彗星に乗った武将・上杉謙信②〜我たおれるか、彼たおれるか〜 | 天地温古堂商店

天地温古堂商店

歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

ことし2月14日、一人のアスリートの記者会見が北京であった。

フィギュアスケート北京五輪代表、羽生結弦。
彼は今大会のフリーの演技を振り返って、こう答えた。

サルコージャンプでミスをしたのは悔しいですし、できれば4回転アクセルも降りたかったと正直思いますけど、何か、上杉謙信というか、自分が目指していた『天と地と』の物語というか、自分の生きざまというか。それにふさわしい演技だったんじゃないかなと思うんです。

ご存知のように、フリー演技のときに流れた曲は、上杉謙信の半生を描いた大河ドラマ『天と地と』のオープニング曲だ。


羽生は、上杉謙信の何を自分の生きざまに重ね合わせたのだろう。

謙信は、正義を愛し、おそろしく戦さ好きで、芸術家が究極の芸術を追い求めるような執念で一身を戦いに捧げる。
極論をいえば、それがかなえばもはや勝ち敗けは些末なことだったのではないか。
その姿は勝負師というより求道者だ。

羽生が謙信の生きざまに見たのは、求道者としてのそれではなかったか。

羽生は、小説『天と地と』を読んでいるに違いない。

こんどこそ関東管領の面目にかけて、われたおれるか、彼たおれるか、ぎりぎりの決戦をしようとすさまじい覚悟である。
(海音寺潮五郎「天と地と」より)


むろん、この一節も。

北京五輪での羽生結弦のフリー演技は、『天と地と』のラストである1561(永禄4)年における川中島の戦いにのぞむ謙信の姿に重なって見えなくもなく、大いに感慨深かった。


羽生結弦 中日スポーツホームページより




1561(永禄4)年8月。
全軍1万9千を率いて善光寺に着いた謙信は、輜重兵らを残し武田領に侵入。妻女山に陣を構えた。

一方の武田信玄は、海津城に兵2万を入れ籠城、妻女山の謙信とにらみ合う。

海津城は、現在の長野市松代町にある。

一方の妻女山は、長野市松代町と千曲市の境にある山だからむしろこちらのほうが、武田領としては奥にある。
敵中深く布陣する超人的なメンタルと天才的な戦術眼ともいうべき謙信の真骨頂だ。

これを見て信玄は動く。
軍を二手に分け、2万のうち1万2千を妻女山に向かわせ、背後から謙信陣地の奇襲を計画。
奇襲部隊のほうが本隊より多いという、アンビリーバブルな戦術だ。
世に「啄木鳥戦法」といわれ、驚いて山をかけ下りた先で、信玄本隊が待ち伏せてこれを撃滅するというものだ。
軍師・山本勘助の策といわれる。


大河ドラマ「天と地と」の合戦シーン NHKアーカイブスホームページより

 

9月9日。
しかし、謙信は海津城から炊事のけむりが多く立ちのぼっているのを見て、敵が動くのを察知。
奇襲部隊が来る前に、全軍に妻女山をかけおりる軍令を出した。
しかも、鞭声粛々、1万2千の謙信本隊が一切物音を立てず夜陰にまぎれて山をくだり千曲川を渡って、信玄本隊の陣に近づく。


信玄本隊8千は、そうとは知らずキツツキにたたかれ穴から飛び出した虫を待ち構えるように鶴翼陣で上杉軍に備えている。



1561(永禄4)年の川中島の戦い Wikipediaより

10日午前8時ころ、川中島をつつむ深い霧が晴れた。
そこに、いるはずのない上杉軍がいた。


暁に見る千兵の大牙を擁す

(頼山陽の詩)

という様相だ。
上杉軍は、眼前に布陣している。

謙信にとっては、夢にまでみた瞬間だ。
謙信になってみなければわからないことだが、謙信は勝つことではなく、

不義の者、信玄そのひとを討ち斃す

と思ったであろう。
その意味で、謙信は大将というよりスナイパーそのものだ。

上杉謙信を不朽の存在にしたのは、ひとえにこのあとにとった行動による。

車懸りの陣法

このとき、謙信が用いた陣法を「車懸りの陣法」であったと、『甲陽軍鑑』という史料に書かれている。
各隊が車輪の輻(やぼね)が回り来るようにかわるがわるあらわれ、いくまわり目かには、自軍の旗本と敵の旗本とがめぐり合って勝負を決する陣法、とある。
聞いただけで血湧き肉躍るような戦法であるが、いまはこの説は空論だろうといわれている。

「車懸り」とは、つまりは波状攻撃のことだ。

複数の部隊が時間差で、同じ目標を連続的に攻撃することだ。
謙信は、相手に休むひまを与えないことで体制を立て直す前に、信玄そのひとに迫ろうとしたのだろう。

海音寺潮五郎は著書『天と地と』で、こういう。

ぼくはこの時の政虎(謙信)の陣形が、その左右隊が両隊ずつならんでニ、三列をなしているところから見て、両隊たがいに正奇をなして扶け合うのをこの名をもって呼んだのではないかと見ている。

