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アート.ブレイキーのドラミングについて感じること。

アート.ブレイキー。言わずと知れたモダンジャズの巨人の一人であり、ジャズ.メッセンジャーズを率いておよそ50年にわたってジャズミュージシャンのインキュベーターであり続けた人です。この人は良くも悪くも「ナイアガラロール」などなどのイメージでワイルドなイメージが強いのではないかと思います。私個人的にはこれには大きな違和感があります。なので、このところ彼の叩いている音源をかなり固めて聴いたのですが、そこで感じたことを書きます。個人的にはブレイキーの本質はワイルドではないと感じていたのです。なぜって、キャノンボール.アダレイの有名なアルバムでSomethin' Elseというのがあって、このアルバムのタイコがブレイキーなのです。このアルバムにはマイルス.デイヴィスが参加していて、枯葉の演奏が非常に有名なのですが、ここではブラシでシンプルにタイムを刻んでいるだけなのです。あまり語られませんが、素晴らしいドラマーって余計なオカズを叩かずにシンプルにタイムだけを刻むだけでものすごくかっこいいんです。そんなことを意識しながらブレイキーのドラムを聴いてみるとあんまり余計なことをしていないんです。特に顕著なのがピアノソロに入ってからのプレイ。最初の1コーラスはほぼ何もせずシンプルにタイムを刻むというのが実に多いんです。後半になるにつれて徐々にオカズが増えていき、ソロの終わりでナイアガラ、みたいな感じです。つまり、ブレイキーのナイアガラロールがめっちゃ豪快というよりは、通常のプレイが抑制的なのでそこがワイルドに見える、ということなのではないかと思えるのです。ジャズの醍醐味にはミュージシャン同士のインタープレイがあるのはもちろんなのですが、それが過剰になるとグルーヴの軸が見えにくくなるという恨みがあります。20年くらいまでに北欧中心にいわゆるクラブジャズ(これ日本限りの表現と思う)が流行りましたが、アレのキモはジャズの4ビートを活かしつつ、リズムセクションのインタープレイを排してシンプルなリズムとグルーヴを前面に出すというスタイルでした。自分はラッパ吹きなので音源を聴いているとどうしても管楽器ばかりに耳が行きがちなのですが、音楽全体を俯瞰してみるときには、やはりこういうこともきちんと考えないといけないなぁ、と新旧のブレイキーの参加して音源を聴きながら思うのでありました。

ジャズとお笑い

今朝FBでMike Vaxの書き込みを見ました。この人はスタン.ケントンの最晩年期にリードトランペットを吹いてた人で、近年はStan Kenton Legacy Orchestraを率いている人です。彼が、解散はしないけど活動は停止するかも、ということでした。色々書いてある中で驚いたのは、近年のアメリカのジャズ教育者の中でもケントンを知らない人が出てきた、と。これは結構な驚きでした。日本では昭和のジャズ評論家の理解を超えるようなことをよくやらかしていたのでケントンは全然紹介されないのですが、ミュージシャンのインキュベーターとしてのケントンバンドの存在意義とか、ケントンが主催したジャズキャンプからNAJEからIAJE、JENと引き継がれてきたジャズエデュケーションの流れさえ知らない人が教育の現場にいるのか、と。


ジャズはアメリカンオリジナルアートフォームであるということは認識されているのですが、その音楽は個人一代限りみたいな考えになっていて、その演奏家が亡くなると、その人の書いたアレンジは演奏されないか、もし引き継いで演奏するバンドがあるとその多くは「ゴーストバンド」と呼ばれます。プロが再演することは稀です。ある意味潔いことではありますが、クラシックがクラシックになっていくには、そのスタイルは再演され続けて世間に認知されねばなりません。数百年にわたってそのさまざまなスタイルを現在でも演奏されるからこそヨーロッパのクラシック音楽は今でも残っているのです。演奏されなければ、たとえ音源が残っていても時代に埋もれてしまうでしょう。果たしてそれは良いことなのでしょうか?

