歴史と文学のはざまの〝混沌〟 | 天地温古堂商店

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歴史、人、旅、日々の雑感などを徒然に書き溜めていこうと思います。どうぞお立ち寄りください。

昔、歴史は文学であった。
そして、あらゆる学問の母であった。
経済学も、社会学も、政治学も、倫理学も、ーー哲学すら歴史の中にあった。
歴史はこれらのさまざまなものをふくんで洋々と流れる大河であった。

そう言ったのは、作家・海音寺潮五郎である。

とはいうものの、歴史とはいったい何ですか?と聞かれたときに、うまく答えられない。
少なくとも、冒頭のような名言を容易に説明できない。

しかし、歴史の先達たち三人の言葉を集めて紡いでゆくと、見えてくるものがある。
この三人ーー。

海音寺潮五郎(1901〜1977)
司馬遼太郎(1923〜1996)
磯田道史(1970〜)

僭越ながら、わたしは、古今のうち、歴史をみきわめる生きた視点をお持ちの稀有の三人だと心底思っている。

歴史とはなにか?

そのいちばん簡単な答えは、「過去の事実(ファクト)」ということだ。
司馬氏は、この「ファクト」と「真実」の違いをこう言っている。

史料というのはトランプのカードのようなもので、カードが勝負を語るものではないように、史料自体は何も真実を語るものではない。決してありません。
史料に盛られているものは、ファクトにすぎません。
しかし、このファクトをできるだけ多く集めなければ、真実が出てこない。
できるだけたくさんのファクトを机の上に並べて、ジーッと見ていると、ファクトからの刺激で立ち昇ってくる気体のようなもの、それが真実だと思います。
ただ、ファクトというものは、作家にとって、あるいは歴史家にとって、想像の刺激材であって、思考がファクトのところにとどまっていては、ファクトの向こうに行けない。そのためにも、ファクトは親切に見なければいけないと思います。
(司馬遼太郎『手掘り日本史』より)



司馬遼太郎 写真 朝日新聞デジタルより


ファクトと真実について、司馬文学で見てみよう。

坂本龍馬は、そもそもなぜ幕府を倒そうとしたのか。
『竜馬がゆく』では、その志向が、薩摩や長州とも違っているようにみえる。

『竜馬がゆく』の終盤にあるワンシーン。

竜馬が仕掛けた大政奉還の一手を、一面識もない政敵ともいえる将軍慶喜は、容認し、政権を朝廷に帰するとみずから決断した。竜馬が知ったときのつぶやきを、あえて文語で書いている。

大樹公(将軍)、今日の心中さこそ察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。
予、誓ってこの公のために一命を捨てん。


慶喜のために一命を捨てる

とは、薩長藩士や討幕の志士には思いもつかないことだろう。
日本は慶喜の自己犠牲によって救われたと、竜馬は思った。

薩摩や長州のように、慶喜は幕府そのものだ、生かしてはおけない。討幕軍を起こして軍事によって旧体制を粉々にし新国家をつくる、と、竜馬は思わなかった。

司馬氏は、そう考えたろう。
そのために、もうひとつのファクトを探し出したのだ。

坂本龍馬の海援隊側近であった陸奥宗光のこの話だ。

維新前新政府の役割を定めた時、龍馬は、俺は世界の海援隊でもやらんかな、などと云つていた。此の時は、龍馬は西郷などよりも、ずっと大人物の様に思われた。

貿易、海運など海の仕事をしようとする龍馬にとっては、倒幕という革命は片手間仕事だった。
長崎で海援隊の実務を見ながら、京で風雲急を告げると、上京して、船中八策などという革命後の政体を明らかにしつつ、土佐藩に働きかけ、慶喜をして大政奉還を実現。
日本に統一国家を作ってしまったのだ。

