ジャズアンサンブルのトランスクリプションについて
ジャズという音楽は厄介なのです。100年以上の時代を持ち時代によって様々なスタイルがあるんですが、譜面が残っていないんです。スモールバンドであれば音源を聴いて再生することは簡単ですし、今存在しているジャズバンド、特にスモールバンドの多くはそんな感じでマイルスやブレイキーやコルトレーンやエヴァンスなどに代表されるいわゆるジャズコンボの様式を土台にしたジャズを演奏していると思います。スイング時代に全盛を誇ったビッグバンドについては商品として譜面が販売されているものも多く、そうした譜面を使って音楽を再現する(ソリストが違うので全体としては同じサウンドにはならない)ことが可能で、グレン.ミラーあたりからマリア.シュナイダーまで様々なビッグバンドジャズの再演は可能です。
この再演ってのがジャズにとって曲者なんです。スモールバンドでスタンダードを演奏することに対しては何も言われないんですが、過去のアレンジを取り上げると「焼き直し」だの「古いことをやってる」と捉えられがちなんです。コンボでスタンダードを演奏するのも焼き直しなんですが。クラシックであればバロックからいわゆる現代音楽まで、時代によったスタイルの呼ばれ方があるわけですし、それを再演し続けることによってその音楽スタイルが生きながらえているわけですが、ジャズの場合の再演というのはどうも焼き直し、という印象が強くなります。アメリカではアリものの譜面を使うビッグバンドはゴーストバンドとかレパートリーバンドとか呼ばれますし。音楽は音によるデザインなので、50年代のハードバップをやるのであれば往時のアンサンブルを再生することでそのデザインをリアルタイムの音で楽しめるはずなのです。ベニー.ゴルソンの書いたアレンジはその通りにやらないとゴルソンハーモニーにならないのですが、ジャズという音楽にはある意味一代限りの芸、みたいなイメージが強いですし、中規模編成のアレンジなど使い捨ててで紙ベースの譜面が残っていることは稀なのです。日本の芸で例えていうと歌舞伎の江戸時代の演目はやらないで新作だけをやることが尊ばれる、とか、落語では古典の噺をかけずに新作落語だけでやる、みたいな感じになっているように思えます。それだとアートフォームとして残るのかな?という危機感を漠然と感じています。
他方、ジャズでは過去の有名な演奏家の演奏のソロのトランスクリプションがたくさん楽譜化されています。もちろんそうしたものはジャズというスタイルでのインプロビゼーションの研究に大切で、プロの演奏家もたくさん自分で採譜して自己研鑽の道具として使っているはずです。他人のソロのコピーを人前で再生するということはまずあり得ません。それはインプロヴァイズではないですから。そうしてあれこれ考えてみると、売り譜面になっているビッグバンドの譜面、アドリブのトランスクリプションの譜面の間にいわゆる中規模なアンサンブルのアレンジメントというのが抜け落ちてしまっています。これはその人の発想によって編成や人数も様々なんですが、必要最小限の人数でアンサンブルを作るという点で、簡潔でありながら豊かなサウンドを持つものが多いのです。でもその分野はほとんどスルーされています。書かれたアレンジメントを美術品として見れば、例えていうと中規模なジャズアンサンブルの音楽の多くは音源だけが残っている状態、すなわち版木の残っていない浮世絵みたいな状態になっているんです。60年以上前の録音でしかそうした音楽を楽しめないのであれば、それもまた音楽における喪失としては大きいのではないかと思えてならないのです。そこに気がついたので、コロナ禍をきっかけに譜面化されていない中規模ジャズアンサンブルのトランスクリプションに取り組み始めました。刷り上がった古い浮世絵を見ながら版木を彫り直すような作業です。手間はかかりますが、復元して再生するとやはり素晴らしい音がするものが多いのです。ジャズはアメリカのオリジナルアートフォームですが、我々日本人にとっては異国の芸術なので、こうした手法で音楽を回顧する手法はアリなのではないかと考えています。今年は西海岸の巨匠アレンジャー、マーティ.ペイチの生誕100年なので、この辺りの復刻を始めています。ミッドセンチュリーモダンデザインのイームズやイサム.ノグチ、ジョージ.ネルソンらのデザインのレプリカが愛玩されるように往時のジャズを再生するのも悪いことではないと考えています。来年はマイルス.デイヴィスの生誕100年なので「マイルス風」な音楽がたくさん提示されるでしょう。でもマイルスこそ「一代限りの至芸」であり、果たしてあれに肉薄するフリーハンドな音楽がどれだけできるのかな?と。書かれた譜面であれば、アレンジャーの意匠に沿った演奏をすればそのサウンドスケープは再生することが可能です。アメリカでもejazzlineあたりからジェフリー.サルタノフ辺りがこうした復刻で実にいい仕事をしています。新しい、難解なことをして果たしてどれだけの人がその音楽についてこれるのか?その辺りも横目で見つつ、往時のサウンドを現在に蘇らせることもまた大事と考えるのです。
