北条義時の聖戦〜承久3年のメークドラマ〜 | 天地温古堂商店

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鎌倉に最悪な状況が訪れた。
鎌倉殿が殺害された。かつて北条時政に命を狙われた三代・実朝が、甥の公暁に斬殺されたのだ。

 

 

複数の黒幕説などがあるが、ここでは措く。
公暁も殺され、源氏本流の血はここに断絶した。
1219(建保7)年のことで、次の将軍就任までの7年間、空位の時代が続く。
幕府は北条政子を将軍代行、義時をその補佐として、難局を乗り切ろうと必死の政略を繰り出す。
在京の北条家や幕府重職の縁者などを駆使して外交攻勢をかけ、幕府は新しい鎌倉殿として、後鳥羽上皇の皇子である雅成親王を迎えたいと後鳥羽に申し出た。

しかし、後鳥羽は愛人の所領の地頭の解任、鎌倉御家人から無断で後鳥羽の家来になった仁科某の復権など無理難題を吹っかけてきた。

これに応じれば鎌倉幕府の根幹が崩れると危ぶみ義時は拒否。後鳥羽も皇子の将軍下向を拒否。朝幕両者のチキンレースの様相。

義時は弟の時房に一千騎を与えて上洛させ、武力による恫喝を背景に交渉を試みるが、朝廷の態度は強硬で不調に終わった。

一見して異様なのは、義時側が朝廷に対して終始強気で、畏怖が感じられないことだ。

〈朝敵〉という言葉があるが、義時ら東国武士団は朝敵となることに恐れはなかったのだろうか。
結果、義時ら幕府軍と後鳥羽上皇らの朝廷軍は1221(承久3)年、軍事衝突を起こすことになる。
承久の乱である。

純軍事的には幕府側が優位であったろう。問題は、朝廷からの切り崩し工作や朝廷に弓引くことで自らが賊軍となる恐怖である。
朝敵、賊軍と聞いて、まず思い出す人物は、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜だ。

朝廷の命に違反した軍勢を派遣し、薩長を相手に鳥羽伏見の戦いを起こすも敗れたため、慶喜ら旧幕府方は賊軍となった。慶喜追討令が出され、慶喜側で戦った諸藩も朝敵となり、罪の重さが五つの等級に区分された。その第一等が慶喜である。慶喜は、抗戦派を抑えて朝廷へひたすら恭順した。
彼は鎌倉時代と違って教養時代の人だ。しかも実家の水戸家は朱子学が家学。武家には珍しい尊王賤覇の思想である。王家を尊び、朝敵となることを最も忌避する。彼にとっての歴史上の悪人は足利尊氏だ。
後醍醐天皇の建武の新政から離反して反旗を翻した。太平記や大日本史で尊氏は長い間、朝敵の代表的な人物となった。慶喜は尊氏のように後世に賊名を残すことを恐れた。

義時ら東国武士団は、後世の人尊氏を知らないし、太平記も知らない。
知っているのはついこの前に義経や頼朝まで征討の院宣が出されて朝敵になったことである。と同時に、勝てば征討令など立ちどころに取り消されることも彼らはよく知っている。

 


 

ではもう一つの恐怖。朝廷の切り崩し工作はどうだったのか。
後鳥羽上皇は、三度の飯より政治好きだったようで、多くの在京御家人や鎌倉に連なる縁者の切り崩し工作を行っている。

鎌倉殿の13人の一人、大江広元の嫡男は京にいて後鳥羽に与した。
また、13人の一人、和田義盛の甥が西面武士(院の親衛隊)にいて、三浦義村の弟・胤義を倒幕計画に誘った。胤義は兄・義村を味方に誘った。もし味方すれば日本国総追捕使に任命する、という約束で。全国の警察・軍事権を持つ官職だから大層な恩賞だ。
義村は食えぬ男だ。実朝暗殺の黒幕説さえある。誘いに乗ったのかもしれない。

義時にしてみれば、不安だったに違いない。父・時政の配下としてその手はずいぶんと血濡れている。幕府権力の維持のため仲間も斬った。
三浦義村の動向も絶対安心というわけでもない。後ろから斬られる悪夢でうなされたことも一度や二度ではない。
しかし、彼も義村以上に食えない男だ。何もなかったように泰然としていたはずだ。

幼子ではあるが次期将軍予定者の藤原三寅が鎌倉に下ってきている。彼は頼朝の姉の遠縁だ。北条政子が後見している。
義村が義時を裏切る時は、鎌倉の支配者になる時以外にはない。
後鳥羽が、いくら総追捕使に任じたところで鎌倉の執権にならなければ意味がない。政子も葬らなくてはならない。東国武士団にとって鎌倉幕府は公有物だ。そうなれば、義村は権力の簒奪者として葬られるだろう。

義時はそこまで読んだに違いない。だから、義村は裏切らないと。
義村も同じ計算をしただろう。勝負は今ではないと。

さて、鎌倉殿の13人のうちの大江広元三善康信は元は朝廷に仕える役人だったが、和戦いずれかを決する最終局面において、2人して積極的出戦論を吐いた。

「朝廷や公家は、所詮は強いものに靡きますぞ。我らは都でその光景を何度も見てきました。彼らがここまで攻め込めるはずもありません。戦さになれば我らの勝ちは間違いないのです。勝てば官軍ですぞ。」

結果として、一時は後鳥羽上皇によって朝敵にはなったが、広元らが言うように幕府軍が勝利し、後鳥羽とは別系の皇子が即位し後堀河天皇となる。

京都出撃に決し、集まった御家人を前に将軍代行の北条政子は有名な大演説を行った。
御家人の情に訴えて団結の効果は抜群だった。
ただ、御家人たちは教養主義者ではない。大義や情で決して転びはしない。誰が我が一所を、守るのか。
後鳥羽が要求した地頭交替を是とするか非とするか!非であるなら答えはひとつ。戦の一字だ。

義時がこれほど強気に後鳥羽上皇を拒み、朝敵となるを辞さないのは、自分の行動が東国武士団の利益だからである。
時政追放に次いで、こうして義時は生涯2度目の難局を乗り切った。
義時は、姉・政子を立てて、影法師のまま政子より1年早く生を終えた。62歳、無官だった。
ちなみにその後、三浦義村は義時、政子の死後も忠実に将軍に仕え幕府宿老として天寿を全うした。

大河ドラマでは、小栗旬が北条義時を演じる。

さて、食えぬ男、三浦義村はいったい誰が演じるのだろう。



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