武士(もののふ)誕生~鎌倉権五郎の荒ぶる魂~ | 天地温古堂商店

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武士は平安時代に発生し、その軍事力をもって貴族支配の社会を転覆し、古代を終焉させたという。

 

 

阿倍比羅夫や坂上田村麻呂など古代の武人というものもあるが、いわゆる武士(もののふ)の祖型とはどのような者だったか。

 

有名な「平家物語」に気になる話がある。
源頼朝が東国武士団を率いて西上し、平維盛が西国武士団を率いて東下し、富士川で対陣する場面がある。

 

平家方の大将平維盛は、東国武士の戦いぶりを知るため、陣中にその人を探した。

斎藤実盛(1111〜1183)という武蔵国熊谷辺りを本拠とする者が呼び出された。平家方では強弓で名高い歴戦の武者である。
維盛によるヒアリングが始まった。

 

実盛よ、お前は東国に詳しいそうだな。

お前のような張りの強い弓を使うものや、精鋭の武士が、坂東八カ国にはどれほどいるのだ。

 

実盛はあざわらうようにして、

 

わたしが強弓などとんでもない。

もののふならばあのくらいの弓は引くもの。

東国ではもっと強い弓を引くもののふが大勢おりますよ。

 

維盛はやや気圧されつつ、さらに戦いぶりについて尋ねると、実盛は言う。

 

西国では戦さをして親が討たれれば僧をよんで供養をし、子が討たれれば嘆いて戦さを休む。

関八州ではそうではありませんよ。


この後のひとことは、古語のままがふさわしいように思う。

 

親も討たれよ、子も討たれよ、死ねば乗り越え乗り越えたたかふ候。


源平の戦いは、源氏と平氏の権力争奪戦ではなかったことは、周知の事実である。
東国武士たちが源氏の棟梁を旗頭にして、貴族と貴族化した武士階級から、土地と財産、公民権を奪取獲得する武力闘争だったのだ。

もっと言えば、源氏の旗をもって法皇から平家追討の院宣を戴き、東辺の賊にならずに闘争を続ける必勝の一策だった。

闘争を続ければ、勝つ。

 

親も討たれよ、子も討たれよ、死ねば乗り越え乗り越えたたかう武士団などこの時の日本には、彼らしか存在しなかったのだから。

 

斎藤実盛が生きた平家物語の時代、12世紀後半より以前に、武士の祖型に会うことができる。
ただ、その姿は歴史の中では、ほんの一瞬でしかない。

 

鎌倉権五郎景正という人がいる。

 

平安後期の人で源頼朝より半世紀ほど前の世に生きた。
桓武平氏の裔で、有名な平将門の叔父・平良文の5世の子孫が景正である。

 

鎌倉権五郎景正 「絵本写宝袋武者尽」より 写真引用Wikipedia

 

頼朝の先祖の八幡太郎義家の活躍した時代で、義家は奥州の清原氏の内紛につけいり、東国武士たちを動員して遠征した。
その様子は「奥州後三年記」にわずかに現れるのみだ。

 

鎌倉権五郎も従軍した。

この頃はまだ16歳に過ぎなかった。


彼らは今の秋田県横手のあたり金沢柵という清原家衡のこもる城柵を攻めた。
義家は配下の武士に号令し、城門に向かって正面攻撃を仕掛けた。城頭には清原家衡方の弓の名手たちが楯を並べ、矢を揃えて待っている。

こんな状況下で寄手の先頭に立つというのはよほどの勇者でなければならない。


先陣を争ったのは三浦為継と鎌倉権五郎で二人はいとこ同士だった。
矢は当然ながらこの二人に降り注いだ。

この時、相手の放った矢が景正の右目を射抜いて頭部を貫通し、鉢付の板にまで達した。

 

普通ならば、これで終わりだ。

死なないまでも戦線離脱であるが、このあと尋常でないことが起きる。

 

権五郎は矢を抜こうともせず、相手を射返して倒し、さらに戦って本陣に引き返した。

その様子を見て三浦為継が気遣い、あとを追った。

権五郎は馬からずり落ちて倒れた。

 

為継は矢を引き抜いてやるべく、権五郎の顔の片方に土足をのせ、矢をつかみ、踏ん張ろうとすると下の権五郎がにわかに刀を抜き、下から為継を突こうとした。為継は飛びのいた。怒ったのは権五郎の方だった。

 

面を踏むな!

 

景正がいふやう、「弓矢にあたりて死するはつはものの望むところなり。いかでか生きながら足にてつらをふまるる事あらん。しかし汝をかたきとしてわれ爰(ここ)にて死なん」といふ。

 

矢に当たって死ぬるは、武者の本懐だが、生きながら面を土足にかけられることなどあってよいことか。

いまからはお前こそが敵だ、死ねっ!

 

為継は謝り、権五郎のそばに膝をつき片膝をもって権五郎の片頰をおさえ、やっと矢を引き抜いた。

その間、権五郎は声をあげなかった。

 

何という価値観だろう。

生への執着のなさ、命の軽さ、そして、強烈な自尊と廉恥。

そんなに恥ずかしい俺なら生きていたくない。辱めたお前を殺して俺も死ぬ、と言うのだ。

 

おほくの人是を見聞。景正が高名いよいよならびなし。

 

そして、鎌倉権五郎景正に関する記述はそこで終わっている。
その後、権五郎がどのような生涯送り、いつ死んだかなどは少しも伝わっていない。

 

歴史は時として冷酷だ。
権五郎は、この歴史の一瞬に稲妻のように大閃光を放ち、次の瞬間に闇が来て、彼の姿を私たちの前から消し去ってしまう。

 

しかし、私たちはこの一幕の記録があることで、武士の祖型を彼に見ることができる。

 

権五郎はいま、神となって鎌倉の御霊神社に眠っている。江ノ電の車窓からも見ることができる小さな社である。

 

ついでながら、いとこ同士の鎌倉権五郎景正と三浦為継。権五郎の子孫には、梶原景時がいる。

また、三浦為継の子孫には三浦義澄がいる。いずれも、鎌倉殿の十三人のひとりで鎌倉幕府の重要人物だ。
さらに権五郎の血脈は遠く上杉謙信へ繋がっている。

 

梶原景時や三浦義澄ら東国武士たちの多くが、幼いときに家族でいろりを囲んで憩う時、父からは「後三年の役の折の権五郎おじはな、右眼を貫いた矢に少しも怖じず……」などとよく聞かされてきたのであろう。

 

東国武士が平家を倒すはずである。