正義の味方
辞書でひくとこうある。
弱者を救い、悪者をこらしめる人。
明確な定義はないが、創作された物語に登場するヒーローを指していうことが多い。
1960年前後の世代だと、正義の味方といえば、ウルトラマンだろう。
リアルタイムで見たことはないが、1958(昭和33)年から放送されたテレビ番組「月光仮面」の主題歌(作詞・川内康範)の一節に
月光仮面のおじさんは
正義の味方よ よい人よ
疾風のように現われて
疾風のように去って行く
というのが、ある。
正義の味方、がいまのように使われはじめはこの時からのようだ。
辞書には、フィクション世界の住人と書かれているが、歴史上でも月光仮面のような人はいないことはあるまい。
個人的に、と前置きしたうえで、日本史上で正義の味方にもっとも近い人物を挙げればそれは、
上杉謙信
ではなかろうか。
巷説や文学の世界も含めての謙信を見てみたい。
上杉謙信 朝櫻樓國芳画 ディシジョン・コンパスホームページより
「英雄」とは、最も強烈な個性の持ち主であり、かつ、功業の人であるという。
英雄と聞いてまっさきに思い浮かぶのは、織田信長だ。
豊臣秀吉や伊達政宗もそうかもしれない。
世界でみればケタはちがうが、チンギスハンやナポレオンがそうであろう。
我欲が旺盛で功を成すのだから、まともな人ではつとまらない。文字通り、英雄だ。
歴史作家の海音寺潮五郎氏によると、英雄にはもう一段あって、英雄にして道義の人というのがいるそうだ。
道義の人とはすなわち、正義の味方であろう。
氏はこれを、高士と呼んでいる。
海音寺氏によると、日本では、高士はほんのわずかしかいないそうだ。
西郷は英雄でありながら、同時に聖人たらんことを志していたから、功業の人でありながら、最も清冽な道義の人であった。
ここがぼくの西郷好きの理由であるが、謙信を調べて、その人となりを知るにおよんで、
「ああ、ここにもいた」
と、実にうれしかった。
(海音寺潮五郎「日本の名匠」より)
西郷とは西郷隆盛、謙信とは上杉謙信である。
氏は、このふたりの高士を小説に書いており(『西郷隆盛』と『天と地と』)、氏の代表作となった。
上杉謙信は武田信玄と比較され、名前こそ有名であるが、大河ドラマでは『天と地と』(1969年)以外は脇役かチョイ役で、戦国モノでもあまり露出度は高くない。
一周まわって、一般にはあまりよく知られていないのではなかろうか。
大河ドラマ「天と地と」で上杉謙信を演じる石坂浩二(左) NHKアーカイブスホームページより
上杉謙信は、もとは長尾氏である。
越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景の四男として生まれた。
幼名は虎千代。
その後、景虎を名乗る。
父・為景は〝奸雄〟と呼ばれた越後の実力者で、主人である守護と戦いこれを敗死させた。
為景は越後一の実力者であったが、性格が酷薄で国内に敵も多かった。
家庭内では末っ子の景虎をうとみ、兄・晴景に家督を譲って隠居した。景虎の芽を摘むため仏門に入れられていたほどだ。
景虎は、病弱で国内を抑えられない兄・晴景に頼られるかたちで、表舞台に登場する。
このとき、景虎15歳。
晴景に謀反を起こした勢力を栃尾城や黒滝城などに攻め、鎮定させている。
まさに、デビューからして、疾風のように現われ疾風のように去り、弱者を救う正義の人だ。
やがて、晴景につく者と景虎につく者に分かれ険悪な雲行きとなるが、守護の仲立ちで兄・晴景は景虎を養子とし、家督を譲る。
長尾景虎、19歳で越後国守護代となった。
その後の彼は、つねに義(道義)をもって行動した。
理屈っぽいというのではなく、正義を行うものが困っていると居ても立ってもいられないタチなのだ。
かれの正義の基準とは、中世社会または旧体制というものだろう。
一、かれは、越後守護代としての当然の責務であるという理由により、国内の諸豪族の帰服しない者を討伐して、越後を統一した。
