光秀の娘は、たま。
のちの細川ガラシャである。
その最期によって悲劇のヒロインのイメージがつきまとうが、気の強い女性だったらしい。
父・明智光秀が謀反人となり横死。たまは夫や舅の細川家の体面のため、幽閉された。
しかし、夫・忠興のたまへの愛情は一通りでなく、この間に二児をもうけている。
本能寺の変の二年後、たまは夫の同僚、高山右近のからカトリックの話を聞き、その教えに傾倒していった。
忠興のたまへの激しい盲愛や、たまのキリシタンとしての最期は有名な話だが、本稿では割愛する。
写真 Wikipediaより
光秀のもうひとりの娘とは、たまではない。
光秀の長女、たまの姉についてである。
「明智軍記」によると、光秀には3男4女がいたという。
長女の名は伝わっていない。
大河ドラマ『麒麟がくる』では「きし」という役名がついている。
ここでは、便宜的に「きし」を用いる。
きしがどんな女性であったかは、よくわからない。
きしは、妹のたまが1563(永禄6)年の生まれなので、それより早くに生まれている。
1556(弘治2)年、光秀は長良川の戦いで斎藤道三に与したため、斎藤義龍によって明智城が落とされると、光秀は身重の妻・煕子を背負って越前へ逃亡したという逸話があるので、この時のお腹の子がきしかもしれない。
結婚した年は不明だが、相手はわかっている。
荒木村次(むらつぐ)という。
摂津国の国主・荒木村重の嫡男だ。
荒木村重と明智光秀の経歴は、なんとなく似ている。
織田家臣団にあっては二人とも新参者である。
荒木村重。
元来は、摂津国池田城主・池田勝正の家臣であったが、やがてこれを追放。
足利義昭を擁して上洛した織田信長に仕えた。
信長の力を借りながらほぼ自力で摂津一国を平らげ、信長に従って越前や摂津石山、紀伊などの仏教勢力と戦った。
有能だった。
信長は天性のいたずら好きだ。
天然なところもあろうが、相手の反応で器量や本心を洞察するところもあろう。
家臣の居並ぶ中で、信長は、刀で突き刺した3つの饅頭を平伏する村重の眼前に差し出し、
いかに。
と問うたことがある。
村重は少しも動じず、口を開けてそのまま喰らいついたという有名なエピソードもある。信長がその気になれば刀で喉をつくのも造作ない重大な場面でも、村重は物怖じしなかった。
その豪胆な性格を信長は好み、日本一の器と褒めている。
とはいうものの、村重も心底では恐懼するところはあっただろう。
ともかくも、村重は摂津一国の国主になった。
1577(天正5)年に嫡男・村次は父から尼崎城を任されている。
きしはこの頃、21歳。村次の妻として尼崎城にいたと思われる。
二人に子がいたかはわからないが、きしにとっては一番幸せなときだったのではないか。
きしにとって数奇な運命は、その翌年にやってくる。
1578(天正6)年10月、秀吉軍に加勢していた村重は本拠地・有岡城で突如信長に対して反旗を翻したのだ。
荒木村重、謀反。
謀反の理由は諸説あってはっきりしないし、いまもよくわからない。
足利義昭や石山本願寺とも親しかったため、誘いがあったともいわれている。
最初、信長はなぜ村重が自分に背いたか事態が理解できなかったらしい。
信長はただちには信じがたく、
何の不足があってのことか。言い分があるのなら、申し出るがよい。
と言ったという。
きしは、舅が突如謀反人になった。
夫も運命共同体であることは瞭然としている。
自らの運命に暗然とし、ひとり臥所で父母の名を呼んだであろう。
村重説得の使者に、明智光秀が選ばれた。
光秀は、おそらく娘のきしが荒木家に嫁いでいたために選ばれたのだろう。
光秀の必死の説得もあって、村重は帰順の意思を示した。
光秀も安堵した。
一度、安土に来られよ。
来て、我らが主君に顔を見せて安心させ給い、今後も忠勤に励まれよ。
説得され翻意した村重もそう心に決め、釈明のため安土に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣の中川某からこう囁かれた。
信長は部下に一度疑いを持てば許すはずはございませぬ。必ず滅ぼそうとするでしょう。
