ジャズとお笑い
今朝FBでMike Vaxの書き込みを見ました。この人はスタン.ケントンの最晩年期にリードトランペットを吹いてた人で、近年はStan Kenton Legacy Orchestraを率いている人です。彼が、解散はしないけど活動は停止するかも、ということでした。色々書いてある中で驚いたのは、近年のアメリカのジャズ教育者の中でもケントンを知らない人が出てきた、と。これは結構な驚きでした。日本では昭和のジャズ評論家の理解を超えるようなことをよくやらかしていたのでケントンは全然紹介されないのですが、ミュージシャンのインキュベーターとしてのケントンバンドの存在意義とか、ケントンが主催したジャズキャンプからNAJEからIAJE、JENと引き継がれてきたジャズエデュケーションの流れさえ知らない人が教育の現場にいるのか、と。
ジャズはアメリカンオリジナルアートフォームであるということは認識されているのですが、その音楽は個人一代限りみたいな考えになっていて、その演奏家が亡くなると、その人の書いたアレンジは演奏されないか、もし引き継いで演奏するバンドがあるとその多くは「ゴーストバンド」と呼ばれます。プロが再演することは稀です。ある意味潔いことではありますが、クラシックがクラシックになっていくには、そのスタイルは再演され続けて世間に認知されねばなりません。数百年にわたってそのさまざまなスタイルを現在でも演奏されるからこそヨーロッパのクラシック音楽は今でも残っているのです。演奏されなければ、たとえ音源が残っていても時代に埋もれてしまうでしょう。果たしてそれは良いことなのでしょうか?
これ、日本の伝統的な話芸と今のお笑いにも共通するものを感じます。日本の伝統的な話芸では「古典」という演目がたくさんあります。例えば落語。同じ噺でも演じ手で違い、同じ演じ手でも毎回同じにはならないんです。落語ファンとジャズファンが被るのはこの辺りが理由だろうと想像しています。が、ジャズシーンって「新しさ」が常に命題であるようにも見えるんです。オリジナリティ重視となれば、古典より新作の比重が高くなります。伝統的な手口を踏まえない手口が評価されたりして徐々に「何でもあり」になって様式が変化して消滅していくリスクを内包しています。これ、今のお笑いにも通じるものがあるのではないかと思えてなりません。
クラシックがそうであるように、時代やスタイルをきちんと継承して様々なスタイルを共存させていくことがジャズでも大事と考えるのですが、マイクの書き込みからはアメリカでもそうはなっていないことが推測されるのです。まぁジャズもアメリカでのシェアは1%を切っているので仕方ない部分もあるのかもしれませんが、もしもアメリカが本当にジャズをアメリカンオリジナルアートフォームと認識しているのであれば、この辺りはアメリカの当事者の方々にもきちんと考えてみて欲しいなぁ、と思うのでした。