
夫婦同姓が続いているのは、今や日本だけとの批判をよく見かけますが、
しかし『法の精神』(1748)で有名なモンテスキューは次のように述べています。
「いくつかのもの、すなわち風土、宗教、諸々の法律、政体の格律、過去の事例、習俗、生活様式が、人間を支配している。その結果、そこから一般精神が形成されるのである」
「法は制定の目的である人民にふさわしいものでなくてはならない。もしも、一国民が他の国民にも適合しうるなら、それはまったく偶然のしわざである」
要するに、ローマ法や自然法のような普遍的な法典だけが合理的な法とはいえない。
伝統的な「法」による事象に対する多様性は、決して非合理ではない。
彼のいう「一般精神」とは、歴史的伝統の重みの自覚の上に築かれた「法の支配」の原則のことであり、
それは「啓蒙の時代」において「改革」「政策」という形で現れる「新たな専制主義」を糾弾するための武器(川出良枝)でした。
またレヴィ=ストロースによれば、
フランス革命は「人々の頭の中に、社会というのは習慣や習俗でできているのではなく、抽象的な疑念に基づき…理性の血で慣習や習俗を挽き潰してしまえば、長い生活形態を雲散霧消させ、個人を交換可能な原子に変えることができるという考えをたたきこんだ」
「しかし、迷信という概念が現代人にとってうさんくさいものになっているいま、迷信はどのような意味で専制主義に対抗できるのだろうか…
一つの地方、伝統、信仰あるいは無信仰の形を、特定の生活習慣で統合している…
それらの要素は、モンテスキューの言う分権方式で均衡を保っているのではなく…それぞれが公権力の権力乱用に抵抗して立ち上がれる対抗組織としてである」
「自由に合理的とされる基本原理を与えることは、自由の豊かな内容を排除し、自由の基盤そのものを打ち崩す。
守るべき権利に非合理な部分があればこそ、より一層自由に執着するからだ…現実の自由とは長い間の慣習、好みなど、つまりはしきたりの自由である。…〈信条〉(ここでは宗教的な信条・信仰の意味ではない。ただし、そのような信条を排除するものではないが)のみが、自由を擁護するものとなり得る。
自由は内側から維持されるものであって、外側から構築しているつもりでいると実は内側で崩壊が進んでいるものなのだ。」
自由とは、長期にわたる(迷信をすら含む)歴史的経験の成果であり、
抽象的な人権ではなく、文化遺産や慣習、信仰などからなる多元的自由が、真の普遍性を持つ。
E・バークも、
人間の思考は、長い時間をかけて漸進的に発達したもので、必ずしも合理的に設計されていないと考えた。
「偏見の上衣を脱ぎ捨て裸の理性の他は何も残らなくするよりは、理性折り込み済みの偏見を継続させる方が遥かに賢明である」
習慣もまた人間の理性を拡大する。
古来、立法者は、市民生活の多様な側面を観察し、習慣に学ぼうとした。
しかしながら啓蒙思想は、人間のあらゆる関係性をはぎ取り、抽象的に考えた点に、弱点があった(宇野重規)。
歴史的で、慣習的であるが故に普遍性をもつ「自由と法」の制度を、「抽象的な疑念に基づき…習慣や習俗を挽き潰す」ものにすり替えることは、
社会的多元主義と衝突し、倫理道徳の基盤を打ち崩すことを、上述の“歴史的自由”の論理は、つよく警告しているのではないでしょうか。