一、かれは、父・為景が越中豪族と一向宗門徒との連合軍によって詭計によって殺された理由により、越中に出兵した。
一、かれは、信玄に所領を奪われた信州豪族村上義清、小笠原長時らに、所領を回復してほしいと嘆願されたという理由により、信州に出兵して信玄と戦った。
一、かれは、関東管領・上杉憲政が小田原北条氏に国を追われて逃げてきて、管領職と上杉の名字を譲り、わがために北条を討って恨みを晴らしてくれ、と依頼された理由により、関東に出兵した。
逆なこともあった。
常陸の佐竹氏が、
関東への出兵なされよ。いまが好機である。
いま出兵されれば、関東は上杉殿になびくこと間違いない。
と書状をよこした。
これに対し、景虎はこう返して断っている。
総体、景虎事、依怙(えこ)にして弓箭にたづさはらず候。只々、筋目をもって何方へも合力いたすまでに候。
【自分はひいきや私欲で戦さをするのではないのです。だれに対しても道義をもってお助けするのです。】
かれは、自分の行動は義のためにあり、義のため以外には軍事行動はしないと言っている。
霧の中の春日山城 にいがた観光ナビホームページより
以後、記述は便宜上、謙信で統一したい。
謙信とことごとに比較されるのは武田信玄だ。戦いぶり、性格、生活が対照的だからなのだが、ここでは謙信のみにふれたい。
謙信は、日頃から兵の訓練をしない。
行軍または戦闘中に隊を分けるのにも、馬に鞭うって軍勢の中を疾駆して過ぎるだけだ。それだけで、将兵はかれの通過するのにしたがって左右に分かれ、かれの手足のごとくいくつかの隊となった。
その際に、士分の者が左へ行きその家来が右に行っても、分かれた隊を乱すことは不可であった。乱れれば一刀両断されるのがオチだった。
軍律、秋霜烈日のごとしだ。
これが本当だとすると(本当だろうが)、謙信という人は、はなはだ尋常ではない。
むしろ感心するのは、越後兵の従順さと有能さとタフさである。
謙信その人は異常人でよいとしても、それと同等のレベルの心と体を将兵たちがよく持続できるものだ。
謙信の越後兵は日本最強だったのではないか。
謙信を数少ない高士であり道義の人として絶賛する海音寺氏であるが、同時にこんなこともいっている。
狂気といえば上杉謙信もおかしい。
彼はおそろしく戦争好きで、そのために女まで禁っていたというのは、彼が戦争に対して芸術家が芸術にたいするような執心と献身をしていたことの証拠で、一種の狂気の心理である
(海音寺潮五郎「乱世の英雄」より)
謙信は、道義の人である一方、狂気の人でもある。
狂気は、彼の軍議の席にもあらわれている。
彼は春日山城の頂上に毘沙門堂を建て、人を遠ざけ僧のような生活をしており、軍議もここでやった。
軍議では、集まった諸将にはほとんど発言をさせず、護摩を焚き、毘沙門天の啓示を受けたとして、彼ひとりが申し渡すだけだった。
かれの異常人ぶり、超人ぶりは尽きない。
春日山城の毘沙門堂(復元) Wikipediaより
謙信の性格はつねに性急で、無鉄砲なほど積極的だ。
あえて危地をこのむそれは冒険的ともいえる。
かれは好戦家といっていい男で、西は能登・加賀へ、東は関東へ、席のあたたまる暇もないくらい戦さに明けくれた。
生涯戦績は71戦中、61勝2敗8分。
勝率97%で、戦国大名の中でもナンバーワンだ。
下野国の佐野に佐野昌綱という豪族がいた。
地勢的な境遇は、どこか信州上田の真田一族に似ている。
つまり、武田、北条、上杉などという大勢力に挟まれているため、表裏比興、策略のかぎりをつくして生き残りを図っている小豪族だ。
あるとき謙信方の佐野昌綱が本拠の唐沢山城を北条氏康3万の軍勢に包囲されたという急報が、謙信のもとに届いた。
謙信は直ちに8千の兵をひきいて救援に向かう。
しかし、謙信は神速を重んじる。
急がんと城は落ちるかもしれん。おれは先に行って城に突入し、城兵に合力する。おまえたちはあとから来い。
