music-geek -62ページ目

英語とジャズが難しく見える理由

世間の人は「英語はむずかしい」と言います。また、ジャズでの「アドリブは難しい」とも言います。私はどちらも難しいとは思わないのです。奥は深いですが。
音も言語も「コミュニケーションツール」なので、習得についての共通点が多いということについて長い間つらつら考えているのですが、最近の気付きでこんなことがありました。
「英語が苦手という人の大半は「単語」を覚えるのが苦手で案外文法は理解できている」ということと、
「アドリブが苦手という人の多くは理論に縛られてそのシンプルさを見落としてしまう」ということです。
ここに日本人お得意の「間違えたら恥ずかしい」が出てきて練習をしなくなるという現象が加わる結果として「日本人は喋らないから何を考えてるかがわからない」と言われたり、子供のジャズバンドのクリニックでアメリカのミュージシャンが「あーアドリブじゃないんだぁ」って残念がったりするんだろうなぁ、と。英語で言えば、並び替えて文章を作る問題はできるのに英文和訳ができないというケースが多いことが文法の理解力を示していると思うのです。ジャズについて言えば、理論に縛られてややこしいことを言わなくても、サッチモみたいなシンプルな歌い方から見ていけば良いのにそこは見ていない、みたいな感じなんです。「難しいことを易しく、易しいことを面白く」という視点がアドリブの学習や英会話の学習の現場にないことがと日本人ならではの「間違えたら恥ずかしい」という感覚の合わせ技がこうしたものの習得を難解なものにしてしまっているんだろうなぁ、と思えてなりません。ここは壊したいですね。

常磐道反対運動が上手く行った理由を考えてみる

もはやほとんど知られていない話ですが、常磐自動車道建設に際しては、流山市で大きな反対運動がありました。江戸川を渡って千葉県に入ると柏インターまでのかなりの部分がトンネルになっているのは沿線住民の十余年に渡る活動の果実なのです。私はその反対運動を就学期に目の前で見ていました。こうした国家プロジェクトの社会インフラ建設となると反対運動はつきものなのですが、この運動には左翼セクトの介入は皆無でした。既存の政党に頼らず、反対グループ自らが市議会議員を擁立し行政と対峙するという他とは一線を画す活動であったと思います。この運動では一時共産党の支援を検討しましたが、短期間で連携を打ち切っていました。政治的には極めて中道な運動でした。
常磐道では公団側につくば万博というタイムリミットが切られてしまった為に住民と妥協する必然性ができたことから住民の意向を十分に考慮した構造となり、住宅地に隣接した地域にはフタ掛けがなされ、その上は公園になりました。今でこそ「子育てするなら流山」というコピーが知られていますが、それより前に市民の住環境を守る運動があったのでした。

この運動で住民側が勝利を勝ち取れたのは万博というタイムリミットも大きかったのですが、国家の社会インフラ構築を断固反対ではなく、地下道方式という対案を出したことも大きいと思えます。それともう一つ重要なファクターがあります。それは道路というインフラの特性です。戦後こうした社会インフラの構築には反対運動がつきものです。空港、ダムなどなど。そうしたインフラであると、広範囲の面積が収容されるので、敷地にあたる地主の抵抗が大きいわけです。曰く「先祖代々の土地は手放せない」と。そして権力による資産の召上げ的なことは権利による悪質な搾取と見えるので左翼セクトが付け入る隙になりやすかったのではなかったかと思えるのです。が、高速道路であれば、幅100mちょっとの土地が一部削られる程度で空港やダムのような搾取にならないから地主のダメージは限定的で抵抗が大きくならず(だからこそ宅地分譲がなされて、流山では行政のボーンヘッドで新規分譲地をぶった斬る計画が出されたとも思われる)、逆にそんな土地を掴まされた分譲住宅の所有者の反対意識が強く強力な団結力が生まれた、とも見えるのです。

常磐道の流山市のエリアでは、当時の道路公団との協定で今でも騒音や排気ガスのデータが管理され、基準を超えると公団が対策を取る制度が生きています(この由来を知る道路公団の方はほぼ退職していてもはやいないと思われますが)。

今年父が亡くなったので彼の後半の半生のあれこれを整理しているうちに、この運動のことはきちんとカタチに残しておくべきという気持ちが強くなってきたので、少しずつ準備を始めています。実はこの運動の後、この地域ではNPOというものができる前からNPO的な組織ができていたりしていて、道路の反対運動だけでなく、「地方自治と住民のありかた」であるとか、「地域社会への参画」といったテーマでも示唆に富むものが多くあり、その辺りも文字で残せれば良いなぁと考えています。

サウンドデザインとその再生

音楽というものは音によるデザインだと考えています。クラシックでは昔からこの考えが確立しているので、時代によってバロック、古典、ロマン派、印象派などと美術のスタイルにリンクした用語が使われています。他方ジャズも100有余年の歴史の中でスゥイング、ビバップ、モードなどなど時代によって様々なスタイルで形容されます。こうしたスタイルは再生され続けることで次世代に引き継がれます。再生されなければそのスタイルは廃れてしまうでしょう。クラシックで時代によって様々な様式美があるのと同じものがジャズにもあります。1950-60年代のジャズにはミッドセンチュリーモダンデザインとの共振がはっきりあるように感じられます。こうしたデザインプロダクトのレプリカが愛用されるづけるように、音楽も再生されて良いし、オリジナルアレンジメントを再生することも大事というか必須に思えます。前にも書いていることですが、例えば今年亡くなったベニー.ゴルソンのアレンジメント、いわゆるゴルソンハーモニーと呼ばれるものですが、あれをリハーモナイゼーションしてしまうと最早それはゴルソンハーモニーではありません。書かれたアレンジはデザインなので再生されてこそそのサウンドが作れるわけです。もちろん曲中のソロは演奏者で全然変わってきますが、テーマにおける意匠はオリジナルに忠実であるべきではないかと思えるのです。日本の話芸でいうと古典落語と新作落語のようなものです。古典落語は筋は皆さんおなじみですが、演者で全然変わってきますし、同じ演者でも同じものにはならないのです。もしも落語が新作だけに限定されたらそのスタイルは残らないでしょう(その意味ではいわゆる漫才的なお笑いとかコントはかなり難しい時代になっているのではないかと思われます)。

ジャズについては日本では常に「新しい」という記号がセールストークで重たいものになっているように思えます。新しくするために音楽を何回にするとリスナーが付いて来られなくなって結局多くの支持を得られないというリスクもまた大きいと思われるのです。この辺りを演奏家として慎重に考えながら音楽を提示していきたいなぁ、と考えています。