倭国と半島の薄明①〜百済・新羅との遭遇〜 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

地球規模で見ても、極東アジアは、歴史の進行の実験場のような場所なのだろう。

 

文明を持つ大陸国家があり、その先に半島があり、その先の大洋上に列島弧がある。

 

大陸国家はときに分裂し、ときに統一王朝になる。
その巨大なエネルギーは波紋のようにこの極東アジアの空間に地殻変動を起こす。

 

大陸、半島、列島弧にあって、好むと好まざるとにかかわらず、その住人たちは歴史の共有者だ。


4世紀。
半島には北に高句麗があり、西に百済があり、東に新羅があり、南に加羅諸国(伽耶)があった。大陸は、五胡十六国という小国分立の時代であった。大陸からの圧力は極めて小さい。

 

 

 

海を隔てた日本(倭)では、大和政権が全国を統一していったと思われる。
思われる、と書いたのは、4世紀の世界の文献が日本について沈黙しているのだ。
ただし、日本には日本書紀や古事記がある。

 

4世紀の倭国は崇神天皇から応神天皇あたりの天皇家自らが全国を統一していく世紀であった。
その姿を、倭の五王たちが中国皇帝への報告書に書いている。

 

宋書倭国伝に4世紀頃の倭国のことが書かれている。

 

祖彌(天皇の祖先)みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧処にいとまあらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。

 

これがその通りだったとすると、倭王武たちの祖先の功業の成果として、みずから武装して征討軍を指導して、東国と征討し西国を褶伏し半島に渡り一部を勢力下に置いたことになる。倭王武は雄略天皇と見られている人だ。

 

ヤマトタケルの憂鬱で、景行天皇が西国を、ヤマトタケルが東国を征したことを書いた。   

 

では、「渡りて海北を平らぐること、九十五国」とは何を指しているのだろう。

 

海北。
海の向こう朝鮮半島の北部では、高句麗が支配していた。東部に新羅が、西部には百済が存在し、ときに手を握り、ときに矛を突き合いながら、共存していた。

 

日本書紀は、それを裏付けるように半島と倭国の関係を具体的に記述している。

たしかに日本書紀の史料価値がどの程度かはよくわからない。

が、多くの真実や暗示がそこにはあるはずだ。

 

 

さて、本編では、4世紀の倭国に登場した無名の人物に触れたい。

 

その前に少し長いが時代背景を日本書紀を中心にさらっておきたい。
4世紀後半に神功皇后が登場する。いまは実在性が疑問視されているが、日本書紀の記述を追いたい。
神功皇后の名は、息長足姫(おきながたらしひめ)。
夫は、仲哀天皇。子はのちの応神天皇。ヤマトタケルは仲哀の父なので、舅にあたる。

 

月岡芳年筆「日本史略図会 第十五代神功皇后」 写真 Wikipediaより

 

仲哀天皇が急死した後、神のお告げにより、神功皇后は新羅へ出兵。

出兵の理由はよくわからない。


自らが最高司令官となり、対馬北端の和珥津を出航した。この時、お腹に子供を妊娠したまま海を渡って新羅国を攻めた。
大伴や物部が将軍となって実働軍となる。

 

倭国軍の渡海、上陸の様子は、

 

大風、東より来る。倭兵、大挙来襲すとの流言で、先を争って山谷に遁げる。

 

と朝鮮の史書にある。
書紀には、倭国軍に対して新羅のなす術ないさまが記されている。

 

新羅の王は戦慄して、なすべきを知らなかった。(中略)白旗をあげて降伏し、白い綬を首にかけて自ら捕われた。

 

新羅は戦わずして降服、地図や戸籍を差し出して、朝貢を誓ったという。
高句麗、百済も新羅降服を知り、倭国に朝貢を約したという。

 

神功皇后は帰国後、応神天皇となる誉田別(ほんだわけ)を生んだ。

 

こうして、新羅、百済、高句麗は倭国に朝貢することとなった。

 

三国時代(朝鮮半島) Wikipediaより

 

 