何十年も前の音源だけでしかその当時作られていたサウンドを楽しむことができないのだとすれば、その音楽スタイルは残らないでしょう。そうしないための手立てのひとつとして時代に埋もれているジャズアンサンブルの復元にも取り組むつもりです。
Threadsを見ていて気がついたこと
先月くらいからthreadsを覗き始めました。なんだかよくわからないのですが、外国人旅行者のマナーがどうしたとか外国人居住者のナニがどうしたという感じでの排斥や拒絶の書き込みがやたらと多くてゲンナリしています。あまり深入りしなくて良いな、と判断しています。こういうのネトウヨっていうんですかね?なんだかよくわからないんですが、この手の書き込みに共通していることがはっきりあるんです。それは
「一つの現象に対してディスってるだけで、その状況がどうして起きているかを考えない」
または
「もし自分がその現象の当事者の立場になったらどう考えるか、というような発想がゼロ」
ということなのです。日本に労働力として外国人を増やそうとしたり、観光立国として海外からの観光客を増やしたら異本の経済にとって良いのでは、というスタンスに立ってそうした政策を推し進めているのは「日本政府」なのですが、なぜか日本政府なり政権与党に対する批判がほとんど見えないんです。まぁ大半は匿名であることをいいことにして好き勝手に書いてるだけなんでしょうが、なんだか脊髄反射みたいな文章ばかりできちんとした考察がないんです。真っ当な右翼であれば政府に対してもおかしいことはおかしいとちゃんと主張するので(例えば一水会)、こうした表層だけで排斥したりディスったりするのに「ウヨ」という表現をするのは右翼の方にも失礼ではないかとも思えます。思想背景も何もないんです。ある意味思考停止です。もし自分がワーホリで海外に稼ぎに出かけた時に現地で差別されたらどうなの?みたいな思考が一切ないんです。他人の立場に立って考えることが全くできていないんです。
ここで気になるのは、もしかするとゆとり教育以降に顕著になったのかもしれないのですが、学校教育の中で「上の言った事は守る」みたいな教育が徹底されたことがこの現象を生んでいるのかもしれないな、ということです。例えば麻薬はいけない、みたいな話ですが、ジャズなんて音楽をやってると過去の(少ないですが現在でも)巨匠と言われる人達のドラッグの話なんて掃いて捨てるほどあります。っていうかドラッグを全否定したら20世紀のポップ・ミュージックは存在しないかもしれません。オーバードースで人格が破綻したり早死にしたりするケースは過去にもたくさんありますが、そうした人たちの作品は否定される事はありません。でも日本だとドラッグで問題を起こしたアーチストの作品はオクラになるケースが多いです。理由も何もなく、ドラッグをやった犯罪者というだけで全て否定されちゃう傾向ってのが日本にははっきりありますよね。問答無用、みたいな感じで。そうした問題が起きた状況などなどの考察や配慮は一切ないんです。これもある意味思考停止なんです。自分の身内がドラッグで問題起こしたらどう対応すべきなの?という発想がゼロです。
つまり、いわゆるネトウヨ的言論って、思考停止の産物に過ぎないとしか思えないんです(だからこの表現は真っ当な右翼に対して失礼だと思える)。これは結構怖い事です。
第二次大戦時の日本軍の失敗を分析した名著に「失敗の本質」という本があります。今売られている版の表紙に、失敗する組織の特徴てのが書かれているんですが、その中の一つに「大きな声は論理に勝る」というのがあります。この本は組織論なのですが、ネット言論がまさにこの状況なのが実に怖いのです。匿名の無責任な脊髄反射みたいな言論が幅を利かせちゃう可能性が高いんです。ネット言論の匿名制を廃止すれば問題解消するような気がしますが、まずはそうならないので、ここは恐ろしいところです。
こうしたネット言論の背後にあるのは承認欲求みたいなものなので、そろそろネット言論からは距離をおいてもいいのかもしれません。
第二文型は第二文型として説明すべきなのか?
いい歳をして英文法の学び直しをしています。文型を見ていてハタと考え込んでしまいました。自動詞と他動詞という区切りで見ればわからなくもないのですが、be動詞と一般動詞という区切りで見ると、第二文型でbe動詞の文が割り込んでいるように見えるのです。第一、三、四文型をまとめてSVに対してどのように目的語がついていくのか、を説明し、第二、第五文型で括って「状態を説明する文」の構造を見せた方が良いのではないかと思えるのです。第二文型と第五文型の違いは、補語が説明しているのは主語なのか目的語なのか、という違いでしかないし、とにもかくにも現行の日本語で書かれている英文法の参考書では「状態を表す文」の説明が絶望的にわかりにくい、という現実があるからです。