ジャズにおける「中間派」とは?
日本でのジャズのスタイルの区分分けのひとつに「中間派」というのがあります。まぁスイングジャズとモダンジャズの「中間」という意味合いなのでしょう。この言葉だとなんとなくどっちつかずなイメージになりますが、このスタイル、英文だと
"Mainstream"
になるみたいなんです。日本だとモダンジャズこそ本流、みたいなイメージが強いですが実はそうじゃないように見えます。よーく考えてみると、マイルスがメジャーのCBSと契約したのが1956年ということは、いわゆるビバップからハードバップといった音楽はほぼ全てマイナーレーベルからのリリースであったことが伺えます。羅列されるミュージシャンを見てみると、スイングジャズの時代にビッグバンドでソリストとして名を上げた人が多いように思われます。バップ的な要素は薄いけど歌心のあるアドリブができる人、みたいなタイプです。誤解を恐れずに言うと「最大公約数」みたいな感じ。巨大なアイコンになるミュージシャンはいないというのもまたそれらしい気もします。
もはや現在ではスタイルが拡散し過ぎていてジャズという音楽の定義自体がぼやけつつあるけど、この辺りが音楽の軸足なのではないかなぁ、という気もします。
ペイチ家に見るアメリカ音楽の盛衰
マーティ.ペイチというアレンジャーがいます。今年生誕100年になるのですが、恐らく世間的には1950年代のアート.ペッパーとのコラボとメル.トーメのコラボのアルバムで知られた人ではないかと思います。いわゆる1950年代のウエストコーストジャズにおける最も著名なアレンジャーの一人です。ビル.ホルマンの2歳上、ボブ.フローレンスの5歳上ですが、大半の著名なウエストのアレンジャーがそうであるように、当時のジャズ理論学習の虎の穴であったウエストレイクカレッジで学んで、そこでラッセル.ガルシアやシェーンベルグ にも習ってた形跡が伺えます(これ、50年代に名を成したウエストコーストのアレンジャーのほぼほぼ共通項で、彼らの一回り上の世代だったラッセル.ガルシアがほぼジャズ史からほぼ黙殺されているのにはかなり違和感を感じています)。この世代のアレンジャーはいわゆる当時の現代音楽の技法にも精通している人が多くてかなりガイキチな譜面をかける人が多いのですが、マーティのアレンジはそういうものを極力排除したシンプルで明快なアレンジが持ち味でした。基本的にアンサンブルにキツいテンションを置かないんです。なので非常にわかりやすい感じの音楽になります。ペッパーとのコラボ(+eleven)やトーメのデグテットにもそれは共通していますし、デイブ.ペルのオクテットなどは恐らくはジャズ入門にぴったりではないかというくらい明快でポップです(これはペルのコンセプトによるものかもしれず、彼がレス.ブラウンのビッグバンド出身だったのでウエストコーストの紳士録から漏れてたようでウエストコーストジャズのカテゴリーから抜けていて、これまた日本ではほとんど知られていません)。自己名義のアルバムだとラージアンサンブルの作品は昭和の評論家の方々にはジャケ写(お風呂とか踊り子とか)だけで語られることが多く、音楽の中身がどれだけ語られているのかはちょっと不明です。ピアノも非常に上手かった(楽器の鳴らし方)ことも推察できるのですが、私がこの人を好きなのは「弾かないことを厭わない」という姿勢でした。トーメのアルバムではアレンジだけ書いて、そのバンドにはコード楽器がいないですし。まぁ1950年代中期から後半にかけてのウエストコーストのアンサンブルではコード楽器を配したアンサンブルによるアルバムは結構見られますし(ラッセル.ガルシアの影響?)、彼のアレンジを採譜してみても「コード楽器に漫然とコンピングさせない」という姿勢がはっきり見えるように思えます。ともあれ、マーティは1950年代のウエストコーストジャズ全盛時代を語るときに外せない音楽家の一人ということが言えると思います。
彼にはデヴィッドという息子がいました。彼は1970年代後半にバンドを作ります。TOTOです。このバンドは実は口の悪い言い方をするとLA音楽業界世襲バンドなのです。全員がそうだというわけではないのですが、ジェフ.ポーカロら、ポーカロ兄弟の親はドラマーのジョー.ポーカロで、ヴォーカリストにはスターウォーズを書いたジョン.ウィリアムズの息子であるジョセフもいました。50年代ジャズ全盛期に活躍した親の元でジャズをやらずにロックで大成功を収めたあたりに実に時代の変遷を感じます。
個人的にはマーティ生誕100年ということで彼の足跡を当たってみようとネトで検索しても、今のペイチ家というのがもうどうなってるのか全然わからないのです。デヴィッドはまだ存命みたいなんですが、ペイチ家からの情報発信がほぼない、というかネットにいない感じなのです。デヴィッドの家族がどうなのかは知りませんが、音楽をやっている感じにも見えません。まぁ親子三代とかで同じ業態をやっててネットで歴史が紹介されている人なんてのもまずいないわけですが、ジャズの歴史があってロックの歴史があってそこで断絶してるあたりになんとなくアメリカ音楽の盛衰を感じたりもします。
ともあれ、今年はマーティのアレンジを沢山演奏する機会を作ります。そんなことに興味を示す人がどれだけいるのかわかりませんが、過去の録音だけでしか楽しめない音楽は将来残らないのです。ジャズの場合、多くのアレンジは録音その場限りで消失してしまっているものが大半ですが、音楽は音のデザインなので、可能な限り採譜して復刻して演奏することもまた大事な作業なのではないかと最近はよく考えるのです。グレン.ミラーやベンチャーズがまだ日本で認識されているのはバンドが永続してほぼ毎年日本に来ていたからだと思うのです。ベイシーもそうかもしれません(客席は往時を知る人比率が高いんだろうけど)。ことほど左様に「再演されること」は大事なのです。
