江戸っ子の生まれ損ない金を貯め
という川柳がある。
江戸っ子は宵越しの銭は持たない、という金離れの良さを著した言葉があるが、この川柳は逆説的な物言いだ。
もっとひどいのもある。
江戸っ子は五月の鯉の吹き流し 口はあれどもハラワタはなし
類型的な江戸っ子像として、金離れが良く、細かい事にはこだわらず、意地っ張りで喧嘩早く、口は達者で駄洒落ばかり言うが議論は苦手で、人情家で涙にもろく正義感が強い、そして根気がないという。
これが江戸武士になるとさらに分が悪い。
江戸武士とは旗本八万騎などと称される徳川将軍家にお目見えできる者と、それ以下の御家人を指す。
政治上の首都である江戸にはいわゆる旗本八万騎が棲んでいますが、これは余り勉強ができない。(中略)例えば幕末に語学の塾を開いている人たちが、江戸っ子だというと、「だめだよ、お前たちはすぐあきらめてやめる。語学のような、砂を噛みつづけて何年かでやっとモノになるような学問は、田舎から来た根気のいい連中でないと駄目なんだ」という。
※「日本歴史を点検する」海音寺潮五郎・司馬遼太郎(講談社文庫)より
これによく似たセリフをテレビドラマで聞いた覚えがあった。
大河ドラマ「勝海舟」(1974年・NHK)で、若き勝麟太郎(渡哲也)が江戸の蘭学者・箕作阮甫(南原宏治)に弟子入りを願い出たが断られる。
その時の箕作阮甫が勝麟太郎に向かって言うセリフがほぼこんな具合だ。
江戸者というだけで断られていた。
箕作阮甫は、津山藩医。
この時は江戸で幕府天文局翻訳員をしていた。地方人である硬骨な自分と日頃知る江戸武士の懦弱が念頭にあったのだろう。
箕作の気持ちもわかるが、人を見る眼がなかったともいえる。
海舟・勝麟太郎と蘭学について触れたい。
画像出典:『近世名士写真. 其2.』近世名士写真頒布会
その勝麟太郎は、本所の自宅を出て赤坂に転居する。赤坂溜池の黒田藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りし蘭学を学ぶためである。
江戸者は根気がないから語学はダメだ
そう言われた屈辱を勝麟太郎は忘れたくとも忘れられないだろう。
表には出さないが、元来自負心自尊心の強い男だ。
箕作を見返してやる思いは骨髄まで沁み通っていただろう。
蘭学を学ぶ者にとってどうしても欲しい書物がある。
蘭和辞典「ヅーフ・ハルマ」である。
当時オランダ語を学ぶ者にとって唯一の手がかりとなる辞典だ。しかし数えるほどしか出回っていない。
適塾所蔵『ヅーフ・ハルマ』 写真 Wikipediaより
買えば六十両はしたという。
麟太郎には金がない。
しかし、ヅーフ・ハルマ58巻を年十両(いまの120万円に相当)で借り受け、にじまないインクや鳥の羽根を削ったペンを自作しながら一年がかりで写本二部を製作するという有名な話がこの若者にはある。
この話は、前出の大河ドラマにある。
どうしても欲しい麟太郎は、ヅーフ・ハルマを持っている医師の赤城玄意(久米明)をたずねる。
赤城 ヅーフハルマを貸せというのですか?どのくらい?
麟太郎 できれば1年。
1年?どうするんです。
写します。
写すといったって、ヅーフハルマはごらんの通り膨大な量ですよ…。それにここに来てご覧になる程度ならいいが、持っていかれたら私だって困る。これは私の秘蔵本ですよ。
分かっております。無理を承知でお願いしているんです。
どうしても本を借りたい麟太郎は、夜中に来て深夜使っていない時間に写させて欲しいと詰め寄る。
しかし玄意からは借用料を求められる。
(一年間で)お金にして十両ってとこでしょうかね。
十両…。
結局、自分の力では十両をそろえることが出来なかった麟太郎。
しかし突然、赤城玄意が家を訪ねてくる。
あなたの熱意に打たれました。考えを変えたので、この本を向こう一年間あなたに貸します。損料はいりません。どうぞ使ってください。
ありがとうございます!
