梶原景時・悪名の正体①〜頼朝への尽忠〜 | 天地温古堂商店

天地温古堂商店

歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

江原真二郎という俳優がいる。
私にとって、江原真二郎といえば、梶原景時。梶原景時といえば、江原真二郎だ。

大河ドラマ「草燃える」(1979年)ではこの方が梶原景時を演じたのだが、まさに景時のイメージぴったり。素晴らしい演技だったことを覚えている。

再来年の大河では中村獅童が演じるという。まことに大役を射止めたものだ。

 

梶原景時像(萬福寺蔵) 鎌倉手帳HPより

 

ところで、後世の梶原景時の評判はすこぶる悪い。
古い川柳に、
『梶原は ふたことめには あなを言い』
というのがある。「あな」とは、他人の悪口のことだ。

『御夜詰めに 梶原が出て 大さわぎ』

とあるのは、ゲジゲジ虫のことだ。例えとはいえひどい。
また、
『梶原と 火鉢の灰へ 書いてみせ』
というのもある。
「また嫌な奴が来たわよ」と言いたいのを、言わずにそうすることでさりげなく教えている、というのだ。
梶原景時は、日本史上屈指の佞人讒者になっている。

違う見方もある。
鎌倉時代の僧・慈円は「愚管抄」の中で、梶原景時のことを「一の郎等」「鎌倉本躰の武士」と書いている。鎌倉武士随一の武士と称賛しているのだ。

鎌倉殿の十三人とは、鎌倉幕府において、源頼朝の死後発足した集団指導体制で十三人の合議制の構成メンバーのこと。
十三人の中で、私が最も興味を持っているのは、断然、梶原景時である。

梶原景時は、武士(もののふ)誕生の稿で書いた、鎌倉権五郎景正の曾孫である。
そもそも梶原景時は、歴史への登場の仕方からしてかなり劇的だ。

景時は、源頼朝の生殺与奪を握っている者として、戦場に甲冑姿で登場する。

1180(治承4)年8月17日、源頼朝は伊豆国の目代・山木兼隆を攻め討ち果たすと、相模国の豪族三浦氏と合流するために石橋山に陣を敷いた。しかし、合流に失敗し孤軍となる。
景時と同族、相模国の大庭景親(平家方)を中心とする3000騎とその10分の1ほどの少数の頼朝勢。
鎧袖一触、頼朝勢は敗北、散々に潰走して生き残った者は山中に逃げ込んだ。

残党狩りをする大庭勢から逃げ隠れようと、頼朝は土肥実平らごく少数でとある巨木の洞に身を隠す。
しかし、頼朝はあっけなく大庭勢に発見されてしまう。

頼朝生涯における最大の危機だ。
捕縛されれば、大庭景親らの前に引き出されて、その生を終えることになろう。
いや、名こそ惜しけれ、その前に自害するだろうか。

 

石橋山古戦場 写真 Wikipediaより


源平盛衰記にはこうある。 

大庭景親が兵を率いてやってきて巨木の前まで来て、

たしかに佐殿(頼朝)はここに来られたに相違ない。この大木こそ怪しい。中に入って探すのだ。

すると傍らにいた梶原景時が進み出て、

心得た。我らが探そう。

弓を小脇に挟み、太刀のつかに手をかけて洞穴に入ったところ、頼朝と真っ向から顔が合ったのである。
頼朝は万事休す、と思ったろう。

自害しようと刀のつかに手をかけた。
何を思ったか、敵方である景時は、

しばらく待ちなされ。お助けいたします。
佐殿、もしこの戦さに勝たれたなら、拙者のことをお忘れあるな。

もしも、敵の手にかかりなされたならば、草葉の陰までも、拙者の武運を祈っていてくだされよ。

そうささやいて、身を翻して外へ出て、洞の入り口に立ちふさがり、外に向かって大音声をあげた。

ここには虫一匹おらぬ。コウモリがたくさん騒いでおる。
やあ、真鶴の方に武者が七八騎見える。あれは佐殿ではないか。


しかし、大庭景親は、

あれは佐殿ではない。どう見てもこの洞が怪しい。儂が入って探してみるわ。

と、洞に進もうとするや、景時は洞の前に立ちふさがったまま、刀のつかに手をかけて怒鳴った。

我らが見て、いないと言ってるのに疑いあるか!さては我らを平家に二心ありと見たな。

疑われては立つ瀬がない。

男の意地も立たぬ。

入って探すなら探せばよい!

