幕末が舞台のドラマは、主人公にとって佐幕側か倒幕側かに分けることができる。
「龍馬伝」「翔ぶが如く」なら倒幕、「徳川慶喜」「新選組!」「青天を衝け」なら佐幕といった具合だ。
確認したわけではないが、こうした幕末のドラマに共通して必ず出てくるシーンがある。
黒船来航だ。
1853(嘉永6)年に、ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船4隻が、日本に来航。
艦隊は江戸湾入り口の浦賀沖に停泊。
ドラマの主人公は、海岸から黒船の艦影を見て驚き、空砲を聞いて驚く。
幕末の大立者で維新の三勲の一人・桂小五郎はことあるごとに「癸丑以来」と言った。
癸丑は、すなわち1853年。
黒船来航の年だ。
この年から幕末は始まったとされる。
志士として最も古い活動歴をもつ者を指すとき「西郷君は癸丑以来だから~」などと言ったという。
その黒船来航から7年後、わずか7年後だ。
日本人が自らの船で自ら船を動かし太平洋を越えてアメリカに渡ったのだ。
その船の名は咸臨丸。
艦長は、木村摂津守。副艦長は海舟・勝麟太郎。
若き日の海舟ついては、蘭学と一艘の舟〜若き日の海舟の苦闘〜で触れた。
勝海舟 写真 Wikipediaより
彼は、殿様でも旗本でもない。お目見え以下の御家人の出だ。
出世するために苦労して蘭学を学び、幕府が長崎に設けた海軍学校で海軍を学んだ。
幕府の使節団が渡米する目的は、大老・井伊直弼のとき、勅許を得ないまま結んだ日米修好通商条約の批准のためだ。
使節団はアメリカの好意によりアメリカの軍艦ポーハタン号に乗ってゆく。
海舟らは幕府の軍艦・咸臨丸を自らの手で操船してゆく。これは使節団の護衛が目的だ。
木村の従者という立場で乗船した福沢諭吉は、海舟たちが日本人で初めてオランダ人から航海術を学んでわずか5年で、
少しも他人の手をかりずに出かけていこうと決断したその勇気といいその技倆といい、これだけは日本国の名誉として、世界に誇るべき事実だろうと思う。
と福翁自伝で言っている。
しかし、諭吉はこうも言っている。
勝麟太郎という人は艦長木村の次にいて指揮官であるが、至極船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることはできなかった。
中津藩士で押しかけ従者にしてはかなり辛らつに海舟をディスっている。
一方、艦長の木村摂津守は、紳士的だ。
福沢の伝にある様に、ただ船に酔ったというのではない。
つまりは不平だったのです。
咸臨丸難航図 鈴藤勇次郎原画(木村家蔵・横浜開港資料館保管)
海舟の不平とは、身分の高低で(艦長などの)待遇が決まり、その人の能力相応ではないことだ。
海舟の不平は、これに留まらなかった。
海舟を好きでない人は、このアクの強さが鼻につくのかもしれない。
海舟がアメリカから帰国して、老中から尋ねられた話がある。
そちはすぐれた眼識をそなえた人物であるから、さだめてかの国に渡って、何か目をつけたことがあろう。
申してみよ。
そう問われて、海舟は、
さよう、少し目につきましたのは、アメリカでは政府でも民間でも、およそ人の上に立つ者は、みなその地位相応に利口でございます。
この点ばかりはわが国と反対のように思いまする。
とやってしまった。
たしか大河ドラマ「勝海舟」では、将軍後見職・一橋慶喜、閣老ら歴々の面前で言い放っていた記憶がある。
海舟は確かに不平屋であった。
しかし、事実、歴史を見る目、世界観、胆力、科学技術どれをとっても幕府無双であり、総合力という意味では日本一だったかもしれない。
司馬遼太郎はそれらを総括してこう言っている。
私は勝海舟が、巨大な私憤から封建制への批判者になり、このままでは日本はつぶれるという危機感、そういう公的感情へ私憤を昇華させた人だと思っています。海舟は偉大です。なにしろ、江戸末期に、
「日本国」
という、たれも持ったことのない、幕藩よりも一つレベルの高い国家思想ー当時としては夢のように抽象的なー概念を持っただけでも、勝は奇蹟的な存在でした。
(「明治という国家」第一章 ブロードウェイの行進 より)
しかし、彼は志士ではなく幕府官僚だ。
彼の統一国家構想、近代国家構想の言動が、封建国家の幕臣としての彼を不遇にした。
最後の将軍・徳川慶喜とのソリも合わなかった。
役職に就いては罷免され、重要な交渉全権に任ぜられても梯子を外されたりした。
そして鳥羽伏見の戦い後は、慶喜の謹慎恭順で、敗戦処理をという火中の栗を拾わざるを得なくなった。
江戸無血開城。
歴史に必然はない。
今となっては当然のような無血開城も、多くの強い意志と奇跡の連続によって到達したものだった。
天璋院、和宮、山岡鉄舟、益満休之助、英国公使パークス…。
そして、談判者・勝海舟。
海舟は町火消や非人頭などとも打ち合わせして、江戸が火の海になることを想定したクライシスマネジメントも行っていたという。
勝海舟と征東軍の責任者・西郷隆盛は、1864(元治元)年以来の旧知の仲。
しかも西郷にとって海舟は、幕府の存在を前提としない新政権の構想を教示された恩人であった。
