天の配剤というべきか。
梶原景時は、敗亡寸前の頼朝を死の淵から救い、また、東国武士団最大の兵力を持つ上総介広常の誅殺を実行して、頼朝から絶大な信頼を得た。
その直後、さらに頼朝を感心させる出来事が起きる。
1184(元暦元)年正月、頼朝を頂点とした東国武士団は覇権争いに動き出した。
木曽義仲に圧勝した東国武士団のおもだった武将たちは、争って頼朝のもとに勝利の報告の早馬を飛ばした。
源範頼、源義経、安田義定、甲斐源氏の一条忠頼らの飛脚が次々と鎌倉に参着。
彼らはみな一様に、
去る二十日合戦を行い、義仲ならびにその一党を滅ぼしました。
とだけ書いて、それ以外は詳細が書かれていなかった。
少し遅れて景時の飛脚が到着した。
それには、討ち取った首、生捕りにした敵の名前や数、誰の手柄であるかなど詳しく書いてあった。
頼朝が欲していたのは、こうした報告だった。
景時の事務能力の高さもさることながら、東国武士団による利益共同体という組織による戦いであることと、その統率者としての頼朝が必要とする情報を景時はよく理解していたのだ。
報告を見るなり頼朝は、
景時の思慮、神妙なり!
と感嘆の声を上げたという。(吾妻鏡)
国立公文書館ホームページより
義仲、平家との争覇戦で、頼朝は総大将ながら、鎌倉を動かなかった。
頼朝は、独自の軍事体制をとったのだ。
それは、ふたりの司令官・軍監コンビによる二軍団制だ。
一つのそれは源範頼・土肥実平、もう一つのそれは源義経・梶原景時である。
司令官は頼朝の「身代わり」、軍監は頼朝の「眼代わり」を果たしている。
「身代わり」のふたりは頼朝の異母弟であり、源氏の血をひいていることで権威の象徴として戦地で武士団に君臨している。
一方、「眼代わり」のふたりは戦地における東国武士たちの討ち取った敵将などの手柄の数々だけでなく、失敗や懈怠、違犯なども記録して鎌倉の頼朝に報告した。権威に対して、これは権力の機能を果たす。
頼朝は、義仲戦の報告の精確さを見て景時に「眼代わり」役を決めたのだろう。
そうした視点で、このあとの義経と景時、身代わりと眼代わり、権威と権力を見ていくと、義経と景時の不幸なすれ違いがよくわかる。
なぜ、いくさに勝つだけでなく、眼代わりが必要だったのか。
綱紀粛正のためか。
それはそうだが、それだけではなかった。
子孫のために勲功を募らんと欲すの稿で書いたように、東国武士団を成立原理は「御恩と奉公」だ。
御恩とは、すなわち恩賞。
恩賞を与える権利は、唯一、源頼朝が有している。
しかし、西国では違っていて、機関としては朝廷であり、実質的な権利は院に帰する。
この時は後白河法皇だ。
1184年に、頼朝は宣旨を受け、東国の国衙領支配権を認められた。
平家との争覇戦では、限定的ながら頼朝の恩賞権が朝廷から認められたのだ。
そのためには、事実を精確に把握し、是は是、否は否と、中立公正に頼朝へ報告する者が前線に必要になる。
それが、「眼代わり」の役目であった。
その意味では、能吏のような高い情報力を持ち、検察官のように味方の行動を監視、検断できる景時は、頼朝にとって頼もしい勤務評定者であった。
義経と景時の対立は、有名な話だ。
ふたりは司令官・軍監という立場ながらことごとに対立した。
平家物語にこうある。
屋島の戦いに先立ち、景時は軍船に逆櫓をつける提案をした。そうしておけば、前後左右、自由自在に動けるという。
これを聞いた義経は、
戦の始めから、退くことを考えるとは呆れたやつよ。逆櫓をつけたい奴は百でも千でもつけるがいい。オレはやらないからな。
景時は苦い顔で、言い返す。
大将軍にあるまじき発言だ。進むのみで退くことを知らぬ。そういうのを猪武者というのだ。
御託を言うな。要は勝てばよいのだろう。
ふたりの語気は強くなり、険悪な雰囲気に包まれる。もはや軍首脳は脳死状態に近い。
義経にはこれ以前に、一ノ谷の戦いで鵯越の奇跡的な奇襲に成功して頼朝軍に勝利をもたらした自信がある。
また、この後の屋島の戦いでも荒天の海を小船で突っ切り、四国へ奇襲的上陸に成功。平家軍を海上に追い落とした。
結果から見れば、義経の勝ちだ。
壇ノ浦の戦いの時もひと騒ぎあった。
義経は、
オレが先陣でいくからな。
と言うと、景時は、
いいえ、あなたは大将軍(司令官)ではありませんか。先陣に立つような軽々しい振る舞いはやめていただきたい。
義経は景時をせせら笑いながら、
大将軍は鎌倉殿よ。オレはただの代官に過ぎない。お前たちと同列よ。
この言葉は、「眼代わり」として「身代わり」を支える自分にとってあまりに許されざるものだった。
なんということを仰せされる。大将軍ともあろうお方が。
言葉にはしなかったが、おそらく景時は、
それを言ったら東国武士団は一瞬にして雲散霧消だぞ。
と叫びたかったに違いない。
義経にも言い分はある。
屋島の戦いの勝利以来、とかく義経には独断専行のきらいがあった。