ただで借りるわけにはいきません。損料はきっと払います。自分には、後払いなら払うあてがあるんです。実は、私には目論見があります。
麟太郎の目論見とは、同じ写本を2セット作り、その一つを売りに出すということだった。
実はすでに三十両で買い取ってもらう約束が出来ている。損料の十両を差し引いても手元に二十両残る。それを一年でやり遂げるというのだ。
その日から麟太郎は、昼夜の区別なく机に向かい、眠くなれば机にもたれて眠り、目覚めては再び作業に取り掛かることを繰り返し、一年後、にようやく二組の筆写を終えた。
遂にやりとげた。
三十両で売ったのは、蘭学の師匠、永井青崖であった。
話はもうひとつある。
麟太郎は本屋の店頭でオランダの兵書を見つけた。
が、値段が五十両でとても手が出ない。
しかし、欲しくてたまらない。
八方駆けまわって何とか五十両を金策した。喜色満面で本屋に駆け込むと、もう本は売れたという。
本屋の店主に買い主の名を聞くと、四谷大番町にすむ与力某だという。
麟太郎はすぐに与力某を訪ねて、
本を譲っていただけまいか。
与力某が断ると、
それならしばらく拝借させてくれまいか。
そう頼むと、与力某は、
この本は自分も読みたいのでお貸しできない。
麟太郎はさらに食い下がる。
あなたがお読みになる間はその本が必要でしょうが、寝てしまった後はその本は空いているでしょう。その空いている時間だけ貸してくださらぬか。
与力某は折れて、いう。
それなら、四つ(午後10時)過ぎには寝につくから、四つから翌朝までならお貸ししよう。ただし、この書物は門外不出の貴重なものであるから、拙宅へきて読んでいただきたい。
麟太郎は、その日から毎晩、本所から四谷大番町まで一里半(約6km)の道を通いつづけて、半年で全部写し終わったという。
話は続きがある。
最後の日、麟太郎は与力某の好意に礼を述べながら、書物の中の不審な点を二、三尋ねると、某は驚いて、
拙者はこの本を所蔵しているが、まだ全部読みきっていない。なのにあなたは、夜だけ通って、写していながら、拙者のまだ読んでいない個所まで読み終わり、その意味を質問されるとは。
その根気強さに、ただただ感服するほかない。
どうだろう、この本はあなたのような方が所蔵されるのが相応しい。あなたに進呈します。
と言った。
麟太郎は再三辞退したが、どうしても受け取って欲しいと言ってきかず、とうとうその本を譲り受けたという。
伝『1860年サンフランシスコ碇泊中の咸臨丸』 写真 Wikipediaより
麟太郎は、どうしてそこまでして蘭学を学ぶのか。
麟太郎の場合、俗的でしかし本質的な理由がある。
勝家の俸禄は僅かに米 四十一俵取り、十四石だ。大人一人が食べる米が年に一石といわれているのだからかなりの貧乏だ。
彼は16歳で家督を継いだ。隠居の父、母、妹がいる。それにこのころ麟太郎は結婚して妻と生まれたばかりの赤ん坊がいた。一人分の米を六人で分け合わなければならない。
どだい無理な話だ。
父は父で、いわゆる無頼漢であった。
酒はあまり好まず、博打もやらなかったという。その代わり吉原遊びをし、着道楽で、喧嘩を好んだ。腕っぷしも剣の腕も優れ、道場破りをして回った。あまりの無頼に、若い頃、座敷牢に押し込められたこともあったらしい。
とにもかくにも、勝家の貧は極まっていた。
剣と蘭学の理由は、貧窮からの脱出だ。さらには出世欲だ。
ヅーフ・ハルマの借用にしても、向学心という悠長なことは言っていられない死活問題であった。
ちなみにヅーフ・ハルマは、長崎のオランダ商館長ヘンドリック・ヅーフがフランソワ・ハルマの書いた蘭仏辞書を日本語に訳した手書きの辞書で、印刷手法を用いず写本で流通したため、とても希少で貴重なものだった。
大坂の緒方洪庵塾でも、塾生たちはそれを奪い合いように利用したといい、それが置かれたヅーフ部屋の明かりは終日絶えず「五人も十人も群をなして無言で字引を引きつつ勉強している」と、「福翁自伝」で福澤諭吉が述懐している。
麟太郎にとって蘭学は、文字通り、死中に見出した生きる一筋の道だったのだ。
この頃、まだ黒船は来ていなかったが、1837年、麟太郎が14歳の時、モリソン号事件が起きている。アメリカ商船を英艦と誤認して幕府砲台が砲撃したのだ。
聡明な麟太郎のことだ。
先進世界のありようと来たるべきこの国の艱難が脳裡に浮かんだに違いない。
麟太郎は、大艱難を乗り越えるには先進世界を知るしかないと思ったはずだ。
先進世界とは、兵学、医学、科学、あるいは政治学…。
それらはオランダ語の中にしかなかったのだ。
貧窮、出世、来たるべき大艱難。
勝麟太郎にとって、これらが大海原だとすると、「蘭学」は、間違いなく大海原に漕ぎ出す一艘の舟だったといえよう。
参考
「氷川清話」勝海舟・勝部真長編(角川文庫)
「NHK番組発掘プロジェクト」(NHKホームページ)