神功皇后の新羅出兵から47年後、ある事件が起きる。

 

※神功皇后は69年間にわたり摂政として国政をとったという。一説には実際は半分の30数年という。また、一説に皇位についていたともいう。

一方で、古代史学界では多くの学者が神功皇后の実在性を否定している。例えば、白村江の戦いの前に九州に出陣して亡くなった斉明天皇をモデルにした創作だという。

本稿では、先人の貴重なレガシーとして日本書紀の記述を差し挟みたい。

 

 

百済は神話時代はあるものの、日本や中国では建国を3世紀後半としていることからまだ若い国だ。百済は自立のための外交方針を、倭国との友好に定めていた。
神功皇后の新羅出兵の後の360年代中頃、倭国の使者が加羅諸国のひとつ、村落のような小国・卓淳を訪問。


百済は百済で、卓淳に

 

倭国からそちらに使者が来たら、我が国に知らせてほしい。我らは倭国とよしみ通じたいのだ。

 

と頼み込んでいた。
2年後、卓淳を訪れた倭国の使者はこのことを聞き、自分の従者を百済に赴かせた。

 

百済王はこれを喜び自ら宝物庫を開けて、

 

これを貴国に贈り、国交を結びたい。

 

と言った。
やがて、百済の使者が倭国に向かった。
その使者が地理に不案内なため道に迷い、あろうことか、新羅国内に入ってしまった。

 

新羅にしてみれば、一時とはいえ倭国に占領されたトラウマがある。
倭国と百済が親交を深めれば、新羅にとって大きな脅威になる。
新羅王は、百済の使者を捕縛。

 

 

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367年、倭国の都・大和国磐余を百済と新羅の使者が一緒にやってきた。
倭国と百済の国交の始まりである。

 

そこで不思議なことが起きた。

 

国交を熱望している百済からの進物が、見るからに貧相なものだったのである。
それに比べて、新羅のそれは豪華絢爛な品々だった。

 

神功皇后が不思議に思い、事の真実を調べさせることにした。

 

武内宿禰が責任者となり探索し事実を明らかにせよ。

 

武内宿禰(菊池容斎『前賢故実』)  写真 Wikipediaより

 

武内宿禰
日本書紀、古事記に登場する4世紀の古代日本の代表的な人物だ。
景行、成務、仲哀、応神、仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣で、平群氏、葛城氏、蘇我氏の祖とされている。むろん神功皇后にも仕えている。
とりわけ神功皇后と応神(誉田別)親子に影のように寄り添い、内政外交軍事を補佐した。

300歳生きたというから常人ではないが、それほど長きにわたって政務を執ったという事実への誇張であろう。

 

武内宿禰は百済が使者を呼び、取り調べを行った。
そこで、意外なことが判明したのだ。

 

百済の使者は、名を久氐(くてい)という。
久氐が答えて言う。

 

私どもは道に迷って新羅領内に入ってしまいました。私どもは新羅の者に捕縛され牢に入れられました。3カ月が過ぎ私どもは殺されそうになりました。
私が呪術を使おうとすると、新羅は怖れて殺すのをやめました。

 

そして、新羅は策謀を巡らしたという。

 

私ども百済の進物を取り上げて、自分の国のそれと入れ替えたのです。
そしてこう言いました。
「もし、このことを口外したら、倭国から戻ってきた日にお前らを必ず殺す」
私どもはそれを恐れて、従うしかなかったのです。

これが進物の一件の真相です。

 

久氐が赤裸々に告白した。

 

報告を聞いた神功皇后は、武内宿禰にこう命じた。

 

百済に人を派遣せよ。そして、かの者の供述が嘘かまことか解明せよ。
また、新羅にも人を派遣せよ。そして、その罪を問責せよ。

 

大変な難事である。
倭国は建国以来、このような本格的な外交は初めてであろう。

 

この外交に失敗すれば、半島での我が国の利益は失われててしまう。

この外交は必ず成功させなければ。

 

武内宿禰は数日、苦悩した。

そして、苦悩の末、ある男の名を口にした。