その都度、景時から「鎌倉殿にご相談あってしかるべし」と釘を刺された。
それに腹を立てた義経の嫌がらせが、この同列発言だ。
義経にしてみれば、
いくさは生き物で、鎌倉にお伺いを立てて返事を待ってたら敵は逃げるか、反撃に出てやられてしまうではないか。
第一、オレは奇跡的な戦いをして勝ち続けているんだそ。
といったこところだ。
景時は、違う。
大将軍は鎌倉殿よ。オレはただの代官に過ぎない。お前たちと同列よ。
これは「身代わり」の放棄だ。
確かに理屈はそうだが、この場面では梶原参謀としての意見具申を司令官が却下したという方が正しかろう。
この場合、景時の融通のきかなさと頑固さという短所が出た。あるいは頼朝からの信頼に慢心したか。
軍事的天才ではあるが政治的幼児である義経とコンビを組んだことはお互いに不幸というべきで、嫌悪の連鎖がこのあともエスカレートしていく。
屋島の夕景
今度は義経がやり過ぎた。
ことは占領地行政のことである。
頼朝は占領地行政の処置について、四国は義経、九州は範頼と決めていたらしい。
しかし、義経は九州のことに容喙した。
さらに、1184(元暦元)年8月、義経は頼朝に断りなしに、左衛門少尉・検非違使に任官してしまった。検非違使は、警視総監の如きものだ。
明らかな規律違反だが、義経は源家の名誉であるから程度の認識だった。
景時は頼朝への報告書をして痛烈に義経を非難した。
義経殿は、御所様の代官として御家人たちを伴って西国に派遣されたにもかかわらず、今度の勝利は自分ひとりの手柄のように申しておられます。
しかし人々はみな、義経殿のためではなく御所様の命を受けて心を合わせて働いたのです。
しかし、平家討滅後は以前にも増して行き過ぎた行為が多く、人々は義経殿に心服する気になっておりません。
とりわけ景時は、御所様に近侍し御意向の程を承知してます。だから、義経殿の行動を見ていると、御所様のご意志と違うのでお諌めするのですが、激しくお怒りになって私を処罰しかねません。
もう戦いは終わりましたので、早く帰国のお許しを出してください。
と書いた。(吾妻鏡)
この報告書が、景時の讒言だといわれている。
源義経像(中尊寺所蔵) 写真 Wikipediaより
義経の独走はもう止まらなかった。
従五位下に叙せられ、後白河法皇のご座所へ昇殿が許された。
東国武士団のピラミッドの頂点が2つになったようなものだ。
もう立派な朝廷官僚の一員である。
景時は、この〝異常事態”を刻々と鎌倉に報告し続けた。
義経の先例によって、東国武士たちは続々と任官をしてしまう。
東国武士団ピラミッドは足元から土崩し始めた。頼朝が恐れたことが起きたのだ。
頼朝は激怒した。
義経は地雷を踏んだのだ。
1185(元暦2)年4月15日、頼朝は推挙を得ずに朝廷から任官を受けた東国武士に対し、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。
もう鎌倉には帰って来なくていいという解雇通告だ。
京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、腰越に留め置かれた。
義経は頼朝に対し、自分に叛意のないことを示した書状を送ったが、頼朝はこれを無視。
義経は虚しく京に引き返し、東国社会と決別せざるを得なくなった。
腰越から富士山を望む
1189(文治5)年閏4月30日、義経は奥州平泉で死んだ。
義経の首は6月13日に腰越に着き、首実検が行われた。検分役は、和田義盛と梶原景時だ。
首は黒漆を塗った櫃に入れられ、美酒にひたしていた。
吾妻鏡には、
観ル者ミナ双涙ヲ拭ヒ、両衫ヲ湿ホス(見る者皆涙を流した)
とある。
この観る者の中に景時も含まれていたかどうか。
室町時代末期頃から「判官びいき」という言葉ができた。
判官とは第三位目の職を指す言葉であり、義経が任じられた左衛門少尉が衛門府の第三位の職にあたるためこう呼ばれる。
判官びいきは、義経がいじめられたことこそその成立の根源であり、義経の専横ぶりを訴えた梶原景時や、義経追討の命を下した源頼朝という悪玉を対峙させて生まれた言葉である。
よくない政治をとる源氏将軍にかわって、世のため人のため、政務をとるようにしたのが北条氏であるという解釈を「吾妻鏡」はとっている。
創設者であり鎌倉武士の尊敬を集めていた頼朝についてはさすがに直接的に批判することが躊躇されたため、梶原景時を讒者とし、その景時を重用して義経を死に追いやったとして、読者が頼朝を批判することになるようにというきわめて高度なテクニックを用いたのだ、と指摘するのは歴史学者・奥富敬之氏である。
こう見ると、義経と景時の関係性において、景時が讒者であることは、特定の史観が生み出した作為とも言える。
このことは、景時にとってあらぬ汚名を雪ぐことになったのだが、景時は生涯の晩年に予想もしない大痛撃を喰らうことになる。