と諸将に言い捨てて、わずかな兵をひきいて疾走した。
その数わずかに13騎。
謙信のいでたちといえば、鎧兜はつけず黒い木綿の道服をはおり、馬上、十文字槍をひきつけただけであったという。
謙信は北条陣地の前を、馬を走らせることもなく粛々と過ぎ、城へ入った。
やがて北条勢は去り、謙信は勝利した。
かれの狂気との関係はわからないが、行動の振幅が大きいのも謙信の特徴だ。
有名な話がひとつ。
謙信は27歳のとき、富貴や栄達や権勢を紙切れのようにして捨てようとした。
家臣同士の領土争いや国衆の紛争の調停で心身が疲れ果てたため、突然出家することを宣言。
春日山城を脱出して、ひとり高野山へ向かったのだ。
本心だったのか、国内を結束されるための偽装だったかはわからないが、おそらく本心だったではないか。
案の定、武田信玄はこのことを知り、主人のいない越後に魔手を伸ばした。信玄に内通した家臣・大熊某が反旗を翻す。
大和国の葛城山山麓で家臣が追いつき国情を伝えて必死に懇願した結果、謙信はようやく出家を思い止まり、帰国。
大熊はこれを機に越後を出奔。信玄のもとに逃れて信玄に重用された。
象徴的なのは、1560(永禄3)年から翌年にかけての小田原攻めだ。
出兵の経緯は前述のとおり、関東管領・上杉憲政の要請によるものだ。
8月、謙信は越後勢8千余りを率い北条氏康を討伐するため出陣。
越後と関東を隔てる三国峠を越え、10月初旬に上州沼田城、続いて厩橋(前橋)城を落とす。
さらに、武蔵に南下して羽生城も陥落させた。
この年は、桶狭間の戦いで、革命児・織田信長の運命が開けた年だが、東国ではまだ濃厚に中世が残っていた。
〝昔の名前〟が十分に通用した。
謙信は関東管領と関白・近衛前久を奉じている。
関東の諸豪は、中世の権威を擁し圧倒的な軍事力を見せる謙信のもとへ参集した。
厩橋城で年を越し、2月下旬に武州松山城に入り、同27日に鎌倉の鶴岡八幡宮に勝利の願文を捧げたのち海沿いを進撃。
藤沢、平塚を経由し小田原に攻め込んだ。
日本海に面する越後から連戦連勝、破竹の勢いで相模灘に面する小田原城を囲んだのである。
直線距離にして220キロ余り。
こんな長征、見たことがない。
小田原城
この間、謙信にとって大きな出来事があった。
閏3月、謙信は上杉憲政から家督を譲られ、関東管領となった。
信長にしてみれば管領職など古わらじほども価値のないものだろうが、謙信はちがう。
正義のよりどころを手にしたのだ。
一方、小田原攻めは一ヶ月も城を囲むものの落とすことはかなわず、信濃で信玄が軍事行動の気配を見せたため、囲みを解いて兵を引き、謙信は越後へ帰っていった。
北陸方面への出兵もそうだが、武田や北条、それに雪に閉ざされる冬にはばまれ、謙信は疾風のように現れて、得るところ少なく、疾風のように去るのである。
領土欲など前世に置き忘れたかのように。
謙信が小田原攻めをあきらめ帰国をしたのは、背後で信玄が軍事行動を起こしたからだ。
信玄は、信濃の豪族三氏を理由をつけて呼び出し謀殺し、信玄の縁故者や家臣を襲封させた。
不潔なやつめ
信玄の野望は越後侵攻と見た謙信は、
こんどこそ関東管領の面目にかけて、われたおれるか、彼たおれるか、ぎりぎりの決戦をしようとすさまじい覚悟である。
(海音寺潮五郎「天と地と」より)
信濃の豪族たちを救済するため何度も正義の戦いを続けてきた謙信は、信玄と生か死かの決着をつけることを決意した。
彼はいつものように春日山城の頂上の毘沙門堂に籠り、護摩を焚き、毘沙門天に祈り神意を得た。
近習を呼び、ひとこと
軍議
といい、諸将を集めると、
最後の戦さをする。
全軍、善光寺へ。
と軍令を出した。
善光寺へ、といえば、むろん相手は武田信玄。
1561(永禄4)年8月、越後の将兵は春日山城を電発した。
全軍、1万9千。
先頭をゆく謙信。
紺糸おどしの鎧に金の星兜、萌黄緞子の胴肩衣のいでたちで、放生月毛という名の駿馬にまたがっていたという。