世界の海援隊でもやろうかな

司馬氏は、このファクトを読み込むことで、龍馬の倒幕が他者と違うという真実を導き出している。


「大政奉還図」邨田丹陵・画(聖徳記念絵画館蔵) Wikipediaより


磯田道史氏は、日本の歴史学者である。
専門は日本近世・近代史・日本社会経済史。いま現在は国際日本文化研究センター教授であられる。

磯田教授は、

日本で「歴史を作る歴史家」が三人いる

といい、それは

頼山陽
徳富蘇峰
司馬遼太郎

だという。

 


徳富蘇峰(1863-1957) 写真 Wikipediaより

徳富蘇峰は明治から昭和に生きた作家・ジャーナリストであり、より多くの史料(ファクト)を集めて歴史文学を書いた。

司馬氏はその影響を受けながら、さらに多くの史料を集めて、歴史文学を書いたのではないか、と分析している。

史実は、「ファクト」
歴史文学は、司馬氏のいう「真実」ということだ。

戦略構想の基本として語られる言葉に
「着眼大局着手小局」(全体を大きく見て戦略を構想し、実践は小さなことを積み重ねていく)
というものがありますが、司馬さんなどはまさにこの言葉に相応しい作家です。
時代全体の在り方や時代精神を天から俯瞰して、そこから落下傘降下するように時代のディテールに迫る。
(磯田道史「司馬遼太郎で学ぶ日本史」より)


磯田道史 写真 NHKアーカイブスホームページより

 

もう有名な話になるが、司馬氏は磯田教授のいう〝俯瞰〟について、こう言っている。

ビルから、下をながめている。
平素、住みなれた町でもまるでちがった地理風景にみえ、そのなかを小さな車が、小さな人が通ってゆく。
そんな視点の物理的高さを、私は好んでいる。(略)
ある人間が死ぬ。時間がたつ。時間がたてばたつほど、高い視点からその人物と人生を鳥瞰することができる。いわゆる歴史小説を書くおもしろさはそこにある。
(司馬遼太郎「歴史と小説」より)


たとえば、ビルの屋上のような高い視点から織田信長のいう人物と人生、ひいては生きた時代を鳥瞰する。

南蛮人の保護や比叡山焼き討ちや長篠の戦い、そして本能寺の変の意味するところが、信長の生きている時代ではわからなくても、後世のいまならよくわかる。

一方で、地べたを這うようにして信長やその家臣やライバルや利害関係者、さらには時代相までファクトをひとつひとつひろいあげてゆく。
鳥の目で時代と人をとらえ、かたや、できる限り多くのファクトを集めて、舞台の書き割りを書いていき、ファクトがない場面であっても、詰め将棋の一手のように、もうこの人ならきっとこう言うだろうというセリフを語らせる。

坂本龍馬の『竜馬がゆく』
高杉晋作の『世に棲む日日』
豊臣秀吉の『新史太閤記』

などは、そういう歴史小説ではなかろうか。

歴史文学というものは、歴史小説、時代小説、史伝文学に分けられ、史実に近い順に

史伝文学
歴史小説
時代小説

だと磯田教授はいう。


私は、このうち史実にもっとも近いという史伝文学に興味がある。

というより、絶滅の危機に瀕する史伝文学の復活を大いに期待している。

50年前になるが、海音寺氏はそのうちの史伝文学について語っている。
氏は、史伝文学が歴史小説、時代小説と明らかに違うことを、自負と確信をこめて書いている。
それは、かなり力強い信念が感じられる文章だ。


※なお、以下は50年前の著述なので、文学界の情況はいまとは違う。

この列伝を書き始めた理由はいろいろあるが、その一つには日本に史伝という文学部門を復活したいと思ったことである。
今日では多数の作家らがすぐれた史伝を書くようになったが、ぼくがこれを書きはじめた頃は、一人もなかった。
(『武将列伝 江戸篇』あとがきより、※青字)


海音寺氏は、史伝を書く人が増えて、少ない史料で奇抜な歴史小説は以前より少なくなったと言っている。
個人的には、50年後のいまはその逆の状況のように思うが、海音寺氏の奇抜な歴史小説への評価はかなり辛辣で生々しい。