ジャズの再生芸術的側面について考える。
昨日久しぶりに3管編成のバンドでライブをしました。ホーンセクションの構成はフリューゲルホルン、アルトフルート、バストロンボーン。つまりハービー.ハンコックのSpeak Like A Childと同じものです。このタイトル曲はこの編成でないとあの世界観が出せないというか、作曲家本人がピアノトリオでやってもその魅力が全く出ないことがyoutubeを見てもはっきりわかるんです。裏を返すと、あのアンサンブルをきちんと採譜して演奏することであの世界観は出せるんです。亡くなったCarl Saundersが昔"Charts speak in itself."という話をしてくれたのですが、即ち、書かれた譜面の意匠通りに演奏するとアレンジャーの求めていた意匠はきちんと現れる、ということなのです。これはビッグバンドのように大編成で細部まで緻密に書かれたものであれば非常にわかりやすい話なのですが、これがスモールバンドのテーマなどのアレンジであっても同じ、ということなのです。考えてみれば、音楽は「音によるデザイン」なのであって、作家や時代背景によってきちんとしたスタイルがあるのです。よく引き合いに出しますが、ベニー.ゴルソンの書いたオリジナルアレンジに手を入れるとそれはもはや「ゴルソンハーモニー」ではないのです。ベニー.ゴルソンのイメージしたサウンドを作るにはオリジナルアレンジに忠実でないといけないのです。
他方、ジャズという音楽では演奏家のオリジナリティが求められ、過去の書かれたアレンジを再生することにはネガティブな空気があります。なので、ビッグバンドなどで既存のアレンジをやるバンドはアメリカでは「Repertoire Band」とか「Ghost Band」などと呼ばれます。非常にネガティブなイメージが強いのです。これはジャズという音楽においてある意味不幸なのではないかと思えます。しかも困ったことにというかなんというか、プレビバップな音楽、即ちスイングやトラッドであればあまりそうしたことは言われず、みんなおおらかに音楽をやっているのに、ビバップ以降のジャズについてはこの呪縛が非常に強いのです。スタンダードな曲をちょっといじっただけで演奏されることは山ほどあるのに、です。このアンビバレンツはジャズにとって不幸なことではないかと思えてなりません。どんなに素晴らしい音楽でもそのオリジナルの録音でだけでしか楽しめないというのは、そのアレンジを生で聴くという機会をオーディエンスから奪ってしまうことになるし、そもそも何十年も前の録音でしか聴くことができないのであれば、世代が変わってしまえばもうその音源すら再発されることもなくなり音楽のスタイルは残らないのではないかと思えるのです。ジャズの場合、テーマ部分などの書かれた音楽の部分が同じであっても演奏者が異なれば、インプロヴァイズの部分では絶対に同じになることはあり得ないのです。同じ奏者が演奏しても同じにならないのは60年代のマイルス.デイヴィスのライブアルバム群がそれを象徴しています。絵画や家具であればレプリカが作られることはよくあり、それを所蔵する人も多くいるでしょう。音楽だってそれがあったって良い、というか、自宅のオーディオシステムの「再生装置」を使って音楽を聴くよりは現場で複数の演奏家が演奏する楽器の音を聞けた方が良いに決まっているのです。ジャズにおけるアレンジメントは大半が使い捨てて譜面として残っておらず、それを再生するには刷り上がった浮世絵を見ながら色毎の版木を彫り直すような作業が必要なのですが、アメリカではこの20年くらいでそうした作業がかなり進められていますし、過去のアルバムの再解釈的録音というものも時々出てきたりしています。最近ではブランフォード.マルサリスによるキース.ジャレットの過去のアルバムの再構築のような作品も出てきています。
正直言ってしまうと、「音というメディアでできること」というのは20世紀中期くらいであらかた出尽くしてしまいましたし、あの当時現代音楽の世界でアヴァンギャルドと言われていたコンクレートや電子音楽は今や自宅のPCで簡単にできる時代です。挙げ句の果てにAIに作曲させる云々というのに至っては人間の創作活動の放棄でしかありません。ハービー.ハンコックが喝破しましたが、「音楽がいい加減でどうでもいものになってしまった」という側面もあるのかもしれません。でも、音楽は「言葉と違って万人が同じ理解をするものではないけれども作者や演奏家の何か内面的なものを伝える『メディア』」なのです。なくなることはありません。とすれば、新しいもの(もはやそんなものはないのかもしれない)を追いかけるだけでなく、過去のものをきちんとした形で(完コピではなく)演奏するというのは大事なのかもしれません。ことジャズを日本人が演奏するということについてはアメリカの伝統音楽芸術を違う国の人間がやる、例えて言えば歌舞伎や落語をアメリカ人がやる、というのと同じようなものなのだから、古典をきちんとやるというのは非常に大事なことなのかもしれません。
もちろん自分のオリジナルな創作も重要ではあります。それと同じくらいに古いスタイルをきちんとやることもまた重要であろう、と。