歴史のことば劇場76
日本の神仏習合は、異なる宗教を単に混同したり、抑圧したものではありません。
仏教伝来の当初から、僧は神々や死者の祀りに深く関わり、日本の仏教は、在来の神や祖先への信仰とともに浸透しました。
つまり、古い神信仰と新しい仏教とが、別々の宗教とならず、一つの信仰となり(吉村均)、仏と神の「無意識的同化」が生じ(田村芳朗)、
仏教の移植は「実に神祇信仰を強化していよいよ隆盛ならしめた」(家永三郎)。
神仏一体化とともに、奈良期以後、神宮寺が神社周辺に創建され、神が仏法の守護神(護法善神)となり、平安期には本地垂迹思想が列島全域で定着します。
しかし、末法思想の流行とともに、日本を天竺(インド)と比較して「粟散辺土(卑小な辺境)、濁悪末代」の地として極端に貶める末法辺土観が広がった。鎌倉期の仏教は、末法思想による絶望や苦悩の克服を自らの宗教的な課題として登場しますが、
『沙石集』に「我朝(ちょう)ハ神国トシテ大権(たいごん)アトヲ垂レ給フ。我等ミナ彼(かの)孫裔ナリ」との万民神胤説(高橋美由紀)があるように、法然、親鸞らと同様に、衆生の抱える現実を前に「神仏に守られた神国」との思想が、絶望と否定の終末思想を超克する役割を果たします。
『平家物語』では、平重盛は父・平清盛に対して
「我朝は辺地粟散の境ながら、天照大神の御子孫…、朝(ちょう)の政(まつりごと)をつかさどり給ひて以来(このかた)、太政大臣に至る人(清盛)の甲冑をよろふ事、礼儀を背(そむく)にあらずや。…日本は是神国也。神は非礼を享給(うけたま)はず」
などと諌言した。
清盛を「非礼」と批判するような「神国」の論理は、平家の圧倒的権勢を超える秩序となり、
同書冒頭の「盛者必衰の理ことわり」の文句は、仏教本来の「生者必滅」の思想から転じて、「盛者」も驕慢により「滅亡」する「盛者必滅」、権勢必滅の教訓となって現れた。
あらゆる権力を超える「神国」思想とともに、以後の「源平交替」の歴史観により、武家争乱の時代に日本人のアイデンティティは分裂するどころか、かえって強化される流れ(兵藤裕己)を生みます。
『神皇正統記』は「一宗(いっしゅう)に志ある人、余宗(よしゅう)を謗(そし)り賤(いや)しむ、大きなる誤りなり」と、「神国」の下における他宗排斥を戒めた。
秀吉や家康の禁教令にも「神国」思想が打ち出され、大友宗麟の重臣・立花道雪は、「神国」の秩序にもとづく信仰の寛容や道徳規範の観点から、主君のキリスト教信仰による他宗排撃を諌めた(神田千里)。
総じて、古来の神仏習合にもとづく「神国」思想が、キリスト教などによる他宗排撃、一方的なイデオロギー攻勢を斥け、
あらゆる権力・武力闘争を相対化するとともにあらゆる宗教対立を超える「早熟な国民国家」的な結合をもたらし、じっさい国際状況における「独立」の対応をも決定する要因となったと考えられるのではないでしょうか。
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