるハイリスクの投資信託。


伝統食の破壊。


等々・・・。

 

(逆に、問題のないものを問題にする作戦もある。例えば紅麹とか自家製の漬物とか)

やつらの手口(攻撃手段)は豊富であり、そのひとつひとつについて、「あんなことをしている!」「こんなことまでしてきやがった!!」と、ジャーナリスティックに、リアルタイムでフォローしていくことは、(以前にも述べたように、少なくとも今の)おれには不向きだと思っている。


だが、それらの多種多様な攻撃に対する「防御」「心構え」を説くことも「奴隷化防止対策」として有効だと考えている。


攻撃の種類は数あれど、防御の型はそれほど多くを要しない。


「攻撃の具体例」を逐一ブログに載せる余裕はないが、

 

「攻撃から身を守る防御はしておきなよ」

 

と(僭越ながら)警告しているというわけだ。


たしかに言えるのは、


「攻撃してくる相手などいないのだから、ノーガードでOK!」


などという、根拠なき楽観論に基づいた花畑脳では、やつらの格好の「餌食」になってしまうということである。


そして、おれの眼には、


スマホ・ジャンキーの思考は、まさにノーガードに映る


のだ。


隙だらけだ。滅多打ちだ。


たとえノーガードであっても、超人的なスピードとカウンターテクニックを持っているなら、それも「戦法」になり得るだろうが、たいていはパンチの繰り出し方すら知らないのだから、絶望的だ。


それどころか、すでに見えない拳でボッコボコにされているのにも気づいていない。



「映画」が有効なプロパガンダ手段としてやつらに利用されているように、やつらは、この手のデバイスに常用性・中毒性があることを充分に理解している。



そして、アディクティドとしたジャンキーがどういう思考に陥るかも計算済みだ。


ディスプレイに夢中になるがあまりの現実の虚無化。

スマホを操作していれば周囲を気遣わなくても許されるという謎理論による現実逃避。



言わば、ひとつのデバイスで3S愚民化政策が可能になるのだ。


表面的な「至便」が恒常的に提供されることによる過度の依存性が、いったん落ちた「罠」から逃れることを困難にする(これこそ、まさに中毒性)

加えて、個人情報の集約に対する無警戒化も進行する。


やつらは、表層的な「損得勘定」を巧妙に突いてくる。
「攻撃」は一見「餌=得」のかたちをして降り注いでくる。
 

 

それが「攻撃」であると認識していないと、「得だ!」と思って喰いついた餌で釣り上げられ、やつらの餌食になってしまう。



多くのスマホ・ジャンキーたちが「得だ!」と思ってつづけている行動・思考は、まさに、やつらが撒いた「餌」にぱっくり喰いついている図にほかならないし、スマホ・ジャンキーの姿は、現代的な「愚かしさ」の象徴と言える。




「餌でボクを釣り上げようとしてる者がいるから気をつけろだなんて、キミは陰謀論者だったんだね。ましてや、疑似餌なんてインチキなものはこの世には無いよ」


 

 

 

親本の発刊は昭和40年(1965年)。60年経っても、いまだ伊丹十三の批判は有効だ。

 

 

医療法人社団 天太会チーム メディカル クリニック「2024年6月 横浜スタジアムコロナウィルスワクチン任意接種について」のページ

 


会場開設日時:6/14(金)、6/21(金) 18:00~21:00
ワクチン接種後のアンケートに回答いただいた方へ特典を配布致します。
■ワクチン種類
オミクロン株XBB.1.5対応1価ワクチン(モデルナ社・スパイクバックス筋注)
■対象者
・生後6ヵ月以上
・3回目以降接種希望の方は最後の接種から3か月以上経過している方
■料金 ※ご年齢により料金が異なります。
①生後6ヵ月以上~4歳の場合、初回・2回目(接種量0.25ml):9,000円(税込)
②5歳以上~11歳の場合、接種回数に関係なく一律(接種量0.25ml):9,000円(税込)
③12歳以上の場合、接種回数に関係なく一律(接種量0.5ml):13,000円(税込)
■特典
接種者1名様につき横浜スタジアムで使用できるクーポン1500円分をプレゼント
※アンケートへの回答が必要です
■お支払方法
現金のみ



こんな条件なのに・・・、


すでに「受付締切」!!



もっとも愚かしいのは、惑沈接種に「特典」をつけるというやり方だが、その「餌」にほいほい食いついてしまうシープル(むしろ「フィッシュプル」というべきか)もいるから、唖然として眼を覆いたくなる。


先日、上皇后がコロナに感染したという報道があって、「何を今さら」と訝しんだのだが、接種を促すサイオプのひとつだったのかもしれない。