倭国と半島の薄明②〜宝刀、海を渡る〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

倭国と半島がまだ薄明のなかにあったころ、日本書紀の記述するところによって、無名の一青年の活躍に触れたい。



4世紀に入ると大陸では晋王朝の力が弱まり、晋の支配を受けていた半島でも次々と国が独立を始めた。

 

高句麗は朝鮮半島北部にあったが、313年には晋の出先機関だった楽浪郡を滅して、朝鮮半島の北部一帯を支配するようになり、日に日に強大化した。
そして南下活動を始める。

 

高句麗に対して総じて友好的だったのは新羅、敵対的だったのは百済であった。

369年には高句麗は百済に攻め込んで一敗し、翌々年に今度は百済に攻め込まれ、高句麗王は敗死している。

 

 

4世紀の極東アジアは、高句麗・新羅vs百済の構図となっていた。

 

倭国において進物疑惑事件が起きたのは、367年。まさに半島では開戦前夜の状況だったのだ。

 

武内宿禰が外交の失敗は許されないと言うのも無理からぬことだった。

 

おぬしに新羅に行ってもらいたい。

 

平伏していた青年が顔をあげた。
この青年、千熊長彦といった。

 

ちくまながひこ。

武蔵国の人。
彼は新羅、百済、加羅の言語に通暁していた。半島の言語を流暢に話すことができる、稀有な才能を持っている。
才知もあり、情にも厚かったという。
言動に誠があり、立居振る舞いが洗練されていたともいう。
要するに無名で地位も低いながら、よくぞ天は今ここに配剤してくれたという人物だった。

 

武内宿禰は命じてから思った。

 

この青年はおそらくは新羅に殺されるだろう。だがそうなれば、我が国は再び新羅攻伐の名分が立つ。
千熊長彦が死体となるや否や、我が軍は新羅になだれ込む。

 

軍事力もまだ弱小な新羅が倭国の敵なのではなく、真の敵は強国・高句麗だという。
武内宿禰は、長彦の新羅査察を高句麗との一戦の序曲と見ていた。

 

長彦は、まず進物事件の被害者、百済の使者・久氐を懇切にヒアリングした。まるで賓客をもてなすように礼を尽くして。

 

久氐は、倭国に向かう途中、新羅の策謀により捕縛され、囚われ、進物を奪われ、殺されかけ、脅迫され、進物をすり替えさせられ、倭国へ共に行き、一芝居打つことを強要されたことを冷静に語った。

 

新羅は高句麗の援助で軍拡を進めています。新羅の狙いは貴国と百済の分断です。そのためにあらゆる手を打っているのです。

 

とも久氐は言った。

 

千熊長彦は、護衛隊と共に新羅城に至った。
長彦は、新羅語を駆使して査察を始めた。

 

日本書紀には、

 

千熊長彦を新羅に遣わし、百済の献上物をけがし乱したということを責めた。

 

と短く記している。

 

千熊長彦は、現地から査察の結果を早船で武内宿禰に急報した。

 

進物事件は新羅に倭国・百済離間の策謀であること。
新羅は高句麗より密かに武器などを運び込みつつあり、戦備を整えていること。

 

369年、神功皇后は軍を起こした。
3月、荒田別、鹿我別を将軍に任命し、久氐とともに新羅の隣国・卓淳に入った。

 

鹿我別が久氐に言う。

 

倭国一国で新羅を討つことは難しいと言わざるを得ない。貴国は参戦なさるか。

 

久氐は、間髪なく返す。

 

今すぐ私が帰国し、王(近肖古王)に進言いたします。ついては、貴国を代表する使者を出していただきたい。

 

軍司令官の荒田別は、沈黙した。
そして、叫ぶように、

 

千熊長彦どの、おぬしが行かれよ!

 

と言った。

 

どこに控えていたのか千熊長彦が静かに進み出でて、久氐の傍に立った。 
お互いほほえんでいるかのように見えた。

 

日本書紀  写真 Wikipediaより

 

千熊長彦は、成功した。

 

百済軍の騎兵、歩兵が大挙して卓淳に到着したのだ。ここに倭国・百済の連合軍が誕生した。

 

日本書紀は、いう。

 

ともに卓淳に集まり、新羅を討ち破った。そして、(略)安羅、多羅、卓淳、加羅の七ヵ国を平定した。

 

倭国の荒田別と百済将軍・木羅斤資は、その兵らとともに勝鬨の声を上げた。
百済の王都では、百済王自ら千熊長彦を招き寄せ、

 

そなたと二人だけで話がしたい。

 

と言った。
傍らで、もはや盟友となった久氐が目配せをしている。そうなさい、という意味だろう。

 

古沙山へ参る。そこで貴国への誓いの言葉を述べたい。

 

王は磐石にすわり、長彦にも磐石にすわることを勧め、長彦が座につくと話し始めた。

 

もし草を敷いて誓いの座とすれば、おそらくは火に焼かれるだろう。木を取って座とすれば、水によって流されよう。
だから、磐石に座って誓いをすれば、永遠に朽ちることはない。

 

今よりあと、千年万年といえども絶えることなく、つねに西の蕃国を名乗り、春秋に朝貢することとしよう。

 

 

 

千熊長彦は、 

 

わたしはやったのだ。

 

と思った。

 

百済はこの後、倭国に叛することは一度もなかった。663年に白村江でともに戦い、国が滅ぶまで。

 

370年2月、千熊長彦は久氐をともなって帰国した。
久氐は百済王の使者として神功皇后と会見した。

 

その2年後、百済王は久氐を倭国に遣わし朝貢した。千熊長彦も同行していた。
百済の王都で、王は長彦に言った。

 

長彦よ、久氐にそれを持たせ、倭国大和へ参上させる。貴国におかれては、我らの誠を末永く伝えてほしい。

 

久氐がこのとき、百済王に託され倭国に持ち来たったもの。それがいま奈良の石上神宮に伝わる国宝・七支刀なのである。

 

東京国立博物館ブログより

 

七支刀

 

歴史の教科書で見た不思議な形をしたあの刀は、いつもは沈黙していて、私たちにはそれがどんなものなのかを語ろうとはしない。
私たちが自らその歴史をひもとこうとしたとき、その姿を現して、実に饒舌に自分を語り始めるのだ。

 

私たちの周囲にある全てのものに歴史はある。







参考

八木荘司著 古代からの伝言 民族の雄飛 (角川文庫)