坂本龍馬と蝦夷地について触れる。
龍馬は蝦夷地の開拓を夢見ていたという。
きっかけは龍馬の勤王党仲間の北添佶磨からの情報だった。
五稜郭が築かれた理由にもある通り、蝦夷地には海獣の毛皮獲得を主たる目的にロシアが侵入しており、蝦夷地の防衛は急務だった。
そんな中、当時の箱館には徳川幕府のみならず全国諸藩から様々な人々が訪れており、北添もそのうちの一人で、1863(文久3)年5月に同志とともに蝦夷地を周遊して蝦夷地開拓を発案した。
京にあふれている浪士たちをそのまま蝦夷地に移住させ、対ロシアを意識した屯田兵と化し、治安回復、北方警備を一挙に行なえる計画だ。
このころ京に政変があり、勤王浪士たちにとって京は安全な場所ではなくなっていたのだ。
小説「竜馬がゆく」は坂本龍馬が主人公だから、北添ではなく龍馬が蝦夷地開拓の発案者になっている。
竜馬は清河八郎、真木和泉、武市半平太の遺産である勤王浪士たちの失業対策に頭を悩まさざるを得ない立場になった。
(まず、彼らの生命を新選組の白刃から救うには京を立ち去らさせなければならぬ)
国許へ帰ることを勧めるか。
それは不可能である。
竜馬自身が脱藩浪人だからよくわかっている。脱藩者は国へ帰れば罪人として捕縛されるのである。
帰れない。
その夜、竜馬は菊屋の離れ座敷の夜具の中にもぐり込んでから、
「そうだ」
と、はね起きた。
(北海道を開拓させよう)
屯田兵にするのである。
軍事組織にし、小銃、大砲なども渡し、いざ北辺の敵(ロシア)が侵略してきたときの防衛軍として使うのだ。
さらにまた、討幕の機が熟したときは、彼らを北方から呼び寄せて討幕軍に使うこともできる。
(できれば北海道を占領して勤王国家として一時的に独立させるのもいい)
この構想は、偶然にものちに榎本武揚が幕府側の立場で採用し、旧幕府艦隊と陸軍をつれて函館に上陸した上、臨時政府をつくった歴史として再現する。
※司馬遼太郎「竜馬がゆく」より
歴史上の坂本龍馬がそう考えたかはわからないが、確かに龍馬は蝦夷地に強い執念を抱いている。
龍馬の開拓実現に向けた最初のチャレンジは、1864(元治元)年6月初旬のことである。
京都の浪士を幕艦に乗せて蝦夷地を目指す計画を立てていたが、パートナーの北添佶磨ら土佐浪士が池田屋事件に含まれていたことから、龍馬はこれを断念した。
2度目のチャレンジはその2年後、龍馬は自ら立ち上げた商社・亀山社中で洋帆船「ワイルウェフ号」を購入し、この船での蝦夷地行きを計画したが、その船が暴風雨によって五島塩屋崎で沈没。その上、社中のメンバー12人も遭難死してしまい、頓挫。
3度目はその翌年、海援隊創設後、大洲藩から借りた「いろは丸」での試みは、紀州藩船に衝突されて沈没してしまいかなわなかった。
最後のチャレンジは薩摩藩の保証で購入した洋帆船「大極丸」での試みだった。
この船は支払いの問題から運航不能となってしまい、その後間もなく龍馬は宿願を果たせぬまま、その死を迎える。
龍馬の死は、1867(慶応3)年11月15日、暗殺によっておとずれる。
龍馬は、蝦夷地開拓、蝦夷地貿易の夢を果たせぬままこの世を去った。
奇しくも、この前後に龍馬のすぐ近くに箱館五稜郭に戦ったふたりの幕臣がいた。
そのひとりの名を、永井尚志という。
永井尚志(ながいなおゆき)。玄蕃頭。
三河国奥殿藩5代藩主・松平乗尹とその側室の間に生まれた。殿様の子である。
25歳の頃に旗本・永井家の養子となった。
永井尚志 写真 Wikipediaより引用
よほどの能吏だったのだろう。
幕閣で権力交代が起きても永井は外国奉行、軍艦奉行、京都奉行、大目付、若年寄と栄進する。
幕府では勝海舟と同様に開明派に属し、早々に幕府が立ち行かなくなるのを察知していた。永井は、大政奉還後の新政府で、将軍慶喜の地位や幕府の持つ軍、財産、権限にどう影響力を残すかに腐心していたのだ。
それと対極にいたのが、会津藩であり桑名藩であった。天皇が国の中心と考えつつも、同時に徳川将軍が天皇を補佐するのが正しい形と考えていて、それを脅かすものは敵と見ていたのだ。
その敵に対する実力部隊が、新選組であり見廻組だ。
龍馬は10月10日に永井と面談している。
将軍・徳川慶喜が大政奉還建白を採用するよう、側近である永井から働きかけて欲しいと説得に来たのだ。
龍馬いわく、
幕府の兵力で、薩長の兵に勝てると考えているのですか。
永井玄は嘆息しながら、
残念ながら勝算はない。
龍馬は畳み掛けるように、言う。
しからば土佐藩の建白を採用されるほかに道はないのではござらぬか。
永井がなんと答えたかはわからないが、結果として龍馬のいう通りになった。
永井ー将軍慶喜のラインが働いたのだろう。
1867年10月15日、大政奉還。
龍馬は死の4日前の11月11日、再び永井を訪ね、会うことができた。
