梶原景時・悪名の正体③〜独善の忠誠、その終焉〜 | 天地温古堂商店

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東国武士団の中で最強の武将をあげるとすれば、それは畠山重忠だろう。

性は沈毅謹直で、しかも清廉潔白。
戦いにあっては勇敢で怪力。
鵯越の逆落としでは馬を損ねてはならずと、馬を背負って坂を駆け下ったという。

秩父平氏の一族で、武蔵留守所惣検校職(大族・秩父平氏の家長にして武蔵国主)であった。
当然、関東武士団の誰もが一目置く存在である。

 

畠山重忠像  写真 深谷市ホームページより


その重忠が窮地に陥った事件がある。

平家滅亡から二年後の1187(文治3)年、重忠が地頭に任ぜられた伊勢国の荘園の目代(代官)が他領に侵入し狼藉をはたらいたのだ。
このことを重忠はまったく知らず、目代が勝手にやったことであったが、重忠は恐れ入って神妙にして沙汰を待った。


頼朝は、重忠の身柄を千葉胤正に預けて、囚人として遇した。
重忠の目代は捕らえられて処刑され、重忠の伊勢の荘園は取り上げられてしまった。


重忠は、部下の不始末からの囚禁を激しく恥じ、以後絶食すること七日間に及び、一切口をきかず端座して少しも動くことがなかった。


胤正は、重忠が、断食によって死のうとしていることがわかって、大急ぎで頼朝のもとに行き、その様子を伝え赦しを乞うた。

頼朝は感動した。

重忠は頼朝に謁してお礼を言って退き、武蔵の館に帰っていった。

しかし、話はこれで終わらなかった。
ある夜、侍所別当・梶原景時は頼朝に、

畠山は大した罪でもないのに囚人として禁足させられたので、これまでの大功も無いものとなったのだと、本拠武蔵の自らの館に引きこもり、反逆を企てているとの風聞がございます。
おりもおり、彼の一族はすべて武蔵に帰っています。

何やら怪しくはございませんか。

と言った。
この通りだとすると、景時はかなり猜疑心が強く、物事に否定的な性格だ。
他方、自分の所属している権力者だけを信じて忠誠を尽す。
現代でもこの型の人間は存在するであろう。

頼朝にしても、特異な青少年期を過ごしてきた。猜疑心は人一倍強い。


それもそうかと思い、重臣を集めて重忠を討つべきか審議した。
小山朝政が重忠を弁護し、一同同意した。


頼朝は、重忠の親友・下河辺行平を使者として派遣した。
行平から事情を聞いた重忠は悲憤して自害しようとするが、行平がこれを押しとどめて鎌倉で申し開きするよう説得した。

景時が、職務により取り調べることになった。


重忠は景時に、逆心など持っていないと申述した。
景時は、

逆心がないのなら、起請文を差し出されよ。

と言った。
さすがの重忠もムッとして言う。

私は源氏の世となり、御所様を武将の主と仰ぐようになってからは、二心など抱こうとは思わない。
然るにいま、この禍いにあった。
私は生来、言葉と本心とを違えないことを本領としている。

起請文など、言葉と本心が違う人間が、このことだけは偽りでないと違うためのものである。
私が言葉と本心が常に一緒の者であることは、御所様はご承知のはずだ。


景時は、起請文を差し出すように求めるが、重忠は「自分には二心がなく、言葉と心が違わないから起請文を出す必要はない」と言い張った。
 

これを景時が頼朝に取り次ぐと、頼朝は何も言わずに重忠と行平を召して、しばらく世間話をして過ごして、やがて奥に消えた。
が、すぐに近習を使って行平に太刀を与えて、重忠をなだめて連れてきた功に報いたという。

この一幕を見るに、景時の頼朝への忠誠は、空回りしたように思える。

 

鎌倉梶原御霊神社 鎌倉寺社めぐりホームページより


確かに景時は、頼朝から厚い信頼を受け、精確無比な仕事ぶりでそれに応えた。
想像するに、景時にとっての公とは、頼朝その人ではなかったのでないか。

生身の頼朝は、御所の執務の間に居る。

景時はしばしばここに参上し、報告し、上申し、承認を乞い、あるいは命を受けた。

そのとき景時は、上座の頼朝を見ているようで、実はその背後にある、例えていうと「頼朝大明神」がごときとものと問答していたのではないか。
つまりは景時にとって頼朝は、人でなく機関であっただろう。


景時は、機関である「頼朝大明神」の利害についてはよほど細心の注意を払い、いつも一毫も「頼朝大明神」に損をさせてはならず傷をつけてはならないと思っていただろう。

しかし、実際の頼朝は生身の人間だ。
しかも、生身の頼朝は人一倍猜疑心が強く、また、心身が潰えるほど後悔する質(たち)である。


以前に景時に誅殺させた上総介広常。


その後、広常の鎧から願文が見つかった。

そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文意であった。

頼朝は広常を殺したことを激しく後悔し、即座に広常の親戚の千葉常胤に預かりとなっていた一族を赦免した。

また、頼朝は弟の義経を奥州衣川に追い詰め殺したが、その翌年、平泉に藤原氏を攻め滅ぼしたあと、義経最期の地・高館義経堂を訪れ、堂内で弟を思い哀泣した。
ただし、これは大河ドラマ「草燃える」でのワンシーンだが、あるいはそうだったかもしれない。

頼朝は、このように猜疑心から不安に襲われて、ふと景時の声を聞き、おのれの内なる声と重なって、決断はするものの、時が経つと激しく後悔の念に駆られてしまう。


それが、生身の頼朝だ。

その姿をも多くの東国武士たちは見ているはずだ。
検察官のように検断する「頼朝大明神」とは、ずいぶんと乖離があった。



同じ年の3月のこと。


夜須行宗という男がいた。
土佐国の小領主である。

 

