井伊に宿る数奇①〜直政が赤鬼になった理由〜 | 天地温古堂商店

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徳川家康の家臣団にあって、井伊直政は異質である。

徳川家康の譜代といわれた家臣団は、その古さから松平郷譜代、安祥譜代、山中譜代、岡崎譜代の4つに分けられる。


徳川四天王のうち、酒井忠次は松平郷譜代、本多忠勝、榊原康政は安祥譜代で、譜代家臣の中では最古参だ。

しかるに、井伊直政。
これらの中には含まれていない。
彼は完全に新参者だ。

井伊直政と家康の出会いは、1575(天正3)年2月15日というから、家康の歴史からすると、すでに桶狭間の戦いも三方ヶ原の戦いも終わっている。
信長と家康の連合軍が武田軍に勝利した長篠の戦いの3ヶ月ほど前のことだ。

井伊氏は元来、今川氏の家臣である。

今川義元が桶狭間の戦いで戦死、跡を継いだ氏真は凡庸。
井伊氏は今川派と徳川派に分かれ、直政の父は今川派の手によって殺されてしまった。
実質的に井伊家は滅亡したのだ。
幼少の直政(幼名・虎松)を養育したのは、大河ドラマで有名になった女城主・井伊直虎だ。

男子の血は根絶やしにされる。
直政は今川から命を狙われていたため、直政の実母ひよは徳川氏の家臣の松下清景に再嫁し、直政を松下氏の養子にしたという(井伊家伝記)。


井伊直政像

直政は、松下虎松として、鷹狩りに出かけた家康に浜松城下で出会ったのである。 

幕末、渋沢栄一は仕官を実現するために、騎乗の一橋慶喜を待ち伏せし、馬前に飛び出して仕官の口上をしたとか。

直政もそうだった。
直政には、井伊家再興がかかっている。

家康の家臣となるには、まずその目に留まるようにしなければと考えた。

直政は、青龍・朱雀・白虎・玄武の神獣を描いた旗を持ち、直虎とひよがあつらえた着物を着て家康の前へと現れた。

家康は、一目で直政の容姿に魅了されたようだ。
井伊直政はイケメンだったのだ。

徳川がまだ松平と名乗って今川氏に属していた桶狭間の戦いのとき、直政の祖父は家康とともに先鋒を務めていた。
また、直政の父は家康との内通を疑われて今川に誅殺されていた。
家康にも直政を不憫に思うところがあったのだろう。

そなたの祖父を覚えておるぞ。
我が徳川のもとで、井伊の家を再興するがよい。


とでも言ったのだろう。

直政は井伊氏に復することを許され、名を井伊万千代と名乗った。
さらに旧領である井伊谷の領有を認められ、家康の小姓として取り立てられたのだ。

その頃の家康は武田勝頼と戦っていた。

初陣は18歳。
駿河・田中城包囲戦だ。

井伊万千代直政ことし十八歳初陣なりしが、真先かけて手勢を下知する挙動。天晴れ敵味方の耳目を驚かす(東照宮御実紀)

とあるから、部隊長として抜群の武功があったのだろう。
武田との攻防戦の中で、直政は頭角を現し、やがて四天王の一人と目される基礎を築いていった。


1582(天正10)年、武田家の滅亡、本能寺の変があった。直政は、小姓として家康の伊賀越えの逃避行に随従している。
この年、直政元服。

家康は同年、甲州を北条氏と争うもこれに勝利し支配下に置くことに成功。
直政は家康に指名され使者として北条との和議に成功。家康は甲斐信濃を得た。

家康は甲州を得て精強な甲州兵の大量採用を行った。これは家康の飛躍に非常に大きかった。
家康はこの武田の特別な精兵をもって一部隊を編成し、直政に率いさせた。

武田の赤備え

武田信玄率いる武田軍の赤備えを最初に率いたのは飯富虎昌で、騎兵のみからなる騎馬部隊として編成された。

信玄は、自らの槍働きで稼ぐしかない各武将の次男三男たちを赤色で統一した赤備えの部隊に組織化。全軍の切り込み隊として機能させた。

百戦錬磨で命知らず。抜群の機動力を持つ高速兵団。
その赤備えを家康は井伊直政に与えたのだ。

直政は22歳。
武勇にすぐれ外交もこなす有能な士だとしても、新参者の元服直後の若者に、いきなり外様の最強兵団を任せるには無理がないか。

鋼鉄の理性の持ち主・家康がどうしたものか。
しかし、つまりはこういうこともあるのだろうか。

井伊直政について、

容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い

との記録がある(徳川実紀)。

 