村重は、再び自分の城に戻ってしまった。
信長は諦めきれず、2度目の説得を試みる。
明智光秀・羽柴秀吉らを派遣したが、やはり村重は応じない。
記録にはないが、おそらくこの時、光秀は娘のきしを掻い抱くように連れ帰ったのではないか。
自然、村次とは離縁となり、荒木と明智の縁は切れる。
さらに説得に向かった秀吉の軍師・黒田官兵衛はあろうことか村重に幽閉されてしまう。
こうして、信長は1578(天正6)年11月に摂津へ向かって村重鎮圧のため出陣することになった。
村重は有岡城に籠城し、織田軍に対して1年間徹底抗戦したが、戦況は不利となり、兵糧もつきはじめたため、1579(天正7)年9月2日、単身で有岡城を脱出し、村次のいる尼崎城へ遁入。
11月19日、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を、村重に代わって有岡城の城守をしていた荒木の家臣某と取り交わした。家臣某は織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、窮した家臣某は妻子を見捨てて出奔。
信長は村重への見せしめのため人質を処刑。
1579(天正7)年12月、妻子、家族、家臣600名以上が、刺殺、焚殺された。
結果、村重、村次は一族郎党を見殺しにして毛利方に遁走した。
一歩間違えたら、きしも儚くなったであろう。
きしはすんでのところで父に救われた。
数奇にも、きしの夫と舅は、信長への謀反人だったのだ。
1580(天正8)年、光秀は丹波を平定。亀山城を居城とする。
光秀の片腕は、従兄弟の左馬助秀満だ。左馬助は福知山城を与えられる。
父母のもとに出戻っていた、きしが再嫁することとなった。
新しい夫は、左馬助であった。
太平記英勇伝四十九:明智左馬助光春 落合芳幾・画 東京都立図書館蔵 写真 Wikipediaより
もう、おわかりかと思う。
きしの運命の数奇さは、父、舅、前夫、夫の全てが織田信長への謀反人なのだ。
きしの再婚は1578(天正6)年の頃と思われる。荒木村次と離縁してすぐだったのではないか。
入れ違いに妹のたまが細川藤孝の嫡男・忠興と結婚している。
新婚同士の姉妹で手紙のやりとりをしていれば、のぞいてみたいような気もする。
幸せそうな彼女たちを、少しでも見ていたいからだ。
再婚から3年余。
1582(天正10)年6月1日。
史料によれば、光秀から謀反の決意を最初に打ち明けられたのは左馬助とされている。
左馬助は光秀の命によって本能寺攻略の先鋒を務め、作戦そのものの成功に大きく貢献した。
信長は死に、局面は、山崎の戦いへ。
左馬助はこのとき、安土城の守備を命ぜられていた。
つまり、明智の天下の裏門の防ぎを担っていたのである。
安土城で敗戦の一報を聞いた左馬助は、すべてを悟り、最期を飾るために、きしや光秀の妻たち明智一族のいる坂本城へ急ぐ。
途中、琵琶湖近郊の打出浜で、秀吉方の武将だった堀秀政と戦い、敗れ、逃げ延びる形で明智本拠の坂本城へと向かう。
左馬助の湖水渡りはこのとき生まれた逸話だ。
左馬助は坂本城に火をかけ、きしとともに自害。
きしはその生を終えた。
坂本城の城門を移築したと伝わる聖衆来迎寺表門
きしに、あなたの一生はどうでしたか?と尋ねたら、なんと答えるだろう。
彼女は何も語ってくれはしないが、極めて数奇な運命に揺さぶられながら、そのわずかな長雨の止み間のような一瞬一瞬に幸せを感じて生きたのではないか、と想像する。
きしの舅だった荒木村重と前夫の村次は、その後、生きた。
村重は信長が死ぬと、堺で茶人となった。利休七哲の一人にまでなっている。
1586(天正14)年5月、堺で死去。享年52。
村次は、その後、秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いに参戦して負傷。大阪に住んで、時折秀吉に謁し、没年は不明だが38歳で死んだという。
この親子の不思議な生き様も、きしの運命に数奇さを重ねている。