壇ノ浦の戦いの時、平家の家人数人を生捕りにした手柄を申し立て、恩賞を賜りたいと言ってきた。

これを聞いた景時は、こう言ってはねつけた。

あの合戦の時、まず夜須などという者はいなかった。生け捕って差し出したという平家の某らは自ら投降してきた者どもだ。
壇ノ浦からすでに二年が過ぎているぞ。今ごろそんなことを申し出てくるとは、良からぬ企みがあってのことに違いない。


行宗と景時の裁判となった。 
行宗は、証言する。

あの時、われらは春日部兵衛尉と同じ船に乗っておりました。

彼がすべてを見ております。

召喚してご下問くだされば明らかです。

頼朝は、春日部兵衛尉を呼び出して尋問させたところ、同船していたことと平家の某らをたしかに生け捕ったことを証言した。
 

景時の敗訴がきまった。


頼朝は夜須に恩賞を与えることを約し、景時には讒訴の罰として鎌倉中の道路を作るよう命じた。

記録にはないが、景時は、

自分には悪意はない、あるのは忠誠心のみである。

として、そんなことがあっても平然としていたのではないか。


しかし、畠山重忠の一件に前後して、この誤審は痛い。
周囲からは良識な者でも意地悪と見、敵性の者ならば奸悪と見るだろう。

 

 


結城朝光『前賢故実』写真 Wikipediaより

 

 

1199(正治元)年正月、頼朝が急逝した。


嫡子頼家が家督を継いだが、将軍独裁体制に対する御家人たちの鬱積した不満により、頼家はわずか3ヶ月で訴訟の採決権を奪われた。

代わって幕府宿老による13人の合議制がしかれ、将軍の実質的な権力はなくなった。

東国武士団ピラミッドの頂点は、頼朝のみに許されていたのだろう。
景時は頼家の乳母夫になっており、それを背景にして権勢を維持したかったが、頼家がそれを踏襲することを、支える武士団の総意が許さなかった。

ある日、結城朝光が、詰所で同座の侍たちに向かってこう言った。

忠臣は二君につかえずと申す。 

拙者は亡き将軍の御恩をとりわけ厚く被り申した。

ご死去の時、出家しようと思ったのだが、ご遺言があったので、それもできなかった。

いま世上を見るに、薄氷を踏むようだ。

頼家の心無い言動を目の当たりににしていた同朋たちは、同調してみな涙を流した。

これを聞きつけた梶原景時は、朝光の言葉を頼家に告げて、言った。

朝光は先君を慕う言葉に託して、頼家様を誹謗したのですよ。君を憎い敵だと思っているのです。人々への見せしめとして、早々に断罪なされませ。

しかし、景時は気づくべきだった。

この世に、もう頼朝はいない。
彼のこうした忠誠の発露は、頼家にではむしろ危険であった。

果然、これを御所に仕える阿波局が聞いて、朝光に告げた。

阿波局とは北条時政の娘で政子の妹だ。

結城朝光は、愕然とした。
 

親友である三浦義村のもとへ駆けつけ、このことを告げた。
畠山重忠の一件のこともある。
義村は憤然として、言った。

景時め、またそのような讒言を。

文治以来、奴の口先にかかって罪なくして死んだ者は数えきれぬ。

もう捨て置くわけにはいかぬ。

こうなると燎原の火と同じだ。


和田義盛、千葉常胤、三浦義澄、畠山重忠、小山朝政、結城朝光、比企能員、八田知重、安達盛長……。

御家人中の主な者66名による景時を弾劾する連判状が一夜のうちに作成された。

連判状は、政所別当・大江広元に提出された。

景時を惜しむ広元は、躊躇して連判状をしばらく手元に留めていたが、和田義盛に強く迫られてついに将軍頼家に言上した。

頼家は連判状を景時に見せて弁明を求めた。

が、景時は何の抗弁もせず、一族を引き連れて所領の相模国一宮に下向。

頼家は、乳母夫である景時を庇うことができず、景時は鎌倉追放を申し渡された。
 

景時は頼家の権力基盤であったが、これを守ることができなかった。

そのことはすなわち自らの政治的な死ということに、愚かしくも頼家は気づくことができなかったのだ。

もはや、景時の忠誠は頼朝の死とともに、完全に奸悪へと変質してしまった。
景時の失陥は続いた。

和田義盛、三浦義村が景時追放の奉行となって鎌倉の邸は取り壊された。
結城朝光の兄小山朝政が、景時に代わって播磨国守護となり、同じように和田義盛が美作国守護となった。

 

梶原山から見た静岡市の街並み

 


景時は、死ぬ。


1200(正治2)年正月20日、景時は一族とともに京都へ上る途中のこと。
駿河国清見関近くまで行ったところ、たまたま近くの武士が野外で的矢を射て遊び、帰る途中に遭遇。


いったんは行き過ぎたものの、「怪しいぞ、追え!」となり、壮烈な戦いとなった。

梶原景時はじめ一族は、ことごとく討ち取られた。

「吾妻鏡」によると、景時の京都亡命は、相当周到な計画によるものだったらしい。
景時は、朝廷から九州諸国の総司令に任命されたと称しての上洛であり、甲斐源氏の武田有義を将軍にすることを本人に承諾させていたという。


忠誠か、奸悪か。


梶原景時が、独り善しとした将軍への忠誠は、鎌倉の真新しくも、あまりに人臭く悍馬のような武士の世界には通用し得なかった。


もののふの 覚悟もかかる 時にこそ こころの知らぬ 名のみ惜しけれ

彼の辞世である。


梶原平三景時、行年六十一であった。



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