家康は男色の趣味はなかったはずだが、「親しく寵愛」とあるくらいだから、いつの頃か特別な感情を抱いただろうか。

 

家康とのことを続ける。
家康は自分の屋敷の庭近くに直政の居宅を作らせて折々通っていた(徳川実紀)ともいうし、甲陽軍鑑には「万千代(直政)、近年家康の御座を直す」とある。
御座を直すとは、主君の伽のお相手をすることだ。

家康に情実人事はないと確信しているが、諸臣を出し抜いても構わないと思わせる、すごい奴で素敵な奴だったのだろう。

 

浜松城


以前、石川数正の稿でも触れたが、家康の三河武士団は郷党意識がきわめて強い。
直政はいわばよそ者で岡崎譜代でもない。

元来、三河人は閉鎖的な郷土意識がつよく、また離合集散が常のようにしておこなわれるこの戦国にあってまるで鎌倉期の御家人のように主家への忠誠心がつよく、功利性が薄いが、その半面、風通しがわるく、よく結束した集団にありがちな陰湿な翳が濃い。
(司馬遼太郎「覇王の家」より)

 

案の定、嫉妬はある。

家康は、赤備えの件を家老の酒井忠次に、

 

直政に付属せしめよ。

 

と命じた。

 

忠次は家臣団の首相格だ。仰せのままにとこれを行政化しようとしたが、榊原康政が噛みついてきた。

 

甲州人を半分ずつに分けて、おれと直政に付属させるのが当然なのに、直政ひとりに預けられたのは、残念至極。

この康政がどうしてあの若造に劣ろうか。

これから直政と出会ったなら刺し違えて死のうと思い、今生の暇乞いにやってきたのだ。

 

すると忠次、

 

そなたはなんという馬鹿者だ。殿をはじめ甲州人はこのわしに預けようとおっしゃられたのを、わしからお勧めして直政に付属させたのだ。

それを聞き分けずに、つまらぬ振る舞いに及ぶようなことがあったら、殿に申し上げるまでもない。

そなたの妻子や一族を皆殺しにしてくれよう!

 

と怒鳴りつけたので、康政も驚いて引き下がったという。(武功実録)

 

若くして急速に出世し、ほかの徳川家臣たちから妬まれやすかった直政にとっての生きる道は、御家のために無私に徹することと、自身と自身の部隊を圧倒的に強い兵団に鍛え上げることだったろう。

 

直政は、それを実践した。


通常、大将は陣の奥で指揮をとる。

が、直政はいざ戦がはじまると単身で敵に突進した。


井伊の部隊は常に大将みずからが功を狙って先陣を切るという恐るべき部隊なのだ。
長い槍を振り回しながらがむしゃらに突進し、敵に混乱を生じさせるのだ。


大将の印をつけて最前線で戦うので敵のターゲットになりやすいが、直政はこの戦法で一度も負けていない。だから、重武装だったにもかかわらずいつも生傷が絶えなかったという。
 

直政の武勇は確かに半端ではない。

 

その赤備えの名を世に知らしめたのは、1590(天正18)年の小田原攻めだった。

直政は鉄砲を撃ちまくり、負傷しながらも「えいさ!えいさ!」と叫びながら攻め続けたという。

当時、難攻不落とされた小田原城において、砦の内部まで攻め入ったのは直政だけであった。


直政は敵から

 

井伊の赤鬼

 

と怖れられるようになる。

 

