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「〜してはいけない」は習い事の禁句であるべき。

ゲームでもスポーツでも音楽でも数学でも英語でも、凡そ全ての「習い事」には共通のルールがあります。

 

①規則や原理や手順などを学ぶ

②①を体得するために練習する

この無限ループを繰り返すことによって

③上達する

 

ということです。上達するためには間違いはつきものだし、間違えながら上手になるとも言えるし、なんならその間違え方でさえその人の個性なんです。ゲームにハマって上手くなるってのはそれだけ時間かけて練習してるから、ということなんですが、これだと遊びとかサボりとか現実逃避とか言われちゃうんですよね。熱中できる感覚を習い事にも振り向けられれば良いだけの話です。

 

しかし日本では多くの場合において

「〜してはいけない」

と教えるケースが多いように感じられます。これをやると学び手が萎縮するので非常に良くないと昔から感じています。例えばジャズのアドリブを練習するときに「アヴォイドノートを吹いてはいけない」なんてやっちゃうとそれをすることを恐れて自分に制約をかけてしまうんです。アヴォイドは確かに極めて不協和ですが、それを吹いてみないと「どれだけアヴォイドなのか」がわからないんです。それを体験することによって「あ、これはダメなやつだ」という理解が体感的にできるわけで、それを許容しないやり方は有効だとは思えないのです。そして実はアヴォイドノートになるケースというのは実は極めて少ないのです。古いクラシック音楽の和声法ではトライトーンはアヴォイドでしたが、ビバップ以降のジャズの話声ではトライトーンを逆手に取ってこれがドミナントで鳴ってれば何でもありなのですから。

 

翻って学校の現場での「学び」では

「間違ってはいけない」「間違えたら恥ずかしい」「間違えたら怒られる(親とかに)」

なんてのが重しになって学ぶことに消極的になっちゃう傾向がはっきりあるように思えるのです。学校教育ではどうしても集団指導しかできず、「練習は各自自分ででやれ」ということになり、練習方法も手探りでできなくて凹むの連鎖で結局できなくて成績悪くて親に怒られ追加の宿題は出され、でどんどん主体的にやれなくなっちゃう感じです。英会話をできるようになりたいって思ってる人も大勢います。でもその大半が「間違ってはいけない」「間違えたら恥ずかしい」というアホみたいなエクスキューズをつけて尻込みするので、結局練習さえできず挫折しちゃう、なんてのが山ほどあると思います。そうじゃなければニューヨークで「日本人は喋らないから何を考えてるかわからない」なんて現地のホテルのスタッフやタクシーの運転手に言われるなんてあり得ないもの(5年前に5泊滞在しただけで少なくとも2回言われた)。

趣味のスポーツであればどんなにヘタクソでも友達のチームと試合したりとかできるのに、音楽や言語などコミュニケーション的要素のあるものではそうならないのが多くの日本人の抱える現実なのではないかな、と最近よく感じます。

 

この25年くらいの間にアメリカでのジャズの教育の現場の一部を除きいることができましたし、昔自分の参加しているビッグバンドのリハーサルにベイシーバンドのメンバー何人かが遊びに来てくれた時は途中から彼らによるクリニックになったりしたものでした。その時に彼ら指導者は絶対に「ダメだ」って言わないんです。「とてもいいね。でもここをこうやってみたらもっと良くなるんじゃないかな?」っていう感じです。LCJOのエデュケーションプログラムで通訳で参加した時もそうでした。

学び手のモチベーションを上げ、ポジティブな姿勢を作ることが大事ということですよね。これが日本の学びの場で大きく欠落していることは問題だよなぁ、っていつも感じていますし、自分が教える立場にあるときはここを大事にしている、というわけなのです。

だってそれじゃあ学ぶ方はおもしろいくないでしょう?

21世紀くらいから日本人から失われてしまったと感じられること

「相手の立場に立って考える」

もしくは

「逆の立場に立って考える」

 

このことが我々の中からすっかり失われてしまったように思えます。そしてそれが人としての劣化に繋がっているようにも感じられます。そせてそれは学びの現場にもハッキリ感じられます。

 

日本人の割と多くの人が「英語をできる(話せる?)ようになりたい」とおもっているのになかなかできないという現実があり、できない理由の多くが「間違えたら恥ずかしい」みたいなことなのです。

他方、多くの日本人の人が「おもてなし」の精神だか何だかわかりませんが、例えば街中で外国の人からたどたどしい日本語なり英語なりで何かを聞かれると誠実に答えてあげようとします。ならば

 

「何で逆の立場を容認できないんだろう?」

 