大庭は心残りではあったが、その場を立ち去った。
景時に対する頼朝の信任この時に始まったと言っていい。
景時のこの裏切りを利害打算と見るべきか。
源平盛衰記には、「景時あはれに見奉りて」とある。ごく自然に敗残の頼朝に情け心が湧いたのであろう。


また思うのだが、景時は大庭と領地も隣り合う同根の同族だ。

東国武士団の多くは源頼義・義家以来、その家人として従ってきたが、大庭は他の武士団との対立関係から平家とのつながりが強かった。

 

源義朝の敗死と頼朝の流刑により、平家の世になると関東では大庭景親が威勢を張った。景時は立場上これに与することになるが、頼朝を頂点とする東国武士団による東国政権への羨望や期待が、心のどこかにあったのかもしれない。

ともかくも頼朝を死の淵から救ったのは景時だ。頼朝が景時に感謝したことは間違いない。
劇的登場とはこうしたことだ。

その後、再起した頼朝が鎌倉に入ると、翌年正月、景時は降服して頼朝と対面。
吾妻鏡には、「仰せにより初めて御前に参る」とあるから、頼朝の方からこの日に会おうと言ったのであろう。

文筆を携えずといえども言語を巧みにするの士なり。もっぱら賢慮に叶う。

と、あるから学問を深くおさめてはいないが気の利いた言葉遣いをする人物だという印象だ。頼朝好みの男だったのだろう。
景時、42歳。

その後、景時は鶴岡八幡宮や頼朝の殿舎の造営奉行になったり、頼朝の長男の護身刀の献上者に指名されたり、随分と厚遇されている。
 

絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵) 写真 Wikipediaより


上総介広常という男がいる。

上総介広常は、上総・下総二ヶ国に所領を持ち、大きな勢力を有していた。
東国武士団にあって最大級の兵力だ。

頼朝が、石橋山の戦いで敗走ののち安房国で再挙を図ると、広常は上総国内の平家方を掃討し、2万騎の大軍を率いて頼朝のもとへ参陣した。
場合によっては頼朝を討ってやろうと心中に二心を持っていたが、頼朝の毅然とした態度に「害心を変じ、和順を奉る」(吾妻鏡)とある。

東国武士団の中で、飛び抜けて大きな兵力を有する広常は、無礼な振る舞いが多く、頼朝に対して、

我が上総家は、三代にわたり、何人に対しても下馬の礼などとったことがない。

と言って、頼朝に馬上手綱をもって身をかがめるだけだった。
また、他の御家人に対しても横暴な態度で、頼朝から与えられた水干のことで岡崎義実(三浦義明の弟)と殴り合いの喧嘩に及びそうにもなった。

1183(寿永2)年12月、その広常が謀反を企てたとして、討ち取られたのだ。

 

嫡男は自害し、上総氏は所領を没収され千葉氏や三浦氏などに分配された。
この後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔したという。
しかし、のちに頼朝は後白河法皇に、言っている。

上総介広常は私のためには大功のある者で、私が東国を従えることができたのも、この者のおかげです。
しかしながら、この者は私がいつも朝廷の威光を畏れているのを、そうまで朝廷を気にすることはない。関東を拠有して堂々と構えているのだから、誰がどうすることができましょう、とよく申しました。
このように朝廷に対して臣下として不正な心の者でしたので、誅殺したのです。

(愚管抄)

朝廷のために誅殺したとは、かなり都合のいい理由だ。むろん、頼朝の本心ではない。

広常の傲慢な性格も本人にとってはマイナスだったが、どのみち頼朝にとっては邪魔になるべき存在だった。

上総介広常の殺害を命ぜられたのは、梶原景時である。

景時は広常を相手に双六を打ち、遊戯の最中に盤を飛び越えて斬りかかり、見事に首をとった。

梶原太刀洗水 写真 Wikipediaより 

 

なぜ、討手は景時なのだろう。
この後のふたりの関係を見ればわかるのだが、頼朝にとって景時は特別な存在になりつつあるのだ。
景時は武勇の者ではあるが、単なる武辺者ではない。冷静沈着で知能的な人物だ。

北条や三浦も、頼朝を棟梁と仰ぐ東国武士団の共同利益体の中の自分ということを、漠然と理解していたとは思うが、景時はより明確により巨視的に見えていたのではないか。

東国武士団の共同利益体が、数年後の鎌倉幕府なのだから、景時は誰よりも早い段階で、組織の忠誠者として考え、行動していた。

当然、頼朝は棟梁だ。その自覚がある。

その意味で、景時は頼朝にとって「一の郎等」「鎌倉本躰の武士」だ。

傲慢な広常のこと、頼朝が第一の信頼を置く、そんな景時だから会ったのだろう。


佞人讒者というが、景時にその風貌など微塵もない。

 

 

鎌倉殿の13人:中村獅童が7度目の大河ドラマ 御家人筆頭・梶原景時役 - MANTANWEB(まんたんウェブ)三谷幸喜さんが脚本を手掛け、小栗旬さんが北条義時役で主演を務める2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の新キャストが、公式ツイッターで11月20日に発...リンクmantan-web.jp

 

 

【鎌倉殿の13人】佐藤浩市、上総広常役で出演 『新選組!』以来、4回目 | 山陰中央新報デジタル2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(作:三谷幸喜)の第二次出演者発表が15日、公式ツイッターなどで行われ、俳優の佐藤浩市 (東京都出身)が上総広常(かずさ・ひろつね)役で出演することが明らかになっ…リンクwww.sanin-chuo.co.jp