5世紀後半、雄略天皇は
「治天下大王」という表記(江田船山古墳出土太刀銘、稲荷山古墳出土鉄剣銘)によって歴史に登場しますが、
この「天下」とは、漢語本来の意味では「全世界」や「宇宙」のことを意味します。
たとえば、近世の信長や秀吉の「天下統一」は、日本列島の統一をさしますが、
古代の「天下」は、
世界の中心に位置する中華皇帝が、至上の「天」の命を受け、
広大無辺な世界を支配するとの「天下」思想を表す言葉でした。
このため「治天下大王」と雄略天皇が称したのは、
本来の「天下」の意味を読み換えて、
日本列島が「天下」であると主張し、
中国の天下とは異なる独自の天下観(西嶋定生)を表明したものと考えられます。
また「治天下……」を、音読ではなく
「天の下治しめしし(又は、治めたまふ)」と訓読の日本語で訓むならば、
高天原の神話世界にも通じるとされ、
古事記は、初代神武天皇は
「天下政(あめのしたのまつりごと)」を行ったと、天つ神の動向と地上の天皇の事績とを明瞭に区別しており、
それらは「天下」思想の確立や定着を示している(神野志隆光)といわれます。
第1回遣隋使は、大王について
「姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤」「天を以て兄と為し、日を以て弟と為す」(隋書)などと隋側に伝え、
これが次回の“対等外交”では「日出る処の天子」の主張になり、
さらに「池辺大宮治天下天皇(用明)」「小治田大宮治天下大王天皇(推古)」(法隆寺金剛薬師如来光背)
などの表記も当時継続的に現れるように、
治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)との世界観は、
8世紀の記紀や律令法の「御宇天皇(あめのしたしろしめすすめらみこと)」へと実質的に受け継がれると考えられます。
ちなみに、近年の学校教科書では、この「治天下」の思想の独自性を教える内容は見当たらず、
たしかに、雄略天皇らは、宋の皇帝に朝貢して「倭王」の地位や領土を認められ(冊封)、百済・新羅・任那などの軍事指揮権を意味する「安東大将軍」の称号を得ますが、
その反面、中華皇帝の権威を利用し、朝鮮支配の称号を得た上で、
半島南部も「中国の天下とは別に、日本列島の支配領域」と主張していた(大津透)と考えられる。
古来、日本と中華の君主は対等であり、
外国に「臣服」しないとの外交の基調を創ったのは聖徳太子である、
しかるに、足利義満の対明外交は「外国の臣」たる臣従の文書を出したと批判したのは、
瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の『善隣国宝記』(1466)でした。
同書の序は、冒頭に
「大日本は神国なり」とあるように、南北朝期の『神皇正統記』などから構成され、
徳川家康による伴天連追放令(1613)にも、善隣国宝記の序とほぼ同文が見えます。
秀吉も、日本は神国(※神仏の支配する国)であるから、爵位や長幼、夫婦の人倫関係がよく保たれると外国に宣言し(1597)、
家康は、君臣の忠義、覇国相互の「交盟」は、神仏への「誓」の信に依ると宣します。
彼らはキリスト教勢力の侵略を防ぎ、
天下一統の武威を誇る一方で、
「神国」イデオロギーに拠らなければ、その統治を維持、貫徹できないことを知っていました(高木昭作)。
また、神国という中世以前からの伝統的で、宗教的な独立思想が、その後の国際状況ばかりか国内状況への対応をも決定づけた。
そして当時、イエズス会士が日本の禁教令の根本的な理由は「国家理性」にあると見た(高瀬弘一郎)ように、
「神国」の維持・発展は、統治者自身に優越し、権力の恣意をも拘束し、
国家の利害や高度な目的合理性にあらゆる階層が服従するという、
いわゆる「国家理性」が「神国」「天道」の論理に従ってもたらされた、と考えられるようです。