西郷は徳川家の総責任者が勝海舟であることを知った後は、戦火ではなく交渉によって妥結できると思っていた。
江戸無血開城は100万の市民の生命を守った平和の奇跡だった。
と同時に、坂本龍馬も夢見た平和無血方式での真の大政奉還だったのだ。
江戸開城談判(部分、聖徳記念絵画館蔵)
海舟の晩年は長かった。
1872(明治5)年に赤坂氷川神社の近くで住居を構えその死まで長く棲んだ。
同時代の西郷隆盛や徳川慶喜は、回顧録のような著作物を残さなかったが、晩年の海舟は多くの著作物を執筆、口述した。
そのなかで、私が興味をひくのは古今の人物を評していることだ。
私たちにとって歴史上の人物である勝海舟が、さらに古今の歴史上の人物を語っている。
しかも、その辺の街角で立ち話をするようにだ。
海舟は、多くの著名人を評価した。
烈公・徳川斉昭、藤田東湖、佐久間象山、島津斉彬、岩倉具視、小栗上野介などなど。
今までに自分が見た最も恐ろしい人物は誰か、海舟は言う。
それは,横井小楠と西郷隆盛だ。
横井は、西洋のことはたくさんは知らない。おれが教えてやったくらいだ。
しかし、その思想の格調高さは、おれなどはしごをかけても及ばぬと思ったことがしばしばあったよ。
もし、横井の言説を用いる人が世の中にいたら、それこそ由々しき大事だと思ったのさ。
西郷と面会したら、その意見や議論は、むしろおれのほうがまさるほどだったけれど、天下の大事を負託できる者は、西郷ではないかと恐れたよ。
(幕臣の立場からすれば)横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでだと心配していたら、案の定、西郷は出てきたわい。
横井小楠の理論と思想
西郷隆盛の実行力
海舟が今の世で最も恐ろしい人物と評したのは、横井小楠と西郷隆盛であった。
横井小楠(1861年8月、鵜飼玉川撮影)写真 Wikipediaより
海舟は、歴史上の人物も評している。
織田信長について。
信長という男は、さすがに天下をとる大望をもっていただけあって民生の事には深く意を用いて租税を軽くして、民力を養い大いに武力を天下に用いるための実力を蓄えていた。
意外にも海舟は信長の革新性よりも民政に着目した。
足利義満について。
足利義満が明の皇帝から日本国王に封ぜられたのを、歴史家は口を極めて攻撃するようだが、おれは何も義満を弁護する気はないけれど、彼が虚名の(国王の)辞令を受けたのは、これによって実利を取ろうという考えだったことを忘れてはいけないよ。
明に頭を下げて国王を拝命したのは、どんどん輸出を増やして明の銭を得ようとした経済政策のためだというのだ。
さて、海舟の見た最高の為政者とは誰か。
他の人物評と比較してみるとどうもこの人のようだ。
北条早雲。
北条早雲というと、だれもただ慧眼な戦将だとばかり思うけれども、あれはまた非凡な政治家だ。
関八州は室町将軍の領地で、租税が過酷なのは日本一のところだった。
税率は七公三民くらいであっただろう。
早雲はこれを察して、法を簡単なものにし、租税を大いに軽くしたものだから、民衆のこれに従うことは水が低きに流れるようだった。
早雲が旅人の身をもって、関八州を治めることができたのは彼が英雄だったことばかりではない。民心が彼に服したからだ。
さらに、筆を尽くして賞賛している。
徳川時代には、小田原付近から関八州へかけてが全国中でいちばん税金の安いところであったが、これは全く早雲のおかげだ。
徳川氏は北条氏が滅んだ後に駿河、遠江、三河の土地からこの関八州へ転封させられたのだが、もともと租税の安いところであったから、徳川氏としては非常に迷惑だったのだ。
しかし、そこはさすがに徳川氏だ。
少しも早雲の遺法を崩さず、従来のしきたりに従ってこれを治めたのだ。
ちゃっかり徳川家を褒めているが、徳川民政のモデルが北条早雲だったことは、新鮮な発見だった。
海舟の見出した為政者は、実はもう一人いる。
鎌倉幕府二代執権・北条義時だ。
北条義時は、国家のためには、不忠の名をあまんじて受けた。
自分の身を犠牲にして、国家のために尽くしたのだ。その苦心は、とても軽々たる小丈夫にはわからない。
おれも幕府瓦解のときには、せめて義時に笑われないようにと、幾度も心を引き締めたことがあったっけ。
義時評は続く。
北条氏の憂うるところは、ただ天下の人民ということばかりだった。
それゆえに明恵上人が、あるとき、泰時(義時の子)に向かって、北条氏が帝室に対する所業について忠告した際にも、泰時は、
「いかにもおそれ多いことだけれども、民百姓のことを思うと、やむなくこうせざるをえないと、先父も常々申された」
と答えたそうだ。
その決心は、実に驚くべきことだ。
これを見ると、海舟の為政者としての価値は唯一点に絞られている。
それは、民百姓、市民、庶民の暮らしを大切に思い政治を行う者に最高位を与えている。
評するも人、評されるも人。
私たちは、海舟が評することでその人物の偉大さを知り、また、海舟が何を評するかによって海舟の偉大さを知ることができる。
それは私たち後世の者に与えられた愉悦であろう。
これからはひとつでも多くこの愉悦を味わいたい。
※参考「氷川清話」(著:勝海舟 編:勝部真長 出版社:角川書店)