子来の民 謳歌の輩 異口同辞に
号して平安京といふ
新しい都が出来たことを喜んで集まった人々や、喜びの歌を歌う人々が、異口同音に「平安の都」と呼んでいるから、この都を「平安京」と名付けることとする、と日本後紀は誇らしげに書いている。
平安京は、当時の山背国葛野・愛宕郡にまたがる地に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された、東京遷都まで約千年の長きにわたる日本の首都である。
桓武天皇は、平安遷都をなした天皇として不朽の存在だ。
平安京が千年の都であったという歴史的事実は、結果としてその創始者を偉大にする。
しかし、桓武天皇にとって、この山背国の一角が、身も心も疲労困憊して逃亡の果てにようやくたどり着いた地であったことを知っておくことも、あながち無駄ではないように思える。
天平年間、聖武天皇の頃、天然痘が猛威をふるい為政者たちも一気にその犠牲者となった。藤原不比等の子の四人の兄弟全員が罹患し死亡したのだ。廟堂には人材が激減し、元皇族の橘諸兄が政府首班となった、737(天平9)年。
この年、生涯栄達とは無縁のひとりの皇族が誕生した。
山部王という。
皇子・親王でもなく、奈良時代の皇統だった天武天皇の血筋でもなかった。おまけに母親の地位も低かった。
律令制では天皇の孫(二世)から玄孫(四世)までを王と呼んでいた。
山部王の父は、白壁王といった。この方も皇子ではない。白壁王の父でやっと皇子であった。志貴皇子といい、天智天皇の子。
山部王は天智天皇の曾孫(三世)だ。
壬申の乱で天武天皇が勝利した後、天武天皇の血統が皇位を継承し、女帝・称徳の死まで続く。
山部王は764(天平宝字8)年、27歳のとき、ようやく無役ながら従五位下の地位を得る。
766(天平神護2)年、「二人」はそろって侍従になった。
後年、無二の君臣となる「二人」はこの頃、知り合いになり、懇意になったと思いたい。
二人とは、山部王と5歳年長の藤原雄田麻呂である。
雄田麻呂は、藤原不比等の三男で式家の祖、宇合の8男。幼少より才能にあふれ度量があり、勤勉であったという。
山部王、29歳。雄田麻呂、34歳。
山部王は、いちおう法的には皇族の端くれではあるものの、ノンキャリであり何とか官吏として食っていくしかない境遇だった。
一方の雄田麻呂も少年期は不遇だった。長兄・広嗣が太宰府で反乱を起こし、死罪。兄たちが流罪になったり、庶民に落とされたりした。絶望の底を見ただけに、ただの貴族ではない。
度量広く勤勉、人並みならぬ辛苦を経験している雄田麻呂は、この不遇をかこつ若き官吏に優しく誠実に接したのではないか。
山部王と雄田麻呂は侍従という同職。
雄田麻呂が先輩、山部王が後輩。侍従の定員は8名だったというから、上司の愚痴を言い合い、仕事の達成感に美味い酒を酌み交わした、同じ釜の飯の仲だったかもしれない。
その二人の7年後の姿が、
参議・藤原百川
皇太子・山部親王
である。
山部親王は、さらにその8年後に即位して桓武天皇となる。
あり得ない幸運だ。
しかし、この7年間の二人の人生は、武器なき戦争の7年間だった。
藤原百川 「前賢故実」より 写真引用Wikipedia
同年、侍従・山部王は、女帝・称徳天皇の治世にいる。道鏡が法王になった年でもある。
2年前に、権力の座にあった藤原仲麻呂が反乱を起こし斬首。
奈良時代は天皇直下の権力が目まぐるしく入れ替わっていく。
藤原氏は藤原仲麻呂が誅殺されても、もはや氏全体が没落したことにはならない。藤原不比等から分岐した一族は、毛細血管のように政官界を覆っていて、藤原氏なしで政府はすでに機能しなくなっている。
そもそも仲麻呂の乱の鎮圧を指揮したのは、別家(式家)の藤原良継らだ。
良継は雄田麻呂の兄で、この頃には従三位まで昇っている。良継をリーダーとし、弟たち田麻呂、雄田麻呂や蔵下麻呂らが近親集団として同一行動をとっている。
独身の女帝・称徳天皇の死は770(神護景雲4 )年だ。
皇統はこのあとどうなるのか。
都にいる者すべてが、そのことを考えていたはずである。
混乱は、近い。