直政は部下にも厳しかった。

些細なミスも許さず、手討ちにすることも多かった。

直政の家臣は、ほかの家の家臣から「まだ斬られずにお過ごしですか」とあいさつされるのが当たり前になっていったという。

 

常在戦場。

 

直政は自身にそれを課していたが、部下にも課した。

井伊はよそ者、家康の囲われ者と白眼視されないため、「鬼」にならなければならなかったということか。

 

『関ヶ原合戦屏風』に描かれた井伊  Wikipediaより

 

関ヶ原の戦いでは、途中まで東軍全軍の軍監を務めていたが、戦さが始まりその役目から解放されると、井伊の本隊を部下に任せ、自分は初陣の松平忠吉(家康の四男)を最前線に案内して,手柄を立てさせようとした。

 

先鋒の福島正則隊を追い越し、勇猛にも二人は西軍の真っ只中に突入して奮戦した。

 

やがて、500騎を連れた島津義弘が敗走していくのが見えた。

直政と忠吉はこれを追った。

島津勢は有名な捨てがまりという戦法で応戦し、多数を失いながらも、義弘は虎口を脱した。残兵わずか80余。

 

この戦闘で忠吉は薩兵の槍に突かれて負傷。

直政も鉄砲で撃たれて落馬。出血多量のため一時気を失った。

 

やがて忠吉は布で肘を包んで襟にかけ、直政も腕を括って首にかけ、家康の前へ出た。

忠吉は我が子である。

 

家康はどうしたか。

 

家康は忠吉には、

 

おお、怪我をしたのか。

初陣の働き、見事であったぞ。

 

と褒めた。

一方,直政には、

 

薬箱、薬箱!

 

と叫んだという。

そして、自ら膏薬を傷口に貼ってやった。

 

この様子を見た者は、

 

薄手とはいえ我が子が傷を負ったのには驚かれた様子もなく、直政の負傷のほうを手厚くいたわったのは、さすが名将のお志。

凡人の及ぶところではない。

 

と感じ入ったという。

 

国宝・彦根城 彦根商工会議所ホームページより

 

 

直政は腕力だけでなく交渉力にも秀でていた。

関ヶ原の合戦の時には西軍の武将を仲間に引き入れる交渉役を担った。

勝負の行方を決めたといわれる小早川秀秋を仲間に引き入れたのも、直政の手腕によるところが大きかったといわれている。

 

この戦いの功により、直政は高崎12万石から、近江・佐和山に移封(のち彦根ヘ)、6万石を加増された。

譜代筆頭に立ったのである。


しかも佐和山・彦根は畿内の入り口であり、交通の要衝。

井伊は、西国探題の役割も担わされた。

 

そして井伊の赤備えは、徳川軍の強さの象徴となった。

大坂の陣以降、「譜代の先鋒は井伊、外様の先鋒は藤堂」が、徳川の軍法になったのだ。

 

また、徳川幕府で大老職に任じられる家は、酒井と井伊に限られている(のち土井と堀田が追加)。

 

赤備え、先鋒、西国探題、大老職。

井伊家とその軍団は、徳川家臣団のどの譜代とも異なっている。

 

井伊家とその軍団の特異さは、そのまま直政の特異さを起源としているといえよう。

 

その直政。

関ヶ原の戦いのわずか2年後、鉄砲傷が原因で42歳で世を去った。

 


直政の家康への思いは一途であった。

縁の薄い新参者が、古参の者に認められるほどの圧倒的な実績を残し、主家には絶対的な忠誠を尽くすものの、結局は満身創痍の末、戦傷がその若い命を奪ったのである。

 

生死の事大 無常は迅速なり。

 

生きるか死ぬかは重大なことであり、人として生きる今でなければ悟りを開くことはできない。過去や未来ではなく、人として生きている今が最も大切だ、という直政の言葉である。

 

常に先頭に立って危険を顧みずに戦った。

赤鬼として、誰よりも死と隣り合わせに生きた。

いや、生きざるを得なかった男の数奇に、心からの祈りを捧げたい。