こうして熱情をもって史伝を書く人が多くなったために生じた現象の一つは、これまで日本に多かった、鬼面人を驚かすような奇抜な歴史上の人物論が少なくなったことである。こんな議論は大ていは遊び半分の片手間でする、少ない材料によって組み立てる論理のアヤに過ぎないものだ。

理屈は鳥もちと同じで、つけたいと思えばどこにでもつくということわざがあるくらいで、調べ不足あるいは論旨に都合の悪い材料をかくしてすればどんな奇抜な結論でも導き出すことが出来るのである。

奇抜なことを言って、知識を欠いている一般読者をおどろかせ、面白がらせ、喝采させることはわけはないのである。


50年後のいま、磯田教授も符牒を合わすように同じようなことを言っておられる。

やはり小説は小説、漫画は漫画なのであって、本物の歴史とは違う。
歴史物の作品がたくさん書かれて、世の中の歴史知識は明らかにふえているのだけれども、どうも実体験に基づかない架空の物語がふえていて、わたしが知りたいと思っている「本物の歴史像」から離れていってしまっている感がある。
(略)
誰かがすでに書いて活字になった本をもとに「想像をふくらませて」歴史を書くようになってしまっている。これでは現物・現場・実体験の歴史から離れていってしまうのはあたりまえであろう。
(磯田道史『歴史の愉しみ方』より)


これらの意味は、なにもそうした小説を批判しているのではないだろう。
要するに、書く側の目的の違いなのだ。
ただ、個人的にはおふたりの思いに同調したい。

本物の歴史は、史実だ。
史実はファクトだ。
しかし、ファクトだけでは、真実ではない。
学者はファクトが重要だろうが、歴史好きの読者は真実がほしいのだ。

そこで、知りたいのはもっとも史実に近いという史伝文学である。

磯田教授は、司馬氏の作品をふれて、史伝文学をこういう。

司馬さんの作品はほとんどが歴史小説と呼ばれるものですが、日露戦争を描いた『坂の上の雲』はそのなかでも、最も史伝文学に近いと認識されています。

また、海音寺氏に対しては、こうだ。

海音寺潮五郎さんは、司馬さんが登場してきたときの理解者としても知られていますが、歴史を扱った小説は史実に基づいたものでなければならないという信念の下に、大河ドラマにもなった『天と地と』や、生涯のライフワークとしていた『西郷隆盛』(未完)など長編歴史小説を遺しました。

そう論じられた海音寺氏自身は、小説と史伝文学とを比較して、自身の立ち位置を明言している。
それは、氏独特の痛快で直截な書きぶりだ。

しかし、努力して材料を集め、熱情をもって執筆するとなると、そんな軽薄なことは出来ない。真面目な人物論が多くなったのはこのためである。

人物の性格を四捨五入して端的に割切って、すべてをその線に沿って書いて行くのは小説の手法である。
こんな人物は現実の世界ではとうてい生きて行けないほど偏頗な性格なのだが、小説の世界では最も生き生きとして来る。
わかりやすくもある。
しかし、これは小説の世界だからよいのである。
小説の世界は現実の世界とは全然別個の世界だ。
作者によって作られた別世界なのだ。
ここではどんな怪異も、奇蹟も、読者が納得するように書かれるならかまわない。

おしつめた言い方をすれば、小説家は筆をもってする魔術師なのである。上手な魔術師も下手な魔術師もあるが


史伝では、人物の四捨五入はしない。
史伝の世界は現実世界の引きうつしである。
現実世界に生きて行ける人間が描かれなければならない。人間は四捨五入の出来る部分で特色があらわれ、できない部分で生きているのである。



海音寺潮五郎 写真 かごしま近代文学館ホームページより

冒頭の海音寺氏の言のように、歴史が文学であるなら、間違いなく、この三人は歴史をみきわめる生きた視点をお持ちの三人であろう。

そして、歴史を文学として読み、知り、愉しむ者からすれば、こうした歴史文学の見事なまでの可視化は、このうえない福音に思える。

 

司馬遼太郎の大書架(司馬遼太郎記念館) 日経電子版ホームページより