と感じるのです。相手のお世辞にも上手でない日本語なり英語での問いかけに誠実に受けてあげられるのだから、こっちの言葉が多少不細工でも相手の誠意によってコミュニケーションは可能なのに、なぜか「恥ずかしい」とかいう理由でコミュニケーションできなくなってしまうんです。これおかしくないですかねぇ?ヘタクソでも話さないと練習にならないから上手くならないのは自明なのに、羞恥心を理由に閉じちゃうんです。相手がヘタクソなのは容認できてるのに。これ、どう考えてもおかしいです。

 

あとネットとかで外国人を排斥したり、公共の場でベビーカーを持ちこむとか子供がうるさいとかディスる人々。自分が海外に滞在している時に排斥されたら?とか、自分が親になってベビーカーを持ち込むことになるとしたら?という「相手の立場に立って考える」視点がゼロなんです。まぁこういう書き込みをしている人の大半は「リアルな現場を見ていないで書いてる」感じもするのですが。

 

日本では「相手に迷惑をかけてはいけない」という意識が重いですし、それは大事なことだとも思うのですが、同時に「自分もどこかで迷惑をかけていることがある」という認識も持つべきだと思うのですがそれが欠如しています。これもまた「逆の立場から考える」姿勢の欠如です。結果として世の中から寛容が失われ、ギスギスしたヒステリックな世の中になってしまっているように見受けられます。

 

昭和がイジられる昨今ですが、この辺りの感覚は明らかに今の方が劣化してしまったように思えてなりません。

 

「相手の立場に立ってものを考える」

大事にしたいです。

 

 

 

英語の連体修飾の仕組み

いい歳をして英語の学び直しをしています。一見難しそうに見えるけど実は案外シンプルなのではないかと考えていて、実際その通りなんですが、名詞修飾で後置修飾になるパターンの特徴がようやくわかりました。そもそも英文法と国文法では品詞の定義などに細かい齟齬があって、それが明快な理解の邪魔になっているんです。英文法での「形容詞」は名詞を修飾する品詞なので、国文法では「連体詞」です。国文法での「形容詞」にするためにはその前にBe動詞を置かないといけません。現行の英文法の参考書ではここが考慮されてないんです。これは近いうちにどこかに書くとして、形容詞(連体詞)の連体修飾について書きます。

 

基本的に連体詞と名詞であれば「前置修飾」になります。日本語と同じです。では例文を出します。連続する連体詞で書いてみましょう。

many beautiful song=多くの美しい歌

日本語と同じ並びです。連体詞は複数並べる事も日本語同様に可能です。ではこれを英文に組み込んでみます。

There are many beautiful songs.=多くの美しい歌があります。

 

では次に分詞を連体詞として使ってみましょう。

many fascinating songs=多くの魅惑的な歌

同じですね。ではこれを文に組み込んでみます。

There are many fascinating songs.=多くの魅惑的な歌があります。

 

ここまでは同じです。ではここで文「私にとって」という言葉を付け加えます。どうなるでしょうか?

There are many beautiful songs. →There are many songs for me.

これは前置詞句を付け加えることでできます。では分詞はどうでしょう。

There are many fascinating songs for me.

これでも問題ないですね。で、もう一つの手口があります。これが分詞の後置修飾になるわけです。

There are many songs fascinating me

関係詞節にもできます。

There are many songs that fascinete me.

形容詞(純粋に連体詞で準動詞の性格を持たない)のbeautifulではこの書き換えができません。別に通じれば良いので"there are many fascinating songs for me."ができれば会話的には全然困らないのですが、この手口も知っておかないと、というわけです。

 

名詞の後置修飾は準動詞である連体詞、すなわち分詞と不定詞にありそうです。では不定詞の形容詞的用法をみてみましょう。

「私にはピアノを練習する時間がありません。」

この「ピアノを練習する時間」っていうのをどう書くのか?ってことです。これをそのまま並べて

the piano play timeで文を作ると

I don't have the piano play time.となってしまい、持ってないのはピアノなのか?ともなるし、動詞の原形も2つあってめちゃくちゃです。

英語は言いたいことを先に言う言葉なので、まずは主語述語の

I don't have timeが先に来ますね。では「ピアノを練習する時間」をどうするか、と言うことで準動詞である不定詞の出番になるわけです。

I don't have time to play the piano.

これでしっくり来ます。つまり、不定詞の形容詞的用法は「名詞の後置修飾」になっているわけです。

 

つまり、英語での連体修飾に際しては、準動詞的な連体詞で名詞をセットにしないといけない場合にはそのユニットを後置して修飾する、と言うことです。

つまり、

「歌っている一人の女の子がいました」であれば

There was a singing girl.

ですが、公園で歌っている一人の女の子がいました、であれば

There was a girl singing in the park.

になる、ということです。

 

英語の連体修飾は大体こういうことではないかと思います。連用修飾についてはそもそも述語の品詞の定義が違うので比較して説明することはできません。個人的には国文法における連用修飾は英文法では「追加情報」になるのではないかと考えているところです。