いずれにしろ、謙信の標的は信玄そのひとだ。
8千の将兵という固い殻に鎧われている敵本陣を丸裸にしなければならない。
武田の前列部隊に、上杉の前列部隊が攻撃をしかける。
武田の次列部隊に上杉の次列部隊が攻撃をしかける。
次々と攻めかかりながら攻撃路を開き、敵本陣を丸裸にしたのち、謙信率いる本隊が敵本陣に突撃するものだったろう。

謙信は、自軍の多くの足軽・雑兵を犠牲にして、武田の高級将校、最後には信玄本人の命を失わしめようとしたのだ。
まさに、「肉を切らせて骨を断つ」一手かぎりの戦法である。

車懸りの戦法の効果はすさまじく、武田信玄の弟の武田信繁、侍大将の両角虎定、軍師の山本勘助が討死にしている。


大河ドラマ「天と地と」の合戦シーン NHKアーカイブスホームページより

謙信の動きを追う。

両軍混戦におちいったと見るや、
紺糸おどしの鎧に金の星兜を着、萌黄緞子の胴肩衣を羽織り、放生月毛という名づくる駿馬に乗っていたが、
「あとは、総がかりにせよ」
と言いすて、唯一騎、三尺六寸備前兼光の刀をぬきてかつぎ、道を迂回して信玄の本陣に向かった。
(略)
一筋に信玄の旗本を目がけて突進しつづけたが、途中冑の緒を切ってざんぶと川に投げ込み、白練の絹で頭を行人づつみにして、なお進み、ついに信玄の旗本に突入し、床几によっている信玄めがけて、馬を馳せよせざま
「小せがれめ、ここにいたか!」
とののしって斬りつけた。

(海音寺潮五郎『武将列伝 ニ・武田信玄』より)


信玄は床几に腰をおろしたまま、持っていた軍配でこれを受け止めた。
しかし信玄は、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。

のちにこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったという。

三太刀七太刀

といわれる謙信・信玄一騎討ちの伝説だ。


上杉謙信と武田信玄の一騎打ち像 


信玄の旗本たちはみな立ち騒ぎ、一人が立ててあった信玄の槍をとって、振り上げたところ、謙信の馬の尻にあたって、馬が驚いて走り出したため、信玄はようやく虎口を脱した。

謙信はやむなく本陣に引き上げた。
妻女山に向かった武田軍の別動隊が八幡原に駆けつけようとしている。
これ以上、上杉軍が戦場にいることは否であった。
上杉軍は、犀川を渡って善光寺に向けて引き上げにかかったが、武田軍本隊と妻女山からの別働隊に追撃され、相当な損害を受けたという。

謙信の単騎による斬り込みや信玄との一騎打ちは、そもそも無かったという学者も少なくない。
一方で、その事実を裏付ける証拠もある。

関白・近衛前久が上杉謙信に出した書状によると、「自身太刀打ちされたということだが、大将自らそんなことをしたのは昔も今も聞いたことがない」と書いてある。
このことは『歴代古案』という史料にもあり、近衛の手紙も現存するという。

謙信太刀打ちは、単騎斬り込みや三太刀七太刀を確定することにはならないが、だからといって無かったと断ずるものでもあるまい。

謙信は、こんどこそ関東管領の面目にかけて、われたおれるか、彼たおれるか、ぎりぎりの決戦をしようというすさまじい覚悟だったわけだ。

海音寺氏は、いう。

謙信は有無の一戦を決心して越後を出ている。
またこの時は妻女山に行った武田勢の駆けつける前に勝敗を決したいとあせっている。そのあせりが、この思い切ったことをさせたと思うのだ。

(同上)

日本合戦史という括りがあるのならば、私はこの永禄4年の川中島の戦いがその中でもっとも好きである。
歴史文学として見れば、日本史上の壮観であり、ロマンである。

そしてこの戦いは、信玄の戦さではなく、謙信の戦さだったことに間違いない。


上杉謙信「毘」の旗印 れきし上の人物.comホームページより

思うに上杉謙信は、ほうき星のようだ。
私利私欲に満ちた無明長夜を、ほうき星のように正義という一閃の光を放ちながら、神速で来たり、また、光芒をひいて神速で去ってゆく。
去ったあとは、またもとの闇にもどる。

謙信は、その後もその死まで、正義をもとめて、関東へ、越中へ、能登へ、戦さを続けた。
しかし、私にとってのほうき星に乗った謙信は、川中島から善光寺へ、善光寺から信越の国境を越え、妙高の山かげにそのうしろ姿が消えたとき、もう二度とあらわれることはなかった。

 

彼はその後、17年生きることになるが、その生きざまは、人間のひとつの典型を成すものになったことは確かである。