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人前で音楽を演奏するということ

ずいぶん昔に、いわゆるホテルのラウンジでの帯仕事ってのを3年やりました。使ったのは1950年代のウエストコーストのジャスアンサンブルの譜面。ホテルのラウンジというのは音楽目当てではなく贅沢な空気を味わいたいという人も多いので、こちらが好きな音量で好きなようにやるものではありません。場に見合った音楽コンテンツを提供するのが仕事で、それができることも演奏家の大事な仕事です。この仕事を通じて学んだ1番大きなことはこれでした。好きなことを好き放題して弾けてる自分の演奏を見せることも悪くはないですが、それだけではだめなのではないか?と感じるのです。音楽はある意味感情表現メディアなのですが、ジャズだと喜怒哀楽の中でも「怒・哀」的なところが重くなりがちな気がします。「喜・楽」を表すのはそれはそれで難しいですが、「洒落て落ち着いた空間を演出する音楽」であっても良いし、今のジャズには案外それが抜け落ちてるような気もします。自分の中にあるフラストレーションみたいなのが音楽の源泉になってるとしたら、それは魅力的なものにはなり得ないだろう、と。その場に見合った洒脱な空気感を作れるような音楽を提供するっていう感覚の方が今の気分には合ってます。

千葉県知事選挙から見えるもの

千葉県知事選挙は実質的には現職の信任投票に近いものでなかったかと思えます。気にしていたのは立花と黒川の票数でした。有権者約519万人に対して立花8万、黒川1万というのが多いか少ないかを考えると、まぁこれは少ないと言って良いのではないかと感じられます。アップした写真は日本軍の失敗を分析した「失敗の本質」の表紙なのですが、私は破綻する組織の特徴として「大きな声は論理に勝る」というのがネット言論で跋扈していることに大きな懸念を感じています。この選挙について言えば、ネット言論のあれこれから比較すると現実的にはこの程度、という風にも見ることができるのかな、と。まぁネット上の罵詈雑言の大半は匿名のものであり、それを書いている人たちの大半は「現実をきちんと見ていないで反射神経的に書いている」ものに過ぎないのだなぁ、という風にも見えます。いずれにしても、ネット上での「大きな声は論理に勝る」状況は危惧すべきものであると引き続き考えたいと思います。既に始まっているような気もしますが、インターネットという組織の信頼性の破綻というのがあっても良いのかな、と。過剰な「無責任でリアリティを伴わないバーチャル」の化けの皮というのを見抜く力、機械に頼らず自分で考える力がこれから更に大切になるのだろう、と思います。

災害について

東日本大震災から14年ですね。私は23区西部居住ですが、あの時の揺れの体感は震度6弱から5強くらいではなかったかなぁ、と。緊急地震速報から揺れまで数十秒あり、揺れは大波に揺られる大型客船みたいなのがとにかく長かったのですが、東灘区で経験した阪神大震災の震度7のようなシェイカーでぶん回されるようなものではなかったので、慌てずに対応していました。自分の部屋の本棚が全部倒れたくらいで実害ほぼ無しでした。だから「罹災した」という意識はありません。自然現象で終わりました。

つまり災害というのは、自然現象などで社会インフラや自宅など個人の財産が毀損されて長期間不自由を強いられることなのではないか、と。

メディアはこうした節目になると「忘れるな」の連呼になるけど、逆に言えば忘れることができるから耐えられるという側面もあるのです。もしもあの神戸の阿鼻叫喚がいつまでも鮮明ならば私はきっと発狂してるでしょう。「忘れるな」は被害を受けなかった人の言葉なのではないかと。

 

自然災害は避けることができないし、起きたとしてもそれが「災害」になるかどうかは来てみないとわかりません。さっきも書いた通り、自然現象によって社会インフラや個人の財産が破壊されて相当期間不便を強いられることが災害なのだとしたら、来ることを妄想で恐れるよりも、その状況に追い込まれた時にどのように対応し、行動するかについてのイニシエーションをするか、政府や行政がどのような政策でバックアップをしていくのかをきちんとアナウンスするべきなのではないか、と思えてなりません。故人を悼む映像を並べるのはそろそろやめて欲しいと思います。悼む気持ちはわかるけど、それは災害対応時にどうあるべきかについて何の役にも立たないからです。

良寛の

「災害に遭う時分には災害に遭うがよく候。死ぬ時分には死ぬが良く候。」

でありたい、と。