これ、日本の伝統的な話芸と今のお笑いにも共通するものを感じます。日本の伝統的な話芸では「古典」という演目がたくさんあります。例えば落語。同じ噺でも演じ手で違い、同じ演じ手でも毎回同じにはならないんです。落語ファンとジャズファンが被るのはこの辺りが理由だろうと想像しています。が、ジャズシーンって「新しさ」が常に命題であるようにも見えるんです。オリジナリティ重視となれば、古典より新作の比重が高くなります。伝統的な手口を踏まえない手口が評価されたりして徐々に「何でもあり」になって様式が変化して消滅していくリスクを内包しています。これ、今のお笑いにも通じるものがあるのではないかと思えてなりません。

クラシックがそうであるように、時代やスタイルをきちんと継承して様々なスタイルを共存させていくことがジャズでも大事と考えるのですが、マイクの書き込みからはアメリカでもそうはなっていないことが推測されるのです。まぁジャズもアメリカでのシェアは1%を切っているので仕方ない部分もあるのかもしれませんが、もしもアメリカが本当にジャズをアメリカンオリジナルアートフォームと認識しているのであれば、この辺りはアメリカの当事者の方々にもきちんと考えてみて欲しいなぁ、と思うのでした。


「意味上の主語」という説明は正しくないと考える理由

日本語で書かれている参考書で英文法を学んでいると


「意味上の主語」


というのが出てきます。これ、説明が正しくないと思います。この言葉が出てくるのは不定詞もしくは動名詞を使った文で、いわゆる形式主語のItのところで出てきます。中2くらいで不定詞の名詞的用法で、不定詞を主語にした文章が出てきます。例えば


To study English is fun for me.

(日本語を勉強することは私にとって楽しみである)


これだと主語が長くて重いので形式主語のitを使う文というのを中3で(今は違うのかな?)学びます。


It is fun for me to study English for me.


この時になぜか"for me"の部分を参考書では

「意味上の主語」

と言うんです。不定詞を文頭に置いた中2の文の時にはそんなこと一言も言わないのに、です。では形式主語で書いた文を並べてみます。


It's fun to study English.

It's fun for me to study English.

上の文では英語を学ぶことは楽しい、という一般論です。それに対して下の文は前置詞句を使って楽しいのは誰なのか、という「対象の限定」をしているだけなのです。主語はあくまでも後置された不定詞句なのです。


では次に動名詞の「意味上の主語」です。

これは高校英文法で出てきますが、この手の誤謬はSVO+不定詞句(または動名詞)で多く見られるように思えます。下の2つの文を比べましょう。


I insisted on studying hard.

I insisted on you (your) studying hard.


一目瞭然ですが、上の文では一生懸命勉強することを主張しているのは主語である「私」です。

下の文では私が主張しているのは代名詞を目的格で見れば「あなたが一生懸命勉強することを」ということですし、所有格で見れば「あなたの一生懸命勉強すると言うこと」という目的語になっているに過ぎません。主語ではないから目的格でも所有格でも使えるということにも見えます。いずれにしても意味上の主語でもなんでもありません。

この誤謬はSVO→SVOOの書き換えの時に頻発しています。例えば下の2文を見てください。


I want to be your girlfriend.

I want him to be your girlfriend.


上の文ではあなたの彼女になりたいのは「私」ですが、下の文では私があなたの彼女にしたいのは「彼」なんです。こんな簡単なことなのに、参考書などには"want+人+to〜"みたいな見出しなんです。言ってしまえばSVO(Oが不定詞句)とSVOO(2つ目のOが不定詞句)の差異でしかありません。SVOOにおける最初のOは「人」であるのが大原則であること、不定詞句などの「名詞化された動詞が目的語になること」の認識の欠如がこの誤謬を生んでいるのですが、これ、私が10代の頃に学んだままのことが今の文法書にも書かれています。推測するに、日本語の助詞の「が」が時に目的格的に使われることがこの誤謬を生んでいるようにも見えます。で、こういうことが放置されているのは、教育の現場にいる人は既存の説明で理解してるからこうしたことに疑念を持てないのではないか、と思わずにはいられません。こんなマニュアルで学ばされているのに文科省が「日本人をもっと英語ができるようにしよう」みたいなことを言ってるのがチグハグなのです。


こんな不具合、たくさんあるんですよねぇ。英語できなくて当然ですよねぇ。