500冊読めば昇段する、という呉智英の読書論。
原典は、
なんと
なんと
なんと!
『読書家の新技術』(朝日文庫 1987/10/1刊)だった!!
もう、初期も初期の著作である。
おれが最初に読んだ呉智英の著作は、当時の(いまでも継続している)友人にもらった『バカにつける薬』(1988/2/5第1刷発行)。
次が、(自宅の周辺の小さな本屋には到底置いていなくて)神田神保町の書店まで行って購入した『インテリ大戦争』(1984/1/10新装第1刷)。
その『バカにつける薬』の巻頭コラム「折々のバカ」のなかで、『読書家の新技術』に触れていて、
『読書家の新技術』のことを「読書ってのは技術で読むものではない!!」と批判した内藤陳に対し、「読まずに言えるか」
と反論している。
本文を読んでもいないくせに、題名だけで判断して難癖をつけてるだろう、と。
つまり、『読書家の新技術』の方が刊行が早いということだが、おれがそれを読んだのは、『インテリ大戦争』の次だったんじゃないかな。
(また言うまでもなく、内藤陳のことを「読まずに言えるか」と揶揄しているのは、内藤陳の代表的な著作『読まずに死ねるか』をもじったものだ)
そんな40年も前に読んだ初期の著作で、すでに呉智英は「500冊で昇段」論を説いていたのか・・・。
足もとをすくわれた、というか、灯台下暗しだった。
私の経験では、本は、五○○冊読むと新しい世界を展望できるようになる。つまり、五○○冊の蓄積ごとに、読書の“段位”といものが昇段する。そして、昇段するごとに、本を読む速度が早くなる。
P-131 「本を読む速度 速読のすすめ」より。
ちなみに、ここのところブログの投稿が滞っていたのは、
「500冊で昇段」の原文をもとめて蔵書を探索していたから、
というわけではない。
・・・・・・・・。
さて、今回は、日常の些事というより、ちょっとホラー的な妄想のお話。
些事にはちがいないんだけど、あんまりマジメに受け取らないで、といいたくなるレベルの戯言である。
題して、昇段・・・、いや
怪談 ~猫皿屋敷の巻~
である。
おれの家の近所に、玄関先で猫を飼っている家がある。(たぶんメス)
通勤時に通りかかる家ではなく、むしろ、その反対方向、コンビニや、近所のいきつけの居酒屋にむかう道沿いにあるので、週に数えるほどしか、その道は通らない。
飼い主がふだん家のなかに入れているのかどうかは判らないが、通りかかるときは、だいたいいつも玄関先(ポーチというのか)でのんびり寝そべっていて、こちらにむかって可愛い声でニャーニャー鳴き、撫でようと思えば撫でさせてもくれる、人懐っこい猫(茶トラ)である。
玄関ではなく、周辺の道端をトコトコ歩いている姿もときどき見かける。
猫好きのおれとしては、見かけるたびに微笑ましい気分になっていたのだが、あるとき、玄関ポーチのところに、通行人宛に以下のような「注意書き」が貼られているのに気がついた。
○○をいつも可愛がってくださっている皆様へ
最近○○のご飯のお皿が何枚も盗まれています。
このようなことはやめてください。窃盗罪です。
警察にも通報済みです。
○○というのは飼い猫の名前だ。
たしかに、そのとき○○ちゃんのそばには、ご飯は盛られていなかったが、小ぶりの皿が置かれていた。
いつも、ここで食べているのだろう。
そして、そのような皿が何枚も「盗まれて」いるのだという。
1ま~い、2ま~い、3ま~~い・・・、と。
不思議なこともあるものだ。
おれにはまったく理解できない「犯罪」である。
猫の餌皿を持って帰ってしまう人間の心理が、まるでピンと来ない。
どうして、そんなものを欲しがるのか?
それとも「盗癖」という慾望とは別の事情がからんでいるのか?
・・・という「盗むひとの気持ちがわからない」というところを出発点として、ここに大胆すぎる推理を展開する!!
餌皿が何枚もなくなる理由。
じつは、この皿は盗まれているのではなく・・・、
通りすがりに自分を可愛がってくれる人たちに・・・、
ときには、通りすがりに餌をくれる人たちに・・・、
猫の○○ちゃんが・・・、
お礼としてプレゼントしている
のではあるまいか!!!
「あるまいか」と言ったところで、まったくなんの根拠もなく、容疑者に「証拠を見せろ」と言われるとトラウマを刺激されてフリーズしてしまう『イップス』の森野(バカリズム)のように、おれも根拠を求められたら固まってしまうかもしれない。
だが猫にも、
「いつも猫ッ可愛がりされているだけでは申し訳ない!」
「餌をもらっているだけでは申し訳ない!」
という気持ちが、なきにしもあらずなのではなかろうか?
それゆえ、猫なりの「反対給付」の衝動にかられ、とくに可愛がってくれる人・餌をくれる人を厳選して、
「粗皿(そべい)ですが・・・」
といって、餌皿をプレゼントしているのではないかと想像する。
「あげる」と言われたほうも、そんなものをもらっても本音では困ってしまうのかもしれないが、可愛い猫にニャーニャー鳴きながら言われたら、そうそう断ることもできないにちがいない。
きっとそうだ。まちがいない。
おれがまだ○○からプレゼントをもらっていないのは、おれが一度も餌をやったことがなく、そして可愛がり方がまだ足りないせいだと思われる。
プレゼントをもらえるように、もっと○○ちゃんを可愛がろう・・・、って、それで皿をもらっちゃったら、即「窃盗罪」で逮捕されるかもしれないな・・・。
後日談:
上の文章をとりあえずまとめてから数日後の夕方、近くのコンビニに行く際に、件の家の前を通った。
そのとき、玄関ポーチに○○はいなかった。そして、皿もなかった。
飼い主が、もうそこには置かないと決めたのかもしれない。
(貼り紙はそのまま残っていた)
そして、帰り道、今度は玄関ポーチに○○がいて、おれの姿を見かけるとニャーと鳴き、そこから道端まで階段を降りてこようとした。(昇段ではなく、降段)
おれは、「降りてきても、エサはないよ」と伝えようとしたのだが、トコトコと最後まで降りてきてしまった○○は、おれの横で立ち止まって、また「ニャー」と鳴いておねだりしてくる。
「エサは持ってないんだよ、○○ちゃん。コンビニで買ってきたのは缶ビールだけなんだ。ごめんね~」といって諦めてもらった。
もしかして、皿が無くなってから、餌をもらえてないんじゃないのか?
そんなことはないか。
「知的武装」のための方法を説いた初期の名著。読書に「技術」はそれほど必要ないかもしれないが、読書で得た知識(情報)を無駄なく整理し、記憶に定着させ、必要に応じて活用(武器化)するには、それなりの技術が必要だ。