ジャズを吹くのに理論は後回しでも構わない。
私自身が音楽は全く独学で、しかも理論の本を読んだのは多分30過ぎてからです。幸い自分は子供の頃から音楽をたくさん聴いてましたし、楽器も子供の頃からやっていたので、好きな曲を覚えるまで聞き込んでしまうとかなりの部分を譜面に起こさなくても吹ける感じではあったのですが。なので今でもコード譜の読み書きは苦手です(なかなか信じてもらえない)。曲のキーとサイズが把握できたら聞こえた音に反応してれば大丈夫なのです。だから歌伴のオブリガードなんかも知らない曲でもキーを知らされてなくてもそれは問題になはらないのです。古いことわざに「門前の小僧習わぬ経を読み」というのがありますが、音楽でもこれははっきりあると思います。カラオケ大会などで年端のいかない子供が演歌めっちゃ上手かったり、アメリカの子供が大人顔負けにジャズを演奏できるのはそういうことです。文法が分からないと喋れないということがあり得ないのと同じです。むしろアクセントやイントネーションみたいなところの感覚がわかってると多少ミスやら何やらはあっても「その音楽スタイルにはなっている」わけです。マイルスは生前アドリブを吹くことについて「色々なところからアイディアを持ってきてそれをスコッチテープで貼るようにしろ」と言ってましたし、クラーク.テリーもImitate, Assimilate and Innovateってよく言っていました。「学び」は「真似び」が変化した言葉という話をどこかで読んだ記憶もあります。理論を勉強しようとする人の多くが近視眼的に考えてしまい、「木を見て森を見ず」状態で路頭に迷うのもまたよくある話です。そうなるくらいならむしろ理論は後回しでも構わないのではないかな、と考えたりもします。最終的には、我々が日頃使う言葉で文法のことを考えずに喋るのとアドリブを吹くのが同じ感覚になるわけで(これはケニー.ワーナーが言ってたことだけど実に納得できると友人のスコット.リーヴスが教えてくれました)。音楽の習得、特にアドリブは外国語会話の習得と極めてよく似ています。会話が上手になるには下手くそであろうがなんであろうが喋らないと上達しません。日本人の多くはここで羞恥心が前に出てきて練習できなくて上手くならない、というタイプの人が掃いて捨てるほどいます。そこから一歩踏み出してトライすることの方が理論の勉強より大事かもしれません。
スタン.ケントンが20世紀のアメリカ音楽に残した功績について
スタン.ケントン。
この人が残した功績は巨大なのだけれど、日本ではそれが全く伝わっていません。せいぜい40年代のartist in rhythmあたりが俎上に上がるくらいで。そして驚いたことにアメリカでも忘れられつつあるようなのです。恐らくはケントンという人はユニークであればジャズというスタイルにさえ拘らなかった人なので音楽の振幅の幅が広過ぎてジャズだけを見ている人では追いきれなかったのだとも思えます。誤解を恐れずに言えば、51年のinnovation musicの時代の音楽はストリングスまで雇った47人のバンドでやってたことはモダンクラシカルを凌駕するようなものでした。こういうことをやってたから日本の昭和の視野の狭い評論家からはスイングしないだのジャズではないなどと言われたわけだけれども。ガンサー.シュラーがサードストリームとかいう10年以上前にやってたわけです。そして55年のコンテンポラリー.コンセプト時代にはアレンジャーにビル.ホルマン、ドラムにメル.ルイスを擁してベイシーなどとは違うモダンビッグバンドのプロトタイプを提示したのです(このアルバムの認知度が低いのにも驚きますが)。そして65年のneophonicではビッグバンドとシンフォニックウィンドアンサンブルの融合みたいなこともやっています。ジャズという枠ではなく、アメリカ音楽史上での大きなアイコンであると言って良いように思われるのです。
そしてもう一つの大きな仕事がジャズ.エデュケーションでした。そもそも彼のバンド自体がミュージシャンのインキュベーターでしたが(ハーマンやファーガソンやサドメルも同様)、特筆すべきはジャズキャンプを開催してジャズの普及に努めたことです。このキャンプがNAJE→IAJEと発展しました。IAJEが財政破綻を起こしたので今はJENがそれを引き継いでいます。私は1990年代にIAJEの会員登録をしていてそのannual conferenceを通じてアメリカの音楽教育システムに触れることができたわけですが、これは自分の大きな財産になっています。
が、先日70年代のケントンにいたトランペットのMike Vaxが、今のジャズ教育者の中にケントンを知らない人が出てきたことを嘆いていたことにちょっと驚きを感じました(だからこれを書いてる)。アメリカでこれなら日本で知られてなくても仕方ないのか、と。ただ一つ言えることは、ケントンのやってきたことは日本では「ほとんど知られていない」ので、振り返って古い音源を聴くと、恐らくは多くの人が「!」ってなるのではないかと思うのです。
昔トム.ハレルと話していた時、彼は「作曲家は歴史家であるべきだ」ということを言いました。作曲家じゃなくても、一つの音楽スタイルの歴史を詳しく知ることによってより多面的に深く楽しめることは間違いないように感じますし、その意味において、ケントンは巨大なミッシングピースなのです。ウィントン.マルサリスはLCLOで黒人の音楽としてのジャズを提示し続けていますが、ケントンを軸とした20世紀中期の西海岸のジャズが特に和声のアカデミック化に非常に重要な貢献をしたことをスルーしているのは実に残念なのです。
日本が本当にジャズ大国なのであれば、ケントンに対する評価はきちんとなされるべきだろうと思えてならないのです。
There is…の文ってどうしてこうなるのか、について勝手に納得したこと
いい歳をして英文法の学び直しをしています。大体理解できてるつもりですが、there isの文だけ長年謎でした。ケンブリッジの緑本にも書いてなかったのです。色々調べてみたら、どうも「倒置」らしいところまではわかりました。第二文型のSVC→CVSみたいに見えますが、これは第一文型なのです。thereは副詞かぁ、と考えていたら、副詞の倒置で説明できることにようやく気づきました。
The baloon went up. → Up went the baloon.
と同じタイプだ、と。更に考えていて、これも似てる気がしてきました。
Here comes the bus.です。これも
The bus comes here.の倒置。これもいちいち「ここにバスが来た」とは訳さないですよね。つまり、
A book is there.(一冊の本がそこにある)
が倒置して
There is a book.になって、ある意味強調だから、thereは「ほらほらそこ!」みたいな感じなのかな?と。これなら文頭のthereを訳さない理由もわかる気がします。
学術的根拠ゼロですが、個人的な感覚として非常に腑に落ちました。