龍馬は永井から危機的状況を感じ取ったらしく、友人林謙三あての書簡のなかに武力衝突の覚悟を垣間見ることができる。
大兄御事も今しばらく命を大事になされたく、実はなすべきの時は今にて御座候。
やがて方向を定め、修羅か極楽かに御供もうすべく存じ候。
※ 慶応3年11月11日 友人・林 謙三宛の手紙
命を賭けるときがいま、来たようだ。討幕戦が始まるかも知れぬが、その抗争の中で死ぬ覚悟だ、と言っている。
この時すでに、龍馬は、実現しようとしている無血革命が、どうやら流血革命になりそうなことを感じとっていた。
彼玄蕃はヒタ同心にて候。
それでも龍馬は、永井のことを「ヒタ同心」、ぴったりと心が合った同志だと言っている。
大政奉還の建白の時から、龍馬と永井は立場は異なるものの、無二の同志という信頼関係があったのだ。
箱館戦争 公益社団法人北海道観光振興機構ホームページより
龍馬の死後、時局は奔流のように急転した。
新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争に発展し、永井尚志も蝦夷共和国の閣僚の一人、箱館奉行となった。
箱館五稜郭の蝦夷共和国政府の海陸軍裁判役兼軍監という重役に、今井信郎という男がいる。
今井信郎 写真 Wikipediaより引用
慶応年間、京都にあって見廻組にいた。
今井は、戊辰戦争が終わった1869(明治2)年に、新政府による取調べでこう供述した。
坂本龍馬を殺害の義は、見廻組与頭・佐々木只三郎より差図にて(中略)きっと召し捕り申すべく、万一手余り候節は討ち果たし申すべき旨、達しこれあり。
自分は龍馬暗殺に関わっており、佐々木只三郎が暗殺を指示。7人の見廻組が実行し、自分は見張り役だった、という。
さらに、約30年後の1900(明治33)年、見張り役だったのではなく、「実は龍馬を斬ったのは自分だ!」と発表したのだ。
龍馬を襲撃したのは、佐々木只三郎、今井信郎のほか全員で3〜4名程度。見廻組であることがほぼ定説になっている。
見廻組は新選組と違って、構成員の多くは正規の幕臣から成る。
佐々木の兄は、証言する。
只三郎は見廻組の頭として在京していたが、某諸侯の命を受け、壮士二人を率いて、蛸薬師にある坂本の隠れ家を襲い、斬殺した。
※手代木直右衛門伝より
某諸侯とは、佐幕系の殿様だろう。
ただ、本稿ではそのことは他に譲る。
ただ、指令は手に余れば殺害だ。
龍馬が再三訪問した永井尚志の逗留先は、京都の大和郡山藩邸だったが、その隣が佐々木らの逗留先だったという。佐々木は、龍馬の挙動を知悉していたかも知れず、龍馬も不用心過ぎた。
いずれにしろ、龍馬は幕府の指名手配犯でありながら幕府の秘密警察本部界隈をウロウロしていたのだから。
本稿に主題というようなものは、ない。
蝦夷共和国政府の中に、永井尚志と今井信郎というふたりの幕臣がいた。
永井は、大政奉還と革命後の処理など龍馬の無二の同志だった。
一方の今井信郎は、多くの暗殺がそうだったように、指図によって動き、自らは単なる凶器にしか過ぎなかった。
指図者にしても、殺害対象に複眼的で巨視的な視点があったものではなく、殴ったら殴り返す的な行動の発露(乱暴な言い方だが)に過ぎない。
幕末の最終期にあって、龍馬に最も濃厚に影響したふたりが、同じ蝦夷共和国政府の閣僚にいた。
奇妙なまでの符合である。
一方、死んだ龍馬にとっては蝦夷地経営が悲願であり、何度もチャレンジしたがついに届かなかった。
縁がなかったと言うしかない。
今井信郎は、その後、クリスチャンとして生き、1918(大正7)年死去。享年79。
永井尚志は、新政府に出仕して開拓使御用係、左院小議官を経て、1875(明治8)年に元老院権大書記官に任じられた。
1891(明治24)年7月死去。享年76。
龍馬の家督を継いだ甥の坂本直は、キリスト教に帰依し、熱心なクリスチャンになり、同じくクリスチャンとなった龍馬の暗殺犯とされる今井信郎を龍馬の法要に招いたりもしている。
直の弟・直寛は高知にいて県会議員を務めていたが、1898(明治31)年に家族と共に北海道へ移住する。そこで、キリスト教伝道者としての道を選び、牧師となって軍隊や監獄での伝道活動や廃娼運動などに精力的に従事する。休む間もなく北海道各地を駆けめぐり、十勝監獄の囚人からは、キリストの再来と尊ばれるほど慕われたという。
龍馬の因縁のふたりは蝦夷共和国で戦い、龍馬の血脈も、詰まるところ北海道の土となった。
小弟ハエゾ(蝦夷)に渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ
一世の思ひ出ニ候間、何卒一人でなりともやり付申すべくと存居申候
※ 慶応3年3月6日 長府藩士・印藤肇宛の手紙
龍馬は、独りででも蝦夷地開拓をやりたかった。
その魂魄が、縁深き者や子孫を北の大地に誘わせたのだろうか。