歴史のことば劇場98 

 


 日本国憲法の成立論の通説は、宮沢俊義の八月革命説ですが、それは、

ポツダム宣言の受入れにあたり日本側が「国体の護持」の保障について連合国側に確認したところ、8月11日バーンズ国務長官の回答では

「日本国の最終的政治形態(The ultimate form of governmennt of japan)は、ポツダム宣言に従って、日本国民の自由に表明された憲法によって樹立される」とあった。

このバーンズ回答を日本国が受け入れたことで、天皇統治の「国体」は変革した、

この瞬間に日本国の最終的政治形態は、帝国憲法の天皇主権ではなく、国民主権へと変わり、ここに憲法上の「革命」が生じたとする学説です。 

 しかし、バーンズ回答について、昭和天皇は

「人民の自由意思によつて決めて貰つて少しも差し支へない」(木戸幸一関係文書、8月13日)と述べて周囲を驚かせ、

ポツダム宣言受諾への政府の意思形成を導いた。

つまり、宮沢のいう国民主権への「革命」が起った瞬間は、実際は天皇のバーンズ回答受入れの「聖断」がもたらしたものでした。

 また、宮沢の革命説を批判した尾高朝雄のノモス主権論は、

いわば法の支配の理論の一種であり、

革命説や主権論による「力の政治」や「数の政治」を否定した。尾高によれば、

旧憲法の天皇統治であれ、新憲法の国民主権であれ、「法の理念」が主権に優位する。法の理念やノモスの支配が、力や数の政治を超えて国家に責任を与える。

 これらは宮沢の〈主権論=絶対主義イデオロギー〉に対抗する〈反主権論=立憲デモクラシー〉の構想(石川健治)であり、天皇の役割を歴史的な「ノモスの体現者」とすることで、革命説や新旧憲法の断絶を乗り超えようとした。 

 じっさい、昭和天皇は自らの「象徴」としての地位を旧憲法と同じく英国の立憲君主制の延長上に考え(後藤致人)、若き日の上皇陛下も英国君主制の歴史に学んだ。平成5年、

「長い歴史を通じて…苦しみあるいは喜びを国民と心を一つにし、国民の福祉と幸福を念ずるというのが日本の伝統的天皇の姿でした…国政に関与せず、内閣の助言と承認により国事行為を行う、と規定するのは、このような伝統を通じてのもの」と述べられ、憲法の条規を古来の歴史伝統の上に明確に位置づけた。 

 昭和21年3月5日、GHQ製の憲法草案を奏上した幣原首相は「子々孫々に至る迄の責任」と恥入り、芦田厚相は暗涙(あんるい)を流した(芦田日記)。

天皇の受けた屈辱がどれほどであったか想像に余りありますが、しかし

「政府当局其(そ)レ克(よ)ク朕ノ意ヲ体シ必ズ此ノ目的ヲ達成セム」(憲法改正の勅語)と求められ、「象徴にすぎない」とする主権論=絶対主義イデオロギーではなく、歴史的な「ノモス(法の理念)の体現者」、英米法の「自由と立憲主義の歴史の象徴」としての元首の務めを果たされた。 

 かくして「象徴」は、革命説や主権論の絶対主義、新旧憲法の相違をも超えて古来の歴史伝統の上に「定置」し直され、

これら主権に優位する立憲主義とノモス支配の原理は、伝統的な男系継承以外の「象徴」の選択の余地を否定していると考えられます。