クラシック音楽としてのジャズ。
そもそも個人的には、音楽でできることというのは20世紀中期くらいのいわゆる現代音楽のフィールドでほぼやられ尽くされていると考えていました。そしてパソコンの発展に伴っていわゆる現代音楽での電子音楽やコンクレートが自宅でできるようになりました。おそらく音でできる新しいことはもうないと感じています。でも世間一般では今でも「新しい音楽」みたいなものが売り文句になっています。それは売り文句でしかないのだ、と思います。
ジャズをやっていると常に売り文句で「新しい」という記号が重宝されます。もうそれ自体が古くて個人的には相手にしたくありません。そもそもジャズをやってるという時点で新しいことから背を向けています。私はジャズが20世紀に出てきた音楽のフォーマットとして一番面白いと思っているのでここから軸足を動かすつもりはありません。20世紀にアメリカで生まれたジャズというアートフォームをいかに大事にするか、ということを考えたいです。
ところがジャズには「同じことをやってはいけない」みたいな風潮がはっきりあります。やってることは1940年代にできたバンドのフォーマットを軸足にしているのに、です。ビッグバンドなんかだと、過去のアレンジャーの譜面をやるバンドは「ゴーストバンド」とか「レパートリーバンド」なんて呼ばれます。ジャズという音楽はその演奏家の個性が非常に重いので、その考え方には一理あります。が、そうしたスタイルは「繰り返し演奏されないと残らない」のです。ヨーロッパのクラシック音楽は「繰り返し演奏されること」でそのスタイルを今まで保ち続けています。繰り返し演奏されなければそのスタイルは残らないのです。歌舞伎や落語にしても「古典」があるから今があります。これを許容せずに新作だけでそのスタイルを延命させるのはまず不可能でしょう。身近な例でいうと近年のお笑いなんかはそうなのかもしれません。伝統芸とその革新というのは非常に難しいことです。
アメリカでもジャズについてはこの20年くらいで「過去の作品の再解釈」みたいなことが少しずつですが行われてきています。そして今回ブランフォード.マルサリスが70年代のキース.ジャレットの作品の再演をアルバムリリースしました。別に目新しいことではないのですが、これをブランフォードが提示したというのはもしかすると影響力が大きいかもしれません。そもそもジャズなんてヒットソングのカバーみたいなのが多いわけです。スタンダードなんてまさにそれですし。クラシックでは「〇〇の主題による変奏曲」というのが結構あります。ジャズでスタンダードをカバーするのはそれと大差ないし、過去のジャズミュージシャンの作品を素材にして再解釈する、というのもアリだ、ということを大きなネームバリューのあるブランフォードが出してきた、という意味は結構重いのではないかと思われるのです。
ウィントンは長年LCJOを手兵として「様々な過去のスタイルに立脚したオリジナルな音楽を作る」ということに腐心しています。もうこれは彼にしかできないことでそれは心底尊敬するのだけど、スタンダードを個人の観点で再解釈するのと同じように過去のジャズアルバムを素材に再構築するのも有益だし、そうしたある意味クラシック音楽的な手口もまたジャズという音楽スタイルを生きながらえさせるための重要な方法だと思うのです。別に目新しいことでもなんでもないのですが、それをブランフォードがやったという意味が大きいな、と。
ジェリー.マリガンとオーネット.コールマン
ジェリーとオーネット。イメージ的には対極にあるような二人ですが、私はオーネットの音楽はマリガンのデフォルメだと考えています。それに気がついたのはもう20年くらい前に東京であったミッドセンチュリーモダンデザインの美術展でした。イームズを筆頭にしたいわゆるアレ系のデザインがたくさんインスタレイトされていたのですが、そうしたインスタレーションの中で、イームズのブラックトップの映像の隣にポラックのアクションペインティング(ドルフィーとオーネットのFree Jazzのジャケに使われてるもの)が並べてあったんです。ミッドセンチュリーモダンデザインに共通しているのは「人工的でありながら限りなく自然なもの」を追求したデザイン、という認識はあったのですが、それがイームズの映像作品とポラックでリンクしてたんです。なるほど、と。
オーネットのカルテットは楽器の編成こそ違いますがピアノレスカルテットということで共通しています。マリガンの音楽がイームズの家具のように計算され尽くしたものとすると、オーネットのはBlacktopの映像的なもの、と考えられると思っ たのです。そもそもオーネットもLAの人だから、あの音楽のルーツもまたウエストコーストにあるのだな、と。
放送局による企業犯罪
連日ネットやらメディアに情報が露出してるので辟易しながら横目で見ていますが、フジテレビ問題は「企業幹部による美人局」という一言で片付く問題であって、企業幹部が犯罪行為に加担したという酷い案件、ということなのだと感じます。だからこそ引っかかって引退を余儀なくさせられた芸能人も被害者に見えるんです。というか、そう見ると事件の構図がハッキリわかるんです。ファンの人達は芸能人を擁護して使い捨てになった元社員を批判しまくっているようですが、それは黒幕が見えてないのです。
企業幹部が人権侵害を伴う犯罪行為に関与したというのは、果たして現在の経営陣が責任を取ることで済む話なのか、ということになっていくのではないかと思えます。「美人局」という漢字に「フジテレビ」と当てても良いくらいに酷い犯罪行為なのです。